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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「文学的なもの」への曰く言い難い憧れ

思索

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 私は小さい頃から本を読むのが好きで、小学校一年生の参観日で「将来の夢」というテーマで一人ずつ簡単な発表をする機会があったときには、幼稚園児の頃から愛読していたヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズ(井伏鱒二・訳)の影響をもろに被って、博物学者になりたいと言い放ち、驚嘆と顰蹙の双方を一挙に購った覚えがあります。無論、博物学者というのが具体的にどういうものなのかを精確に理解した上で言った訳ではなく、実際に博物学者へ憧れていた訳でもなかったのですが。

 小さい子供が熱心な読書家であることは、それだけで周囲の大人たちの賞讃と、級友たちの敬意を獲得する絶対的な条件として役立つものです。本を読むことが好きであったのは事実ですが、その傾向を強化したのは、周囲からの賞讃を浴びたい、という社会的な欲望でした。そして浴びるほどに与えられる賞讃に慣れてしまえば、今度はその賞讃を得られない状態が不自然で不本意な、つまり「異常な状態」であるかのような感覚に囚われ始めます。優等生の殻を破れない優等生という存在は、そのような「賞讃の慢性化」によって作られるのであり、その意味では一種の中毒症状のようなものなのかも知れません。

 しかし、長じるに連れて、そのような自意識は破綻を迎えます。読書家であることが純粋無垢な賞讃の対象となるのは、限られた時期だけです。子供は成長する過程を通じて、この世界が広大無辺であることを徐々に学んでいきます。読書というのは一つの局地的な、限定された趣味であるに過ぎず、他にも輝かしい分野は幾らでも存在して、新たな参入者を待ち受けています。読書家=勉強家という通念にも、揶揄のような見方が向けられる場面もあります。陰気だとか、口先だけの評論家気質で、行動力が足りないとか、そういったネガティブな感想の対象にもなり得るのです。

 そうした変容を踏まえて、私は文学というものに、満たされない自我の捌け口のようなものを見出すようになりました。口下手で強情で不器用で保守的な子供だった私は、社会の片隅で常に孤独を感じていました。人を笑わせる機智も、人を驚嘆させる華やかなスポーツの才能も、女の子に愛される秀麗な容貌も持たない少年の私は、絶えず飢餓のような状態に陥っていたのです。今となってみれば、単なる思春期の有り触れた一コマに過ぎないと言えるかも知れません。そうした孤独は、内面を膨張させ、肥大させます。そんな私にとって、読書を通じて開かれる世界の多様さは、紛れもない恩寵であり、奇蹟だったのです。

 例えば、退屈で堪らない中学の長い夏休みの一日に、松戸の駅ビルの書店で買い求めた坂口安吾の「堕落論」(角川文庫)や寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」(角川文庫)を読んだときの、世界の見え方が変わるような衝撃的感覚は、孤独な少年の内面に目映い陽射しのように注がれました。松戸駅西口のペデストリアンデッキの花壇へ腰掛けて、時折莨を吸いながら、明るい太陽の下で貪るようにページを捲った柄谷行人の「畏怖する人間」(講談社文芸文庫)の痺れるような知的興奮も、私にとっては「文学」そのものでした。直接的には、生きることの役には立たないけれど、つまり幾ら書物を読んだって話術の才能が磨かれる訳でも、運動が得意になる訳でも、女の子の注目を惹くようになる訳でもないけれど、それらの文章が私の孤独な魂に授けた刻印は、十数年の歳月が過ぎ去った今でも、一向に色褪せていないのです。

 最近、AMAZONで取り寄せた柳本光晴の「響~小説家になる方法~」(ビッグコミックス)を読みながら、そうした「文学」への素朴な憧憬、特に思春期の頃の切迫した感情が甦って来た次第です。以上、幕張からサラダ坊主がお届けしました!