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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「本音」という言葉を、甘く見てはいけない

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 内容的には、前回の記事と繋がり合うものになりそうです。

saladboze.hatenablog.com

 書くことの目的、或いは本質に関して、これまで私は、幾度か記事を認めてきました。無論、書くことの目的などという抽象的な御題目に対しては、それを考察する視点の角度に応じて、無数の回答が乱立するに決まっています。ですから、過去に論じた「書くことの目的」に関する幾つかの定義を、わざわざ誤謬として排斥しようとは思いません。そもそも、書くことの目的がたった一つである必要はありませんし、個人の思惑に独占されてしまうほど、書くという営為は矮小なものではないのです。

 しかし、そうやって話を相対化し始めると論点が広がり過ぎて、物事が前に進まなくなってしまうので、今回の記事に関しては敢えて定義を絞ってみようと思います。私の考えでは、書くことの目的は「己の本心」と出会うことです。使い古された科白のように聞こえるでしょうか? 平凡で陳腐な定義だと、嘲りたくなるでしょうか? しかし、この定義は見た目ほど生易しいものではなく、実践も容易ではありません。「己の本心」を知ることの難しさも、世間一般では幅広く喧伝された常識に過ぎないと、欠伸を咬み殺したくなるでしょうか? けれど、冷静に考えてみて下さい。私たちの多くは、自分が本当に何を望んでいるのか、自分が今、何を考え、何を信じているのか、そんな基本的な事実さえも、正しく理解していないのではないでしょうか?

 無垢な子供も徐々に薹が立って世慣れるほどに、その場の状況に合わせて色々と自分を操ってみせることにも熟達していきます。そもそも、TPOを弁え、その都度、必要な役柄を巧みに演じ分けていくことが、社会化することの重要な側面として認められている訳です。時間は守る、約束は守る、嘘は吐かない、挨拶をきちんとする。そういった諸々の煩瑣な決め事に誰もが揃って従うことで、私たちの属する社会の秩序は保たれています。生きることに慣れれば慣れるほど、私たちは殆ど本能的に役柄を演じ分けて、本当の感情や思想を抑圧することにも、然して痛痒を覚えなくなります。建前を操る技術に熟達すれば、それだけ社会の中で生きていくことは楽になるからです。それが行き過ぎれば、自分の本心が全く分からない、極度に社会化された人格というものが仕上がります。

 そのまま最期まで、自分の本心に少しの注意も払わずに走り通せるのならば、それも一つの人生の形であると結論付けても構わないでしょう。しかし、本心を抑圧したまま生き続けるというのは、或る意味では不自然な行為ですし、そもそも人間に可能な選択ではないと、私は思います。仮に本心を抑圧したまま、例えば社会的な道徳に完璧な忠誠を誓って生きるとして、その異様な情熱は何に由来しているのでしょうか。結局のところ、本心を抑圧するという選択にも、何らかの「本心の片鱗」のようなものが関与している筈です。しかし、抑圧が強烈であればあるほど、その片鱗の正体を解き明かすことは難題となります。

 誰しも多かれ少なかれ、己の本心を抑圧しながら、社会への適応を意図して生きています。しかし、社会に適応することが、生きることの本質であると考えるのは、一面的な見方であり、もっと言えば、道徳的ではあっても、倫理的であるとは言い難いと私は思います。道徳は、社会的な秩序、集合的な組織を正しく円滑に運営する為の、遵守すべき細目です。しかし倫理は、そのような外在的な規範とは異質な機軸として捉えるべきです。言葉を変えれば、道徳が他人との関係を律するものであるのに対して、倫理は自分自身との関係を規定する原理なのです。

 道徳と倫理は、互いに一致する場合もあれば、寧ろ劇しく相剋する場合もあります。坂口安吾は「堕落論」の中で「生きよ、堕ちよ」と呼び掛け、旧弊な道徳的観念を排撃しました。それは彼が道徳によって歪められてしまう倫理的な問題に関して、鋭敏な認識を有していたことの表れであると思います。社会的な道徳律に従うことが、生きることの本質ではありません。最も重要なのは、自分自身の本心に対して誠実であること、誠実に考え、行動することなのです。

 こうやって勇ましい文章を書きながらも、実際には日々、私は社会的な道徳律への屈服を選んでいます。それは確かに強いられたものですが、その強いられた道徳律に従うことで利益を得ようと企てているのは他ならぬ自分自身の判断です。建前は、繊細な本音を外在的な圧迫から庇護する防壁の機能を備えています。そうやって本心を隠蔽し、外界から切り離すことで確保される利益が存在することは紛れもない事実なのです。しかし、それは倫理的な姿勢であるとは言えません。己の本心と向き合うことを避け、妙に老成した表情で、「生きるってのはそういうもんさ」と嘯いてみせるのは、世知に長けた人間の美徳であると同時に、悪徳でもあります。坂口安吾は「風と光と二十の私と」という自伝的な小説の中で「老成の実際の空虚」という表現を用いています。その言葉を借りるなら、まさに私は今、時々刻々と「老成の実際の空虚」に凭れ掛かって無難な日々を送っているのです。少しずつでも、そうした「空虚」を剥ぎ取っていく為には、己の「本音」と向き合う以外に方法はありません。「本音」を偽ることは、自分自身を欺くことであり、従って反倫理的な行為です。そのような生き方が、本当の意味での「充実」に達することは有り得ないと、自ら肝に銘じておきたいと思います。