サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書くことで、人の「想い」に触れる

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 数日間、更新を怠っておりました。

 最近、これから自分はどういう人生を送っていきたいのか、或いは送っていきたいと思っているのか、そういうアイデンティティに関わる問題に就いて、考え込む日々が続いています。

 これはなかなか難しい問題です。人間はとても複雑な生き物で、自分が何を考えているのか、何を望んでいるのか、何を拒んでいるのか、そういった個人的な事柄に就いてさえも、明確で精密な認識を持つことは容易ではありません。自分の本心を知ることは、決して誰にでも当たり前に出来る、簡明な作業ではないのです。人間は幾らでも自分自身を欺くことが出来ます。勿論、様々な外的環境に適応する為には、自分自身を説得したり、特定の考え方に固執したりすることも、時には必要です。しかし、その「時には」という但し書きが常態化し、固定化することによって、私たちは極めて容易に「己の本音」というものを見失ってしまう、哀しい生き物なのです。

 自分の本心を掘り起こし、この眼で確かめる為には、様々な方法があります。私にとって「文章を書くこと」は、最も重要で有効であると感じられる方法の一つです。漠然と頭の中で色々な言葉や想念をいじくり回しているだけでは、なかなか明確な「かたち」を持つことのない、秘められた本心に、客観的な輪郭を与えるには、文章というのは極めて強力な媒体です。しかも、書かれた文章は自分だけではなく、他人も読んで内容を吟味することが出来ます。本来的に「混濁」している主観の中身に光を当て、その構造や形状を細かく調べ上げるには、文章化することで客観性を与えるのが合理的なのです。

 自分自身の「本音」に対する無理解は、人間の認知能力を歪める危険性を孕んでいます。「己の本心」に眼を塞ぐとき、人は必ず思考の回路を操作して、内なる本音を認めなくとも済むような論理的体系を築き上げます。本当は何となく感じ取っている真実があったとしても、それを認めてしまうことによって面倒で厄介な事態が惹起されてしまうとき、人間は半ば無意識に自分自身を騙し、強引に説得して考えを捻じ曲げてしまおうとするのです。

 それは或る意味では防衛反応であり、環境に適応する為の有効な措置ではありますが、そのような対応は飽く迄も「一時的なもの」として処理されるべきです。常態化することによって、深刻な障碍を齎すという意味では、医薬品の過剰な服用と同じです。使い方を誤らない限りは、適切な効果が得られるのですが、依存してしまえば、何もかもを破壊する致命的な毒薬となります。

 筋肉も使い過ぎれば固まって本来の柔軟な活力を失っていくように、偏った適応を強いられ続けた精神には不調が生じます。それを揉み解して、不要な老廃物を取り除き、本来の健康な状態へ回帰させる為には、己の本心を覗き込み、その中身を理解することが非常に重要なのです。

 そうやって、自分の本心を覚束ない手つきで恐る恐る探り始めると、今まで眼を伏せていた様々な「問題」が順繰りに視界の中へ浮かび上がってきました。以前ならば気にも留めなかったような事柄に関しても、本心では違和感や不満を抱え込んでいたのだという「発見」が、意識の表面に上昇してくるようになったのです。勿論、それらの認識や発見は、現時点では未だ分析の行き届かない、精神の泡沫のようなものかも知れません。けれど、些細な手懸りであっても疎かにしないことが、精密な探究の要諦であることは、わざわざ論じるまでもありません。

 私は私自身の想いに、忠実に生きていきたいという理想を持っています。それは、社会的な動物である人間にとっては、必ずしも実現の容易な目標ではないでしょう。誰もが、色んな考えや価値観を持った人々の「群れ」の中に混じりながら、少しずつ地道な努力を積み重ねて、徐々に自分の「想い」を自分の実際の生活の中に「表現」していけるようになるのです。私の考えでは、それこそが本来の「社会化」なのであり、集団的な秩序を紊乱しないこと、組織の規則に忠誠を誓うことが「社会化」の本義であるという価値観には、大きな陥穽が潜んでいるように感じます。外在的なものに、自分という人間の存在を丸ごと委ねて、高炉へコークスを投げ込むように焼き尽くすような生き方、言い換えれば「ファシズム的な生き方」は、確かに社会的な統制を強化するものの、個人がそれぞれの成長を通じて「社会化」を遂げるという話とは、全く無関係な選択肢なのではないかと思うのです。

 社会化することの本義は、自分という人間の本質を表現し、それを社会の側に理解させ、受容させることです。本来の自分を社会的な循環の枠組みの中へ「流通させること」であると言い換えてもいいでしょう。それは自分の中身を押し殺して、外在的な価値観に擦り寄り、己と社会の境界線を掻き消していく作業とは、全く対蹠的な営為です。けれど、ありのままの自分を社会に流通させるというのは非常に困難な作業なので、多くの人がそうした壮大な野望に挫折して、或いは最初から望みさえしないで、ファシズム的な奈落の奥底へ蹲ってしまいます。そもそも旧弊な価値観が支配する社会においては、己の本心を流通させるという発想自体が禁圧されていることも珍しくありません。それは「道徳的発想」ですが、「倫理的発想」であるとは言えないでしょう。

 周囲の価値観に応じて、自己をカメレオンの如く使い分けていくことは「賢明な態度」であると考える人は少なくないですが、その賢明さが常に美徳であると信じていられる人は、幸福の愚かな虜囚です。その巧妙な技術に依存して、絶えず状況に応じて臨機応変に行動を切り替えていくのは確かに現代的な「智慧」かも知れません。しかし、そのような技術への過剰な習熟が却って、己の本心を流通させるという「社会化の本義」からの懸隔を招くことにも、私たちは留意すべきです。私たちは極めて容易に「己の本心」を見失います。それが「大人」であることの証だと、世慣れた人たちは笑うでしょう。しかし、そんな「賢明さ」をいつまでも大事に抱え込んだまま、やがて荼毘に付されるというのは、本当に幸福な生き方ではないと、近頃の私は考えています。