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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「転職」の根底にある想い

 今日は終日、会議だった。私の職種は小売業の尖兵なので、日頃は店舗に通勤するのだが、月に三回ほど、東京の事務所へ会議に出掛けていく。売上や収益に関する対策の立案や、商品計画や労務管理やら、会社の方針説明やら、その他の細々とした雑用も含めて、パソコンの画面に向かってカチャカチャとキーボードを叩いたり、上司や同僚と話したり、気分転換に莨を吸ったりするうちに、あっという間に日が暮れていく。

 転職活動に踏み切って以来、仕事への意欲や情熱は日に日に痩せ細っていく。今まで十年余りも取り組んできた仕事なのに、気持が切り替わるだけでこうも著しく見える景色が一変するのかと、改めて驚くというか、風見鶏のような自分の心に面食らっている。直属の上司は敢えて、私が内々に打ち明けた退職問題に就いては触れて来ない。本人がはっきりと結論を出していないのに、迂闊に刺激するのは藪蛇だと心得ているのだろう。私が上司の立場だったら、きっと同じように振舞うに違いない。だが、内心では顔色や様子を観察して、雲行きを占っているのだろう。或いは、一過性の驟雨だったと早合点して、安堵しているのだろうか。そうだとしたら、鈍感な人であると思う。

 小売業の宿命は、売上を確保し、原価と経費を抑制し、収益を上げることである。或る意味では、これほど単純明快な使命はない。しかも店舗というのは日々、売上が確定する仕組みになっているから、仕事の成果を判断する指標も明快極まりない。定められた予算を達成するかどうか、この一点に総ての労働の成果が集約される。言い換えれば、売上さえ良ければ色々な問題は捨象されるし、売上が悪ければどんなに頑張っていても無益であると看做され、批判に晒される。そういう宿命に今更、異論を唱えようとは思わない。販売部が売上を稼いで来なければ、会社の経営が立ち行かなくなるのは、子供でも分かるような、素朴な理窟である。十年間も働いてきて、予算未達を叩かれるのが辛抱出来ないなどと、甘えた弱音を吐こうとは思わない。売れない店を立て直さないのは単なる怠慢であるからだ。

 しかし、課せられた販売部の使命に草臥れ、魂の活力を削がれつつある自分自身を、否定することも出来ない。昔は、そうやって叩かれても、そこから這い上がって売上を恢復させてやろうという意欲を、一丁前に備えていたものだ。いつから、その感情的な水脈は痩せ始めたのだろうか。振り返ってみれば、昔の私にとって、現在の会社は未知の曠野のようなものだった。歴戦の古参兵たちが、遠い前線地帯で獅子奮迅の活躍をしている。私は未熟な新兵で、学ばなければならない事柄を山ほど抱えていた。言い換えれば、未だ開拓されていない鉱脈の可能性を、無邪気に信じることが出来た。今も、本当は豊かな鉱脈が眠っているのだろうと、考えない訳ではない。それを掘り起こす労力を惜しんで、他の世界へ往きたがるのは無責任な怠慢なのではないかと、己を疑うことも皆無ではない。

 残念ながら、古参兵の背中を追うことが、未熟な自分の成長に直結しているという信仰を、今の私は無邪気に保持することが出来ない。思い上がりだとしても、それが本音なのだから仕方ない。ずぶの素人から店長に昇格して八年余りが経ち、配属先の店舗は移り変わっても、同じ会社の同じ仕組みの中で同じ商品を扱っているのだから、職務内容に根本的な変革が生じる機会は滅多に訪れない。会社の制度が変わっても、従来の業務の延長線上に存在する程度の更新に過ぎない。そういう環境においては、成長は「革新」ではなく「洗練」を意味する。確かに「熟練」は大事なことだが、それだけでは新たな世界の風を総身に感じ続けることは出来ないのだ。

 そもそも、自分が何故、転職を思い立ったのか。現在の志望先に、何故狙いを定めたのか。そういう根本的な問題を、毎日のように考え続けている。折角転職する以上は、悔いのない決断にしたい。転職した意味がないと感じてしまうような転身では、転身とは言えない。新たな環境に適応する精神的負荷が計上されるだけである。後悔しない為には、自分の心を偽らないことが大事で、その為には自分の頭の中身を入念に掘り下げる必要がある。溝を攫うように、不純物を取り除いて、上澄みのような本音を探す。最初から、目当ての砂金を掴み取ることは著しく困難で、何度も繰り返し溝の中へ腕を突っ込み、時には顔を突っ込んで、挑み続けるしかない。或いは、人生を費やして、内なる答えを探し続けるのが人間の本質なのかも知れない。

 私は今の仕事に適性がある訳でも、人一倍強い関心を有している訳でもない。それでも十年続けてきたのは、単なる痩せ我慢とは言えない。全く遣りたくないことを、幾ら給与が貰えるからと言って、我慢して続けることは実に難しいからだ。況してや私は、大学も結婚も、途中で投げ出したような男である。何の充実感も見出せないのなら、とっくの昔に辞めていただろう。言い換えれば、十年間の勤続は十年分の「やりがい」を傍証しているのだ。それは何だろうと考え続けた揚句、私は一つの答えに辿り着いた。それは「働く歓び」を感じてもらいたい、提供したいという根底的な想いだ。

 会社にとって望ましいことかどうかは別として、店長という職務に従事してきた八年間、私が最も大きな「やりがい」を見出してきたのは、収益予算を達成することでも、素敵な接客を通じて顧客に喜ばれることでもなく、共に働く従業員たちに「愉しい職場」を提供することであった。部下の社員にせよ、アルバイトのスタッフにせよ、彼らに「働く歓び」を感じてもらうこと、この場所で働くことが出来て嬉しい、幸せだと感じてもらうこと、それが私にとって最も重要な「価値」だったのではないかと、今頃になって再確認している。

 だが、利益を追求するに当たって、人件費というのは「不当な出費」であると考える社会人は少なくない。生産性の向上と謳えば聞こえはいいが、数字だけを睨んで生産性の向上を図るのは非人間的な所業である。無駄な残業などすべきではないし、業務の効率化を図るのは当然のことだが、それだけでは「働く歓び」は得られないし、与えられない。無論、こういう曖昧な理窟は、日銭を追い掛けるシビアな小売の現場では、単なる綺麗事に聞こえてしまう。そういう世界に身を置きながらも、私は結局、共に働く仲間と愉しく過ごすことを、一番大切に感じてきたのではないかと思っている。

 そういう感受性や資質を活かせる現場であるかどうかは分からないが、私は今、人材ビジネスを展開する企業を中心に志望している。人と企業を仲介する仕事は、まさしく「働く歓び」を生み出す為の手続きではないのかと考えているのだ。勿論、そんなのは甘ったるい幻想に過ぎないと嗤笑されるかも知れない。だが、嗤笑されることを理由に、挑戦を諦められるほど、今の私の覚悟は生半可なものではない。パンドラの匣を開いた以上は、奥底まで確りと見極めて、真実を捉えねば意味がないのだ。

 明日、面接を二社受ける。私の願いが叶ったら、充実した未来の開幕を告げるベルが鳴り響くのだと、今は密かに信じてみたい。