サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

自由でありたいと願うのは、幼稚だろうか

 「自由」という言葉の定義は難しい。「自由」という言葉を巡る議論は、何百年もの間、延々と続けられてきたに違いない。誰もが、手軽に「自由」と口にする。だが、多くの人は「自由」の姿をきちんと目の当たりにしたことさえない。

 元々、西洋から発祥した「liberty」或いは「freedom」という概念が「自由」という訳語に置き換えられ、日本社会に受容されていった過程に就いて、実証的な追跡を行なう能力は、私には備わっていない。だから、漫然と考える。私は「自由」という言葉で何を意味しようとしているのだろうか。

 中学生の頃、悩み多き思春期の季節に、私は自分の人生に就いて、具体的な展望を何も持てずにいた。文章を書くことは好きだったが、小学校の文集に書いた「小説家になりたい」という夢を本気で追い掛ける意志も、それほど強くなかった。そもそも、未来という観念が私の中では稀薄だった。こういう風に生きていきたい、こういう仕事に就きたい、そんな「進路」への関心が薄弱で、受験する高校のリストさえ、母親が調べて纏めたものに過ぎなかった。

 私は常に不安だった。神経質で過敏で強情で、自分の力を信じることが出来なかった。子供の頃は勉強が得意だったが、努力家ではなく、学問への情熱があった訳でもないので、成績は間も無く下降し始めた。自分には何の取り柄もない、それが私の揺るがぬ信念であった。

 いつも不安で寄る辺ない気分を持て余していた私は、何が契機だったか覚えていないが、禅僧たちの境涯に関心を持つようになった。主な入り口は、図書館で見掛けた鈴木大拙の著作であった。父親の書棚にも仏教関係の書物が幾つかあって、坂口安吾を真似る訳ではないが、或る時期は結構本気で「悟り」を開くことに憧れていた。「悟り」を開けば、生きることの本質的な不安から解き放たれると、無邪気に信じたのだ。しかし、冷静に考えてみれば、私には峻烈な僧堂の暮らしに堪え得る根性などない。結局、そうした夢想は漠然としたまま薄れていき、私は普通に高校から大学へと進んで、一年足らずで中退した。何とも振幅の大きい、我儘な生き方である。

 書物に綴られた、古の禅僧たちの境涯は、まさしく自由闊達の極致に達していた。私は彼らの爽快で清冽な生き方に憧れていた。兎に角、当時の私は色々な制約から免かれたくて仕方なかった。誰にも縛られず、指図も受けず、顔色も窺わず、自由に生きたい。自由というものの正体をはっきりと心得ている訳でもないのに、自由であることに憧れ、自由な自分の姿を想い描いて独り陶然としていた。気色の悪い中学生だ。

 自由に生きたいという憧れは、ずっと私の内面に燻り続けていたが、前妻と所帯を構え、愈々食い扶持を稼ぐ為に否が応でも社会の歯車へ転身しなければならなくなったときから、私は殊更に自由を欲する考え方を自らに対して禁じるようになった。自由に憧れるのも、結局は堪え性のない己を慰藉する為の単なる名目であって、所詮は「惰弱」ということに過ぎないと、考え直したのである。爾来、私は労働という「自由の対極」に位置すると思われる世界へ、己の人生を投げ込む日々を過ごした。あれだけ怠惰な人間だった私が、来る日も来る日も長時間労働の横行する小売の現場へ立ち続けることになるとは、昔は思いも寄らなかった。

 だが、働くことは必ずしも不自由なことばかりではない。仕事を覚え、経験を積み、判断力が増してくれば、働くことは徐々に「自由」へ近付いていく。誰からも制約されないという意味ではなく、自分自身の「無力」に制約されなくなっていくのだ。技術を習得し、能力の及ぶ範囲を広げることは、まさしく「自由闊達」の境涯へ躙り寄ることである。熟練者にとっては瞬きほどの労力しか要さない水準の仕事が、新米にとっては頗る厄介な重荷に感じられるのは奇異な事例ではない。

 子供の頃、私は勝手気儘に振舞うことが「自由」の定義だと考えていたし、禅僧たちの無作法な言行に対しても、そこに「自由」の具体的な姿を見出して、不可解な歓びを感じていた。だが、勝手気儘に振舞おうとしても、人は知らず知らず色々なものに縛られる。自由に振舞うことは、気分次第で選べる途ではないのだ。自由である為には、強さが要るし、経験も要る。つまり、自由であることは半ば「闘い」に等しいのだ。