言葉の瞬発力・機動力・柔軟性
先日、上記の記事で「ですます調」の文体で書く決意を表明したばかりなのに、早くも「ですます調」で書くことに歯痒さのようなものを感じ始めて、困っている。困っていると言い出した傍から、こうして「ですます調」を抛棄しているような有様だ。
ですます調の文体で書き出すと、最初はいいのだが、段々自分の言いたいことに文章が追いついて来ないような感覚が生じ始める。要は、ですます調の文章は「文意が遅い」のだ。丁寧に振舞うことを心掛ければ、挙動の速度が落ちることは避け難い。そのこと自体は、文章の内容にまで影響を及ぼすことはないようにも見えるが、実際には、その僅かな「想い」と「表現」との時間差が蓄積することで、出力される言語的表象の様相は明らかに異なってしまう。言いたいことを言い切ることへの躊躇い、社会的配慮が、どうしても書くという営為の中に混線してきてしまう。それが言葉の瞬発力や切れ味を鈍らせ、結果として平板で単調なメッセージが形成されていくのだ。
情理を尽くし、少しずつ丁寧に咬み砕いて語ることは、実際に人が対面して言葉を交わす場合には有効な作法として機能し得るが、書くこと、書くことによる表現というのは、そのような対面の会話とは社会的機能が異なっている。書くことは本質的に、見知らぬ他者、隔絶した他者とのコミュニケーションの方法であり、何より見知らぬ他者としての「自己」との対話の作法でもある。社会的な配慮を添加することで文体の速度を鈍らせ、口当たりのいい糖衣を被せるのは、書くことの本義に悖るのではないか。単なる倦怠感ゆえの揺り戻しに過ぎないとしても、それが今、この瞬間の私の感慨であり、境涯である。