幻覚の「金沢」 古井由吉と吉田健一をめぐって
サン=テグジュペリの「人間の土地」を読み終えたので、今度は吉田健一の「金沢・酒宴」(講談社文芸文庫)を繙くことに決めた。
朝の通勤電車で猛烈な人波に押えつけられながら、ページを捲り始めたのだが、その独特の捩れるような、揺らぐような文体に振り回されて、頭の中で「意味」が攪拌されていくのが面白い。新聞記事のような「簡明さ」とは対蹠的な、非常に屈折した文章で、読み辛いことは間違いないのだが、下生えの間を縫うように這い回る蛇のような独自の韻律が、奇妙な酩酊の快感を齎してくれるのである。
酒豪であったという作者の年譜的な事実を誇大に重視して、何でもかんでも無節操に敷衍するのは論理の飛躍に過ぎないが、吉田健一の綴る文章に「酩酊の快楽」が仕込まれていることは、多くの読者の賛同を得られる一般的な見解ではないかと私は思う。この酩酊の感覚は、未だ読み始めたばかりの「金沢」の旋回し、躍動し、揺曳し続けるような文体を通じて、明瞭に示されている。そして、未だ数ページしか読んでいないにも拘らず、私の頭の中に、記憶の貯蔵庫から掘り出されて浮かび上がったのは、以前に読んだ古井由吉の「雪の下の蟹」(講談社文芸文庫「雪の下の蟹・男たちの円居」所収)という短い小説のことであった。
昨秋に書き留めておいた感想文の記事は、余り出来栄えが良くない。正直に言って、私は古井由吉という作家の誠実な読者ではない。新潮文庫から出ている同じ作者の「杳子・妻隠」も途中で投げ出したまま、二階の納戸に抛り込まれているし、離婚して間もない頃に手に取った「槿」(講談社文芸文庫)も、その濃密で延々と迂回し続けるような文体に憔悴して早々と通読を断念してしまった。「杳子」の観念的な饒舌さも「槿」の粘着くような息苦しさも、私の未熟な精神にとっては居心地の悪い、巨大な負担であったのだ。
だから、柄谷行人の批評を通じて見知った「雪の下の蟹」に関しても、行き届いた読解を為し得たという自信は皆無に等しい。それでも、作中に漂う不可解な「離人」の感覚、或いは「自己が解体していく」感覚は、漠然とでも感じ取ることが出来た。「自己が解体していく」ということは、言い換えれば「境界線が溶けていく」ということである。そういう不可解な「解体=融合」の表象を明瞭に示している二つの著名な文学作品が、同じ金沢という地方都市を舞台に選んで綴られているという事実には、興味を唆られる。
私は以前、妻と二人で開業したばかりの北陸新幹線に乗って、金沢まで二泊三日の観光旅行へ出掛けたことがある。新幹線開業という絶好の機会に乗じて、観光客を呼び込むことに必死の金沢の街並は、想像していた以上に都会的な平凡さを身に纏っていた。その街衢の殷賑から、古井由吉や吉田健一の著作に滲み、浸透している不可解な「夢幻」の手触りを呼び覚ますことは難しかった。綺麗に整理された金沢駅から香林坊へ至る道程にしても、長町武家屋敷や東西の茶屋街にしても、そこから夢幻の感覚を呼び覚ますには、相当な念力が要るに違いない。
だが、金沢という北陸の都市に魅せられた、或いは所縁の深かった二人の作家が、厳密にはタイプが異なっていても、どちらも観念的な饒舌さを特徴とする文体の所有者であるというのは、何かしら金沢という街に、そういう奇妙な感覚を醸成する理由が潜在していることの証左ではないかとも思われる。