サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「まず読んでみる」という蛮勇に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 最近、岩波文庫に収められたハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読んでいます。最初に「白鯨」という作品に触れたのは恐らく小学生の頃で、両親が同じ団地の知り合いから譲り受けた大判の「世界文学全集」(確か講談社の発行だったと記憶しています)の一冊として、私は初めて書名と作者名を認知しました。或る寒い晩、蒲団に潜り込んで腹這いになって繙いたところ、滅法面白かったのを覚えています。しかし、面白かった割には、忍耐力の足りなかった少年の私は続きを読まず、ピークオッド号の出帆よりも遥かに手前の段階で、微かな記憶を辿るならば確かイシュメールがクイークェグと友誼を結んだ辺りで、それっきり投げ出してしまったのでした。

 昨春、津田沼の駅前にある書店で偶々「白鯨」の文庫本を手に取り、具体的な動機が何だったのかは思い出せませんが、改めて二十年越しに再挑戦してみようと発心して、購入に至りました。そして頑張って読み始めたのですが、結局は根気が続かず、情け無くも途中で挫折してしまいました。従って今回の挑戦は、三度目の正直ということになります。

 「白鯨」という小説は、必ずしも私にとって読み易い作品ではありません。丁寧な補注を附した翻訳であるとはいえ、メルヴィルの自由闊達な文章に鏤められた豊饒な知識や、独特の大袈裟なユーモアを理解することは、現代に生きる平凡な日本人に過ぎない私にとっては決して容易な所業ではないのです。描かれている対象自体がそもそも「捕鯨」という私自身の属する日常生活とは縁遠い世界なので、言葉そのものの意味を拾い集めるだけでは、メルヴィルの提示するイメージの概略を把握することが困難であることも、大きな要因の一つです。

 従って、単なる表層的な娯楽への関心だけを心の支えにして、この「白鯨」というアメリカ文学の古典へ挑みかかるのは、ティーシャツとジーンズにサンダル履きで雪山への登攀を試みるような暴挙だと言えます。相応の仕度と決意がなければ、途中で遭難して凍りついた雪達磨に成り果てることは眼に見えています。幸いにして読書という営為に不慮の死の危険が付き纏う見込みは小さいですが、生半可な覚悟で着手して、済崩しにページを捲る指先に停止を命じるのは、とても勿体ない話であると思います。

 けれど、重装備を誂えることに意識を向け過ぎて、いつまでも畳の上の水練のような真似に時間と労力を費やすのも馬鹿げた話でしょう。「白鯨」を正しく読みこなす為に英語を操れる訓練をしよう、英語を完璧に会得してから「白鯨」の原書を読むことにしよう、などと壮大な野望を描き始めると、準備が整う前に寿命が燃え尽きてしまう虞さえ生じます。準備は大事ですが、それは最終的な目的ではなく、飽く迄も手段の範疇を超えるものではありません。

 これら二つの矛盾したメッセージは、一つの道筋を明々と照らし出す為の地均しのようなものです。自分の少年時代の記憶を呼び起こしてみると、その道筋の輪郭や正体は一層鮮明に浮かび上がります。子供の頃の私は、色々な本を読むに当たって、巧く理解出来ない箇所に差し掛かると、いい加減に読み飛ばすことを懼れませんでした。恥知らずと言えば全くその通りですが、言い換えれば、それは「蛮勇」の為せる業であり、同時に「目的」と「手段」とのハイアラーキーに対する素直な理解の賜物でもありました。重要なのは一冊の本を最後まで読み通すことであり、その概略を把握し、骨格を理解することです。枝葉末節に就いては後日、徐々に足場を固めて取り組んでいけばいいのです。読めない漢字があるのならば、差し当たり字義を推測する程度に留め、後に字引へ訊ねてみればいいのです。そもそも「正しい読解」という奇怪な理念、教科書的な謬見に過度に引き摺られて、繁文縟礼の虜囚と化す必要など皆無でしょう。煎じ詰めれば読書とは即ち「個人的な体験」(©大江健三郎)に過ぎないのですから、崇高な真理を目指して哲学的な考究に励んだり、苛酷な宗教的鍛錬に打ち込んだりする筋合いは、当初から存在していないのです。

 これは読書に限った話ではありませんが、人間は「完璧な理解」を望む余り、あらゆる「誤解」への過剰な怯えに苛まれて、取り組むこと自体を諦めるという悪癖に囚われがちな生き物です。一通り読んだ積りでも、自分の眼光は一向に紙背に徹することが出来ていないという無力感は、前向きな再読への呼び水となるならば有益ですが、抛棄や挫折の要因として働くならば厄介な精神的癌細胞に他ならないと言えるでしょう。そんな絶望に囚われて総身を竦ませるくらいならば、夏物の軽装で雪山へ踏み込む愚かしい「蛮勇」を召喚した方が遙かに建設的であり、自身の成長にも寄与するでしょう。

 そうした「蛮勇」を呼び覚まし、己の魂魄を奮い立たせることによって、敢えて私は自分の知らない「異界」へ通じる扉を辛抱強く押し開いていきたいと考えています。移り気な私の計画ですから実現するかどうか分かりませんが、この「白鯨」を読了した暁には、岩波文庫に収録されている作品を中心に「古典文学への旅路」に踏み出そうとも考えています。「まず読んでみる」という勇敢な心意気を常に携えて、進んでいきたいというのが、最近の私の率直な心境です。

異様な饒舌と「逸脱」への熱量 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの有名な長篇小説「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の上巻を読み終えたので、感想の断片を書き遺しておきたいと思います。実は昨年の春にも、この「白鯨」という難攻不落の叙事詩に挑戦して無惨にも挫折したという経緯があり、今回はエイハブ船長と同じく「復讐」ということになります。

 この小説は、モービィ・ディックという渾名で呼ばれる獰猛な白鯨と、その白鯨に片脚を咬み砕かれて義足の身となった執念深いエイハブ船長との対決を、語り手であるイシュメールの見聞を通じて描き出すという体裁に覆われています。しかし、一読すれば明らかなように、作者のメルヴィルは決して物語の単線的な構成や描写に、職人的な精巧な手腕を発揮しようとは考えていません。彼は白鯨とエイハブの死闘の物語を成る可く簡明に、活き活きと描写して、丁寧に包装された贈り物のように読者の手許へ届けようなどと、如何にも職業的な殊勝さや誠実さに基づいて、ペンを走らせたりタイプライターをガタガタと言わせたりしようとは思っていないのです。

 彼の文章は洗練や省略とは無縁であり、一つ一つの言葉を、記述されるべき対象への忠実な召使として使役することに熱烈な関心を寄せることがありません。彼はそもそも、一般的な小説の体裁や不文律のようなものにさえ、余り良心的な態度を示してはいないのです。過不足のない情景描写、過不足のない人物表現、過不足のない筋書きの構成と展開、こういったものは、メルヴィルにとっては重要な理念ではなかったように感じられます。若しも彼が精密な小説を書くことに血道を上げる技巧的な作家であったとしたならば、こんな途方もない破格の作品を仕上げることは有り得なかったでしょう。

 だとしたら、彼は一体如何なる意図に基づいて、こんな奇妙な書き方を選んだのでしょうか? 或いは「奇妙な書き方」だと感じるのは私の側の偏見に過ぎず、この作品が執筆された当時のアメリカ社会では、こういう書き方は少しも破格の流儀ではなかったのでしょうか? いや、そんなことはない、当時も「白鯨」は破格の、或いは異様な作品として受け止められていたのではないでしょうか。生前のメルヴィルが、今日のような「伝説の文豪」的待遇とは無縁であったことは、広く知られた事実です。少なくとも、この「白鯨」という小説は、読者の関心や喜怒哀楽に成る可く直接的に訴え掛けようとする商業的な方針とは相容れない性質を多量に含んでいます。

 端的に言って、彼の文章の特徴は「冗長であること」の一語に尽きるかと思います。大袈裟な措辞、持って回った比喩、勿体振った冗談、本線からの甚しい逸脱、こうした要素がメルヴィルの書き遺した文章には色濃く浸透しています。無論、こうした類の文章を愉しむ読者が地上に皆無であるとは言いませんし、寧ろ決して少なくない数の人間が後世、彼の文章に愛着を示すようになったからこそ、今ではメルヴィルの「白鯨」はアメリカ文学の古典的傑作として認められている訳です。しかし、これがあらゆる階層、あらゆる職業や門地、あらゆる文化的背景に属する人々の精神に等しく結び付き得る作品であると看做すには、強引な弁論術の技巧が要求されることになるでしょう。

 言い換えれば、メルヴィルの「白鯨」は、そこにどれだけ多くの粗野な冗談や猥褻な表現を含んでいたとしても、商業的な観点から眺めれば全く大衆的ではなく、幅広い立場の読者の関心を惹起するものではないということです。寧ろ描き出される対象は徹頭徹尾「捕鯨」を巡る種々のトリヴィアルな情報に概ね限定されており、多くの読者にとって、それは「特殊な異郷」の文物に過ぎません。つまり、幅広い立場の人々の「共感」を勝ち得る為には、題材が偏っている上に、語り口も余りに熱狂的で、素直に受け容れ難い雰囲気を身に帯びているのです。

 けれど、そうした「白鯨」の性質は商業的な失錯であったとしても、直ちに芸術的な瑕疵であるとは言えません。メルヴィルの異様な饒舌さと、物語からの「逸脱」に対する並外れた「熱量」は、まさしく小説的な叡智の賜物であると言えます。脱線すること、様々な角度から眺めること、物語の直線的な起承転結を否定すること、これらの天邪鬼めいた要素は総て、所謂「小説」の本領を構成するものです。言い換えれば、小説において私たちが味わい、愉しむべきは、記述されるべき内容としての「物語」そのものではなく、飽く迄もその「物語」を紡ぎ出す上での表現や構成の「新奇さ」なのです。無論、そうした認識が直ちに「主題」の無能な役回りを認めるような態度へ発展する訳ではありません。「白鯨」という小説が「捕鯨」という題材や、エイハブという人物の特異な造形と無関係に存立し、その芸術的価値を発揮しているなどと強弁する積りもありません。

 重要なのは、小説というものは本来、常に「奇妙」であるべきだということです。「白鯨」の奇妙さはそのまま「白鯨」が優れた小説であることの証です。いや、こういう言い方は不適切の謗りを免かれないでしょう。そもそも「小説」の価値は技巧的な優劣という尺度によっては推し量り難いものだからです。「白鯨」が客観的に優れた文学作品であるという認定は、この小説に固有の「価値」とは無関係な査定であると言えます。小説の読解は常に、その作品に固有の「新奇性」を賞味する為の審美的な経験です。そして「白鯨」という小説は「捕鯨」という特殊な世界を敢えて「神話的な世界」のように仰々しく飾り立て、詳細で情熱的な解説を施すという「新奇性」を発揮することで、単なる娯楽性を遙かに飛び越えた「奇怪な経験」を、読者である私たちに齎してくれるのです。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

 

「小説」と「人事」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 偶には趣向と気分を変えて、敬体の文章で記事を書いてみたいと思います。

 特に深い意味はありません。単なる気分の揺らぎの問題です。

 気持ちとしては、演壇に登って一席弁じているような感覚です。

 

 御覧の通り、「小説と人事」という表題を掲げて、この記事を書き起こした訳ですが、この場合の「人事」という言葉は、企業などの法人で一般的に用いられる狭義の「人事」を指すのではなく、もっと広範な領域を、曖昧且つ多義的に指していると捉えて頂きたいと思います。

 小説というジャンルは、所謂「文学」のサブカテゴリーとして位置付けられ、詩歌や戯曲などよりも需要の大きい様式として幅広く世間に流通している訳ですが、そこには何となく歴史的に培われてきた暗黙の規律のようなものがあります。しかし、多くの作家や読者が繰り返し訴えてきたように、原則として小説は無際限に自由なジャンルです。何となく培われてきた暗黙の規律を存分に踏み躙っても、小説として個別の作品を成立させることは充分に可能です。例えば、極めて一般的で卑俗な例を挙げれば、多くの読者は(或いは作家も)、小説には必ず「風景描写」のようなものが必要であると信じ込んでいるように見えます。虚構の世界へ読者の想像力と認識力を導き入れるに当たって、架空の世界の事物や風景に関する具体的な表現を、一種の手懸りのように作品の内側へ刻みつけ、仕込んでおくことは、確かに重要な意義を有する作業であるには違いありません。ですが、それが小説を成立させる為の絶対的な要件であり、それを省けば直ちにその作品は「小説」の肩書を名乗る権利を喪失してしまうのかと問われれば、答えは「否」ということになるでしょう。

 描写ではなく、徹底的に「説明」だけで構成された小説作品が存在する可能性は皆無ではありませんし、私が無知ゆえに咄嗟に具体的な実例を思い浮かべられないだけで、それは既に存在しているのかも知れません。少なくとも、所謂「リアリズム」(=写実主義)の理念が、常に絶対的な規矩として信奉されなければならないという文学的な価値観は、既にその絶対的な威信を手放した筈です。

 小説が小説である所以、つまり「小説性」とは何かという古くて新しい問題には、多面的な解釈の糸口が備わっています。その一つの切り口を、次のような命題に纏めることが可能であると私は信じます。

 「小説は、必ず人間に就いて書かれている芸術的様式である」

 直ちに反論が寄せられることは想定の範囲内です。世の中には、動物を主役に据えた小説(それは多くの場合、児童文学の範疇に含まれていますが、例えばオーウェルの「動物農場」のように、必ずしも子供向けとは言い難い毒気を孕んだものも存在しています。つまり、それらの作品を単なるメルヘンとして斬り捨てるべきではないということです。因みに、私は児童文学と呼ばれる作品の芸術的価値を疑っている訳ではありません)が無数に存在しており、もっと実験的な作品としては、自然現象や無生物に語らせている作品も存在しているではないか、という反駁は、恐らく誰の頭にも即座に浮かび上がる簡明な違和感であると言えるでしょう。確かに、人間以外の存在を主役、脇役に据えた小説は世界中に氾濫しています。しかし、それらの作品が、人間ではないものを擬人化せずに小説の中の「想像的自我」として描いた実例が、かつて存在したでしょうか? 無学な私には、一つの実例さえ心当たりがありません。

 小説の中に登場する何らかの「想像的自我」=キャラクターが、人間として設定されているかどうかという問題は、極めて表層的な意義しか含んでいないことに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも小説に登場するキャラクターが、経験的な事実に取材していようといまいと、本質的に架空の存在であることを考慮すれば、そのキャラクターが人間であるか、妖怪であるか、紙切れや石ころであるか、そんなことは重要な問題ではありません。また、仮に擬人化されることのないキャラクターが登場するとしても、その非人格的存在だけで小説の時空が隅々まで埋め尽くされる見込みは、皆無に等しいと言い切って差し支えないのではないでしょうか。

 どんな小説も、煎じ詰めれば「人間」に就いて語っているという原理は、いわば「小説性」の本質に関わる問題です。小説というジャンルは常に、人間という奇怪な生物に対する烈々たる関心に貫かれており、たとえどんな事物を題材に選んだとしても、そこには必ず「人間の実存」に対する深甚な探究心が介在しています。それは、絵画や写真、彫刻、音楽といった芸術的分野とは根本的に異質な特徴であると私は思います。小説と同じく、極めて濃厚な「物語」の成分を有するジャンルであると看做されている映画においてさえ、例えば動物の生態に関する純粋なドキュメンタリーとして構成される余地を充分に保持しています。しかし、小説がそのような純粋な科学的記述の塊として綴られたとき、そこに「小説性」の成分を見出すことは不可能に等しいでしょう。それはドキュメンタリー、或いは客観的で中立的な記述の束であって、小説が小説であることの根源的な条件を満たすものであるとは言えません。

 何故、小説という芸術的事象は必ず「人事」を巡って生起するのでしょうか。それは小説という様式がそもそも、私たちの絶えざる関心事である「人間」の実存的な側面に光を投げ掛ける為に発明された媒体である為だと、差し当たって仮定することは可能であると思います。小説は例えば、人間を超越した存在としての「神々」や「英雄」に就いての夥しい物語、つまり神話や民族的な伝承、種々の叙事詩に対するシニックな批判的視座を含んでいます。それは決して小説が「神々」や「英雄」に対する素朴な敬意を軽蔑している為に形成される特質ではありません。重要なのは、小説という様式があらゆる題材を「人格化」した状態で捉えようとする根源的な性向を孕んでいるという事実に眼を向けることです。もっと一般的な表現を用いるならば、小説家は常に森羅万象を「擬人化」して解釈しようと試み続けている人種なのです。

 無論、それは小説家が動植物や時には無生物に対して「人間らしい物言いを演じさせる」ことに強い関心を懐いているという意味ではありません。総ての小説家が、一種の「寓話の語り手」であると強弁したい訳でもありません。私が言いたいのは、小説という西欧近代の発端において生み出された文学的様式が、あらゆる対象を「人間」との関わり合いにおいて捉えようとする性質を不可避的に孕んでいるという素朴な事実です。小説家は決して純粋で客観的な「存在」に本質的な関心を示そうとは企てません。様々な風変わりな衣裳を身に纏っていたとしても、小説家の指先が紡ぎ出すのは常に「人間」の可能的な側面であり、実存の多様な諸形態なのです。

サラダ坊主風土記 「佐倉」

 此間の土曜日に、家族と共に佐倉ふるさと広場で開催中のチューリップフェスタというイベントに出掛けてきた。

 本当は千葉市の猪鼻城(「亥鼻」とも書くらしい)へ桜でも見に行こうかと、幕張から千葉へ向かう京成電車に乗り込んだのだが、中吊りの広告でチューリップフェスタというイベントの存在を知り、そう言えば此間、千葉テレビ佐倉市の何処かでチューリップが満開だと告げていたなと思い出し、急遽予定を変更することに決めた。

 稲毛で下車し、津田沼へ向かう反対の電車へ乗り換え、私たちは佐倉市へ移動した。京成佐倉駅から送迎のバスが出ていると広告には記されていたが、ベビーカーで狭苦しく混み合ったバスへ乗り込むのは、どうにも気が進まない。そこで私たちは合議の末、駅から徒歩で会場を目指すことを決断し、最寄りの京成臼井駅で下車して、閑静な住宅地を、線路に沿って歩き出した。

 幸いにも陽射しには恵まれたが風が強く、ベビーカーの幌が歪みそうな突風が時折、私たち一行を襲った。携帯で地図を確認して道順を調べつつ、線路に沿って延々と続く道路へ出ると、やがて行く手に大きな風車の姿が現れた。向かいから、花々の入ったビニール袋を提げた人々が三々五々、歩いてくる。恐らくは臼井周辺に暮らす地元の住人であろう。

 佐倉市に足を踏み入れるのは、今回が初めてであった。以前に成田を訪れた際に、往復の電車で市域を通過したことはあるが、実際に降り立つのは生涯で最初の経験である。臼井駅から歩き出すと、延々と古びた住宅が連なり、やがて広大な田畑が視界の左手を領した。その彼方には印旛沼と、樹林の群れが見える。昔、柏市の店舗へ勤務していた頃に、苦情の対応で柏市の高柳という街へタクシーで赴いたことがあった。臼井の景色には、その高柳と共通する要素が豊富に含まれている。深い森が彼方此方に点在し、古びた家並が領有する敷地は無闇に広い。敷地の中に複数の建物を構えている家もある。長閑な田園地帯の風景である。

 チューリップフェスタの会場である佐倉ふるさと広場は、印旛沼の畔に位置し、平坦な敷地には強風が吹き荒れ、時折砂埃を竜巻のように劇しく舞い上げていた。週末の駐車場は大混雑で、警備員が絶えず怒号のような声を発しながら、行き交う車の整理に励んでいた。一面のチューリップ畑と、焼きそばやフランクフルトなどの食べ物を商う屋台と、オランダ様式の風車、そして夥しい数の人間たちが、広場に異様な活気を与えていた。理由は分からないが、東南アジア系の外国人の姿が妙に目立つ。

 一歳を過ぎたばかりの娘は、チューリップ畑の隙間を風に煽られながら歩いて何度も転び、両方の掌を砂塗れにして喜んでいた。いかんせん風が強い。全身が眼に見えない小さな砂の粒子に蝕まれているような気がする。毛髪も砂を含んでざらざらだ。

 一頻り遊んだ後、私たちは徒歩で京成佐倉駅を目指すことにした。印旛沼に通じる鹿島川という河川に沿って歩いていく。土手の上には蒲公英が咲いていて、私は一本を毟り取って娘に持たせてやった。娘は嬉しそうに茎の折れた蒲公英を握って眩しく笑った。やがて橋にぶつかり、さてどの道を往けばいいのかと思案していると、サイクリング中の日灼けした年配の男性が不意にタイヤを軋ませて止まり、何処へ往くのかと声を掛けてくれた。私たち夫婦の、道順を検討する会話が擦れ違いざまに耳へ入ったらしい。京成佐倉駅へ往きたいのだと告げると、彼は親切に道順を教えてくれた。あの踏切を渡って道なりに三〇〇メートルほど往くと、国道にぶつかる。それを左に曲がってずっと歩けば駅に着くよ。私たちは礼を述べて歩き出した。世の中には、気さくで親切な人々が確かに存在しているのだ。

 工業用水を扱う佐倉浄水場の脇を通って鹿島橋を渡り、道なりに進む。途中のセブンイレブンで用便を済ませ、軽食を購って小腹を満たす。有名な国立歴史民俗博物館の前を素通りし(いかんせん私たちは疲れ果てていたのだ)、漸く佐倉駅へ辿り着くと、私たちは砂埃を吸い込んだよれよれの衣服を叩きながら、改札階へ通じるエレベーターへ乗り込んだ。居合わせた年配の女性が、先日海浜幕張の公園で転んだ際に擦り剥いた娘の鼻の頭を見て、子供の勲章だねと笑顔で言った。単なる擦り傷も、勲章と呼ぶと何だか誇らしく聞こえる。どんな物事も、捉え方次第でその価値は如何様にも変じるものなのだろう。

抽象と断罪 三島由紀夫「午後の曳航」

 三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を読了した。

 この作品に限らず、三島文学の普遍的な特質と言える要素なのかも知れないが、今回「午後の曳航」を通読して改めて感じたのは、その文体や構成の根本的な「明晰さ」である。様式美と言い換えてもいい。三島由紀夫の書き綴る文章は、時に難解な対象や内容を含むことがあっても、絶えず驚くべき「明晰さ」に裏打ちされている。

 いつも言うように、世界は単純な記号と決定で出来上っている。竜二は自分では知らなかったかもしれないが、その記号の一つだった。少くとも、三号の証言によれば、その記号の一つだったらしいのだ。(P156)

 この「首領」の科白はそのまま、三島由紀夫の創造する文学の特性に対して与えられた明敏な要約のようにも感じられる。「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする認識的な努力、或いは原理は、三島由紀夫という作家の本質的な要素を成していると私は考える。

 本作において重要な役割を担う人物である塚崎竜二が「記号の一つ」であるという言い方は、殆ど作者の手の内を意図的に曝露したような表現である。彼は単なる生身の人物として写実的に生み出され、造形されたのではなく、一つの抽象的な観念の体現者として描かれている。彼は物語の典雅な構造が要求する役割に応じて、具体的な血肉を授かった存在であり、従って彼には固有の実存のようなものはない。これは竜二に限らず、この「午後の曳航」という極めて技巧的な傑作に登場する総ての人物に共通して指摘し得る特性である。

 三島由紀夫が小説の執筆に際し、事前に結末の一行を決めた上で創作に着手する習慣の持ち主であったという話を聞いたことがある。作者が故人である以上、その真偽を確かめる術は最早存在しないが、如何にも三島由紀夫らしい挿話には違いない。小説の世界に対して、三島由紀夫という人物は極めて厳格で専制的な指揮官、絶対的な造物主の地位を絶えず堅持している。これは根拠のない皮相な私見に過ぎないが、彼にとって、個々の登場人物の実存というのは、それ自体の固有の位相を持たない、単なる媒体のようなものであった。少なくとも彼は、自分の筆先が紡ぎ出した小説の人物に独自の人格や固有性を認める必要を持たなかっただろう。或る意味で、彼は論文を書くような姿勢で小説の執筆に取り組んでいたように見える。

 彼の小説は非常に精緻な心理的描写を満載しており、描き出される登場人物の複雑な心情には必ず堅牢で饒舌な理窟が附随している。それは三島が人間の心理的側面に異様な関心を有し、卓越した観察眼を発揮していたことの反映であると同時に、彼があらゆる人間の心理を「解釈可能なもの」として位置付けていたことの反映であると言える。言い換えれば、彼は常に「世界」を「単純な記号と決定」として捉えることを自らの精神的な原則として採用していたのである。そのような世界観が、彼の文学の異様な「明晰さ」を形成する根本的な要因であることは論を俟たない。

 三島の文学には一片の謎も不合理も存在しない。何故なら、作者が作品に対して絶対的な独裁を布き、如何なる不条理な要素も残らず排斥され、摘出されてしまっているからである。作者の眼には、作品の総ての要素が明瞭な可知性を伴って映じている。恐らく彼は「訳の分からないもの」が大嫌いなのだ。どんな事物も何らかの方法で説明が可能であるという根強い信憑が、三島の明晰な理性を根底から支えている。こうした作家としての特質は、例えば村上春樹のようにいつでも小説を書きながら「途方に暮れている」ように見える作家とは全く対蹠的なものである。「ねじまき鳥クロニクル」のような壮大な物語を書くとき、恐らく村上春樹は自分でも訳の分からない巨大な、錯綜した「何か」を相手取ってペンを走らせている。最終的に自分の生み出した物語が何処へ辿り着くのか、村上春樹はきっと理解していないだろうし、総てを書き終えた後でも、何故、自分がこんなものを書いてしまったのか、明瞭に捉えることは出来ずにいるに違いない。村上春樹は自分の作品を、自分の理性や世界観に対して完全に従属させることが出来ない。だが、三島由紀夫は総てを己の支配下に置き、厳格な統制によって物語の不可解な側面を扼殺している。その意味で、彼の小説は作者の実存から独立して存在することが出来ない。言い換えれば、彼の小説は常に彼の思想の説話的な翻訳として存在し、機能することを強いられている。

 誤解を避ける為に附言すれば、私は両者の個性を比較して、その優劣を論じたいと考えている訳ではない。それぞれの特質を浮き彫りにすることが私の個人的な思索の掲げる企図である。そして私の考えでは、三島の文学的才能は小説よりも評論に向いている。どんな不可解で難解な代物であっても、何とか腕尽くでそこに論理の野太い管を敷設し、何らかの「意味」が滞りなく流通するように努めるのが評論家の生業であり、曲がりなりにも社会的な使命であるとするならば、三島の「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする強靭な性向が、評論家の役割に最適の資質であることは明瞭であろう。私はその異様な明晰さを敬愛している。だが、余りにも総てが見え透いている小説、総てが予め定められた筋書きに則って運ばれる小説、卑俗な表現を用いれば「談合」のような小説が、普遍的な生命力を未来に向かって保ち得るかは疑問であると言わねばならない。

 三島由紀夫の小説は達者な「描写」を随所に含んでいる。しかし、それらの描写は総て、小説を支配する論理の「説明」として象嵌されており、描写そのものが超越的な強度を発揮することは原則として有り得ない。また、少年たちが竜二の「堕落」を批判し、処刑に踏み切るという背徳的な筋書きも、余りに明瞭な理窟に従って構成されている為に、その本質的な不穏さが鈍って見えることも事実である。極めて巧妙に綴られた作品であることは疑いを容れない。だが、この作品の性質や構造が総て、予め作者によって残らず簡潔に説明されてしまっているという事実は、この作品の生命力を衰弱させる方向へ働くだろう。尤も、作者はそれでも別に構わないと開き直った上で、徹頭徹尾、優れた物語作家としての業務を完遂したに過ぎないのかも知れない。何れにせよ、得難い傑作であることは紛れもない事実である。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)

 

書くことで癒やされるものがあるのならば

 今、僕は語ろうと思う。

 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(村上春樹風の歌を聴け」)

 確かに書くことは明確に何かを救済したり、物事に抜本的な解決を齎すような手段ではない。それは経験的に自明の事実である。書くことによって、直接的に状況の打開、人生における種々の具体的な「困難」の克服が達成されることは殆ど有り得ない。例えば巨額の借金を抱えた人物が、死に物狂いで書き綴った小説が空前の成功を招来し、転がり込んだ印税で借銭を一挙に清算した、などという通俗的な奇蹟が実現したとしても、それは果たして書くことそのものに固有の「救済」であると言えるだろうか?

 或いは、そうだと言えるかも知れない。若しもそんな奇蹟的な魔術が成し遂げられるならば、確かに書くことは直接的な仕方で、生きることの「困難」を一つ、実際に解決したということになるだろう。だが、それは書くことでなくても別に構わない筈だ。何か事業を興してもいいし、何処かへ勤めて懸命に額に汗して地道に金を稼いでも良いし、あらん限りの財産を悉く売り払ってもいいし、血族の脛を思い切って齧ってもいい。経済的な収入を得るという目的に照らし合わせたとき、書くことは特別に合理的な方法であるとは言い難い。

 にも拘らず、人は文章を書く。尤も総ての人間が文章を書き殴ることに深甚な歓びを見出す訳ではない。いや、文章を書くことが生きることの一部を成している人にとっても、執筆という営為は決して純粋な喜悦に満ちた、極端に肯定的な何かという訳ではない。書くことによって、直接的な歓喜が得られる局面というのは、極めて限定的な奇蹟であるに過ぎない。にも拘らず、人は何かに憑かれたように万年筆の尖端で原稿用紙の表面を削り取り、絶頂を迎えたピアニストのように荒々しくキーボードを指先で叩きのめす。そうやって紡ぎ出される文章の社会的な価値、或いは客観的な意義を問うのは、不毛な企てなので差し控えておこう。少なくとも、書かれた文章は、書き綴った当人の精神に対しては何らかの価値を有しているものなのだ。

 村上春樹の処女作である「風の歌を聴け」は如何にも処女作らしい雰囲気と体裁を備えている。そこには「書くこと」それ自体への言及があり、実験的とも思える文章の断片が気儘に配列されている。だが、彼は何かを語ろうとして、結局は何を語ればいいのか、未だ把握出来ていないように見える。何かを語らねばならないという衝動が、語るべき何かに先行して存在している。これは、書くことに親しみを持たない人々の眼には、随分と倒錯的な事態のように映じるだろう。書くべきことや書きたいことが見えないまま、書きたいという衝動に引き摺られて走り出すとは一体、如何なる酔狂なのか? 何の合理性もない奇怪な悪趣味、それが書くことの内実ではないのか? こうした見解には無論、頗る堅牢な説得力が内包されている。書きたいことが何なのか見えないのに、わざわざ文章を書いて何の利益が得られるのか、という至極尤もな疑問に対して、きちんと理解してもらえるような性質の回答を返すことは案外難しい。

 だが、書くことの欲望に憑依された人間にとっては、こうした健全な問いは議論にも値しない「愚劣な問い」であるに過ぎない。書きたいことが何なのか分からないからこそ、書くことの欲望は無際限に亢進する。これは一部の人々にとっては自明の摂理であり、崇高な命題である。これは生理的な欲求であるというよりも、観念的な欲望であろう。空腹そのものは、胃袋が満たされてしまえば自ずと終息する。だが、美食に対する欲望は満たされれば満たされるほどに先鋭化の階梯を駆け上がっていき、決して最終的な充足には到達しない。そこには永遠の輪廻だけが存在し、人は決して涅槃を知ることがない。

 「風の歌を聴け」の新鮮な読後感は、恐る恐る試みられ、その効果を確かめられつつある言葉の奇妙な軋轢によって齎されている。作者は既に世間へ流通している文章の一般的な様式を理解していないし、満足もしていない。従来の文脈では捉えられない固有の何かを把握しようと努める不透明な衝動が、息継ぎを知らない泳者のように、途切れ途切れのシークエンスを形作る。その断章に映り込む、作者の乾燥した抒情が、時折私たちの眼球を晦ませる。

 書かずにはいられない、或いは書くことによってのみ到達し得る特別な悦楽の領域が存在すると信じずにいられない人々、その殆ど宗教的な信憑が燃え尽きることはない。それは燃えれば燃えるほどに愈々飢渇の度合を深めていくのである。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

方法と主題

 文学作品を論じるに当たって、表題に掲げた「方法」と「主題」は相互に対立する観念として峻別されることがある。無論、一つ一つの作品が何らかの「方法」と「主題」の複雑なアマルガムとして形成されていることは明白な事実なのだが、何れの観念を重視するかという問題は、それほど容易く答えられるものではない。

 或る小説を読解する場合に、その作品の「大意」や「意図」を見出すように命じる「現代国語の教科書」的な発想を、小説の本来的な在り方に反する歪んだ価値観として排斥し、論難する類の見解は最早、少しも奇矯なものではなく、寧ろ強力な普遍性を伴って世間に浸透しつつあるように見える。小説の具体的な「作品性」を、外在的な基準や価値観によって制約したり拘束したりすることへの反発は、所謂「内在的批評」の原理的な基軸として樹立され、相応の地歩を現に占めている。

 「小説は、小説を読む時間の中にしか存在しない」という保坂和志の言葉(そのままの引用ではなく、私の勝手な要約である)は、このような「内在的批評」の典型的な信仰告白であると言えるだろう。それは「小説」の読解に際して「小説の外部」の介入を認めないことに等しい。無論、小説の一つ一つを読み解く場合に様々な観点に立脚して、多様な解釈を加える世間の風習は今後も持続するだろうし、それ自体は個々の読者の自由な裁量に委ねられるべき問題であることに議論の余地はない。「内在的批評」が一つの立場であるならば、当然のことながら「外在的批評」にも一定の生存権が容認されて然るべきであろう。

 或る作品の主題を問うこと、それによって作品の断片的で拡散的な、豊饒な細部の息吹を踏み躙ってしまうことへの根深い生得的な嫌悪、そうした性向を個々の読者が保有するのは無論、当人の勝手である。だが、そうした嫌悪が常に絶対的な正当性を備えていると断言するのは極論であり、内在的な批評(当人がそうした理念を標榜するかどうかは別として)を好む性質の人々も、決してそのような極論を常に押し通そうと考えている訳ではないだろう。内在性と外在性、二つの異質な立場を必ず択一せねばならないと、地上の誰かが断定することは出来ないし、そもそも、そのような設問自体が無益であることは眼に見えている。

 私は別に内在的な批評の意義を否認したい訳ではないが、そのような性向や方針を極度に推し進めるのは、議論という地平そのものの崩壊を惹起するのではないかと危惧している。内在的批評を極限まで推し進めたとき、そこに現れるのは実存的な「秘教」であり、隠匿された特権的な「奥義」であろう。あらゆる外在性が、小説を読むという経験そのものとは重なり合うことのない「余剰」であることは、確かに一面的な真理としては認められ得る。だが、あらゆる外在的な観念を追い払った上で、如何なる予備知識も持たずに、作品そのものの内在的な感触を味わうべきだという芸術的な理念には、優れた作品の本質は如何なる歴史的変遷にも左右されない、絶対的な普遍性が宿っていると信じ込む、独特の偏狭な視点が埋め込まれているように思われる。どんな外在的条件にも揺さ振られることのない普遍的な「価値」に対する信仰は一体、如何なる基盤に支えられているのだろうか? こうした素朴な問いに、内在性の原理だけで報いることは不可能ではないだろうか。

 作品の外部を想定せず、作品を飽く迄も内在的な領域として独立させること、そうした芸術的な理想主義が、芸術に対する無粋な無理解の蔓延する社会への敵意と繋がっていることは、一つの有効な認識である。如何なる主題も意図も、作品そのものの本質とは無関係な、外在的な「異物」であると看做す潔癖な価値観は、芸術を「個人的な体験」(©大江健三郎)の閉域に監禁し、様々な読解の自在な交通を妨げることに帰結するのではないか。それは内在的な批評家にとっても、決して望ましい状態であるとは言えないだろう。