基礎教養としての「ジブリ」映画
私が小さい頃、時代は未だVHSのビデオテープが全盛期で、DVDやBDは片鱗すら見当たらなかった。母親が二人の息子の為にせっせとダビング(この言葉も、今では余り耳にしない)してくれた様々なアニメーションが、幼少期の私にとっては大切な「教養」であった。それらのアニメーションの中には、最早題名すら思い出せない異国のアニメも混じっていた。だが、大まかに言って、それらのダビングされた作品群は二つのカテゴリーを主軸としていた。一つは「ディズニー」であり、もう一つは「ジブリ」だ。
私は所謂「オタク」を名乗れるような豊饒な知識も異形の情熱も持ち合わせていない平凡な人間なので、アニメーションに就いて多くを語る資格を持たないが、自分自身の鑑賞した作品に関してならば、貧しいなりに幾つかの言葉を叙することは可能だろう。遠い記憶を遡れば、私は直ぐに幾つもの鮮やかなシーンを思い返すことが出来る。「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」といった辺が、幼かった頃の私の教科書であり、最大の娯楽であった。「火垂るの墓」や「おもひでぽろぽろ」といった高畑勲監督の作品も見たが、それらの作品は寡黙であったり残酷であったり懐古的であったりと、端的に言って「大人の視点」に立脚して創造してあったので、当時の私が愉しむには難解であり過ぎた。つまり、専ら宮崎駿監督の作品に夢中であったということだ。
何故、あんなに繰り返し繰り返し、あれらの作品を見返して、その映像を網膜に焼き付け、台詞を鼓膜に浸透させていたのか、内なる衝動の所以まで今更解き明かすことは出来ない。例えば「風の谷のナウシカ」は、子供が見るには陰惨だし難解な物語で、当時の私がナウシカたちの苦悩や葛藤の意味を正しく理解していたとは到底考えられない。「魔女の宅急便」にしたところで、キキの思春期めいた煩悶に、幼稚園へ通っている洟垂れ小僧が共感を寄せ得たとは思えない。だが、私の眼差しはそれらの作品に夢中であり、そこで描き出され、演じられている物語の細部に魅了されていた。それは何故なのか? 凄く乱暴な言い方をすれば、それは宮崎駿監督の紡ぎ出すアニメーションの有無を言わさぬダイナミズムに、幼心を鷲掴みにされていたということだろう。高畑勲監督の「火垂るの墓」や「おもひでぽろぽろ」における社会派の写実主義は、何かを饒舌に語ることよりも、黙ってそれを丹念に映し出すというストイックな価値観に貫かれていた。だが、宮崎駿監督の作品は、そのようなストイシズムを蹴飛ばし、直ぐにでも走り出したくなってしまうような活発な心意気に満ちていた。丹念な写実よりも、五感を刺激するような躍動感の方が、彼にとっては重要なファクターであったのだ。
宮崎駿という人物がどのような思考と価値観の持ち主であるのかを、審らかに語れるような知識も能力も私は有していない。だから、この文章はあくまでも主観的で恣意的な駄文として受け止めてもらわなければ困るのだが、誤解を恐れていても無意味なので、好き勝手に書いておく。宮崎駿という人物は、少年的な欲望を旺盛に滾らせている。少年的な欲望とは何か? それは私見では「何かを作ったり生み出したり解剖したりすることへの欲望」である。
少年の野蛮さとは、森羅万象を知り尽くしたいという欲望であり、何か計り知れないことを巻き起こしたいという願望である。彼の作品のスケールの大きさ、荒唐無稽さ、写実よりもデフォルメ、静止よりも活動に重点を置いた志向性は、そのような「少年の欲望」と分かち難く結びついている。彼は単に真実を把握したいという賢人めいた価値観には真摯な関心を示さない。彼が求めているのはもっと破天荒で、邪悪な何かだ。言い換えれば、彼は常に「人工的なもの」への愛着を生きながら、一方でその不条理な邪悪さに戸惑い、歯咬みしているのである。
「風の谷のナウシカ」から「千と千尋の神隠し」に至るまで、その強烈な作品群には大きく分けて二つの主題が象嵌されている。一つは「自然と人間の対立」であり、もう一つは「少年少女の成長」である。この二つの要素は、彼の生み出す物語を根底から支え、駆動させる重要な礎石であり、総ての濫觴でもある。彼は救い難いほど「人間であること」に執着しているが、それは決して安手のヒューマニズムに耽溺していることの証明ではないし、人間の根源的な善良さを信頼している訳でもない。「もののけ姫」にしても「ナウシカ」にしても、彼は人間の邪悪な罪深さを描きながら、それによって「自然の聖性」を浮かび上がらせる。人智を超越した「自然」の雄渾な姿を描き出すこと、それは彼にとって紛れもなく重要な営為である。だが、彼は純真な「少年」ではなく、人間の邪悪な獣性についての理解を備えた「少年」である。彼の意地悪でシビアな眼差しは、あらゆるものに本質的な「野蛮さ」を見出してしまう。
邪悪な人間と崇高な自然の対比を描くことで、ペシミスティックな充足を獲得することが、彼の最終的な目的ではない。彼は「自然」さえも本質的に野蛮ではないか、と言っているのだ。そして人間の野蛮さ、邪悪さが、そもそも残酷な「自然」との格闘を通じて培われ、磨かれてきたものであることを静かに告示するのである。表層的なエコロジーの発想では、現代の問題を解決することは不可能に等しい。環境に優しく配慮すれば、地球の滅亡は避けられるのか? それほど「自然」が生易しい存在ではないことを、宮崎駿は「もののけ姫」において決定的に描き尽くしているではないか。彼は「人間」と「自然」のそれぞれの残虐さと、その不可避的な矛盾について執拗な思索を積み重ねている。「もののけ姫」の結末は、その矛盾が一元的な解消を果たし得ない困難さを孕んでいることを明瞭に告げていた。だが、そこには明らかに「希望」の手応えがあった。それは単なる芸術的な眼眩ましの効果に過ぎないのだろうか。アシタカの抱え込んだ憎悪の「痣」は、本質的な意味では決して抹消することが出来ない。にもかかわらず、どんな希望を語ることが出来るのだろうか?
そうした矛盾は、彼の作り出す画面に劇しい律動を宿らせずにはおかない。彼は黙って眺めていることが出来ない。相剋する衝動に対して最終的な回答を与えることが出来ない以上、高みから結論を下すような欺瞞には染まり得ないのだ。その悶えが、画面に静謐な叙述を許さない。カタルシスが必要になる。だが、そのカタルシスによって世界の不幸が解消される訳でもないのだ。
随分と脱線してしまった。収拾がつかないので、このまま擱筆する。