サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

高等教育の無償化に関する個人的な懸念(或いは「妄想」)

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日、仕事を終えて家に帰り着き、遅い夕食を取りながらテレビの電源を入れて「報道ステーション」を眺めていると、安倍内閣が2020年の憲法改正実現を宣言したというニュースが偶々眼に留まりました。

 その報道の中で、懸案の憲法第九条に関する問題と併せて、高等教育の無償化が改憲の草案に織り込まれているという話が出ていました。

 此処に来て急に、聊か唐突な印象と共に「高等教育の無償化」の問題が改憲草案の中に浮上してきた理由に就いては、維新の会との協調姿勢を明確にして改憲に必要な議席を確保する為など、幾つかの推測が取り沙汰されていました。或いは、苦い薬を糖衣で包んで幼い子供に何とか呑み込ませようとするときのように、議論百出の九条改正を、高等教育無償化という甘ったるい理想と抱き合わせて、国民の賛成を(或いは妥協と譲歩を)引き出そうという策謀なのかも知れません。改憲そのものへの輿論心理的な抵抗感を減殺する為に、誰も容易には反発し難い御題目を持ち込んだのではないか、という意味です。

 この「高等教育の無償化」の具体的な中身や内訳に就いては、私が接した報道を通じては明示されていませんでした。そもそも、教育の無償化とは一体、どのような事態を指すのでしょうか?

 小中学校の義務教育に就いては既に、現行の日本国憲法において「無償」であるべきことが明瞭に規定されています。しかし、一人の就学児童に満足な教育の環境を整えてやる為に必要な出費の総てを、公費が負担してくれている訳ではありません。国公立の小中学校の授業料は徴収されませんが、様々な付帯費用(代表的なものとしては給食費)は国公立の場合でも保護者が負担する慣わしです。従って高等教育の無償化においても、同様の規定が盛り込まれるのではないかと推測されます。つまり国公立の高等学校、大学の授業料が徴収されなくなる、という改正に留まるのではないかと思います。

 無論、そのこと自体は好ましい変化です。特に経済的な苦境に立たされている家庭に育った子供が、国公立に限った話であったとしても、授業料の免除という措置の恩恵に与り、高等教育を享受する機会を断念せずに済むのならば、当事者やその保護者に限らず、社会全体にとっても有益な変化であると言い得ると、私は思います。しかし、現状において問題視されている「教育格差」の固定化と、それが齎す負の循環を是正する上では、国公立における高等教育の「授業料」無償化という国家の基本方針の改正が及ぼす効果は、恐らく限定的であらざるを得ないのではないでしょうか。経済的な理由から高等教育の享受を断念せざるを得ない子供たちがいなくなるということは、確かに素晴らしい改善ですが、現在の教育格差の拡大が「授業料を払えるかどうか」という基準だけで決定されている訳ではないことも、明白な事実です。

 最初に「教育無償化」の報道へ接したとき、私は深い考えも持たず、あらゆる高等教育機関が(つまり私立の学校法人も含めて)無償化されるということなのかと、早合点をしました。無論、本来「無償」である筈の義務教育の、決して理想的とは言い難い現状を踏まえて、冷静沈着に検討してみれば、そんな突拍子もない計画が俄かに持ち上がる筈もないことには直ぐに思い至ったのですが、敢えてそうした空想を突き詰めてみるのも一興です。つまり、国公立であろうと私立であろうと、あらゆる高等教育機関が「無償化」されることになった場合、何が起きるのか、という想像を膨らませてみるのです。

 そのとき、即座に思い浮かぶのは「私立の学校法人」の実質的な消滅が起こるのではないか、という空想です。あらゆる学校法人が授業料の徴収という財政的な基盤を失う訳ですから、それらの運営に要する費用は総て「税金」によって賄われることになります。そうした経済的基盤の自立性の消滅が、私立の学校法人の「思想的な自立性」の存続に対して、致命的な影響を及ぼすことは容易に想像されます。子供が親許から独立するに当たって「経済的な自立」が「精神的な自立」の重要な基盤となることは、誰にとっても身近な事実であると言えるでしょう。総ての学校が官営となり、学費の徴収によって運営の費用を自弁するという方法が憲法の威光の下に禁圧されてしまえば、あらゆる教育が「国家」の監督下に置かれるということになります。無論、今でも教育が国家による統制を受けていることは事実ですが、高等教育の厳格な無償化は、そうした傾向に拍車を掛けることになるでしょう。

 学校運営に必要な費用を国庫に請求することが原則となれば、総ての学校法人が政府(或いは財務省)の顔色を窺いながら、運営の方針を決定するようになります。言い換えれば、政府の意向に反するような種類の教育行為に関する費用請求は、極端な場合には「財源不足」という表向きの理由(実際、そう言われてしまえば、誰も逆らうことは出来ないでしょう)だけを突き付けられて、却下されるということになりかねません。こうなると、そもそも「教育機関」が時の政府に対して頑固に保持すべき思想的な自立性は、その立脚点を奪われ、教育者が懐くべき信念は交付金と引き換えに権力者たちへ売り渡されることになります。教育に対する支配が、最も根源的な「支配」の経路であることは、改めて論じるまでもない、厳然たる真理です。

 「学問の自由」は憲法によって保証された基本的な権利の一つであり、近代的な市民社会が培ってきた重要な理念の一つです。教育格差が叫ばれているときに、こういう言い方をするのは適切な態度ではないかも知れませんが、厳密な意味で総ての教育費用が公的に無償化されることは、結果的に「学問の自由」という人間の根源的な権利を毀損することに繋がります。人間は金の為に考えるのではなく、先ずは自分自身の為に頭を働かせなければなりません。そうした「独学」の精神を軽視して、勉学に付帯する費用を悉く第三者に(或いは「国家」に)依存することは、聊か逆説的なことですが、勉学の不可能性を齎す危険な要因となりかねないのです。