サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 12

 別れるのならばせめて、きちんと時間を作って互いの気持ちを伝え合い、その上で最終的な結論を出すのが、まともな「御附合」をしていると自負する男女の間で守られるべき掟だと、後から顧みれば思うのですが、その冬の私には、一般的な正しさというものに気を配る余裕さえ残っていませんでした。自分自身に襲い掛かった得体の知れない不幸に感情も思考も押し潰されて、他人を思い遣る気力を保つことが酷く困難になっていたのです。そもそも私にはもう、恋するということの意味がよく分からなくなっていました。見知らぬ赤の他人ならば、何の感情も懐かずに恕せるというのに、かつて世界で一番好きだと思えた貴重な人のことが、却って凄く忌まわしい存在のように感じられるのは、とても不条理な話ではないでしょうか。
 恋心が、自分に欠けているものを、他人の取り柄や魅力で埋め合わせようとする情熱ならば、岩崎さんが、身動きの儘ならない私の分もたくさん練習して、弓道の試合で活躍して栄光を浴びることは、私にとっても有難い歓びであるべきでしょう。それなのに、私は無力な自分と輝く彼とを比較して、その巨大な落差に絶望し、更にはその絶望を執拗に煮立てて憎悪や怨恨に変えてしまいました。自分が素気ない態度を取ったことの結果なのに、連絡の疎遠になった岩崎さんのことを、私は薄情な男だと身勝手に恨みました。彼の愛は、その程度の情熱に過ぎなかったのだと偉そうに品評して、そんな愚かな男と関係を清算したことに、大きな価値を見出そうと足掻いていました。あの人は、少し周りより弓を射るのが上手で、爽やかな好青年の仮面を被っているだけの、単なる詐欺師の一種だと思い込もうとしました。けれども、それもやがて虚しくなって諦めました。掛け替えのない絆を失って傷ついたからと言って、わざわざ過去の想い出まで自分の手で冒瀆したり侮辱したりする必要はありません。墓穴を暴いて亡骸を損なうような惨たらしい行為に、安易に手を染めるべきではありません。
 弓道も天体観測も断念し、生まれて初めての恋心とも疎遠になった代わりに、私は受験勉強に励みました。もともと学業を嫌う性格ではなかったし、耳鳴りの勃発に怯えながら漫然と部屋に籠っているくらいなら、自分に出来ることを何かしら探して取り組むべきだと思い直したのです。とはいえ、私の殊勝な悔悛は聊か遅過ぎて、センター試験まで二週間の猶予しかありませんでした。教科書や参考書の暗記に集中しようと意気込んでも、夜が更けて潮騒のような耳鳴りが襲い掛かれば、意識はどうしても千々に乱れてしまいます。済崩しに消え去った岩崎さんとの関係、それに纏わる複雑怪奇な心情の片鱗も、耳鳴りと共に俄かに、私の魂の深部まで濁流のように押し寄せてきます。寝不足も祟り、昼夜の感覚が麻痺して、この調子では無事に卒業出来るかどうかも危ぶまれるという状況に陥りました。私はこの世界の底辺を這い回っているような気分でした。絶対的に酸素の量が足りず、常に背筋を丸めて喘いでいるような感覚が消えませんでした。
 けれども新月の晩だけは、私は安らかな眠りに溺れることが出来ました。満月の夜に最大の増悪を示す耳鳴りの症状が、まるで月齢の遷移に応じるかのように、新月へ向かって和らいでいくことを、そのときの私はもう明確な法則として自覚していました。子供の頃、飽きずに見入って覚えた朔望の記号を、私は部屋のカレンダーに書き込みました。その記号を指で辿る短い時間、私は縋るような想いで新月の暗い円を見凝め、祈っていました。いっそ月なんか丸ごと永遠に欠けてくれたらいいのに。そうしたら、この不愉快な耳鳴りもきっと夏の驟雨のように、長い人生の一時期を画した束の間の苦難として過ぎ去ってくれるのに。月さえ満ちなければ、失われることのない恋心もあったのに。自分が情熱を傾けられる事柄に対しても、変わらずに真っ直ぐ、本気で向き合い続けることが出来た筈なのに。それが無益な弱音に過ぎないことは勿論、自分でも分かっていました。泣き言が現実を書き換えてくれることはないと、本当は知っていました。不意に、誰もいない孤独な部屋の中で、夥しい涙が濫れ、私の襟許を濡らしました。その涙もまた、無益なものであったかも知れません。それは単なる数条の透明な体液でしかなく、私の悲しみは、追い詰められた動物の示す生理的現象の、一つの典型に過ぎなかったかも知れません。
 悪運が強いと言うべきでしょうか。大した勉強もしなかった割に、私は辛うじて第二希望の私立大学へ進む権利を勝ち取ることが出来ました。十八歳の私の行く手には未だ、歩むべき道程が残されていたのです。入学式までの厖大な休暇の間、私は少しでも未来に向かって踏み出す勇気を奮い立たせる為に、専門医の助言に基づいて、サウンドジェネレータを装着することにしました。不快な耳鳴りから意識の焦点を逸らす為に、小さな治療音を発生させる補聴器のような外観の機械です。不幸な境遇の奥底に蹲って世界を呪詛する生活に、私はもう飽き飽きしていました。どんな手段を駆使してでも、他人からどう思われようとも、私はこの閉ざされた孤独な部屋から、広大な外界へ脱出することを強く切実に望むようになっていたのです。