サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 14

 駅前の如何にも古びた雑居ビルの、火災が起きたらどうやって逃げ出せばいいのか不安になるような狭苦しい空間の中に間借りしたその喫茶店は、夕暮れの賑わいに包まれて、エスプレッソマシンが騒がしいスチームの叫び声を響かせ、カップの触れ合う硬い音が幾重にも折り重なって、耳鳴りに悩まされる暇もないような有様でした。久し振りに顔を合わせた岩崎さんは、前よりも少し窶れたように見えました。僅かに伸びた無精髭の陰翳が、店内を彩る薄暗い橙色の燈光を浴びて、一層濃密な暗さを際立たせていました。私はサウンドジェネレータのスイッチを切り、鞄の中に丁寧に蔵って、岩崎さんの榛色の瞳を正面から見凝めました。
「外しても平気なのか」
 私の動作を見咎めて、岩崎さんが慎重な口振りで訊ねました。
「どうせ煩いですから。だから、わざわざ耳鳴りを消さなくても大丈夫。それに今日は、割と調子が良いんです」
「それなら良かった。前よりも、明るい顔をしてる」
「ありがとう」
 適切な距離を測りかねて、互いの胸の海底に向かって錘を沈め合うような会話も、そのときの私にとっては決して苦痛ではありませんでした。旋風に吹き飛ばされるようにして剝離したつがいの心をもう一度縒り合わせる為の、臆病なほどに慎重で繊細な作業という印象を享けましたし、昔の誼に甘えるように土足で踏み込もうとしない岩崎さんの優しさに、私は密かな感謝を捧げていました。そもそも彼の好意を蹂躙したのは私の罪で、それでも岩崎さんは何一つ恨み言を口に出そうとはしませんでした。
「もう会ってもらえないかと思っていたんだ」
 彼は穏やかな口調で、コーヒーカップのハンドルを柔らかく握ったまま、僅かに視線の先を俯けて言いました。まるで溜息のように繊弱な響きが、私の鼓膜に優しく触れました。
「ずっと自分のことばかり考えて、冷たく振舞って、ごめんなさい」
 私も彼と同じように、卓子の艶やかな木目に眼差しを落とした状態で、呟くように言いました。
「いや、仕方無いと思う。俺だって同じ立場だったら、とても苦しんだだろう」
「でも、私の苦しみを、貴方を苦しめる理由に使うべきじゃなかったと、今は思うの」
「そうやって今、思ってくれるなら、それ以上の望みは、何もないよ」
 それほど多くの言葉が費やされた訳でもないのに、私は心と心が直に接しているような、滑らかな交流の温もりをひしひしと実感していました。それは劇しい感情の昂揚とは無縁でしたが、その代わりに脱脂綿に吸い込まれていく透明な液体のように、柔らかな感情の断片が静謐な律動を保って、御互いの心の中を行き来しているように感じられました。眦が潤むのを、私は頻繁な瞬きで堪えました。こんな場面で、紅茶に融け入る角砂糖のように頼りなく涙を流すのは、身勝手な自己憐憫でしかないと思ったからです。そもそも彼の恋心に残酷な冷水を浴びせたのは、降って湧いた病に魂を蝕まれた私の側の一方的な都合です。不器用でも、労わりと慰めの手を差し伸べようとしてくれた彼の配慮を乱暴に振り払ったのは私の罪です。涙を流したいのは、本当は岩崎さんの方だったのではないでしょうか。
 湿っぽい会話に飽きて、私たちは主題の定まらない多彩な雑談に耽りました。窓硝子の向こうに群青色の夜が広がり、目映いネオンの灯が複雑に交差する時刻になっても、私たちの会話は途切れることを知らず、今まで抑圧されていた無数の想いが弾けるように次々と言葉に置き換えられていきました。荼毘に付される日を待つばかりだった言葉の屍たちが、続々と甦って明るい陽射しの滾れる街路を再び歩き出したような感じでした。その夜の私たちは、紛れもない幸福の渦中にいました。新月の御蔭で、日が落ちた後も耳鳴りは脆弱な症状に留まっていました。もう一度、最初から始められるのだと私は思いました。決して諦めずに、燃え尽きる気配の見えない持病と付き合い、不完全な現実を完璧な理想と引き比べる不毛な習慣を絶ち切れば、些細だけれど堅実な幸福の時間が、ちゃんとこうして手に入るのだと思いました。
 お店を出て、賑やかな駅前の道を歩きながら、私は未だ帰りたくないと強く感じました。満月が近付いて耳鳴りの症状が悪化する時期には、どうせ夜遊びなんて出来なくなるのです。新月の夜くらい、我儘を言って誰かを困らせたり、親を呆れさせたりしてもいいじゃんと、悪戯っぽいエゴイズムが蛇のような眼を開きました。
 御互いに奥手な性格だったので、それまで私たちは、たった数回しか裸の躰を重ね合わせた経験がありませんでした。親しい友達に問い詰められて、誰にも言わないでねと煩く前置きしてから、その類の話をすると、決まって「初心だね」と笑われるのが長い間の慣習でした。けれども、その晩の私は、日頃の根深い羞恥心を神様に取り上げられたかのように、少し大胆な気分になっていました。思い切って岩崎さんの腕に縋ってみると、人前でじゃれ合うことが苦手な岩崎さんの躰が反射的に強張るのが分かりました。
「未だ帰りたくないです」
 何処かで習い覚えた科白を、仄かに上擦った声で滑らせると、岩崎さんは困った表情を浮かべて、けれども私の腕を強引に振り払おうとはしませんでした。