サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「銚子・犬吠埼」 其の二

 銚子電鉄の古めかしく老朽化した車両に揺られ、我々は終点の一つ手前、犬吠の駅に向かって出発した。娘は疲れが出たのか、私の膝に凭れて寝入ってしまった。車内には広告の代わりに、或いは広告を兼ねて、銚子の醤油醸造や漁業の歴史に関する説明が掲示されている。醤油の製法を持ち込んだのも、外川の港湾を整備して漁業の発展を促したのも、遥か遠方の紀州から移り住んだ人々の功業であるらしく、千葉と和歌山との意外な結び付きに就いて蒙を啓かれた。
 茶髪を束ねた小柄な女性の車掌が、切符の車内販売や検札、扉の開閉など、複数の業務を担って遽しく走り廻っている。切り詰められた人件費の弊害であろう。銚子電鉄は旅客収入以外の様々な事業、主には話題性を狙った奇妙で滑稽な物販によって経営を維持していると聞いたことがある。駅名と絡めた駄洒落のようなアナウンス(「本銚子」と「本調子」など)が、恐らくは地場の企業と思しき広告主の社名を連呼する。日曜日だからだろう、乗客の過半は観光が目的の様子で、老若男女を問わず、物珍しげに駅舎や車窓越しの景色を眺めている。キャノンの本格的なカメラを携えた妙齢の女性もいる。廃線寸前の傾いた鉄道事業を逆手に取って観光資源として活用するというのは、近年の客寄せの常套であろう。コロナショックが致命傷に帰結しないことを祈る。立派な寺社仏閣に限らず、古びた電車も立派な産業遺産(否、未だ現役である)であり、その歴史的価値は、積み重ねた年輪に応じて高騰していくものである。従って、一日でも長く延命することが重要な意義を有するのだ。何でも若ければ若いほど好ましいとは限らない。
 犬吠駅に着いて、地元の巨大醤油会社の名前が入ったベンチに腰掛け、一息吐いた(銚子市内を散策していると「ヒゲタ」と「ヤマサ」の名前が記されたベンチに何度も遭遇する)。本当ならば、犬吠埼のホテルにチェックインする前に「地球の丸く見える丘展望館」へ立ち寄る積りだったのだが、四歳になる娘が筋金入りの横着者で、少しも自分の健脚を使役せずに、父親の腕で運ばれることばかりを要求してくる為に、我々夫婦は疲労の極致に達していて(何故か全く自力で歩行していない娘も疲れていて)、その日は断念することに決めた。とりあえず緩やかな坂道を辿ってホテルまで歩き、太平洋の大海原が見渡せる客室で荷解きと休憩を済ませてから、犬吠埼灯台を見物しに行くことにした。ホテルの駐車場の脇に設けられた足湯で磨耗した筋肉を癒やしてから、駐車場を横切り、叢に覆われた剣呑な近道を通って灯台へ向かう。途次「犬吠テラステラス」という名の真新しい商業施設を物色し、僅かに散り出した糠雨を懸念しながら白亜の灯台へ急ぐ。生憎の天候で景色は薄暗く、濁った海は不吉な印象を見る者に与える。明治七年に竣工し、国の登録有形文化財に指定されている犬吠埼灯台は、極めて細身で小柄な体軀の持ち主で、九十九段の螺旋階段は擦れ違うのも困難なほど窮屈な造作であった。娘は俄然情熱を燃え立たせて自力で階段を登り切った。その反動でホテルまで抱っこを命じられることは必定である。
 ホテルに戻り、夕食の時間までは特段の用事もない。私は娘を伴って大浴場へ赴いた。旅行の愉しみは温泉に尽きる。もう少し娘が大きくなれば、一緒に男湯の巨大な浴槽へ浸かることも出来なくなるだろう。露天も含めて複数の浴槽が鎮座する大浴場に娘は終始上機嫌で、熱がることもなく気持ち良いと喜んでいる。塩化物の潤沢な泉質であるらしく、濡れた唇を舐めると塩辛かった。シャワーで念入りに濯いでから、浴衣に着換えて娘の髪を乾かして束ねたり、自分の髭を剃ったり、身嗜みの時間を持った。娘が浴衣の裾を踏んで廊下を歩くのを見兼ねて、番台の女性が一回り小さいサイズの浴衣を用意してくれた。再び更衣室へ引き返して着替えさせると丁度良い。湯気の立つ娘を連れて部屋へ戻り、冷房の効いた室内で寛ぐ。広い窓の向こうには灯台が見え、空が暗むのに合わせて白っぽい光が燈った。闇に浸された海は不気味である。波音ばかりが際立って鼓膜を揺さ振り、波頭が生き物のように暗闇の中で仄白く滲む。沖合には疎らな漁船の灯が見える。鴨川へ旅行したときも同じ感想を持ったが、夜更けの沖合に船を浮かべて働く人々は、恐怖を感じないのだろうか。傍目には、余りに儚い光に見える。到底、太平洋の凄まじい破壊力に抗し得るようには見えない。私は東日本大震災を想起し、東北の沿岸を襲った津波の威力を想像した。自然の怖ろしさは、有史以来未だに克服されていない。今後克服される見通しも立っていない。そう考えると、約百五十年前に築かれた犬吠埼灯台が、今も崩落せずに形を保っているのは信じ難い奇蹟のように思われる。昼夜を問わず劇しい風雨に晒される場所に屹立しながら、消え残った希望のような光を放ち続ける灯台に、孤独な洋上を行き交う船は擬人的な慰藉を見出すのではないだろうか。我々は観念的な抒情に基づいて、豊かな自然を故郷だと言いたがるが、真に故郷と呼べるのは人工的な事物や環境であり、全く人間の手で馴致されていない自然は、如何なる親愛の情も示さぬ邪悪な存在である。