サラダ坊主日記

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政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 1

 坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)を読了したので感想文を認める。

 後鳥羽院鎌倉幕府との間に勃発した中世期の大乱である「承久の乱」の経緯と構造の解明に焦点を当てた本書は、読者の精密で行き届いた理解を促す為に「承久の乱」のみならず、そこへ至る事前の過程として、中世における「院政」の開始と定着から説き起こしている。「院政」は、天皇に譲位した後の「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長による政務の直裁を意味する。本書によれば、その歴史的端緒は後三条天皇の譲位の時期に見出される。但し、後三条院は譲位の後、程なくして崩御した為、院政という政治的慣習の本格的な展開は、後三条院の跡目を継いだ白河院の時代に始まったと看做すのが通説となっている。
 この「院政」という制度の眼目の一つは、皇統の継承の保全である。主上が未だ健在の裡に後継者を定めて天皇の地位を承継することで、皇統の継承に関する無用の混乱を予防し、自らの嫡流の繁栄の礎を揺るぎないものとするのが、後に「院政」と呼ばれる政治的慣習の創始された直接的な契機であると思しい。尚且つ、この「院政」という制度は、藤原氏による所謂「摂関政治」への排撃という効果も併せ持っている。
 人間が自己の遺伝子を保全し、継承することに並々ならぬ執着を燃やすのは、生物学的な本能なのだろう。日本史の書物を繙き、遼遠たる時代の政争の数々を眺める限り、そこに登場する人物たちの行動の背景には必ず、自己の「血統」或いは「家系」の末永い繁栄を企図する強烈な感情が渦巻いていることが分かる。天皇家による「院政」の創始が、藤原氏による「摂関政治」の排除という側面を担っていることも、そうした基礎的文脈に位置付けることが出来るだろう。
 「家族」の論理が、少なくとも日本の社会において行使してきた伝統的な影響力は絶大である。そもそも「院政」という仕組みが成り立つ為には、天皇家の家長であるということと、政治的機構における元首であるということとを同一視する風土が予め存在し、機能していなければならない。言い換えれば、家族の内部における長幼の序列、或いは「惣領」及び「庶子」の垂直的な関係性が、その家族の占有する官位官職における上下関係と重なり合っていなければならない。律令制の衰退或いは崩壊に伴って「官司請負制」の傾向が強まり、特定の官職に特定の血族が排他的な結合を行なうことが常態化すると、そのような風土は皇室においても一般化して、中世的な「院政」の仕組みを成立させる土壌を形作ったのである。
 中国から輸入された「律令」は本来、皇帝が臣民と直接的に結び付く独裁的な親政の理念を支持する制度であり、律令を制定し、尚且つそれを超越する特権を皇帝に認める中国的な「王土王民思想」が、極端な中央集権を志向していることは明瞭である。しかしながら、日本に輸入されて土着化した「律令」は、本家の中国に比して「皇帝=天皇」の独裁的な権限を認めることに就いて慎重である。日本では相対的に、公卿たちで構成された太政官の権限と発言力が強大であり、例えば天皇詔勅を発する場合にも、太政官との協議を経由せずに発給を実施することは出来ない構造になっていた。加之、本来ならば天皇の独断的な直裁だけで行える筈の「勅符の発給」及び「奏弾」さえも、律令の条文に反して太政官を経由することが常態化していたと言われる(佐藤進一『日本の中世国家』岩波文庫)。言い換えれば日本において「律令」という制度は、天皇の専断に基づく中央集権的な執政を実現する為に用いられたのではなく、寧ろ天皇の専断を認めずに必ず君臣による合議を経由して政務を決裁しようとする分権的な志向を有していたと考えられるのである。
 皇帝個人の直裁で総てが決まる一元的な執政の方式は、日本の風土に馴染まぬ代物であった。そして往古の日本においては「血族=氏族=家族」の論理が根強く、中央集権的な統一国家であるというよりも、氏族的な分権主義に依拠した連邦制の国家であったと看做した方が適切ではないかと推察される。日本の天皇は超越的な個人でも絶対的な君主でもなく、実際には数多の氏族で構成された連邦の「盟主」であり、その権威は他の氏族との関係性の変化によって揺れ動いていた。天皇の一存で万事が決せられるという極端な親政は、それが連邦を構成する有力な家門の利益に反する場合には非難され、抑圧された。
 従って中世期に発祥した「院政」を、単なる独裁的な専断の常態化として捉えるのは短慮に他ならないと思われる。天皇による親政が、摂関家による介入と掣肘に絶えず晒され、その権威の実効性を骨抜きにされてきた経緯を鑑みれば、上皇による「院政」が直ちに絶対的な専横の権限を発揮し得たと看做すのは軽率であろう。そこには皇室と公卿との複雑な権力関係が存在しており、後三条院及び白河院の時代に創始された「院政」は、天皇外戚という地位を得ることで、人臣の立場にありながら摂政として国政の実権を掌握した摂関家の手法に対する反撃の意味合いを色濃く湛えていると言える。特に摂政・関白の官職と、天皇外戚という血族的な地位とを切断し、藤原道長嫡流摂関家として固定するという措置を講じた白河院の政治的判断は、所謂「院政」が「摂関政治」と同質の構造を内包していることを示唆しているように思われる。何れの場合にも、天皇の「身内」(摂関家の場合は姻戚である)の中で最も地位の高い人間が、天皇の威光を利用して隠然たる権力を発揮するという構造は共通しているからである。
 言い換えれば、日本という国家の歴史においては「権威」と「権力」との間に微妙な乖離が頻繁に見出される傾向が強いのである。例えば「院政」における上皇の卓絶した権力は明らかに、後継者である今上天皇との父子関係によって保証されている。「持明院統」及び「大覚寺統」による皇位の「両統迭立」の時代には、院政を主宰する「治天の君」の地位を上皇が得られるのは、嫡子が天皇の地位に就いている間に限定された。つまり、現下の皇位が異なる系統に移ってしまえば、上皇の肩書は変わらずとも「治天の君」を名乗ることは認められなくなったのである。「院政」における天皇との血縁関係の重要性は、摂関家天皇外戚という立場を絶大な権威の源泉としていた歴史的事実と符節を合している。言い換えれば「治天の君」としての上皇にとって、政治的に競合する相手は「天皇」ではなく「摂関家」なのである。このように眺めると、日本における「天皇」の権力の実態は、中国における「皇帝」の権力と比較する限り、極めて脆弱であると言わざるを得ない。
 無論、あらゆる政治的権威の源泉が「天皇」という称号の裡に存在することは厳然たる事実である。重要なのは、その絶対的な権威から政治的実権を借用するという手法が、日本の歴史の随所に見出される普遍的な手口だという点である。例えば藤原道長嫡流である摂関家に限らず、天皇外戚となることで自己の権力を強化するという手法は、古代から受け継がれてきた有力な人臣の政治的常套であるらしい。しかし、彼らは自ら「天皇」の地位を簒奪しようと企てた訳ではない。不思議なことに、強大な権力を獲得した公卿や武家の棟梁の誰一人として、自ら「天皇」の称号を名乗ろうとはせず、飽く迄も「天皇」の権威に対する臣従の構えを捨てなかったのである。表向きは既存の秩序を保持したまま、その水面下の内実だけを恣意的に改変するという政治的手法が、本邦の歴史的常道である。時代や環境に適合しなくなった「律令」の条文を公式に革めることなく、専ら明法家による柔軟で恣意的な「解釈」に頼って、崇高な建前としての「律令」に反する特例を正当化するのも、そうした傾向の一環であると言えるだろう。