サラダ坊主日記

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政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 3

 引き続き、坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)に就いて感想文を認める。

 天皇家にとっては、中央集権的な統治の徹底は、自らの血統の繁栄を意味する。人臣が過剰な権勢を揮って国政に容喙することは、天皇家の権益に対する侵犯を意味するだろう。そもそも律令制の樹立は、日本列島の全土に蟠踞する有力な豪族たちへの統制を貫徹する為の政略であると考えられる。しかし、日本における氏族的な社会の機構は相当に強靭であり、律令制の形骸化は刻々と進展して、例えば藤原氏の専横や、源平に代表される武家の台頭を許すことになったのだろう。
 「氏族」という単位に根差した強固な分権的社会を統合し、中央集権的な体制を確立する為には、つまり「日本」という国家的な意識に基づいて政事を執り行う為には、異国との緊張関係の介在が重要な鍵を握っているように思われる。共通の敵を有するとき、人間は個別の利害を超えて一致団結する習性を持つ。例えば律令制に基づいた中央集権体制への移行は、白村江の戦いにおける敗北と、中国の唐王朝による侵略への危機意識によって促進されたと看做されている。「日本」という骨格そのものが倒壊の危殆に瀕しているときに、国内の利権を巡る政争に明け暮れるのは不毛な選択である。
 何れにせよ、天皇家が自らの独裁的権力を強化し、地方の豪族による専横を抑圧するのは、国家の存立の面でも、自家の繁栄の面でも、望ましい結果を齎すと期待される為である。しかし、一門の繁栄を希うのは天皇家に固有の欲望ではない。人臣から庶民に至るまで、自家の権益の拡張を求めるのは共通の本能である。例えば古代から有力な公卿たちは、自家の娘を天皇に嫁がせて姻戚関係を築き、自らの血を引く皇子を践祚させることで、強大な政治的実権を獲得する手法(所謂「外戚政治」である)を常套とした。彼らは天皇家との間に血縁関係を作り出すことで、謂わば擬似的な皇族として高貴な社会的盛名を確保し、莫大な実益を手に入れたのである。こうした手法は、天皇家の側から眺めれば主権の侵害であり、外戚の公卿は、悪しざまに言えば貪婪な寄生虫のような存在である(無論、そこには宿主との密接な共生の関係が存在する)。幼帝を践祚させ、摂政・関白として輔弼するという体裁で、政務の実権を握るという手口は、天皇家への寄生以外の何物でもない。
 無論、天皇家の側でも、こうした公卿の狡猾な政略を常に唯々諾々と受け容れた訳ではない。例えば後三条院及び白河院の時代に創始され、後に発展を遂げた中世期の「院政」は正に、摂関政治の興隆に対して、天皇家の主権を奪還しようとする動向であると言えるだろう。附言すれば、白河院鳥羽天皇の時代に、摂政・関白の地位に就く為の自明の要件と看做されていた「天皇との外戚関係」を排除し、専ら藤原道長嫡流が継ぐべき家業と定めることで、摂関家の勢威を形骸化させるという政策を実施した。言い換えれば、中世期の「院政」は要するに摂関政治に対する強力な「上書き」の効果を備えているのである。それが天皇家の主権を恢復する有効な手段であったことは明瞭な事実である。
 保元の乱以後、急速に台頭し政治的な存在感を高めた武家との関係は、天皇家にとって新たな課題の形成を意味した。特に平氏及び源義経の追討を大義名分として「日本国惣追捕使」に補任された鎌倉殿・源頼朝の権威は絶大であった。彼は個人的な主従の関係を取り結んだ数多の御家人を軍事力として駆使し、国家の軍事・警察に関する職権を独占的に請け負った。しかし右大臣実朝暗殺以後、鎌倉の実権を握った北条義時と、京都に鎮座する「治天の君後鳥羽院との関係は徐々に悪化し、義時を逆賊と認定した後鳥羽院は、義時討伐の院宣を発した。これが所謂「承久の乱」の勃発である。後鳥羽院の意図は必ずしも「倒幕」ではなく、専横を極める執権・北条義時の排除に置かれていたが、事態の推移は後鳥羽院の描いた理想の通りには運ばなかった。在京の御家人を自らの派閥に抱き込み、義時を誅伐して東国の主権を掌中に収めようとする後鳥羽院の戦略は、頼朝の妻であり「尼将軍」と謳われた北条政子の絶大な政治力によって頓挫を強いられた。
 勃発した内乱は、大軍を以て京都へ押し寄せた鎌倉方の勝利に帰着し、後鳥羽院隠岐国へ、順徳院は佐渡国へ、土御門院は土佐国及び阿波国へそれぞれ配流され、仲恭天皇は廃位となった。幕府の意向に基づいて持明院守貞親王安徳天皇の異母弟、後鳥羽院の同母兄)が「治天の君」に選ばれ(追号は「御高倉院」)、その皇子である茂仁ゆたひと親王後堀河天皇として践祚した。こうした一連の事態は、天皇家の主権の著しい凋落と、鎌倉殿の権威の飛躍的な増大を明瞭に示唆している。院政という政治的形態は本来、摂関家の容喙を斥けて天皇家の主権を恢復する為の政略であったが、承久の乱による後鳥羽院の皇統の没落が引鉄となって、東国に陣取る鎌倉殿の権威が伸張し、院政の本義は形骸化した。爾来、皇位の継承に就いて武家の介入が行われることは常態と化したのである。
 承久の乱を重要な転機として、東国に地盤を置く武家政権の勢力は大幅に拡大した。端的に言えば、それは京都の朝廷及び西国に対する鎌倉殿の影響力の浸透である。京都には六波羅探題が設置され、北条氏の一門が責任者を務め、西国支配の総指揮を担った。加之、戦後処理の一環として京方の御家人たちの所領を没収し、東国の御家人に割り当てる措置が進められた。それが西国に対する鎌倉殿の支配力の強化を意味することは明らかである。朝廷においても、後嵯峨院践祚や、それに続く持明院統及び大覚寺統の「両統迭立」の時代に至るまで、皇統の決定には絶えず鎌倉の関与が伴い、京都と鎌倉の関係を取り持つ「関東申次かんとうもうしつぎ」の職務を世襲した西園寺家が絶大な権勢を揮うようになった。爾来、国政の中枢における諸々の問題の解決に、軍事力を背景として武家の棟梁が介入するという方式は、日本の社会的秩序の標準的な元型と化したのである。