サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「恋愛」と「結婚」の境界線

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 先日のエントリーでも少し触れましたが、私には離婚経験があります。今時、離婚なんて少しも珍しくない話となりましたが、その決断に当たっては親から強い反対を受けました。相手の方が私に対する愛情を失ったと明言したのが最終的な決定打となって、五年半の共同生活に終止符を打ったのですが、そのとき父親から「結婚に愛情など必要ない。結婚というのは社会に対する約束なんだから、好きだの嫌いだの、そういう感情的なものを理由として別れるのは、正しい人間の行いではない」と叱られたのを、今でも鮮明に記憶しています。当時の私は精神的にもかなり追い詰められており、父親の意見には猛烈な反発を示したものですが、極論とはいえ、その言種にも一定の理屈というか、妥当性が備わっていることに、後々思い当りました。

 「恋愛」と「結婚」の違いというのは色々な場面で論じられる機会の多い主題ですが、私の考えでは、端的に言ってそれは「感情」と「意志」の違いということに要約されるのではないかと思います。「恋愛」はあくまでも「感情」の法則に基づいて営まれる関係性であり、好きだという感情が冷めれば試合終了です。しかし「結婚」は、そのような感情の変化とは異なる次元の問題として考えられるべき「制度」です。そもそも「結婚」は「離婚」を前提としては行われません。基本的には互いに死別するまで共同の生活を送ることが「結婚」の原理原則です。ですが、感情というのは環境に応じて変化するものであり、数十年にわたって固着したまま動かない感情というのは存在しません。つまり「結婚」という制度を「感情ベース」で運用するのは、かなり高い確率で破綻するであろう危険な運営の方法ということになります。

 「恋愛」に関して言えば、それは純粋に「感情」の問題であると同時に「享楽」の問題でもあります。つまり「楽しくなければ終わりにすることが許される営為」なのです。気持ちが冷めれば自然消滅したって構わないのです。それを「不誠実」だと難詰するのは個人の自由ですが、そのような難詰によって「恋愛の享楽」が恢復されることはありません。そもそも「恋愛の享楽」は、本来合致しないものが奇蹟的に合致することで生成される感情なので、理詰めの説得でどうにか出来るものではありません。「恋愛の享楽」に理性が介入する余地はなく、自己決定権もありません。それは向こう側から勝手に現れて心を攫っていくのであり、根本的に「落ちるもの」なのです。

 しかし「結婚」は社会的な契約であり、双務的な合意の上に成り立つものです。私個人としては「社会に対する責任」に縛られて不毛な結婚生活に堪えることを「正しい振る舞い」だとは思いませんが、少なくともそれが単なる感情を超越した「意志」によって支えられるべきものであることは認めます。「感情が冷めたら終わり」にするのは「恋愛」においては正しい選択(むしろ「恋愛」においては「感情が冷めているのに関係を続ける」のは単に無意味であり、怠慢です)ですが、「結婚」においては不誠実な態度です。「結婚」は、それを成り立たせようとする双務的努力によって支えられており、「感情」ではなく「決意」に従います。「添い遂げる」という制約が、総ての婚姻の基礎的な要件となるのです。

 両者の違いは、それぞれが目指す「理念」の違いに由来しています。「恋愛」の理念が「享楽」であり「快感」であり「刺激」であるとするならば、「結婚」の理念は「幸福」であり「充足」であり「静穏」です。「享楽」は常に更なる欲望の賦活を目指す「上昇性」を伴いますが、「幸福」は「既にそこにあるもので満足する」ことを目指します。「享楽」は更なる快感の強度を求めますが、「幸福」は何も求めません。「それ以上多くを望まないこと」が「幸福」の条件であり、「結婚」の要諦なのです。

 それだけ聞くと退嬰的に聞こえるでしょうか? それは若く勇敢な探究心の敗北なのでしょうか? 言い換えるなら「結婚」とは「人間的成熟の重要な階梯」ということなのです。単に楽しく面白おかしく暮らしたいだけなら、つまり「享楽」を求めるだけならば「結婚」は絶対に不要です。しかし「享楽」に退屈するようになったときには「幸福」という別の理念が必要とされるようになります。言い換えれば「快楽」を外部へ求めるのではなく、自分自身の置かれている環境の内部から汲み出す為の「修行」のようなものが「幸福」への努力です。この「力」が身につけば、強烈な刺激に憧れずとも、どんな事物にも何らかの「魅力」を見出して適応することが出来るようになります。この「精神的汎用性」は人間の生活を限りなく豊饒なものに変えていきます。

 「恋愛」と「結婚」をセットで考えるのは普遍的な価値観ではありません。それは本来「異質な組み合わせ」なのです。「結婚」を「恋愛」の積りで営むのは失策です。「恋愛」の延長線上に「結婚」が存在すると考えるのは、「恋愛=結婚」という等式を信じることとは違います。多くの方が「恋愛」の果てに「結婚」へ行き着くのは、「結婚」が「恋愛の限界」に対処するためのシステムだからでしょう。

 随分と観念的なエントリーですが、皆さんはどう思われますか?

 真夜中の船橋サラダ坊主でした!