サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書き留められた思い出

 文章を書くということの目的は、人によって様々だろうが、結局のところ、直ぐに空中へ掻き消えてしまう日常的な会話の数々とは異なり、或る出来事なり考えなりを文字に起こして紙やデータに定着させるということは、大袈裟に言えば、生きた証を樹てるということ、生きた痕跡を刻むということに他ならない。何かを書き留めるというのは、素朴な意味で、それを記憶するということ、具体的な形を与えるということに繋がる。思い出を書き留めることは、そのままでは永久に失われてしまうであろう記憶や想念に、実体的な物理性を授けるということだ。

 だが記憶は直ぐに書き換えられていく。寺山修司は、過去は書き換えられるということに重要な意味を見出し、執着を示していた。実際、厳密な意味で実証的な「記憶」というものに固執するのは、学術的な領野だけで充分だ。私たちはいつも、過ぎ去った出来事の意味を考え続ける。殆どの出来事は忘れ去られ、記憶の彼方へ、時間の彼方へ押し流されて追いかけることも出来なくなるが、何故か名状し難い感覚と共に、何時までも記憶の片隅に残り続ける経験というものが存在する。そこには、簡単には言葉に置き換えられない「意味」が滲んでいる。多くの場合、それは不可解なままに過ぎ去っていく。或る意味では、私たちは「記憶」という巨大な書物を再読し続けているのだ。

 例えば巨大な災害や事件、私の少年期で言えば、阪神淡路大震災オウム真理教によって惹き起こされた一連の事件、それらの悲痛な暴力に大切な人や時間を奪われた方々にとって、その記憶に染みついた「不条理」と向き合うことは、逃れ難い呪詛のようなものだろう。私たちは何故、それが起きたのか、他の選択肢も有り得た筈なのに、何故、他ならぬこの私に、そのような惨劇が降り注いだのか、という設問に苛まれ続ける。そのとき、思い出は書き換えることの困難な絶対性を帯びる。書き換えられない記憶ほど、辛いものはない。それは私たちの精神的な自由を剥奪するからだ。

 だとしても、思い出を書き留めることには意味があり、それは私たちの人生を奥深いものに作り変え、鍛え上げる。感傷に耽ることが重要なのではない。過ぎ去った日々の記憶を何度も読み返すことは、今この瞬間の「私」の存在を錬磨する。そうやっていつか何事もなかったように死んでいくときでも、私たちの内部には墓標のような無数の記憶が積層している。誰でも人は思い出の中で死んでいく。だとしたら生きることは常に、思い出すことと同じではないだろうか。