サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

あらゆるものを語ろうとする欲望の結晶

 小説や詩歌、それら一般に「文学」と称されるものの本質は、あらゆる物事を言葉に置き換えようとする偏執的な欲望の衝動に存すると、私は思う。絵画があらゆる色彩と光と形態を描き尽くし、音楽があらゆる旋律と響きを奏でることを試みるのと同じく、文学はあらゆる事物に明確な言語的表象を授けようとする。何もかも言葉に置き換えてしまわなければ気が済まない独特の情熱が、その根底には存在し、刻々と脈動しているのである。

 何故、言葉にしようという欲望が萌芽するのか、その最初の第一撃の所以まで解き明かそうと試みるのは難題である。それが生まれてからの後天的な人格形成の階梯を通じて養われることは恐らく確かであろうが、絵画でも音楽でもなく書字行為に結びつくとしたら、それは個人史においては偶発的な運命の所産であろう。あらゆる事物を、確固たる輪郭を備えた文字記号へ置き換えていく行為への偏執的な情熱、それは万人に共有される感情ではない。文字を読むのも書くのも億劫だというタイプの人々が厳然と存在するから、ということだけが、その証明ではない。インターネットの世界を覗き込めば一目瞭然であるように、何らかのメッセージを言葉として発信することに関心を持つ層は極めて幅広い。世界的に見ても識字率が高いと言われる日本の社会的環境を踏まえれば、誰にとっても文字を書き綴って何らかの表現を行なうことは、敷居の低い営みであると考えられるかも知れない。しかし、それは安易な見解であり、書くという行為の根本的な不自然さに対する認識の貧しさを表している。冷静に考えてみれば分かる通り、あらゆる事物を文章へ置換しようとする偏執的な情熱や衝動は、どう考えても普遍的な本能であるとは言い難い。殊更に総てを書き遺そうと、何十年も浩瀚な日記を記し続ける人々が存在する一方で、学校の課題に出される原稿用紙数枚程度の短い読書感想文さえ拷問のように感じる人々も少なからず存在しているのである。書くことは、ナチュラルな本能ではなく、黙っていても出来るようになる先験的な営為ではない。それは意識的な努力の涯に初めて習得される、極めて人工的な技能である。その人工的な技能に異様な情熱を燃やし、高い価値を与える習慣は、誰にとっても親密な行為だとは言えない。文学とは、酔狂の極致である。もっと端的に言えば、一種の病気なのだ。