サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「沖縄」という政治的な場所 2

 先日の記事の続きを書く。

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 前回の記事で、私は村上春樹の「ハンティング・ナイフ」という小説を読解するに当たって、作中に登場するアメリカ人の車椅子の青年を、どのように位置付けるのかという問題が、重要な鍵を握っているという見方を示した。今回の記事では、先ず彼に関する描写の一つ一つを蒐集し、吟味を加える作業を通じて、青年の造形の核心に迫ってみたいと思う。

 コッテージの一棟は四部屋に分かれていた。一階に二部屋、二階に二部屋。我々の隣の部屋にはアメリカ人の母子が宿泊していた。彼ら二人は、我々がやってくる前からずっとそこに滞在していたようだった。母親はたぶん六十歳前後、息子の方は僕らと同じ年代、二十八か二十九というところだった。二人とも顔がほっそりとしていて、額が広く、いつもまっすぐに口を結んでいた。これほどよく似た風貌の母子を、僕はそれまで見たことがなかった。母親はその年代の女性にしては驚くほど背が高く、背筋がまっすぐに伸びて、手足の動きもきびきびしていた。

 息子の方も身体のかっこうから推測すると、母親同様、背が高そうだったが、実際にどれほどの身長なのか、僕にはわからなかった。彼は車椅子に座ったきり、一度も立ち上がらなかったからだ。彼の後ろには常に母親がいて、車椅子を押していた。

(筆者註・本稿における「ハンティング・ナイフ」の引用は、新潮社発行の「めくらやなぎと眠る女」に収録されたバージョンに基づいている)

 この記述から導き出される何らかの明快な答えを性急に求めるのは差し控えて、先ずは如何なる種類の「問い」が抽出され得るのかを考える必要がある。

 最初に生み出される最も単純で素朴な問いは、この母子は何者なのか、ということであり、そもそも如何なる目的でこのコッテージに滞在しているのか、という点であるだろう。彼らはアメリカ人であり、母親はきびきびした所作の女性であり、息子は車椅子に乗っていて、恐らくは自力で歩行することの困難な状態に置かれている。

 このとき、私たちが注意しなければならないのは、この作品がフィクションであり、如何なる具体的な事実にも即していないという根本的な条件を失念しないことである。私たちは何処かに秘められている客観的な「事実」に到達する為の探索を行なうのではなく、何故そのように「書かれているのか」という作為=虚構の次元において「理由」を求めなければならない。この微妙な差異に充分に着目しなかった場合、私たちの探索が不毛な曠野を彷徨し続けることになるのは自明の理である。

 言い換えれば私たちは、何故、彼ら母子が「アメリカ人」なのか、という次元から探索の旅程へ踏み出さなければならないのである。何故、彼らが「アメリカ人」であり、「母子」であり、そして「車椅子」に乗っているのか、ということが文学的な探究においては重要な意義を帯びるのだ。

 この土地が「沖縄」であるという仮説を前提として踏まえた上で、議論を進めたいと思う。車椅子の母子は、語り手の「僕」同様に旅行者であり、この土地においては「異邦人」として定義されている。彼らは何らかの理由でアメリカを離れ、この異国の静かな海辺に滞在している。何故、彼らは異国の静かな海へ、母子二人で長期に亘って滞在しているのか。もっと言えば、何故「滞在しなければならないのか」。その理由に就いて、車椅子の青年自身が語っている部分を引用しよう。

「みんなが決めるわけです。あそこに一ヵ月いなさい、こっちに一ヵ月いなさいってね。そんなわけで、僕はまるで雨降りみたいに、あっちに行ったり、こっちに来たりしています。正確に言うと、僕と母は、ということですが」

 彼は家族の命令によって、様々な土地を転々と移動し続けている。それが如何なる理由に基づいているのか、作中において明確な理由が語られることはない。だが、彼が「雨降り」のように絶えず移動し続ける存在であることは、この「ハンティング・ナイフ」という小説においては不可欠の要素であると考えねばならない。彼らは常に移動を命じられ、しかもそれは自分の意志に基づくものではない。言い換えれば、彼らは一種の難民であり、流氓であるのだ。

 自分の意志に基づく行動の自由を持たないという母子の条件は、車椅子というアイコンによっても間接的に表象されていると私は思う。何故、彼が車椅子に乗る必要があるのか、それは無論、彼が自力で歩行出来ない肉体の持ち主であるからだ。しかし、文学的な解釈として眺めれば、そのような理由は厳密な妥当性を持たない。重要なのは、アメリカ人の青年から「自分の意志に基づいて行動する自由」を剥奪する為に、車椅子という虚構の条件が要請されたのだという具合に、いわば事物を反転させて捉えることなのである。

 自由を奪われ、決定権を奪われた存在としての母子は、際限のない「休暇」の日々を過ごすことを家族によって強いられている。彼らは無力であり、「不健康な人間」として定義された存在であるから、「休暇」以外に果たすべき責務が何もないのだと解釈することは充分に可能である。しかし、そのような解釈も、前述の理由に基づいて考えるならば、妥当性を欠いていることは直ぐに判明するだろう。彼らは何故、果てしない「休暇」を送ることを強いられているのか。その問いを反転的に捉えるならば、私たちは次のように命題を組み立て直さねばならない。自由を奪われ、無気力な休暇を送ることこそ、彼らに課せられた重要な役割なのである、と。

「さっき分業システムと言いましたが」と彼は続けた。「分業というからには、僕らにも僕らなりの役割みたいなものがあります。ただ与えられるだけの一方的な関係ではない。何と言えばいいのかな、僕らは、何もしないことによって、彼らの過剰さを補完しています。バランスをとっているんです。彼らの過剰さが生み出すものを、言うなれば、癒しているわけです。それが僕らの側の存在理由です。僕の言っていることがわかりますか?」

 自由を奪われた難民、自らの意志で行動する権利を剥奪され、永遠の「休暇」の日々に閉じ込められた人間という立場が、単なる「結果」ではなく、一つの明確な「役割」であることが、ここでは観念的な表現を通じて強調されている。重要なのは「何もしないこと」であり、それこそが彼らに課せられた使命なのである。だが、それは奇異な話ではないだろうか? 私たちが他者に何かを望み、求めるとき、敢えて「何もしないこと」を命じるような場面はそれほど多くない。「何もしないこと」が明確な役割として求められる立場、それは一体、何だろうか? (次回へ続く)

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

 

 

「沖縄」という政治的な場所 1

 在日米軍普天間基地移設に伴う措置の一環として、沖縄県名護市辺野古の埋め立て工事が再開され、沖縄県知事の翁長氏、名護市長の稲嶺氏を中心に反発が強まっているという報道に接した。

 私は人生で一度も沖縄へ足を踏み入れた経験がなく、沖縄という土地が辿ってきた複雑な歴史に関しても概ね無知であると言い切って差し支えない。沖縄という土地を呪縛し続けている様々な政治的軋轢の堪え難い痛みに就いても、鋭敏な想像力を働かせることさえ出来ない愚物である。それでも、個人的に考えたことを広大な情報空間の片隅に小刀で刻むように書きつけておきたい。

 沖縄という土地が、日本とアメリカの複雑な関係性を集約し、象徴的に拡大する特殊な政治的領域であるという私の認識は、それほど的外れなものではないと思う。沖縄は、太平洋戦争において唯一、苛烈な地上戦が展開され、民間人を含む夥しい数の戦死者を計上した土地であり、戦後はアメリカの占領統治下に置かれ、1972年の「沖縄返還」に至るまで、その施政権は日本政府の掌中から奪われ続けていた。日頃、私たちはアメリカとの政治的な関係性に就いて濃密な意識を持つことは少ない。だが、沖縄の人々は在日米軍基地の問題を巡って、絶えず巨大な政治的存在としてのアメリカの影に直面し続けている。本土に暮らす日本人の大半が敢えて見凝めようとしなくても済んでいる「歴史的遺産」の暗部を、沖縄という土地は今でも背負い続けることを強いられているのだ。

 沖縄という土地に就いて考えるとき、私は村上春樹の「ハンティング・ナイフ」という短い小説のことを思い出すのが常である。以前にも、このブログで「ハンティング・ナイフ」に就いては取り上げたことがある。改めて読み返してみても、何となくすっきりとしない、謎めいた小説である。尤も、それはこの短い作品が複雑であったり難解であったりするからではない。文章自体は、村上春樹らしい率直で明快な表現力を隅々まで行き渡らせているから、意味が分からないということも、読解が進捗しないということもない。彼の文章はカフカのように明晰であり、少しも抽象的で俯瞰的な観念によって汚染されていない。そこには訳知り顔で文学的な解釈を加えたがる私のような卑しい愚者に好都合な手懸りが殆ど存在しないか、若しくは注意深く隠蔽されていて、安易な図式化に根底から抗っている。

 だから、私が「ハンティング・ナイフ」に日米関係の複雑な構造の象徴的な表現を見出した積りになって舞い上がるのは、作品に対して無礼でもあり、不躾でもあり、無神経でもあると思う。しかし、私の内なる性癖は、そのような傲岸不遜の振舞いに敢えて踏み切ろうとする欲望を制御することが不得手である。

 ブイの上空は米軍基地に向かう軍用ヘリコプターの通り道になっていた。彼らは沖合からやってきて、ふたつのブイの真ん中あたりを通過し、椰子の木の上を越えて内陸の方へと飛び去っていった。パイロットの表情まで見えそうなほどの低空飛行だった。緑色の鼻先からは、昆虫の触手のようなアンテナがまっすぐ前方に突き出していた。でも軍用ヘリコプターの行き来をべつにすれば、そこは今にも眠り込んでしまいそうな、静かで平和な海岸だった。誰にも邪魔されず、のんびりと休暇を過ごすには、うってつけの場所だ。

(筆者註・本稿における「ハンティング・ナイフ」の引用は、新潮社発行の「めくらやなぎと眠る女」に収録されているバージョンに基づいている)

 語り手の「僕」が訪れた、この穏やかなリゾート地が「沖縄」であると明示されている訳ではないが、わざわざ「米軍基地に向かう軍用ヘリコプター」という記述が採用されている点を考慮すれば、この作品の舞台が「沖縄」であるという推測を組み立てることは、それほど不当な判断ではないだろう。そして、旅行者として設定されている「僕」の視点の位置や角度が、本土から訪れた部外者の微温的な性格を強調するように仕立てられていると解釈するのも、荒唐無稽の考え方ではないと私は信じる。

 「軍用ヘリコプターの行き来をべつにすれば」という「僕」の意図的な註釈は、沖縄の置かれている政治的な現実の危険な側面を捨象することに他ならない。「僕」は軍用ヘリコプターの存在に着目しても、そこに特別な意味を読み取ろうとはしないし、その背景に秘められている無数の「経緯」に特別な注意を払うこともない。彼は飽く迄も一介の旅行者として、東京から来た観光客として、この「今にも眠り込んでしまいそうな、静かで平和な海岸」を訪問し、貴重な休暇を堪能しているに過ぎない。そうした眼差しの性質が、沖縄に対する「本土」の視線の比喩であると強弁するのは暴論に聞こえるだろうが、総ての読者に認められた崇高な権利として、私の手前勝手な「誤読」を許してもらいたい。

 ブイの上には思いがけなく先客がいた。ブロンドの髪の、見事に太ったアメリカ人の女だ。ビーチから見たときにはブイの上には誰もいないように見えたのだが、たぶん僕が泳いでるあいだに、彼女はやってきてそこにあがったのだろう。女は小さなビキニの水着を身につけて、うつぶせになっていた。よく畑に立っている「農薬散布注意」の旗を連想させるような、ひらひらした赤い水着だった。彼女はほんとうにまるまると太っていたので、その水着は実際以上に小さく見えた。彼女の肌はまだ白く、ほとんど日焼けしていなかった。ここに来て間がないのだろう。

 言うまでもなく、沖縄及び日本にとって「アメリカ」という国家が有する意味は、特権的な水準に位置付けられているが、戦後七十年を閲した今、本土と沖縄との間には「アメリカ」に対する意識の隔たりが根深く介在しているように思われる。今回の辺野古移設に伴う工事の執行に対して、名護市の稲嶺市長は「日本政府は沖縄県民を日本国民として扱っていない」と言い、憤怒を露わにしている。それは薩摩藩の圧政から、明治政府の琉球処分を経て、太平洋戦争における惨たらしい本土決戦の災禍に至るまで、沖縄という土地が日本政府から受けてきた陰惨な仕打ちに対する、蓄積された被害感情の発露であると同時に、今も猶、戦勝国アメリカに対する「生贄」として「沖縄」を差別し続ける日本政府のエゴイズムに対する「宿怨」の表明でもあるだろう。

 言い換えれば、沖縄という土地には、日本という国家がアメリカとの関係を通じて、歴史的な暗がりの奥底へ封じ込めてきた「戦争」の記憶が今も、生々しい現実として宿り、様々な事件を通じて絶えず喚起され続けているのである。本土においては余り意識されず、記憶が薄らいでいるようなことも、沖縄においては切迫した現実として感受されている可能性は決して小さくない。

 僕は海岸にまた目をやった。車椅子の母子の姿はやはり見えなかった。兵隊たちはまだビーチ・バレーボールを続けていた。ライフガードが、監視台の上から大きな双眼鏡で何かを熱心に見ていた。やがて沖合から二機の軍用ヘリコプターが姿を現し、まるで不吉な手紙を運ぶギリシャ悲劇の特使のように、重々しく我々の頭上を轟音とともに通り過ぎ、内陸に向けて消えていった。そのあいだ我々は黙って、そのオリーブグリーンの飛行体を見上げていた。

 海軍の将校を兄に持ち、海軍上がりの航空機のパイロットと離婚した経歴を持つ、アメリカ人の女性と会話する間、「僕」の眼に映じる風景の中には、米軍を想起させる断片が幾つも埋め込まれている。それは一見すると何気ない叙景に過ぎないが、こうした描写が「意図的ではない」と考えなければならない特別な理由は存在しない。繰り返し強調するように書き込まれる「アメリカ」と「兵隊」に関する記述は、単なる作品の彩りでも飾りでもなく、或る「使命」や「役割」を背負ったものとして解釈されるべきだと私は思う。

 そして改めて強調するまでもなく、この短い小説において最も重要な意義を担っていると考えられるのは、語り手の「僕」がたびたび見掛ける車椅子に乗ったアメリカ人の青年である。彼の素性に就いて、私たち読者が明確に知り得る事実は限られている。因みに私は、今回「ハンティング・ナイフ」を再読するまで、彼が「アメリカ人」であると明記されていることを見落としていた。

 彼が何者なのかを考え、推測し、何らかの仮定的な答えを導き出そうと努めることは、この作品に嵌め込まれた様々な「意味の萌芽」を掴む上では、不可避の作業である。だが、彼の正体を見極めることは少しも容易ではない。具体的な記述を一つずつ拾い集めて、見通しの良い展望を少しずつ手作業で拵えていく以外に方途はない。

 だいぶ長くなったので、続きは次回に引き継ぐことにする。

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

 

 

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

 「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。

 無論、あらゆる「美しさ」が必ず倫理的な価値観に背反するなどと暴論を吐きたい訳ではない。重要なのは「存在しないものだけが美しい」と感じる精神的な機制が存在すること、そうした特異な(同時に一般的でもある)精神的機制の特質に就いて考察を重ねることである。

 存在しないものだけを特別に美しく感じる種類の精神的機制が、眼の前の具体的な「存在」に対する嫌悪や絶望から分泌されていることは言うまでもない。三島由紀夫の「金閣寺」の場合には、吃音によって外界から隔てられた「私」の内面において、外在的な「現実」は、どうしようもなく接続の困難な領域である。人が具体的且つ外在的な現実に対する己の「無力」を切実に痛感するとき、それが外界への積極的な介入に帰結するか、それとも内界への退却と逼塞に帰結するかは、各人の精神的条件に応じて異なるのが普通である。

 現実との積極的な交渉が困難であるような個人にとって、その困難の理由が如何なる条件に基づいているかということに関わりなく、秘められた欲望が空想的な領域へ接近していくのは特殊な現象ではない。金閣寺への放火は特異な事件であろうが、そのような事件の勃発を準備した個人の内的な機制は少しも特異ではない。「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を美しいと感じ、その精神的な現象に固着する人間の生存の形式は、私たちの暮らす社会では寧ろ凡庸なほどに有り触れている。

 例えば「欣求浄土・厭離穢土」という言葉に象徴される仏教的な救済の観念は、現実に対する蔑視を含むと同時に「存在しないものへの強固な憧憬」によって裏打ちされていると言える。キリスト教イスラム教も含めて、死後の世界に関する種々の想念を有する宗教的な体系は、こうした「存在しないものの美しさ」に対する強烈な欲望によって駆動し、成立しているのである。言い換えれば、それは「彼岸に対する欲望」であり、その内実を客観的に眺めるならば「死に対する欲望」ということになるだろう。

 死ぬことが齎す幸福な幻想、それが宗教に限らず、人間の精神の様々な局面において登場する根強い欲望の形式であることは論を俟たない。「金閣寺」の語り手は「彼岸」の象徴である金閣を焼き亡ぼすことによって「生きること」への倫理的な回帰を試みた。新海誠監督の「君の名は。」においては、それは瀧と三葉の現実における邂逅によって置き換えられる。若しも瀧と三葉の相互的な恋情が「存在しないものへの欲望」に留まり、固執し続けるのであれば、彼らはあのような形で再会するより、黄昏の一瞬の邂逅を追憶の頂点に据えた上で、永遠に「出逢わない二人」として生き続けるべきであった。しかし、彼らは現実的な邂逅を通じて「存在しないものへの欲望」を「存在するものへの欲望」に、半ば強制的に転換させられることになる。そこから始まる「結婚」のフェーズは、彼らに「現実への蔑視」を棄却することを命じるに違いない。どんなに醜悪な現実も受け容れ、決して「邂逅することの許されない二人」という悲劇的な関係性に安住することなく生き続けること、それは虚無的な美しさの象徴としての「金閣寺」を焼き払うことと、倫理的な意味においては等価であると私は思う。

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グローバリズムとコミュニズム

 先々週くらいから、乾石智子の『魔道師の月』(創元推理文庫)を読むことに飽きて、居間に積み上げたまま店晒しにしていた『共産主義者宣言』(平凡社ライブラリー)を鞄に入れて持ち歩き始めた。

 私は共産主義という思想の意味を少しも理解していない。私の父親が学生だった頃には、共産主義の思想に取り憑かれた熱狂的な学生たちが「革命」を志向して暴力的な闘争に明け暮れていたと聞く。父親は如何なる党派にも属さない平凡な若者であったらしいが、それでも周りの勢いに呑み込まれて警察官に石を投げ、全力疾走で現場から逃げ出したそうだ(私が子供だった頃の父の口癖は「君子危うきに近寄らず」と「君子豹変す」の二つであった)。

 今日では、少なくとも現代の日本社会においては、「共産主義者宣言」の全篇に亘って頻出する「ブルジョア」や「プロレタリア」といった横文字の単語は既に旬の過ぎ去った死語に等しい待遇を受けているように見える。「階級闘争」という厳めしい表現も、時代錯誤の不毛な観念のように受け止められているのではないだろうか。無論、安倍内閣による所謂「安保法制」の強行採決に反対して、多くの学生たちがデモに繰り出した日々は今も記憶に新しいが、そうした活動が具体的な成果に結実することはなく、当時の熱気も哀しいほど無惨に退潮してしまった。考えてみれば、これは奇怪な現象ではないだろうか? 「一億総中流」の時代が終焉を迎え、小泉内閣による過激な規制緩和の大合唱を経て、刻々と強まり続ける自由主義の圧力と「自己責任論」の普及によって、私たちの暮らす社会が「格差の拡大」を生き続けていることは最早、自明の理である。夫の稼ぎだけで家計は支えられ、妻は専業主婦となって家事と育児に勤しみ、郊外に持ち家を建てて、還暦を迎えたら年金生活に入る、というロールモデルは社会の「典型」であることを止め、大多数の若者にとっては「見果てぬ夢」に様変わりしつつある。これは社会が「階級化」されていることの紛れもない証左ではないのか? 非正規雇用の割合は拡大の一途を辿り、人々の平均的な所得額は下降を続け、未婚率は上昇し、生まれる子供の数は減少を強いられている。生活保護受給世帯の数は絶えず最高記録を更新し続けているし、年金の受給開始年齢は果てしなく繰り上げられていく見込みだ。ほんの数十年前まで、私の父母の世代が現役であった頃まで、当たり前のように信じられていた社会的秩序の形態は、良くも悪くも耐用年数の超過を露わに示している。にも拘らず、階級闘争という言葉の古色蒼然たる響きが人々の大きな関心を集めることはなく、誰も革命が可能であるとは信じず、不透明な居心地の悪さが募っていくばかりである。社会の変革、国家の変革が必要であることは、多くの人々が承認する一般的な事実であろう。しかし、誰もが変革の絶望的な困難に尻込みして、政治的な改革よりも個人的な改革の方に救済の可能性を、希望の萌芽を見出そうとしている。

 とはいえ、そういう現代社会の雄々しい変革を志して、私は「共産主義者宣言」を手に取った訳ではなかった。結局は、単なる知的な関心に過ぎない。そして私が平凡社の版を選んだのは、中学三年生の頃から愛読してきた批評家の柄谷行人が巻末に解説を附していたからであった。

 そもそも、私がカール・マルクスの名を知ったのは、柄谷行人の著作に触れたことが直接的な契機であった。彼は幾度も、自らの厖大な著述の中で、マルクスという思想家の偉大な重要性と画期性に就いて言及している。新進気鋭の文芸批評家として出発した柄谷氏が、更に自らの思想的な領域を押し広げ、文学に留まらず政治や社会、哲学といった広範な分野へ進出していった背景に、ドイツの哲学者カントと並んで、マルクスの齎した決定的な衝撃と濃密な影響が介在していたことは、多くの読者にとっては既に周知の事実であろう。

 自分の知力で理解出来る内容なのかどうか心許なかったし、己の移り気で忍耐力のない性分は弁えている積りであったから、どうせ直ぐに投げ出すことになるだろうと思いつつ、勇気を振り絞って挑みかかった「共産主義者宣言」はしかし、事前の想定に反して頗る読み易く、刺激に満ちた内容であった。

 端的に言って、この薄い書物は、階級闘争の歴史的な推移に関する概説と、そうした現状から導き出される可能的な「未来図」の素描と、これら二つの部分に大別される。そして、第二章の終盤で示される処方箋の楽観的な陳腐さには、私は率直に言って、首を傾げてしまった。「共産主義者宣言」という一冊の優れた書物は、社会の構造に関する犀利な分析においては稀有な価値を体現しているが、この書物が想い描く青写真は、現実味に乏しく、実践的な有効性を欠いているように感じられた。

 しかし、この書物に綴られている社会分析の成果は、1848年の公表から既に170年近い日月を閲した現在においても猶、その有効性を失っていないように見える。封建社会からブルジョア階級の成立に至る歴史的推移の適切な素描は、少しも古びていないし、旧時代の遺物として排斥するには余りに惜しい新鮮な省察によって支えられている。だが、マルクスが(エンゲルス?)「宣言」の中に盛り込んだ、或いは仄めかした未来図の精度は無数の疑問符に彩られていると言わざるを得ない。言い換えれば、彼は未来を語ることに性急であり過ぎたのではないだろうか? ブルジョア階級の勝利は、プロレタリア階級の暴力的な革命によって転覆されるという筋書きは、現代においては古めかしい御伽噺のように感じられる。寧ろ、ブルジョア社会の特質は、様々な技術の発達によって一層加速され、あらゆる「辺境」を貪婪に平らげることに今も血道を上げているのだ。インターネットに象徴される情報技術の異常な発展は、ブルジョア階級によって切り拓かれた資本主義経済の無慈悲な拡張を根底的に支持している。

 生産物の販路の絶えざる拡大という欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球を駆け回る。いたるところに巣を作り、いたるところを開拓し、いたるところで関係を結ばねばならない。

 ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国籍を超えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった。民族的な伝統産業は破壊され、なお日に日に破壊されている。それらの産業は新しい産業に駆逐され、この新たな産業の導入がすべての文明国民の死活問題となる。そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が現れる。かつての地方的、一国的な自給自足と孤立に代わって、諸国民相互の全面的な交易、全面的な依存が現れる。(「共産主義者宣言」金塚貞文・訳)

 マルクスエンゲルスの言葉を借りるならば「国内の生産物で満足していた昔の欲望」を取り戻そうとしているのがドナルド・トランプ率いる合衆国であり、EU離脱に踏み切ったイギリスであると言い得るだろう。そうした「反動派の悲嘆」は、中東を席捲するイスラム過激派の熱狂的な民族主義にも通底している。それは確かにブルジョア階級の崩壊と自由主義体制の破綻を暗示する徴候のように見えるが、保守的な反動によって世界が新たな局面に足を踏み入れることは有り得ないに違いない。メキシコとの国境線に巨大な隔壁を築いたところで、グローバリズムの尖兵たるアメリカの経済が古き良き保護主義の監獄に逼塞し得るとは考え難いからだ。

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

 

サラダ坊主風土記 「安房鴨川」 其の四

 今回の記事で連載は最後になる(予定)。

saladboze.hatenablog.com

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 鴨川シーワールドは、少なくとも関東地方ではそれなりに名前の知られたレジャー施設であり、名物のシャチのパフォーマンスも観覧したことのある方は多いだろうから、旅行ガイドブックを書きたい訳でもない私としては、日中の園内の様子に関する描写は割愛したいと思う。とりあえず季節外れの平日であったので、園内は頗る空いており、のんびりと見物して回るには最適の環境であったことだけを、附言しておく。

 その晩は、ホテルのレストランでビュッフェ形式の夕食を取り、妻と順番に幼い娘の面倒を見ながら、交代で大浴場の湯舟に浸かった。温泉を引いているということだったが、私は湯温の低さが不満であった。

 枕が変わった所為か、なかなか娘が寝入ってくれず、蒲団に横たわりながら私たちは睡魔に抗う時間を過ごした。漸く娘が好みの体勢を見つけて微かな寝息を立て始め、私もゆらゆらと霞んでいく意識の片隅で、果てしなく打ち寄せる外房の海の波音を聞いていた。昼間、明るい陽光に照らされ、紺碧に光り輝いていた海原は美しいの一言に尽きたが、日が沈んだ後の海は、端的に言って不吉な暗黒を抱え込んで見えた。轟く波音も、鮮やかな光の下で聞くのとは異質な、独特の不穏な律動として鼓膜を打った。

「やけに明るくない?」

 隣で娘を挟んで眠っていた筈の妻が、不意に起き出して言った。

「月の光じゃないの」

「でも、さっき見たときは、月は出てなかったよ」

 眠気を堪えかねて横たわったままの私とは対蹠的に、妻は蒲団から脱け出して、海と砂浜に面した窓辺へ歩いて行き、薄いカーテンの隙間に頭を突っ込んだ。

「すごい」

「どうしたの」

 気になって起き出すと、確かに部屋の床にも天井にも、青白い光が煌々と濫れていた。月明かりにしては、余りに眩しいような気もする。立ち上がり、妻の傍へ寄って暗い夜空を見上げた。

「星がすごいよ」

 言われて眼を凝らすと、確かに漆黒の闇夜に抗うように無数の星の光が点々と咲いているのが見えた。真っ暗な太平洋は、日没を迎えた都市のように人工的な燈火を燃え上がらせることがない。砂浜に沿った遊歩道に疎らな外灯が光っているが、それだけでは太平洋の暗闇を押し退けるには全く足りない様子だ。

 だが、星屑の美しさだけが私を魅了したのではなかった。寧ろ重要なのは空ではなく、見渡す限り黒々と広がって白い波頭を幾重にも浮き上がらせている外房の海原の方であった。遥か彼方の水平線、それは既に墨色の海と溶け合って見定め難くなっていたが、海と空の境目に寄り添うように、等間隔で星の光のようなものが瞬いていた。水平線の両端は、突堤のように伸びた陸地に遮られていて、右手には橙色の光が幾つも輝いている。時折、燈台だろうか、純白の劇しい光が幻のように一瞬だけ強く輝いて、私たちの眼を射抜いた。水平線に沿って列なる小さな光の粒は、その港の辺りからゆっくりと吐き出されているようだった。つまり、あれらの光は、漁船の焚いている灯りなのだ。

 それは不思議な光景だった。天空に浮かんでいるのは、遙かな距離を隔てて真空の宇宙から放たれた星々の光であり、水平線に列なっているのは人間の手で生み出された科学的な光である。天然の光と人工の光、それらが闇に溶けた海原と天空に、銘々の輝きを晒している。それらは全く出自の異なる光であるにも拘らず、暗闇に閉ざされた視界の中で、同じ星屑の列なりのように煌いていた。これは、神秘的な現象ではないだろうか?

 星屑の光のように見えるもの、それが漁船の光であることを悟った瞬間、私の胸に生まれたのは、奇妙な安堵であり、励ましであった。日が落ちた後、単調に繰り返す波音を聞きながら、暗い海を眺めるのは、私にとって不穏な経験であった。生身の人間が決して足を踏み入れてはならない領域、絶対的な自然の懐、それは人間という生き物の救い難い儚さの徴のように思われた。どうにもならない絶対的な力、自然の脅威、それを古代の祖先は毎日のように切実に感じ取っていたに違いない。だからこそ、その堪え難い脅威を押し退け、幻のような命を守り、次代へ受け継いでいく為に、人間は数多の技術を発明することに心血を注いできたのだ。それは都会の闇が孕んでいる怖さとは、全く異質の何かであった。

 だが、鴨川の漁師たちは、寒風の吹き荒ぶ夜更けの海上に、小さな漁船で漕ぎ出して、自分たちの仕事を成し遂げる為に勇気を振り絞り、苛酷な自然の猛威と闘っているのだ。無論、彼らにとっては慣れ親しんだ業務の、退屈な反復の一コマに過ぎないのかも知れない。暗い海も、暗い空も、数珠のような星明りも、何の感情も揺り起こさない凡庸な眺望に過ぎないのかも知れない。しかし、私の眼に、漁船の灯りは人間的な叡智の輝きのように映じた。以前に読んだサン=テグジュペリの「人間の土地」という書物の記憶が、脳裡へ浮かんだ。飛行機に乗って、不確かな計器の表示に惑わされ、直ぐに不調を訴える脆弱な発動機の顔色を絶えず窺いながら、前人未到の淋しい大空を、昼夜を問わずに飛び続ける男たちの孤独。彼らの眼に、街の灯りはどれほど魅惑的で、神々しい光として映ったのだろうか。それと同質の感覚を今、私は味わっていると言ったら、きっと大袈裟なのだろうが。

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

 世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。

 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の人間の「肉声」が起源として関わっている筈である。例えば「旧約聖書」や「古事記」といった歴史的地層の遙か彼方で生み出された神聖な典籍の類にも、必ずそれを語り継いだり文字に起こしたりした生身の人間の「肉声」が反響し続けているのだ。そのことを私たちは日頃、涼しい顔で閑却し切っている。私たちは誰も日本国憲法の条文を起草した人々の私的な「肉声」に想いを馳せようとはしないし、そのことで特段の不便を感じることもない。学校で習う様々な科目の様々な教科書、そこに印刷されている内容に就いて、私たちはそれが中立的で公平な、つまり極めて客観的な記載の集積であると素朴に思い込んでいるが、実際にはそれも、具体的な生身の「肉声」を基盤として作られたものである。それが「肉声」である以上、そこに絶対的な超越性のようなものを想定することは認められない。

 こうした事実に充分な注意や関心を払わずに生きることに、私たちの多くは慣れ切っているのではないだろうか? だからこそ、私は長い間受け継がれてきた「伝統」や、巷間に広く流布する「常識」や、絶対的な規範としての「法律」の内容に関して、個人的な思索を行き届かせようともせずに、唯々諾々と従って平気な顔をしている。私たちはそれらが「可変的なもの」であるという事実に眼を向けない為に、受動的で保守的な態度を決め込むことにすっかり適応してしまっている。だが、どんな記述も言説も、そこには必ずそれを発した個人的な主体の偏った主観が関与しているのである。それを無批判に受け容れることは、私たちの思考が醜悪なほどに錆びついていることの証明に他ならない。

 重要なのは、どんな意見も法律も具体的な誰かの「肉声」なのだという素朴な事実を閑却しないことである。但し、それは法律や常識を蔑ろにしてもいいという不遜な態度を称揚することとは違う。どんな問題に対しても無闇に気後れせず、きちんと自分の頭で考え、思索の隧道を掘削し続けていく為には、どれほど立派に見える言説であっても、それが個人の肉声の集積である以上は十中八九、何らかの偏倚や歪曲が関わっているに違いないということを、素朴な摂理として弁えていなければならない。そうしなければ、私たちは実に容易く強権的なイデオロギーの繰り出す冷たい論理に屈服させられることになる。いや、本当は止むを得ず屈服させられているのではなく、自らの無知によって屈服しているだけに過ぎない。

 どんな言説も具体的な個人の「肉声」を揺籃として育まれ、社会に流布されているのだという原理的な事実を学び、把握することは、言い換えればあらゆる事物や言説の「歴史性」に眼を開くということでもある。「歴史性」という観念は無論、その本質的な性格において、「永遠の真理」という妄想的な理念に鋭く対立する。無限に正しい真理など有り得ず、どんな考え方も歴史的な具体性の積み重ねの上に「暫定的に」形成されている仮象に過ぎない、という認識が「歴史性」という観念の最も重要な特質である。「歴史性」の観点に立脚する限り、「永遠の真理」などというスローガンが非常に独善的で滑稽な御題目に過ぎないことは、直ぐに喝破し得る素朴な問題である。しかし、実際にこの世界、この社会で生きている私たちの歴史的な「実存」において、そうした崇高なスローガンの欺瞞に絶えず敏感で敵対的な存在として自らを規定し、練り上げることは少しも容易ではないし、素朴な問題でもないのが実態である。

 教科書に綴られた知識や、法律によって定められた事物の善悪、そういったものが歴史的な経緯を踏まえて生み出された「肉声」の或る透明な表現であることを知るだけでは、私たちはそれらの孕む「欺瞞」に就いて批判的な検討を加える為の力を獲得出来ない。つまり、或る認識や言説の歴史的な相対性を指摘するだけでは、そうした歴史的遺産の改革や訂正に辿り着くには不充分なのだ。或る事物の歴史性を理解する為には、私たちは実際にその事物が長い歴史の中で辿ってきた具体的な推移と経緯に関する知識を確保せねばならない。だからこそ、歴史を学ぶことには生産的な価値が宿るのである。

 歴史が失われるとき、私たちは同時に事物の「歴史性」を理解することが出来ない状態に閉じ込められる。或る事物の現況が、束の間の結晶のようなものに過ぎないことを忘れ、それが永遠且つ普遍的に存在するかのように誤解してしまうようになる。それが私たちの批判的な思考力を麻痺させ、現実に対する受動的な隷属を不可避の宿命のように受け止めさせることになる。そういうものなんだから、仕方ないのさ、という見え透いた諦観に沈み込み、自分の頭で考えるという極めて基礎的で重要な習慣を抛棄するようになる。それは人間的知性の度し難い堕落の形態に他ならない。「肉声」を忘れる者は「肉声」で語り、論じる力を奪い去られる。だから、ドナルド・トランプのような独裁者に投票し、彼を大統領の地位に押し上げることを「正義」であると錯覚してしまうのだ。私たちは歴史を学ぶことから始めねばならない。歴史だけが、私たちの思索を奴隷の閉塞から救済する唯一の方法なのである。

サラダ坊主風土記 「安房鴨川」 其の三

 再び紀行文の続きを書く。

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 総武線快速列車の直通運転の終着駅であり、一つの重要な「境界」である上総一ノ宮駅を出発すると、次第に車窓越しの景観は仄かな南国の雰囲気を知らぬ間に纏い始めた。その薄らとした気配というか徴候は、勝浦駅に辿り着く頃には、かなり鮮明に捉えられる状態になっている。日本の古式床しき地理的区分である「令制国」の慣習に準じるならば、いよいよ「上総国」(かずさのくに)を通り抜けて「安房国」(あわのくに)へ足を踏み入れたという感覚が浮き彫りになり始めるのだ。

 JR外房線の駅名を眺めてみれば、自分が総州から房州へ入り込みつつあることの明確な証拠を手に入れることは容易である。「安房小湊駅」「安房天津駅」そして終点の「安房鴨川駅」まで、口喧しく感じられるほどに当地が「安房国」の版図であることを此方へ訴え掛けてくる。

 外房線が海沿いを走るか、内陸に沿って走るか、ただそれだけの違いで印象ががらりと変わったに過ぎないのかも知れないが、勝浦から南へ入ると、温暖な光が降り注ぐように感じられる。農業よりも漁業の香りが色濃く私の鼻腔を擽り始める。この辺りまで来ると、住宅などの建物が犇めき合っている海側の風景と、がらんとして人間の気配が疎らな山側の風景との間に歴然たる違いが目立つようになる。

 良くも悪くも、千葉県は海の国である。尤も、そうした事実は、松戸に住んでいた頃は少しも意識する局面に恵まれなかった。雄渾な江戸川の風景は見慣れても、潮風の匂いを嗅ぐ機会は、あの常磐沿線の地域では得難いものだ。だが、総武沿線は船橋にしても千葉にしても、海までの距離が近く、広大な外界へ向けて無限に開かれているような印象がある。海岸線から遠く離れた国道十四号線の北側に住む私の家のベランダにも、夏場の蒸し暑い日には、噎せ返るような磯臭い空気が爛れた妖怪のように押し寄せてくる。

 安房鴨川駅から無料の送迎バスに乗り、鴨川シーワールドの敷地に隣接するオフィシャルホテルへ辿り着き、フロントで荷物を預ける。宿泊台帳に素性を書き入れ、入園のフリーパスを受け取って戸外へ出ると、眼下に広大な太平洋の紺碧の水面が煌きながら現れた。一月の寒々しい季節ではあっても、遮るもののない海原と砂浜へ降り注ぐ目映い陽光は文句なしに温かく、夏場ならば眩暈を覚えるほど劇しい光の氾濫に襲われるに違いないと思う。

 日頃、海を見る機会に乏しい、厳密には全くない私のような人間には、鴨川の岸辺から眺める太平洋の広々とした青さは、それだけで特別な世界に降り立ったような感興を齎すものであった。幾つもの波頭が果てしない干満の反復を示し、遠くの方では盛り上がって波に変わろうとする水面の紺碧の隆起が無際限に生み出され続けている。その単調で無機的な眺望には、異様な迫力と魅惑が備わっていた。水平線の向こうには何も見えず、ここが陸地の最果てであることを暗黙裡に物語っている。それは不思議な感覚だった。

 それなりに都市化された世界だけに閉じ籠もって日々過ごしていると、こういう自然の風景が齎す感興に対して無防備になる。何と言えばいいのか、人間が掃いて捨てるほど蠢いている都会の息詰まるような風景に、時々嫌気が差すことがあるのだ。そうした厭世的な理由から田舎暮らしへの美化された憧憬に心を焦がす人は大勢いるだろう。肋骨を折られるんじゃないかと危惧せずにはいられない通勤ラッシュの満員電車に来る日も来る日も揺られている人々は特に、人間の匂いを嗅いだだけで反吐が出そうになることもあるのではないだろうか。駅や街中で起きる不毛な啀み合いや下らない喧嘩の類は総て、人間が密集し過ぎていることに由来する現象なのではないかと思う。余りに過剰な人間の集団は、私たちの精神を耗弱へ追い遣る。

 無論、余りに人が疎らな世界に暮らすのも淋しいもので、私自身は隣家と何キロも隔たっているような僻地へ移り住むことになったら、きっと堪えられずに逃げ出すだろうと思う。例えば先ほど少し触れた勝浦などは、市域全体の人口が直近では2万人を割り込んでおり、過疎化地域に指定されているという。豊かな海の幸に恵まれながら、人口の減少に歯止めがかからない古びた田舎町は、日本中に点在しているだろう。いや、寧ろそうした地域の方が多いのかも知れない。東京から余り離れていない地域で暮らしていると、あの満員電車の風景が平均的な日常のように感じられるが、本当はそれは日本の典型的な現実ではないのかも知れない。そう考えると、自分の「日本」に関する種々のイメージに一体どれほどの価値と精確性があるのか、随分と疑わしくなってくる。

 少しの間、明るい海岸の眺望に眼を凝らした後で、私たちは時季外れで人影の疎らな鴨川シーワールドへ足を踏み入れた。