サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間」のアレテーに就いて

 私は外国語の知識や技能を一切持ち合わせていません。極めて初歩的な英文を漠然と読解し得るくらいの知識しかありません。つまり、ほぼ皆無だということです。

 現代における平均的な日本人にとっては最も馴染み深い外国語である英語に関してさえ、そのような体たらくなのですから、その他の言語に関しては推して知るべしといった状況です。

 それでは今回の記事の表題に取り入れた「アレテー」とは、如何なる言語に属する単語であるか、皆様は御存知でしょうか。これはギリシア語に属する語彙であり、一般的な日本語訳としては「徳」や「卓越性」といった表現を充てられています。この「アレテー」(aretē)という概念は、古代ギリシアからローマに至る思想の潮流において、極めて重要な地位を認められた主題です。

 語学に疎い私が、或る重要な意義を認められたギリシア語の語釈に就いて彼是と能書きを垂れるのは不毛な作業に違いないと思います。古代ギリシアを代表する哲学者であるプラトンの書き遺した夥しい対話篇の中でも、この「アレテー」という概念は実に多義的な振幅を示しており、その定義の及ぶ範囲を明快に規定することは非常に困難です。従って、私は飽く迄も市井の浅学な凡人としての立場から、普遍性を欠いた個人的な見解に基づいて、この言葉に関する粗末な考察を実践してみたいと思います。

 「アレテー」を「美徳」と同一視してしまうのは、聊か危険な解釈であるように私には思われます。「美徳」とは人間の行動や思考における「良質な価値」を意味する言葉であり、否が応でも、そこには道徳的な色彩が附随します。けれども、アレテーは単なる道徳的な規範とは異なります。私がアレテーという概念から想起する日本語を幾つか羅列してみるとすれば、例えば「固有性」「本質」「可能性」といった単語が直ちに脳裡へ浮上します。

 或る事物や存在が、本来的に持っている優れた固有の要素、それを総称してアレテーと呼ぶのが適切な解釈ではないかと私は思います。つまり、アレテーという概念には「美質」と「固有性」という二つの要素が同時に含まれているように見えるのです。それは単なる固有性ではなく、飽く迄も「固有の美質」であり、そうした「固有の美質」を錬磨して具体的な成果として発現させるのが、倫理学的な鍛錬の目的であると、一先ずは定義しておきたいと思います。

 仮にアレテーの定義が「固有の美質」であるとするならば、人間に固有の美質とは何かを問うことが、倫理学的探究における最初の重要な課題となることは明白です。そして私は、それに対する一つの回答として「必然への抵抗」という考え方を提案したいと思っています。

 人間が若しも生物としての本能に完全に従属し、外界の現実に適応するだけの存在であるならば、人間は世界の単純な部分に過ぎないということになり、その種族としての固有性は、他の動植物と同一の平面に配置されることになります。ライオンとシマウマとが相互に異質であるように、人間もまた他の動物と相互に異質であるに過ぎないと言えるからです。けれども人間は、過剰に発達した知性の機能によって、本能からの逸脱を常態化する生物となりました(他の動植物に関しても、本能からの逸脱が生じ得るのかどうか、残念ながら無学ゆえに、私は精確な知見を持ち合わせておりません。ですから、飽く迄も実証性を欠いた個人的な暴論として受け止めて下さい)。あらゆる動植物は、現実への適応を生命的活動の中核に据えています。人間に関しても十中八九、現実への適応が重要な課題であることは言うまでもありません。しかし、現実への適応は人間に固有の能力ではなく、寧ろ現実からの逸脱こそ、人間という種族において初めて具現化された革命的な独創性なのではないかと、私は考えているのです。

 現実への適応は、現実の強いる必然的な帰結に完全に従属することによって成し遂げられます。生物における様々な進化の累積は、現実に対する絶えざる従属の歴史です。現実の要請する必然性に背くことは適応の失敗を意味し、それは直ちに身の破滅へ帰着します。例えば地球上の気温が大きく低下したのならば、低下した気温に従属して適応しない限り、生命の破滅は避け難い結論です。言い換えれば、現実への適応と、現実によって支配されることとは同義なのです。

 しかし、こうした推論の過程は、不正確な要素を含んでいると言えるかも知れません。現実に対する盲従は、あらゆる無生物の特徴であり、その盲従を逃れて固有の原理を持ち、尚且つ現実の諸条件に合わせて適応の方法を改廃し得るものこそ、生物の基礎的な定義であると考えるならば、先述した議論は適切なものではないということになるでしょう。

 無生物は専ら現実の強いる必然的な因果律に従うだけの存在です。そうした因果律に抵抗して、自己の存続を図ろうとするのが、生命体に固有の原理です。つまり、生命体という原理は総て「必然性への抵抗」という志向を内包していると看做せるのです。その意味では、この「必然性への抵抗」という概念を、人間に固有の美徳と呼ぶのは精確な表現ではありません。「必然性への抵抗」が生じるのは、生命体の根本的な原理が「不死」を欲望している為です。滅びないこと、外界に対する独立性を失わないこと、それが「不死」の語義です。

 この「不死」という状態を達成する為に、あらゆる生命体は様々な手段を駆使して外界の現実に対する適応の実現を図ります。そうした「ホメオスタシス」(homeostasis)の継続的な努力が、不可避的に「必然への抵抗」或いは「運命への抵抗」と称すべき行動を惹起するのです。

 このような観点に立脚して「人間」のアレテーに就いて考えてみたとき、直ちに思い浮かぶのは、人間における適応の極めて柔軟な可変性です。例えば一般に生物は気温の変化に対応する為に、固有の体毛を生やします。その種類は自在に変更することの困難な、遺伝子的な制約を享けています。けれども人間は、体毛の代わりに実に多様な被服の手段を有していますし、冷暖房の技術を用いて室内の温度や湿度を調節することも出来ます。「気温」の一事に限って眺めてみても、他の生物と比して、人間の適応の可変性及び柔軟性の高さは歴然としています。

 状況の変化に応じて実行し得る選択肢が極めて厖大且つ多様であること、これは明らかに生命体の本義に対する「人間」のアレテー、即ち「固有の美質」であると言えます。そうであるならば、人間に固有の美質を鍛錬する過程は、行動の選択肢の多様性を高めることに他ならないと結論すべきでしょう。それは単に肉体的且つ技術的な鍛錬を意味するものではありません。病気や加齢などの理由で、人間の肉体的自由は容易に損なわれ得るからです。その場合にも適応の多様性を確保する為には、知性の柔軟な運動が不可欠です。自分に出来ないことを他人に負担してもらえるように依頼し、受け容れてもらう社会的関係の構築の技術も、適応の選択肢の一つです。集団に帰属したり、朋輩と協調したりすることで破滅の危険性を減殺することも、適応の選択肢の一つです。こうした選択肢を拡大する為には、単に鍛え抜かれた肉体や優秀な技術を追求するだけでは足りません。最も重要なことは、多様な選択肢の一つ一つを創出する発想力を持つことです。その為には豊富な知識を持ち、多角的な視点で事物を捉える習慣を養わねばなりません。つまり深く厳密に思考する習慣を身に着けることが肝要なのです。極めて退屈な回答のように響くかも知れませんが、以上の議論を綜合すれば、人間のアレテーとは即ち「知性」であるということになると考えられます。

「人間的成長」の原理に関する考察

 「成長」という言葉は日常の会話において広範に用いられ、誰もが馴染み深い単語として受け止めているように思われます。そして「成長」という言葉は概ね、肯定的な意義を含んだ善性の概念を指し示すものであると看做されています。

 「成長」という概念の最も根幹に当たる定義は、生物学的な現象に由来するものであると考えられます。様々な動植物が、種子や卵の状態から徐々に変化して規模を拡張し、構造を複雑化し、機能の水準や種類を増大させていく過程が、所謂「成長」の根底的な語義です。それが比喩的に用いられて、無生物も言語的指示の対象の裡に含むようになり、例えば「経済成長」といった表現にまで敷衍されるようになったのだと思われます。

 「成長」は基本的に「増大」という含意を常に伴っています。規模、構造、機能、水準といった様々な指標が「増大」の方角へ向かって変化していくこと、これが「成長」という概念の特質です。例えば子供の身長が伸びることは、最も明快な「成長」の事例です。同時にそれは子供の行動や技能の範囲の拡張を意味しています。身長が伸びること自体は肉体的成長であり、それに附随する行動や技能の拡張は技術的成長であると言えます。このように、成長という概念は極めて多様な分野や領域において、比喩的に適用することが可能な普遍性を備えています。

 それでは、一般に用いられる「人間的成長」という言葉は、どのような領域における成長を指すものなのでしょうか? それは無論、様々な部分的成長を綜合し、統括する概念であると考えられます。例えば肉体的成長もまた、明らかに「人間的成長」の一部を成す過程であると言えます。技術的成長も、恐らく「人間的成長」の部分に含まれると看做して差し支えないでしょう。「人間的成長」の概念は、これらの様々な成長を統合する旗幟としての役割を担っているのです。

 「人間的成長」の本質に関する考察を進めるに当たって、私は一つの補助線を引いてみたいと思います。それは「成長」の性質に関する、或る便宜的な区分です。例えば子供の肉体が加齢と共に発育して大きくなることは、一般的に生物学的な必然性の成果です。何らかの医学的な要因が介在すれば、そのような生物学的必然性は通常とは異なる経緯を辿り、発育は妨げられます。これらの成長は、いわば「自然による成長」です。我々自身の選択とは殆ど無関係に、遺伝子や環境といった外在的条件によって規定される種類の成長の形態です。

 一方、例えば長年の不摂生が祟って中年に差し掛かって俄かに弛緩した体型を、持続的なトレーニングを通じて錬磨し、贅肉を削ぎ落とした場合、これは「自然による成長」ではなく「意志による成長」であると看做すべきでしょう。暴飲暴食による肥満は、或る一つの生物学的必然性の帰結です。そうした必然性に自らの意志に基づいて抵抗を試みること、それによって或る望ましい状態へ向かおうと試みること、これが「意志による成長」の特徴であると言えます。

 「自然による成長」と「意志による成長」との二項対立を別の言葉に置き換えるとすれば、直ちに「受動的成長」と「能動的成長」という一対の表現が思い浮かびます。「自然による成長」は、我々にとっては外在的な要因に基づく変化であり、従って我々は自然の判断に一切を委ねる以外に如何なる選択肢も持ちません。乳児が成人に変貌するのは、専ら我々の内なる自然の齎す恩恵の成果です。そのような変化に対して、我々は自ずと受動的な態度を強いられてしまうのです。

 他方、我々自身の意志に基づく成長は、様々な対象に能動的な仕方で関与しない限り、顕現することの期待し得ない変化です。「受動的成長」に対しては、我々は期待と祈念以外の関係性の構築を有することが出来ません。「受動的成長」の進捗は、我々の主観的な期待とは無関係な航跡を自律的に辿るものであるからです。けれども「能動的成長」の進捗は、我々自身の主体的な関与の程度によって規定されます。関与が深まれば深まるほど、必然的に「能動的成長」の進捗は加速します。言い換えれば「能動的成長」とは「制御し得る成長」なのです。

 先刻「自然による成長」の対義語として私が用いた「意志による成長」という言葉は、そのままの意味で「人間による成長」に置き換えることが可能であるように思われます。即ち、我々の考え得る「成長」の形態には、大別して「自然的成長」と「人間的成長」の二つの種類が存在すると思われるのです。そして、これらの概念を更に「制御し得ない成長」と「制御し得る成長」の一対に置換することが出来ます。

 「制御し得ない成長」に就いては、我々は恩恵を期待し、祈念することしか出来ません。仮にそれが齎されない状況が続くのであれば、その息苦しい停滞に堪えるしかありません。けれども「制御し得る成長」に就いては、我々は自ら主体的に行動を選択することが出来ます。

 ここから導き出される帰結の一つは、我々が日常的に用いる「人間」という言葉の定義に関するものです。「人間」は「意志=能動=制御」という意味の列なりを内包しています。この場合の「人間」という単語は、純然たる生物学的区分の指標として用いられているのではありません。つまり霊長類の一部としての「ヒト」を指し示す為の符牒ではありません。「意志=能動=制御」という意味の列なりは、要するに「人間」という生物学的存在の本質的な特徴を表現しているのです。「人間的成長」とは単に「ヒトの成長」を意味しているのではなく、厳密には「人間的な仕方で為された成長」のことを指していると考えるべきです。従ってそれは安易に「人徳の涵養」と同一視されるべきものでもありません。「人間性」という言葉を、漠然たる「人柄の良さ」や「同情」や「寛容」といった概念と無秩序に結び付ける通俗的慣習に、安直な仕方で従属してはならないのです。

 「人間的」という概念は自らの定義の裡に「必然性=自然」に対する抵抗の意味を含んでいます。現実に対する屈服を峻拒し、それを変革する為の不自然な挑戦を企てること、自然の超越的命令に従わないこと、それこそが「人間性」の本領を構成する要素であると看做すべきです。従って「人間的成長」は、必然性に対する抵抗の及ぶ範囲を拡張することと同義です。決定論的な因果律を歪曲することの裡に「人間性」の本質は宿ります。不自然な行為に赴くことこそ「人間」の証であり、自然な本能の命令に従うことは「人間的退行」を意味します。「受動的成長」に総てを委ねる依存的な隷属は、こうした「人間性」の不自然な特質に対する拒絶に基づいているのです。

プラトン「パイドン」に関する覚書 3

 引き続き、プラトンの『パイドン』(岩波文庫)に関する覚書を認めておきます。

 この対話篇における議論の主要な眼目は「霊魂の不滅」を証明することにあります。ソクラテスにおいては、哲学的探究は既成の価値観や信条の尤もらしい権威を解体し、いわば探究の無際限な運動の渦中へ連れ戻すことを目的としていました。従って彼は常に「無智」の自覚の裡に留まり続け、相手の無智を論難するのではなく、共に無智の渦中へ佇んで協同で思索に取り組むことを重んじました。彼にとって哲学は「問うこと」の側にある営為であり、明瞭な確証を得て「答えること」は必ずしも重要な意義を担っていません。

 けれども弟子に当たるプラトンの思想的な独創性は、そのようなソクラテスの探究の規範を脱却することによって胚胎したと言えます。彼の野心は、ソクラテス的な「無智」の自覚に留まることを肯定しません。無論、彼の思想的な情熱がソクラテスへの私淑を通じて養われ、その刑死の衝撃に促されて独自の進化を遂げたことは確かな事実であろうと考えられます。「パイドン」における「霊魂の不滅」に関する綿密な論証もまた、ソクラテスの刑死という奇態な事件に対する執着と謎解きから派生した成果であると思われます。不当な判決であると知りながら、従容として毒を仰いだ師父の姿から、彼は「霊魂の不滅」を論証すべき必然性に迫られたのです。

 「それなら、浄化(カタルシス)とは、この議論の中で先ほど語られたように、魂を肉体からできるだけ切り離すこと、そして、魂を肉体のあらゆる部分から自分自身へととり集め、自分自身として凝集するように習慣づけること、そして、現在においても将来においても、足枷のごときものである肉体から解放されて、魂ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけることではなかろうか」(『パイドン岩波文庫 p.37)

 プラトンにとって「哲学」という営為は、単なる社会的な対話を意味するものではなく、物事の純粋な本質を把握することに存しています。その探究に際して彼の思考が特異であると思われる点は、物事の純粋な本質を感性的な領域から切断し、不可知の超越性を賦与したことです。もっと単純化して言えば、彼は哲学的探究にとって「肉体」が深刻な障碍を齎す存在であることを強調したのです。

 「それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。シミアス、もしだれか真実在に到達する人があるとすれば、それはこの人ではないか」(『パイドン岩波文庫 p.34)

 こうした記述は無論、理性的な探究の重要性を称揚し、強調するものです。けれども、現代に生きる我々の通念に徴すれば、これほど徹底的に理性と感性とを分断し、理性の純然たる使用に特権的な意義を賦与するのは、余りに偏向した態度ではないかと感じられるでしょう。プラトンは感覚の不透明な性質に就いて注意を促すことに留まらず、はっきりと断定的な口調で「肉体」が「真理」への到達を妨げる忌まわしい要素であることを警告しています。理性に不純物としての「肉体的感覚」を混入することは、真理への到達の不可能性を確定させる行為なのです。

 その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。いや、本当にわれわれに明確に示されているところでは、もしもわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。その時にこそ、思うに、われわれが熱望しているもの、われわれがそれの求愛者であると自称しているもの、すなわち、知恵がわれわれのものになるだろう。その時とは、議論の示すところでは、われわれが死んだ時のことであって、生きている間は知恵はわれわれのものにならないのである。(『パイドン岩波文庫 pp.35-36)

 プラトンにおける「魂」は、肉体的な領域に属するもの、つまり「感覚」のみならず「愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言」(p.35)と峻別されたものです。従って、それは一般的な通念における「亡霊」のようなものとは全く異なります。生前の「怨念」に凝り固まった感情的な霊魂というものは、プラトニズムの図式においては存在を認められないのです。それはもっと抽象的で理性的な、いわば「論証」の塊のようなものです。プラトニックな「魂」は、感覚に依存した認識や思索とは無縁です。換言すれば、それは常に感覚的な仕方で取り扱うことの出来ない対象だけを認識するのです。

 このように考えるならば、当然のことながら「真実在」とは可感的な対象ではなく、抽象的な理性の働きを通じて把握されるものであるということになります。しかし、プラトンにおける「真実在」は決して理性によって構成された観念を指し示す術語ではありません。それは感覚によって捉えられないものの、明瞭に存在する事物の「本質」(ousia)のことです。理性によって把握される「ウーシア」が、感覚を通じて見出される具体的な個物とは異質な次元に実在しているという考え方は、少なくとも私の耳には不自然な論理であるように響きます。若しも人類の「ウーシア」が、例えば様々な個人の存在を類的に統括する一つの「範疇」のようなものであるならば、そのような抽象的観念として「ウーシア」を受け取ることは難しくありません。けれども、人類の「ウーシア」それ自体が、我々の感覚の及ばない領域に確かに実在していると言われても、それを直ちに知性的に嚥下することは容易な作業ではないでしょう。

 例えば「パイドン」において、ソクラテスは「等しさ」という概念を考察の例に挙げます。彼は「等しさそのもの」と「等しい事物」とを区別します。それ自体は、素朴な日常的区別に属する判断であると言えるでしょう。けれども彼は単に個物と観念とを区別しているのではなく、感覚的実体と抽象的理念とを弁別しているのでもありません。彼にとっては両者の何れも明らかな「実在」であり、単にその真贋を論じているのに過ぎないのです。彼は「等しさそのもの」が実在することを信じています。但し、それは我々の肉体的な感覚によっては捉えられないのです。この「等しさそのもの」が、あの有名な「イデア」(idea)です。理性を経由して把握されるイデアは、理性によって構成された抽象的な概念ではなく、触知し得ない「実在」であり、感覚に対して超越的な「実在」であると定義されているのです。そして「等しい事物」は「等しさそのもの」から、その本質を分有していると看做されます。「等しい事物」から、作業的な論理として「等しさ」という観念が便宜的に抽出されるのではありません。寧ろ「等しさ」の存在は「等しい事物」に先行しているのです。

 感覚から理性が派生するのではなく、あらゆる感覚に先行して理性が存在するという理路、これがプラトニズムの本領を構成する要諦です。そして、こうした考え方が「造物主」と「被造物」という宗教的な構図との間に極めて親密な相関性を形成するであろうことは明白です。あらゆる事物は、超越的な実在としての「イデア」を分有することで作り出されます。従って、感覚的に捉え得る総ての実在は、自動的に「イデア」の不完全な転写の所産と看做されます。肉体的な死が、霊魂の解放であると同時に、理性の全面的な使用を意味するのは、感覚的認識という謬見の源泉が消失する為です。それが造物主たる「神」との合一を連想させるのは、当然の帰結であると言えるでしょう。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

焼亡する「美」のイデア 三島由紀夫とプラトニズム 3

 引き続き、三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)に就いて書きます。

 こういう少年は、たやすく想像されるように、二種類の相反した権力意志を抱くようになる。私は歴史における暴君の記述が好きであった。吃りで、無口な暴君で私があれば、家来どもは私の顔色をうかがって、ひねもすおびえて暮らすことになるであろう。私は明確な、辷りのよい言葉で、私の残虐を正当化する必要なんかないのだ。私の無言だけが、あらゆる残虐を正当化するのだ。こうして日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観にみちた大芸術家になる空想をもたのしんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。(『金閣寺新潮文庫 p.8)

 市井の人々の対話、つまり哲学に関する専門的な知識を持たず、訓練を受けたこともない、様々な立場の人々との対話を通じて、自明の信憑を揺さ振ることを「愛智」と看做したソクラテスの方法は、共同体による断罪によって蹂躙され、破壊されました。こうした事実が、無理解な民衆に対する憎悪を育む培地の役目を担ったとしても何ら不思議ではありません。プラトニズムの特徴は、感覚的な現象界の論理に制約されることなく、真理は超越的な仕方で不壊の形態を保っていると看做す点に存します。従って、プラトニズムの論理を正しいと認める限り、ソクラテスのように無智な民衆との対話を通じて真理に至ろうとする方法は、無意味な迂回を選んでいるに過ぎないということになります。幾ら対話を重ねたとしても、それが直接的に真理の臨在を喚起する見込みは成り立たないのです。「無言の暴君」という表象は、社会的な合意を超越して普遍的に存在する「真理」の比喩であると言えます。

 このような「真理」の定義が、現実の社会に対する「負け目」に基づいていることは明白です。外界における挫折が、内界における豊饒を涵養するというのは、少しも珍奇な展開ではありません。眼前の現実を信用せず、背後に隠された不可知の領域に希望を見出すような精神的姿勢、これがプラトニズムという思考の形式の基礎的な本質なのです。

 ……このとき私に、たしかに一つの自覚が生じたのである。暗い世界に大手をひろげて待っていること。やがては、五月の花も、制服も、意地悪な級友たちも、私のひろげている手の中へ入ってくること。自分が世界を、底辺で引きしぼって、つかまえているという自覚を持つこと。……しかしこういう自覚は、少年の誇りとなるには重すぎた。

 誇りはもっと軽く、明るく、よく目に見え、燦然としていなければならなかった。目に見えるものがほしい。誰の目にも見えて、それが私の誇りとなるようなものがほしい。例えば、彼の腰に吊っている短剣は正にそういうものだ。(『金閣寺新潮文庫 p.11)

 こうした述懐は「私」の内面におけるプラトニズム的性向と、それと相反する通俗的で感性的な、つまり社会的な性向との複雑な共存を示しています。「私」の「自覚」は明らかに、自分自身の存在を超越的な真理の領域に定位し、忌まわしい可知的な現象界に存在する人々への絶対的で陰惨な優越を確保しようとする一つの「権力意志」の萌芽を意味しています。他方、彼にとってそれは過重な負担でもあり、余りに陰惨な自覚でもあるのです。プラトニックな真理の自覚に依拠することで現象界を超越しようと試みる「権力意志」と並行して、同時に彼の内面には「目に見えるものがほしい」という世俗的な価値や栄光への憧憬も宿っているのです。「金閣寺」という作品の全篇に亘って、こうした二つの相反する性向は絶えざる鬩ぎ合いを演じ続けます。

 脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。五月のおびただしい花々が、この感じを強めた。わけても、庇を漆黒に反射させている制帽や、そのかたわらに掛けられた革帯と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。

 私はあたりに人気のないのをたしかめた。角力場のほうで喚声が起った。私はポケットから、錆びついた鉛筆削りのナイフをとり出し、忍び寄って、その美しい短剣の黒い鞘の裏側に、二三条のみにくい切り傷を彫り込んだ。……(『金閣寺新潮文庫 p.12)

 この陰湿な悪意、感性的な現象界における栄光への嫉妬に塗れた敵意は、プラトニズムという壮麗な価値の体系が潜在的に抱え込んでいる宿痾のようなものです。また「私」が「若い英雄の遺品」から受け取る「抒情的な美しさ」は、「私」の内面に巣食うプラトニックな価値観の明晰な反映を意味しています。「肉体から切り離されて」存在するがゆえに一層美しく見える、という述懐、或いは「思い出と同じほど完全」という述懐は、眼前の現象を超越する精神的性向の所産であると言えます。プラトンにとって「肉体」は唾棄すべき現象界の象徴であり、超越的真理への到達を阻害する邪悪な要素と同義語です。また「真理」とは想起されるべき対象であり、それは諸々の感覚的認識を超えて、精神の深層に「思い出」として蓄積されているという考え方も、プラトンにとっては重要な基礎的認識でした。これらの学説に符合するような仕方で、単なる物体を「若い英雄の遺品」と表現する「私」の認識の形態は、露骨なまでにプラトニックな性質を含んでいると言えるのです。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

恋愛の非対称性と「庇護」の欲望

 一般に男女の関係は対等なものであるのが理想的な状態であると考えられ、両者の結合の最も象徴的な形態である「婚姻」においても、両者の対等な合意は、その成立の不可避の要件として日本国憲法に規定されています。

 事実、婚姻関係においては、両者の対等な関係が不可欠であり、そうでなければ家庭を健全に運営していくことは困難となります。そこには相互的な崇敬があり、開放的な議論があり、主体的な決定があります。けれども、所謂「恋愛」においては、両者の対等という条件は必ずしも不可欠ではないように思われるのです。

 婚姻と恋愛とを弁別する議論は古来、綿々と受け継がれてきた古典的な図式です。自由な恋愛という現代的な観念が成立する以前は、個人の主体的な意志に基づかない正統な婚姻と、社会の道徳的規範に抵触する「不義密通」としての恋愛という二元論的な構図が、日本の社会においては一般的でした。この異質な両者を緊密に接合する近代のイデオロギーは、必ずしも人類の生得的な欲望に合致するものであるとは断言し難いものなのです。

 婚姻においては、両性は自立した個人であることを求められます。相互扶助の原理が活発に機能しなければ、家庭という最も小さくて基礎的な社会的単位を、長年に亘って堅持することは困難であるからです。無論、夫婦には様々な形態が有り得ます。けれども、理念としての婚姻は、両性の自主独立を必須の要件として銘々に請求しているのです。

 単なる恋愛においても、両性が相互に依存せず、銘々が自立した生活を送っていることを重要な心得と看做す論調は巷間に氾濫しています。但し、こうした論調の背景には、建設的な恋愛は自ずと結婚という果実に結び付くべきであり、結婚に到達しない恋愛は感傷的な想い出の一頁に過ぎないと考える暗黙の前提が介在しているように思われます。事実、恋愛をそれ自体として眺めるならば、そこには動物的な愛慾の共有以外の如何なる要素も見出し得ません。どんなに小綺麗に飾られていたとしても、恋愛の本質が動物的な親密さへの要求に他ならないことは明白です。そして、そのような世界においては、両性のそれぞれの自立や、相互的な依存の否定といった要請は、聊かも求められていないように見えるのです。

 恋愛の感情は、親子の愛情の転写された形態であるように思われます。言い換えれば、恋愛という関係は常に非対称性を持ち、それゆえに或る独特な情熱を湧出させるものであると考えられるのです。親が子に対して懐く愛情は一般に特権的なものです。その奇態な情熱の根源に、子供の存在を自己の部分や延長として定義する無意識的な解釈が関わっていると考えるのは、それほど突飛な着想ではないでしょう。子供の親が誰であるのか、ということが重要な意味を帯びるのは、つまり子供の帰属関係が重要な問題として定義されるのは、親子の関係が常に非対称的であり、支配と依存とが鬩ぎ合う独自の関係性が顕現する領域であるからだと私は思います。

 親の子に対する特権的愛情は、支配する者の愛情であり、子が親に対して懐く愛情は、依存する者の愛情です。こうした力関係の不均衡が、親子の生物学的な関係に由来するものであることは明白です。支配する者は、時に支配の対象を厳しく懲戒したり、不当に攻撃したりする危険を孕んだ存在ですが、少なくとも支配する者が支配の対象に愛情を向けるとき、そこには一般的な論理を超越した盲目的な情熱が横溢します。

 恋愛においても、こうした図式は転写された形で適用し得るものです。両性の何れが優位に立つかということは状況に応じて変動するでしょうが、少なくとも劇しい情熱に駆られた恋愛において、両者が対等な議論に基づいて恋愛の欲望を燃え立たせていると考えるのは不自然な想定です。恋愛における主体は、その劇しい情熱の渦中にあって、相手の脆弱で依存的な性質に向かって発情します。相手を庇護し、慈しみたいという欲望は、親子の間でも日常的に散見する心理的現象であり、それは親子の間で非対称的な関係が成立していることによって一層強固に喚起されるものです。この非対称的な関係が徐々に対等な関係へ変化していくのに伴って、庇護の欲望は徐々に衰亡していきます。少なくともその感情的な強度や熱量は弱まっていきます。子供も成人すれば、幼い頃のような親子の情熱的癒着は解消されるのが一般的な帰結です。親に庇護されることが、子供にとっては自由な主体性の発揮を妨害する要因として受け止められるようになるからです。

 親子の関係は、庇護から始まって庇護の解消に向かいます。それが人間の「成長」及び「自立」の過程であるからです。同様に、恋愛の関係においても、庇護が解消されることによって、恋愛は婚姻の次元に移行を遂げます。庇護の解消は劇しい感情的癒着の喪失を意味しますが、それは必ずしも関係性の解消を意味しません。自立した個人による対等な相互的扶助の関係、それが成熟した人間の選択すべき社会的関係の形式なのであり、庇護を媒介とした結びつきは広義の「弱者」に固有の実存的条件なのです。「庇護」は濃密な情緒を伴いますが、一方の「自立」は「庇護」とは対蹠的に、開放的な理性の働きによって支えられています。「庇護」の欲望は、相手に対して「弱者」であることを要求します。相手が弱者でなければ、情熱的な「庇護」の欲望を満足させることは出来ないからです。子離れを遂げられない親は、自らの裡に湧き起こる「庇護」の欲望を満足させることに執着する余り、自分の子供が既に弱者の段階を脱却したのだという現実の受容を拒否します。従順な子供は「庇護」の欲望を満たしますが、従順であることは主体性の未熟と同義語であり、そのような段階に子供の実存を固着させておくことは、明らかに教育の失敗を意味しています。恋愛においても「庇護」の情熱の永続化は、関係性の頽廃を意味します。長く連れ添った夫婦において、関係性の初期に見出されていたような劇しい情熱や欲望が消失するのは、退嬰ではなく成熟の証です。「庇護」から「自立」への移行、或いは関係の「非対称性」から「対称性」への移行は、人間的成長の根幹を成す最も重要な基礎的過程であると言えるのです。

プラトン「パイドン」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの対話篇『パイドン』(岩波文庫)に就いて感想の断片を記録しておきます。

 「パイドン」という作品において、プラトンの思想は重要な飛躍を遂げています。少なくとも初期の対話篇において見られたソクラテス的な哲学の精神は、ピュタゴラス派の影響の下に弱められ、霊魂の不滅に関する証明を通じて、彼は刑死した師父とは異質な神学的発想への転換に踏み切っているのです。

 プラトニズムが後世のキリスト教神学に莫大な影響を及ぼしたことは夙に知られています。実際、イエス・キリストの名が顕れないだけで、プラトンの語る神学的発想の数々は、殆ど宗教的な信憑と見紛うほどです。ソクラテスにとって「知を愛する」という行為は、既に信じられている集合的な規範や、自明の常識を転覆する為のものであり、いわば信仰の密室から理性の曠野へ人間の精神を解き放つような営為でした。プラトンの発想は、極めて執拗で厳密な論証の力を発揮しながら、師父の行なった解放と対蹠的な方角へ舵を切っていると言えます。

 プラトニズムの根底にある公理は、人間を「霊魂」と「肉体」との合成された状態と看做す二元論的な構図です。尚且つ彼は、この二つの範疇に関して明白な優劣の位階を賦与しました。彼は「霊魂」を特権的に聖化し、「肉体」を唾棄すべき穢れた罪障と捉えました。そして肉体的感覚を通じた認識は(プラトンの思想において「肉体」と「感覚」とは、概ね同義語の待遇を享けています)、理性の機能を通じて得られる「真実在」の認識を阻害する要因として排斥されるのです。

 感覚的な認識は、認識の劣化した形態に他ならないという考え方は、経験論の立場に基づく人々の眼には奇態な倒錯として映じるでしょう。例えばエピクロスは、総ての認識の根拠を感覚に置くべきであることを繰り返し強調し、感覚による確証を得られない事柄に就いては(つまり実証的な仕方で観察することの不可能な対象に就いては)、複数の仮説の成立を認め、独断的な結論を留保することを正しい態度として称讃しました。このような観点から眺めれば、プラトニズムの原理は明らかに独善的な越権の罪を犯しているということになります。如何なる認識も感覚以外の基礎的条件から出発することは出来ないと考えるエピクロスに対して、プラトンは如何なる感覚的認識も、真正な認識への到達を妨げる障碍にしかならないと断罪しているのです。

 エピクロス無神論的な思想とは対蹠的に、プラトンの思想は明瞭な神学的性質を帯びています。両者の相違は「死」に関する位置付けにおいて、一層鮮明に示されています。エピクロスにとって「死」は特権的な意味を帯びることのない、純然たる「解体」の過程に過ぎませんが、プラトンにとって「死」は「霊魂」の「肉体」からの解放という重要な「救済」を意味しています。そして哲学的な探究の営みは、肉体から霊魂を極力解放する訓練であり、従って「死」の練習に他ならないと定義されるのです。これは明らかにソクラテス的な「哲学」の定義からの決定的な逸脱です。

 エピクロスプラトンも、恐らく「死」に対する人間的な恐懼(「不死」への欲望は、総ての人間的欲望の雛型を成すものです)の感情を克服することを目指したという点に関しては共通しています。けれども、その方法論の指針は完全に対蹠的なものです。エピクロスは「死」が、人間の認識にとって不可知的なものである事実を挙げて、死ぬことへの恐懼が具体的な根拠を欠いた妄想に過ぎないことを示しました。一方、プラトンは「死」に就いて超越的な価値を賦与することで、恐懼を歓喜に切り替えるという神学的な「転轍」を唱導したのです。エピクロスの思想において「彼岸」という観念は無用の長物ですが、プラトンの思想は不可避的に「彼岸」の実在を要請します。彼岸を称揚し、此岸を侮蔑することは、感覚的な現象の世界に対する排撃を含意します。その意味で、プラトンの思想は後世の神学的発想の基底を形作っていると言えるのです。

 けれども何故、「霊魂」と「肉体」との二元論的な峻別(それは本来、便宜的な区分に過ぎない筈ですが)を行なった上で、殊更に「霊魂」を称揚し「肉体」を侮蔑するという態度を保持しなければならないのでしょうか? こうした思考の形態でさえ、厳密には肉体的な現実の内部から派生したものである筈です。換言すれば、現実における如何なる実存の条件が、このような神学的発想の構築を促進するのでしょうか。

 容易に想定され得るのは、此岸の現実における主体の不幸と悲惨が、彼岸への憧憬を培養するという思想的経路です。現実における様々な迫害や抑圧、苦難に堪えられなくなったとき、現実とは異なる位相を想像的に構築して、そこに超越的な価値を設定するという手順は、不幸に見舞われた弱者が選び得る複雑な「救済」の理論です。眼前の不幸を、未来における幸福によって精神的に減殺するという心理的機制自体は、万人の精神に内在している基礎的な機能です。プラトンの哲学は、そうした素朴な機制に精緻な論証を与え、巨大な権威を授けました。プラトニズムという一見すると抽象的で奇態な思想が、ヨーロッパの社会に広く受け容れられた背景には、夥しい此岸の不幸と悲惨が介在しているのだと考えられます。従って、現実における苦難の実際的な解消が行なわれない限り、プラトニズムに象徴される超越的思考の形態は無限の延命を維持するでしょう。そのとき、エピクロス無神論的な弾劾が持ち得る威力は限定的なものに留まるであろうと思われます。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

焼亡する「美」のイデア 三島由紀夫とプラトニズム 2

 三島由紀夫の「金閣寺」は、昭和二十五年に発生した、若い寺僧による金閣寺放火事件に題材を求めて執筆された作品です。三島の遺した数多の作品の中でも特に著名で、国際的な評価も高い傑作であると看做されています。実際、その作品を実地に繙いてみれば分かりますが、洗練された文章は研ぎ澄まされて堂々たる貫録を備え、構成と主題との関係も鮮明且つ緊密で、その出来栄えは三島の生涯を通じて絶巓の領域に達していると私も思います。

 尤も、実際の事件に想を得ていると言っても、三島が事件の詳細な模写に関心を懐いていたと看做すのは適切な解釈ではありません。彼は寺僧による金閣寺への放火という前代未聞の事件そのものに関心を唆られたのではなく、それが彼の抱え込んでいる実存的な課題の象徴として非常に相応しく思われた点に惹かれたのであろうと考えられます。事件に関する詳細な事実関係への取材も、現実の端的な構造を明快に見極める為の作業ではなく、飽く迄も彼自身の個人的で実存的な「思想」を美しい芸術的構図の裡に昇華する為の手段に他ならないのです。三島にとって眼前の現実は、芸術にまで高められた思想的表現を構築する為の原料に過ぎません。彼は在るがままの現実の忠実な模写に歓びを見出すような種類の作家ではありませんでした。私小説の書き手たちのように、現実の露悪的な解剖や、慎ましい日常の生活の丹念な復刻などに、芸術家としての欲望の充足を覚える人物ではないのです。彼にとっては、現実を超越する至高の価値の方が大切であり、日常的な現実の随処に鏤められた真実の断片など、倦怠の源泉でしかなかっただろうと推察されます。

 感覚的な現実、つまり肉体の機能を通じて得られる諸々の認識に対する「軽蔑」、これは明らかにプラトニズムの基礎的な規範に整合しています。プラトンは「霊魂」と「肉体」とを峻別する二元論的な思想を発展させました。そして人間が普遍的な真理の認識に到達する為には、肉体という「穢れ」は障碍の原因にしかならず、感覚を通じて得られる認識は常に真理の不完全な模写に過ぎないと論じました。こうした発想が、少なくとも「金閣寺」における観念的な格闘の構造において、重要な役割を担っていることは明瞭な事実です。

 余り結論を急がず、順番に物語の展開を辿っていきたいと思います。こういう事柄は、急いで答えを出す必要のあるような、喫緊の社会的問題ではないので、焦躁に駆られる理由は一つも存在しないのですから。

 写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。(『金閣寺新潮文庫 p.6)

 「金閣の幻」の方が「現実の金閣」に対して優越的であるという認識の形態は、「私」の内面におけるプラトニズム的な思考の胚胎を示唆しています。それは単に幻想の中の金閣と現実の金閣との相対的な優劣の問題に留まるものではなく、もっと言えば金閣寺そのものとは無関係な問題であるとさえ言えます。「私」にとって金閣は「美」という概念の象徴であり、或いは「美」そのものと同義語であると看做しても差し支えないほどの特権的な定位を与えられているのです。

 こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮ぎられて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂いが嗅がれ、海が時化ると、沢山の鷗がのがれてきて、そこらの田に下りた。(『金閣寺新潮文庫 p.6)

 普遍的な仕方で存在しながら、決して人間の感覚の裡に現前することのない「実在」のことを、プラトンは「イデア」(idea)と呼びました。絶えずその存在の気配を窺わせながら、決して感覚的な認識の裡に顕れない「金閣」と「海」は、その関係性の構造において、明白にイデア的な特質を示しています。少なくとも「私」にとって「金閣」及び「海」は、感覚的な現実に対してイデアが有している関係の相似した形態を意味しているのです。

 ここで生じる素朴な疑問は、彼が何故こんなにも自然にイデア的な対象への関心を保持しているのか、そうしたプラトニックな思考の形態は如何なる過程を踏まえて形成されたのか、というものです。それに関して三島は「吃音」という身体的特徴を、感性的外界に対する一つの「蹉跌」として作中に配置しています。

 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。(『金閣寺新潮文庫 p.7)

 この不幸な断絶、内界と外界との自由な往来の阻害は、自ずと両者の閉鎖的な分断を齎してしまうことでしょう。この二元論的な分断は、プラトンにおける「霊魂」と「肉体」との厳格な弁別に対して類比的です。精神と肉体、超越と現前、自己と他者、こうした二元論的な区分と対立は、それぞれの項目の裡に、それぞれの概念を逼塞させる効果を宿しています。両者が分断され、相互に対立的であると看做されるとき、我々は何れか一方の極に偏することで、自己の方針と立場を明確化しようと企てるようになります。その意味で、吃音によって外界との有機的な交流を阻害されていると感じる「私」が、内界と霊魂の極へ軸足を据える傾向を持つのは、自然な成行であると言えます。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(『金閣寺新潮文庫 pp.7-8)

 彼にとって感覚的な現実は、吃音の為に絶えず現前の遅延を伴っており、彼が到達する外界の現実は、不可避的に「鮮度の落ちた現実」として構成されるという認識は、感性的な認識を本来のイデア的認識の劣化した形態と看做すプラトニズムの原理に酷似しています。少なくとも「私」自身の眼に映る感覚的現実は、本来の感覚的現実の劣化した認識として把握されています。彼が本来的な外界の現実に到達する為には、感覚という肉体的手段を経由することは原理的に不可能なのです。こうした精神にとって、プラトニズムの論理が非常に親密な性質を帯びて迫り易いものであろうことは明らかです。何故ならプラトニズムの論理は当初から、感性的な認識自体が不完全であり、真正な認識へ到達する為には、肉体的な感覚は寧ろ積極的に排除されねばならないと教えているからです。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)