サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(愛されることを願う生き物)

*「愛する」という言葉の定義は何時も抽象的で茫漠としていて、余りに雑多な行為や感情がその一語の裡に詰め込まれていて、偶に思い出したようにその正体を探ってみようにも、途方に暮れるのがお決まりの結末だ。

 休日に掃除機を掛けながら、携帯にイヤホンのケーブルを繋いで、何となく奥華子の歌を聴いていた。次々と自動的に鼓膜の奥へ流れ込んでくる楽曲はどれも一律に、愛する人に愛されないことの苦悩を主題に据えている。手を変え品を変え、色々な旋律や構成を駆使しながら、彼女が一貫して歌い上げるものは常に「愛されない苦しみ」なのである。

 そういう堂々巡りの事柄を馬鹿にして嘲笑を浴びせるのは容易い。恋愛など世間知らずの餓鬼の戯言だと言い放つのは容易い。色恋沙汰に関わり合って、仕事や生活を疎かにするのは愚の骨頂であると断定するのは美しい道徳的潔癖さだ。愛されないのならば、断念するしかない。合理的に考えれば、此れ以上の選択肢は他に一つも存在しないのだから、彼是と思い悩むのは貴重な時間の自堕落な空費である。そういう尤もらしい最短経路に従って常に生きていけるのならば、人生というものは随分と手軽な行程に占められることになるだろう。

 だが、例えば三歳の娘を見ていて、さっさと歯磨きすれば良いのに気が向かなくて嫌がったり、食べてみれば美味しいのに見た目が気に入らなくて頑なに本来の好物を拒んだり、そういう不合理な姿に直面することは頻繁にあるが、だからと言って、その不合理な迷妄が悉く不毛であると断定し得る自信は、少なくとも私には欠けている。

 愚かであるとは、どういうことだろうか。叶わない願いに執着したり、正しくないと分かっている道筋に踏み込んだり、本当の願いとは異なる行為に溺れてしまったり、そういう愚かしさを全面的に排除すれば、生きることはアンドロイドのように安楽だ。人工知能は欲望や倫理とは無関係に「最適解」だけを追究し続ける。それが生きることだろうか? 私には分からない。

 プラトンの対話篇に嫌気が差したのは、その論証的な思考力の素晴らしさを見損なったからではない。逸脱を許さぬ厳格な探究の姿勢に、不満を禁じ得なかったからだ。単一の正義に縛られて、人間の生存を或る特定の理想に還元して、求道者の風格で歩むこと、それだけが正しい生き方であり延いては幸福な生き方であると断言する勁さに、私は索漠たる寂寥を見出す。そんなにまで、己の幸福を劇しく求めるのかと、蟀谷に比喩的な痛みと閉塞を覚える。自分自身の幸福だけを追い求めて万事が済むのなら、人生は随分と簡素だ。

 色々な理窟が絡み合い、各自の都合が軋轢を起こし、私たちはそれでも今日を踏み越え、明日の縁に手を伸ばさねばならない。死なないから生きているだけだと嘯いたところで、身が軽くなる訳ではなく、絡まった蔦が綺麗に解ける訳でもない。愛してくれない人間に愛を捧げるのも、向かない仕事に精を出すのも、叶わぬ夢に向かって努力するのも、不毛であると言えば確かにその通りで、それでも人間は不毛な努力を止められない。それは愚かなのか? 恥ずべき迷妄なのか? だが、それ以外にどうやって生きていけばいいのか。この途を歩めば確実に巧く事が運ぶと信じられるまで、如何なる行為にも着手すべきではないと、決めてしまうべきなのか? そんな筈がない。生きる限り、時間は刻々と流れ去る。答えは絶えず変動し、不朽の真理など人間的願望の切ない反映に過ぎない。今日の努力が明日の成果に結び付く保証はなくとも、手持ちの条件を組み合わせて、最善を尽くす以外に方法はない。子育ても仕事も、悉くそうした制約の下に営まれている。誰が先回りして正しい答えを知れるだろう? 十年前に正しかった答えが、今も正しいとは限らない。前例は成功を保証せず、過去は未来を約束しない。

 報われない苦しみの中で煩悶することは、例外的な不幸ではなく、寧ろそれこそが生きることの枢要を成す。無論、願いが叶うに越したことはないが、叶わないことが不幸だと決め付けるのは短絡的だ。禍福は糾える縄の如し、幸福論や英雄譚に惹かれて齷齪するのではなく、私はこの不定形で混沌とした現実を見凝めたい。再び小説を読もうと思い立った決断は、こうした理由に基づいている。何故なら、文学は合理的な正義を論証するものではないからだ。それは人間のあらゆる種類の実相を克明に浮かび上がらせ、その度し難い愚昧を愛惜するものである。

技巧と本性 三島由紀夫「橋づくし」

 三島由紀夫の「橋づくし」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫)に就いて書く。

 四人の女性が願掛けの為に、迷信的な禁則に従って七つの橋を渡ろうと試みる些細な物語に就いて、余り大仰なことを言い立てても無益な気がする。登場する女性たちの懐いている願いの中身も特色があるとは言い難く、作者の筆致は飽く迄も技巧的な洗煉と抑制の維持に、専ら意識を集中しているように思われる。

 あらゆる小説は、それが事実に即して書かれようと、恣意的な妄想に脳天まで浸った状態で綴られようと、作者の技倆と意図に依拠して生み出される絵空事であり虚構であることに変わりはない。それを絵空事と感じさせない工夫が文学的技巧の一端であることは明瞭である。その意味では、殊更に明瞭な主題を読者の視野に向かって映し出すことなく、何でもない一つの挿話の纏まりを、少し風変りな伝聞のように然り気なく呑み込ませる「橋づくし」の構成と筆法は、確かに巧妙で円熟している。満佐子が垢抜けない無骨な女中に対して懐く仄かな恐怖と絶望の余韻は聊か意味深長であるが、そこに何か画期的な発見や斬新な見解を期待しようとは思えない。

 「禁色」「金閣寺」「鏡子の家」「豊饒の海」といった代表的な長篇を繙読すれば直ちに明らかになることだが、三島由紀夫という作家は、嘱目の風景や事物を如何なる作為も加えずに軽やかな筆致で写実的に掠め取るというよりも、独自の観念的な論理を無限に引き延ばして多様な変遷を喚起することに重きを置いている。作者自身が巻末の解題で述べている通り、彼にとって短篇小説とは文学的「軽騎兵」であった時代の忘れ難い形見のようなものである。とはいえ、彼の書き遺した短篇が総て等し並みに軽騎兵的性質を備えている訳ではないことは論を俟たない。三島に固有の文学的価値を最も濃密且つ尖鋭に浮かび上がらせている一篇が「憂国」であることは明白で、それに比べれば「橋づくし」は毒にも薬にもならない、無害な湿布のような役割しか授かっていないように思われる。

 だが、三島が終生手放せずに抱え込み続けた実存的主題というのは、その取り扱いに多大な注意を要する深刻な重荷であって、仮に作家が自己の中心的課題ばかりに専一に関わり合っていたとすれば、市ヶ谷駐屯地における自裁よりも遥かに早い段階で、自制的な仮面を擲ち、反社会的な奇行に踏み切って積み重ねた栄光を粉砕し、世俗の凡庸な生活から無限に放逐されていたかも知れない。彼の夥しい作品の群れが、自己の内面或いは精神との間に緊密な結合を備えた難解で重厚な系列と、世俗的で迎合的で軽妙で遊戯的な系列とに、大まかに二分されていることは恐らく周知の事実であるだろう。三島の本性における特異な資質が、極めて反社会的な要素を、少なくとも戦後社会の信奉する数々の開明的な御題目には相応しくない危険な要素を豊富に含んでいたことは確実であり、その作品における世俗的系列は、自身の暮らす通俗的社会との間に架橋された表層的和解の方便だったのではないかと推測される。戦後的倫理への憎悪は、三島の裡に装填された抜き難い宿痾である。その宿痾を無理に抑え込んで、或いは文学的本流と目される系列の作品の裡に流し込んで鎮静化した上で、俗っぽい経済的生活の必要から、或いは自身の精神的安寧を確保するという健全な目的から、戦後的倫理との妥協的共生を図る為に、世俗的系列の作品を定期的に世へ送ったのではないだろうか。その内面的な抑制が却って、外在的技巧の更なる精緻化を促すのではないか。本音を抑え込んで現実への適合に専念しようと企てる人間にとって、最も重要な関心が寄せられる対象は、専ら技術的な問題に限られる。「橋づくし」の一篇を仕立て上げる為に三島が用いたのは錬磨された技巧であって、技巧的な精緻さを犠牲にせねばならぬほどの奮迅や苦闘ではない。技巧的な水準を高めることに主眼が置かれた創造は、三島にとって本来ならば到底黙殺し難い重大な実存的問題の一時的な留保の上に築かれた、いわば傍流の仕事ではないかと思われる。尤も、これは無学な読者の独善的な憶測である。

 人間は技術を目的に奉仕する手段として用いると同時に、技術そのものを目的化して、その純然たる可能性を熱心に追究することも出来る。何れが正しいのか、それは状況に応じて異なるかも知れないが、技術に溺れることは視野の狭窄を招き、技術全体の統制を紊乱する事態に帰結するだろう。より大きな野心を実現に導く為に、敢えて便宜的に技巧そのものの洗煉に邁進する局面というのは確かに存在している。だが、例えば「憂国」のように、持ち前の文学的課題の高度で精密な凝縮を一つの技巧的実験と看做すならば、この「橋づくし」は明らかに余技の部類に属するものであると言えるだろう。誰にとっても、技巧が技巧そのものの裡に留まるのならば、それは退屈な機械的現象に過ぎない。技巧の無際限な精緻化は、技巧の関与する対象の構造や性質とは無関係に営まれる一つの閉鎖的な空転である。尤も、人間は時に重要で深刻な問題と関わり合うことから遁れて、全く無意味な時間の浪費の裡に憩いたいと願う生き物であるから、その空転自体を問責するのは聊か酷薄に過ぎるだろう。夭折の美学に凝り固まった男の血腥い悪戦苦闘だけを、三島の総てであると言い切るのは、プラトン的な本質主義的還元に類する偏狭な判定である。プラトンは事物及び存在の本質だけを重視したが、私は寧ろ、本質から絶えず逸脱していく偶有的多様性の領域に主要な関心を寄せたいと思っている。その意味では、様々な年代の作品を渉猟する形で編まれた短篇集を繙読することは、作家的本質という一つの「イデア」から脱却する為の有効な手段であると考えられる。「金閣寺」や「憂国」に作者の最も本質的な要素が充満しているのだとしても、それだけで一個の生身の人間の社会的実存が成り立つ訳ではない。本質と偶有との区分の相対性、或いは本質と偶有との間で営まれる動態的な混淆の過程こそ、人間的実存の魅惑的な醍醐味である。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

花ざかりの墓地 三島由紀夫「牡丹」

 久々に三島由紀夫の『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に収録されている短篇小説に就いて書く。

 「牡丹」は、実質七頁にも満たない実に簡素な造作の小説であるが、独特の不吉な感触を牧歌的な風景の表皮で覆った、印象的な作品である。官能と暴力は、三島の文学的遍歴を貫徹する最も重要な旋律であり、それはこの「牡丹」という掌編においても、地下の暗渠を流れる水脈の如く密かに、しかし着実に息衝いている。三島にとって性的な享楽の感覚は血腥い「死」の臭気と緊密に結び付いていて、それは一般的に流通する「生殖」としての性交という道徳的理念とは断絶しているように思われる。

 茄子の苗床なえどこ。葱坊主。道のもう片方は沼になっていて、おたまじゃくしが、日を受けて明るんでいる藻をくぐるのがはっきりと見え、見えない去年の蛙がそこかしこで鳴いている。その一角が区切られて夏大根の洗い場になっている。腿まであるゴム長を穿いた二人の農夫が、せっせと大根を洗っては、かたわらの板の上に、互いちがいに、洗いえた夏大根を積んでいる。

「この洗い立ての白さは妙にエロティックだね」

 と私が言った。(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  pp.144-145)

 長閑な遠足の叙景から始まる淡々とした筆致の溝に、不意に投げ込まれた「エロティック」という些細な評言は、この短篇小説の裡に含まれた潜在的暗喩の性質を、物語の景色の中に然り気なく点綴している。続いて顕れる「牡丹園」の描写もまた、花弁と女陰とを結び付ける通俗的な類比の関係に基づいているように読めないこともない。

 麟鳳は赤紫の天鵞絨の大輪である。長楽は薄桃色が中央へゆくほど濃い緋色になっている。なかんずく豪華なのは白い大輪の月世界でその前にはカメラを構えた客が膝まずき、うしろから画家がスケッチの鉛筆をうごかしていた。(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p.146)

 牡丹を女陰の暗喩として、延いては女性たちの象徴として捉えた途端に、牡丹園に集まる夥しい観光客たちの遊覧の風景は、見世物として拘束され憔悴した女性たちを視線で嬲る陰惨な凌辱の光景のように感じられる。それは私の勝手な思い過ごしであろうか? 恣意的で非常識な曲解に過ぎないだろうか? だが、実際にこの牡丹園の所有者である川又という老爺は、牡丹と女性との間に重要な関連性を設けているのである。彼は元々軍部の要人で、南京大虐殺の首謀者であった人物として描かれている。戦犯としての裁きを辛うじて免かれ、恐らくは素性を伏せて世俗に復帰した彼は広大な土地を買い取り、自分が南京で手ずから殺した女の数だけ、牡丹の花を植えた。その意味では、川又の牡丹園は虐殺された女たちに捧げられた墓地のような性質を密かに含んでいると言える。それが贖罪の意識に基づいているのかどうかは分からない。語り手の「私」を牡丹園に案内した友人の草田という男は、次のような見解を提示している。

 ここの持主になってから川又は牡丹の木を厳密に五八〇本に限定した。手ずから花を育て事実牡丹園はこれだけの成果をあげている。しかしこんな奇妙な道楽は何だと思う? 俺はいろいろと考えた。今では多分こうだろうという結論に達している。

 あいつは自分の悪を、隠密な方法で記念したかった。多分あいつは悪を犯した人間のもっとも切実な要求、世にも安全な方法で、自分の忘れがたい悪を顕彰することに成功したんだ」(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p.150)

   若しも川又が自分の過去の蛮行を悔やみ、劇しい贖罪の欲望に囚われていたら、戦犯として自ら法廷に出頭し積極的に懲罰を享けることも出来た筈だ。恐らく川又の本意は、そのような模範的な感情に基づいて牡丹園の造成に赴いた訳ではあるまい。彼は許されざる非道の悪事を、戦後の社会の中で見事に裏返し、長閑で鮮やかな観光の名所に仕立て上げた。そこには壮絶な悪意が、戦後の社会に対する歪んだ敵愾心が殷々と反響している。彼は何食わぬ顔で過去の蛮行を、その嗜虐的な快楽を、美しい無害な花々に化身させ、大衆はその花の美しさに見事に欺かれてしまい、その奥底に眠っている根源的な邪悪の存在に気付きもしない。敗戦の衝撃によって社会の価値観は正反対の方向へ転回し、戦時中の正義は悉く戦後的な倫理によって断罪された。だが、川又の残虐な享楽は、戦時中の日本社会においては、正当化され得る背景を備えていた筈なのだ。断罪を免かれた川又は、敗戦を通じて半ば強制的に革新された現下の社会を嘲弄するように、かつて正義の範疇に属しながら、今や最大の野蛮な悪行として糾弾されるようになった往年の虐殺の痕跡を、贈答品のように無辜の俗衆へ向かって差し出しているのである。そして何も知らない群衆が牡丹の美しさを嘆賞する様子を黙って見物している。その意味では、牡丹園は皮肉で両義的な性質を賦与された象徴的墓地である。そこに葬られているのは虐殺の被害に遭った不幸な女性たちの亡骸だけではない。かつて正義でありながら、今や重大な犯罪へと堕落した数々の奇態な権威と栄誉が、牡丹の根元には数多埋葬されているのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(プラトンと「愛情」或いは「寛容」の問題)

*ここ数箇月、古代ギリシアの哲学者であり西洋思想の開祖にも位置付けられるプラトンの対話篇ばかりを読み続けてきて、知らぬ間に憤懣が溜まっていることに気付いた。

 プラトンの思想は本質主義的な性質を持ち、究極的には「正義」を重んじて、人間を一定の崇高な基準に基づいて選別し排除する原理を内包している。彼は「知」に対する愛情の価値を高らかに謳い上げるが、その求道的な探究は師父であるソクラテスの徹底した「無智」と「相対性」の思想から遠く隔たり、選良を重んじて俗衆を軽侮する息苦しい道徳的権威の王冠を被っている。

 因みに附言しておくが、これは令和元年の極東の島国に住する愚かな凡人の愚かな遠吠えに過ぎない。プラトンは紀元前から二千年以上に亘って、西洋思想の源流として絶えず参照され、夥しい註釈の試みられてきた偉大な人物である。その驚嘆すべき論証的思考力の前では、私の個人的な思想など憐れな顆粒の類に過ぎない。けれども、相手がプラトンであるからと言って、私の人生の主導権が彼の手に渡る訳ではない。プラトンの議論が如何なる帰結を齎そうとも、私の個人的な思考がそれに従属する理由はない。

 何が正しいのか、正義とは何か、という本質的思考は必ず選別と排除の手続きを含む。どれだけ美しく崇高な正義の内実が語られようとも、それが正義の規矩に適わない人間の排除を伴う事実は動かない。誰かが正しいと褒められ持ち上げられているとき、不可避的にその傍らに、不正であると看做された人間が佇んでいる。序列を定めたり性質を区分したりする論究の作法は科学的真理においては妥当であり正統なものであるが、それを人間に適合させるのは潜在的危険を孕んだ措置だ。

 例えばプラトンは詩歌や音楽や舞踏に関して、それが国家の守護者の育成に資するような性質を持つべきだと論じる。芸術を政治や教育に従属させる思考は、本質的には、芸術に固有の価値を軽視する発想の顕れである。芸術は何かを選別したり排除したりする為に存在するのではなく、寧ろあらゆる不可解な事物を包摂する「存在そのものの肯定」の原理に即している筈だ。何でもない一叢の雑草を描いてもそれが芸術的価値を帯び得るのは、その雑草が政治的、倫理的、経済的正義の規範に適っているからではない。それが単に現実の裡に存在しているという事実そのものの価値を認めなければ、芸術的営為は出発し得ない。

 しかしプラトンは肉体的感覚に基づいた認識の価値を否定する。超越的な理念を重んじ、現象界に属する事物は軒並み不完全な模造品として侮蔑される。剰え、完全な認識は生者の手に入ることがない、従って哲学とは死の擬制なのだと強弁する。死ななければ手に入らない認識を得ることが、生きることの目的だと論証する彼の彼岸的思考が、二千年に及ぶキリスト教神学の基礎を成したと看做されるのも頷ける話である。

 確かに人間が「彼岸」を想定し得るような強烈な想像力の飛翔を自らの手に備えていなければ、人間の尊厳の多くは消し飛んでしまうだろう。従って私はプラトンの真摯な論究を否定したいとは思わない。だが、私はプラトンの論理に従って生きることに嫌悪を覚える。道徳的な音楽、政治的要請に従属する音楽だけで占められた社会が、人間に対する普遍的な愛情と寛容に充ちていると、誰が信じることが出来ようか? 正義と愛情との間に関連はなく、寧ろ両者の都合は頻繁に対立する。愛することは正義とは無関係だ。何故なら、正義の貫徹に必要なのは愛情よりも寧ろ、論理的要請に忠実に振舞い続ける酷薄な鋼の意志であるから。愛情は鋼の意志を蕩けさせ、規範に従わない人間にさえ居場所を授けようと試みる困難な感情である。それは時々、世界に救い難い混乱を招き入れるだろう。多くの酸鼻を極める悲劇が、正義の不在によって齎されるだろう。だが、愛情は正義によって育まれるのではない。いや、愛情には、愛情に固有の正義が備わっていると言うべきだろうか。プラトンの正義が厳格な選別の涯に析出される「守護者の正義」であるならば、愛情における正義は、あらゆる存在を肯定する異様な併呑の裡に見出される。残酷な犯罪者にさえ、愛情は居場所を与える。それは確かに危険で、秩序を擾乱する措置となるかも知れない。

 だが、正義の仮面を被った愛情は不安定な代物だ。やはり愛情には、愛情に固有の両義的性質だけを期待すべきだろう。愛情は常に不安定で不合理な現実を肯定し、そこから逃避する理由を欲しない。プラトンの正義は、眼前の現実に対する憎悪に裏打ちされている。哲学は「知」を愛するが、芸術は「人間」を愛し「世界」を愛するだろう。ソクラテスは公務を拒んで私人の立場に留まり、尚且つ理想的な学園のような「聖域」を必要としなかった。それは彼が不可解な現実を愛し、それに直面していたことの紛れもない証左ではなかろうか。

 哲学は言葉の厳密で一義的な使用を重んじる。それは哲学が「選別と排除」の原理に従属していることの鮮明な反映である。哲学においては、語彙は限定され、削減される傾向を持つ。だが、例えば文学は言葉の限りない豊饒を志向する。同じような事態を言い表すのに多彩な表現を欲するのは、文学に宿っている芸術的本能の所産である。無数の花々を「花」という一語に向かって抽象するプラトン本質主義は、一つ一つの個物の固有性を描き出すことに全身全霊を捧げる芸術家の倫理の対極に位置している。

 個人的な結論としては、私は一旦プラトンの対話篇の繙読を中止する。代わりに、途絶していた三島由紀夫の短篇集の読解に復帰しようと思う。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 
花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(常に「此処」から始まる)

*人間は色々の先験的要件に規定されて人生を始める。誰も自分の意志で生まれるときや場所を選ぶことは出来ない。血筋も門地も性別も家産も、肌や瞳の色も、時代や国籍も任意に選択することは出来ない。出生は購買でも消費でもなく、ただ受動的に配給される奇蹟的な恩寵である。それを呪わしいことだと恨む人間も少なくない。何でこんな無細工な顔に産んだのかと親を詰る不孝者もいるだろう。或いは人生の途次、茫然自失するような途轍もない逆境に遭遇して天を呪う者もあるかも知れない。縊れて死んだ方がマシだと喚き散らしたくなる夜もあるだろう。だが、そんな悲嘆に何の意味があるのか。それは所詮、自己憐憫の感傷ではないか。抒情的な夜は美しいが、現実は常に雑駁で散文的に仕上がっている。如何なる美談も英雄譚も、その表皮を剥いてしまえば俗塵に塗れて輝きさえ伴わない。それが巷間の実相である。だから厭世的な思想の擒になるべきだろうか? そんな筈はない。確かに我々は様々な不幸に包囲され、何れにせよ有限の儚く脆い生命しか与えられていないし、そもそも自らの積極的な意志で望んで生まれた訳ではない。

 過日、妻が三歳の娘に、ママの御腹の中にいたときのことを覚えているかと訊ねたら、本人は間髪容れず、ママの御腹を沢山キックしていたと答えたらしい。実際、妊娠後期の胎動は劇しかった。足の強い児が生まれるんじゃないかと想像したものだ。何故キックしたの、早く外に出たかったのかと妻が訊ねると、違う、外に出たくなかったから蹴っていたのだと答えたという。事実、胎児は或る強制的な宿命や摂理に強いられて地上へ吐き出されるのだ。人は強いられて生まれ、訳も分からず日月を閲する。私もあっという間に三十三歳になった。望んでそうなったのではなく、世の中の、或いは宇宙の法則に強いられて、年齢を重ねただけである。

 だが、生まれたからには死ぬまで生きている。自ら首を吊る覚悟も持たないのであれば猶更、運命の打撃を浴びて押し潰されない限りは生きていくしかない。どうせ生きるのならば、より善く生きられるように努めるのが賢明だ。宿命を呪い、恨み言を円周率のように何処までも果てしなく羅列するような怠惰な生き方は御免蒙る。それはお前が恵まれているだけだと、厭世家は苛立たしげな顔つきで冷笑的に反駁するだろうか。だが、恵まれているならば猶更、恨み言を並べ立てる理由はなくなり、前向きに明るく人生を謳歌すれば良いだけだという結論に行き着く。

 世上に蔓延る幸福論には様々な種類のものが用意されているが、人間が若いうちから余りに性急に幸福を求め、安寧を欲しがるのは間違っているように思う。このような言い方は老害の前駆症状だと嗤われたとしても一向に構わない。容易く手に入る幸福には、強かな打たれ強さが欠けている。単なる自堕落な幻想の殻を、他人や社会に破砕されずに済んでいるというだけの話で、結局は他人からの稀有な貰い物に過ぎないのだ。それは自分の努力で作り上げたものではなく、一過性の恩寵である。流れに逆らって泳ぐ方が、流れに運ばれて河口へ辿り着く人間よりも、総身の筋力を鍛えられるであろうことは歴然としている。流れに運ばれるのは安楽な身分だが、自分で目的地を選び取る力は一向に育たない。途を選ぶ為には不断の鍛錬が要る。だからこそ、逆境と苦悩の意義は古来、多くの賢者によって尊重されてきたのである。

 尤も、私は過度な禁欲や道徳的な潔癖を評価している訳ではない。重要なのは、生き延びること、そして活路を切り拓くことである。清廉潔白の世評を得たり、他人から称讃を浴びたりする為に生きるのは本末転倒だ。確かにそれらは道徳的で社会的な快楽である。つまり、禁欲も清廉も煎じ詰めれば快楽の一種、欲望の一種なのである。快楽の良し悪しを論じても、それは所詮は個人の勝手であり、趣味の範疇に属する相対的な議論である。問題は、何らかの具体的な方向性を持つことだ。流れに運ばれながら、その流れに背いてみたり逸脱してみたりすることで、我々は新たな可能性、新たな航路を発見することになる。流れが何処へ向かっているかは、本質的な問題ではない。どの場所に浮かんでいようと、我々の出発点は常に自らの足許にある。不幸な境遇に限らず、過去の実績や栄光も、時間が経てば直ちに泡沫と化す。時に想い出を懐かしむのは結構だ。そういう郷愁の快楽に溺れるのも、それが暫時の感傷であるならば、ペパーミントのガムを咬むように快い習慣である。けれども、ペパーミントは我々の主食ではない。生きる為に必要な栄養を齎す主要な源泉ではない。過去は既に存在せず、我々の決断は常に現下の瞬間において重要な意味を持つ。過去が如何なる経緯を辿っていようとも、この瞬間の決断の内実は、この現下の瞬間において決定し得る。我々は限られた選択肢の中で、僅かな偏差の範囲内で、針路を革める権利を授かっているのだ。その権利を自ら放擲して運命の支配に屈従するのは、それが正当化され得る場合には、最大の安楽を供給するだろう。しかし、それは風に吹かれる花弁の安寧であり、確固たる基礎を欠いている。自分の力で歩むことを知らない人間に、本当の幸福は訪れない。いや、幸福という曖昧な観念に絆されることが諸悪の根源なのだ。幸福という停滞よりも、充実という名の躍動を愛すべきである。幸福は総てが終わった後に訪れる漠然たる余韻のようなものだ。若くして余韻を愛するのは健全ではない。余韻は、それ自体が目的とされることによって失われ、跡形もなく揮発する。同様に幸福もまた、それ自体を目的に据えてしまうと物事の歯車が狂い始めることになる。幸福は余慶であり、行動と苦闘の金利のようなものだ。金利を欲する前に先ず元本を稼ぎ出すことを真剣に考えるべきである。

Cahier(運命を嘲笑せよ)

決定論の思想は、物事を因果律に基づいて如何にも鮮やかに綺麗に整序する。そうやって物事を遠く彼方の淵源から順番に連鎖させ、原因によって結果は必然的に決定されると看做す。それを別の言葉に置き換えれば「運命による支配」ということになる訳で、世界を決定論的に捉えるかどうかという問題は、人類の歴史において長年に亘って議論が交わされ続けている重要な議題である。

 例えば自然科学の世界においては、このような決定論的骨格を明らかに実証することが求められている。所謂「再現性」という理念は、こうした決定論的要請に基づいて組み立てられた認識論的規範である。決定論の枠組みにおいては、原因と経過が同一であれば、導き出される結果は同一になるものと考えられるし、そうでなければ、提示された実証的学説は不充分なものであると看做されて「仮説」の状態に差し戻される。再現性のない仮説は、充分な決定論的根拠を備えていないことを理由に、科学的真理の称号には及第しないのである。

 だが、我々の生活は、そうした科学的真理の示す規矩には従属しない。我々に求められているのは決定論的な運命の威力に頭を垂れて隷属することではなく、寧ろ再現性の圧力に叛逆することが最も肝要な選択なのである。それは「前例主義を廃する」ことと同義だ。或る意味では、科学的探究の目的は認識において「完璧な前例」を構築することと重なり合っている。入力と出力との間に明確で一義的な規定を導入すること、そういう学説を理論的にも実証的にも作り上げること、それが自然科学における努力の正統な様態である。だが、実際の人生において、こうした決定論的発想を極度に称揚することは、あらゆる退嬰の基礎を成すものである。例えば門地や性別によって必然的に自己の人生の行路を定められること、生まれた瞬間に死に至るまでの行程の一切が事前に決定されていること、こうした考え方は人間の尊厳を最も堪え難い方法で毀損し、堕落させる。遺伝子にしても、幼少期の環境にしても、経済的格差にしても、それらの書き換え難い先験的な条件によって後の人生の結果が一義的に決定されるという発想には、人間の自由意志を認める理由が含まれていない。これは運命に対する隷属が不可避であることを強調する思想である。だが、私はそのような無気力な考え方には与しない。大体、そんな考え方は退屈で不毛である。仮に決定論的な因果律が事実であったとしても、それに服属するか抵抗するか、それは人間の判断が定めるべき事柄である。運命は、或る普遍的な法則に基づいて我々の実存を呪縛するだろう。だが、呪縛されたからと言って、殊更に従順に振舞う必要は毫も存在しない。我々は奴隷であっても、奴隷らしく振舞う義務を負っている訳ではない。主人に敵対する奴隷が存在しても構わないではないか。

 運命が手強い主人であり支配者であることは私も認める。人間の個人的な抵抗が齎す果実の総量は常に乏しく、変革は常に小さく貧しい。けれども、その貧困を態々危惧する必要が何処にあるだろうか? 人間が「葦」に過ぎないのは数百年前、或いは数万年前から既に自覚されている無味乾燥な真理である。けれども、人間は「考える」能力によって、単なる「葦」であることを免かれている。この「考える」という能力は、決定論的な構造や秩序に対する抵抗の手段である。若しも人間が「本能」の奴隷であるならば、環境からの入力に対する生命的な出力のパターンは常に単一であり、そこに厄介な振幅が生じる見込みはない。だが、人間は本能から遠ざかり得る生き物であり、自然な欲求を幻想の力で多様化したり膨張させたりすることの出来る特異な存在である。それは決定論的な機序の何処かに「エラー」を生じさせるということだ。その微細な「エラー」の裡に人間の有する無限の可能性が宿っている。

 エピクロスの偏差的原子論は正に「クリナメン」(clinamen)という原子の僅かな「ブレ」を持ち出すことによって、単なる決定論の機序に亀裂を走らせている。それは無論、運命の支配を無効化する画期的な特効薬という訳ではない。エピクロスの見解は常に極めて穏当で、過激な急進性とは無縁である。言い換えれば、彼の偏差的原子論は決定論そのものの否定ではなく、因果律の完全な継起が時折「誤差」を含み得るという控えめな認識の提示なのである。その控えめな提示の裡に自由意志の萌芽が宿っている。それは揺り起こされ、目覚めようとしている。「覚醒」は「運命による絶対的支配」の法網の中に僅かな抜け道を発見することと同義だ。我々は運命に骨の髄まで犯されながらも猶、微細な選択の積み重ねを持続する力を隠し持っている。その微細な選択が、重要な分水嶺の役目を担うことも珍しくないのだ。だからこそ、運命を言い訳に用いてはならない。星占いの預言を根拠に用いて人生を事前に設計してはならない。あらゆる認識は事後的なもので、実践の渦中には間に合わない。認識は何時も必ず現実に対して出遅れている。流動し、変容し続ける生活の過程で、事後的な認識を捏ね回すのは、現実の不可避的な性質を論証する為ではなく、新たな未来、前例から逸脱した未来を作り出す為の手続きであるべきだ。前例を理解することは、それを踏襲する為ではなく、そこから脱却する為である。前例を免かれる為に前例に関する一切の知識を拒絶することは、つまり歴史的過程に対する完全な峻拒は、寧ろ前例の無自覚な反復を齎しかねない。必然性の繰り返される再現、永劫回帰、そこから脱け出す為の方策こそ「考える」ことの本義である。この場合の「考える」という言葉は、単なる事後的な理論を意味するものではない。考えることは行動することと不可分の関係で結び付いていなければ意味がない。

 運命の強靭な支配を自由に操ろうと私は無謀にも企てているのではない。個人の意思で自由に操作し得るものは「世界」でも「宇宙」でもない。「必然」の重たい鎖が人間の実存を時に容易く叩き潰すものであることは、日々テレビやネットで報道される不幸な事件や事故を徴すれば直ちに明らかである。けれども、我々の矮小な努力は、必然性の軌道を僅かに逸らすことぐらいは出来る。突発的で偶然的な偏差が、我々の決まり切った保守的な日常に小さな揺らぎを招き入れる。その小さな転轍が、運命を掻き乱すということだ。掻き乱された運命は、当初の僅かな偏差を徐々に加速度的に膨れ上がらせて、我々を見知らぬ境地へ案内するだろう。数十年前の果敢な決断を、或いは記憶にも留まらぬ些末な決断を、時に思い返しながら、我々は見知らぬ明日に向かって不断に歩み続ける。己が運命を嘲笑せよ。

Cahier(最善を尽くせ)

*纏まらない頭の中身を垂れ流すようにキーボードを打つ。

 合理的な精神は、無理や無駄を嫌う。効率の悪いことを蛇蝎の如く忌み嫌う。最初から総て正解が見えていればいいのにと、不合理な現実の厄介な性質に歯咬みする。成程、最初から正解が分かっていることならば、世界の眺望はきっと澄明で、他人が皆、度し難い阿呆に見えるだろう。既に真理が確立され、明瞭に開示されているならば、手探りの格闘など馬鹿げている。暗愚と蒙昧の覆いを取り払って、真実だけを見凝めながら、最適の解答だけを選び続ければいい。若しも、私たちに超越的な絶対者を名乗る資格が認められているならば。

 だが、合理主義の開祖であるかのように見えるプラトンでさえ、自分自身を神に擬えようとはしなかった。生きている限り、真実在の叡智に到達することは叶わないという「パイドン」における諦念は、彼の謙虚で現実的な側面を僅かに暗示している。一体、誰が総てを透視し得るだろう。どんなに発達した知性が存在したとしても、予め総ての答えを完璧に誂えておくことなど出来はしない。真実在、それが世界の明瞭な実相であるのだとしても、或いは世界を構成する根源的な規則の束なのだとしても、それが確かに受け取れないのならば、何の意味があるだろう? 勿論、一文の価値もないなどとは思わない。だが、それは実践的な性質に関しては少なくとも問題の多い発想だ。

 「最善を尽くせ」という言葉の意味は曖昧だ。それは合理的な精神から眺めれば嘲笑すべき呪符であるだろうか? 何を以て最善と看做すのか、最善であることが分かっているならば、それを選ぶのは自然なことだと、合理的精神は冷ややかな表情で言い捨てるだろうか? だが、この場合の「最善」とは、確実で堅牢な選択肢のことではない。この言葉が意味を持つのは、合理的な精神が不可能であるような世界に限られている。尤も、それは合理的な精神の意義を軽視することと等価ではない。頭を使って考えずに闇雲に行動して、それが「最善」だと開き直るのは愚の骨頂、そもそも論外だ。我々は必死に考え、総てを知ろうと努力すべきだ。けれども、どんなに努力しても不可知の領域が残存することは避け難い。知性の限界は、人間が世界に内属する相対的な存在である以上は不可避の宿命なのだ。

 考えても考えても分からないけれど、それでも考えて答えに至ろうとするとき、或いは具体的な行動を通じてそこへ辿り着こうと試みるとき、人間は自ずと「最善」に手を伸ばす。それは「完璧」を欲することとは決定的に異質だ。完璧でありたいと願うことは寧ろ、あらゆる不可能な挑戦を停滞させる危険な思想である。真理から逸脱し、正義に抵触することを懼れていたら、我々は街角のコンビニへ買い物に出掛けることさえ出来ない。「分からないから考える」という行為は、不合理だろうか? 分からないことを考えても無意味だ、という断念は賢明だろうか? 私には今、そういうシニシズムが何よりも薄汚く惨めに思われる。誰が正解に安住する権利を持つだろう? その正解が未来永劫、絶対に確実だと言い切れる保証があるだろうか? 「人間は必ず死ぬ」という絶対的命題でさえ、今後永遠に普遍的であるとは言い切れなくなる。不老不死が実現したとき、地上に存在する数多の思想は無効化を強いられ、普遍的真理は改訂を命じられるだろう。私たちの信じる真理が砂上の楼閣であることは疑いを容れない。人間の体に宿った賢しらな知性が、森羅万象の真実を漏らさず把握出来る理由はない。けれども、真理を求めようとする欲望自体は健全な衝迫だ。それは人間の本質的な価値や尊厳に関わっている。

 分からないから考えるのだ。知らないから学ぶように、出来ないから行動するように。分からないから考えない、という結論は頽廃の尽きせぬ源泉である。知らないからどうでもいいと無関心を決め込み、従来の枠組みや図式に逼塞し、千篇一律の有難い「真理」を神棚に上げて拝むのが、人間の素晴らしい姿だろうか? 知らないからどうでもいいなら、人間の知性は発達し得なかっただろう。捉え難いものを捉えようとする類的な執念がなければ、今日の文明の発達は成し遂げられなかっただろう。見えないもの、捉え難いものを知ろうと齷齪する愚かしさが、知性の根源である。ソクラテスの哲学は、正にそうした実践的性質に基づいていたのではないか。

 プラトンの築き上げた壮大な体系は、空虚な真理に基づいているかも知れない。けれども、そうした真理を構築する過程で営まれたプラトンの思想的な実践は偉大なものだ。大半の人間は「国家」のように長大な議論を自分の頭で考え抜く知的体力を欠いている。考えることは、本来は実践と分ち難く結び付いている。それを切り離して相互に連絡し難い特質のように看做すのは、実は合理的精神、普遍的精神の仕業かも知れない。分からないから考えないと決めたとき、そこから一足飛びに、人は感覚的な行動に溺れ、明確な方針も持たずに揺れ動き、風に遊ばれる風見鶏のように本質を、自己同一性を見失う。考えることと行動との分離は、こうした風見鶏への堕落の瞬間に形成されるのだ。逆に考え続けることは、自ずと本質的な行動へ人を導くだろう。一体、そのとき何に向かって人は考え続けているのか? それは事前に確立された真理ではなく、刹那的に変動する彗星の如き曖昧な真理である。蜃気楼のように、それは必ず視野の最果てに佇み、展がっている。無限に遁れていく真理の幻影は、寧ろ真理という概念の最も建設的な作用の形式かも知れない。ソクラテスの探究が常にアポリアに帰結するように。

 恐らく人間の堕落を齎すものは、苦悩そのものではなく、苦悩に堪え得る持久力の不在である。苦悩の裡に留まる覚悟を持たなければ、人間は直ぐに安易な結論に縋って、その仮初の居心地の良さに酩酊してしまうのだ。それを「現実逃避」と人は呼ぶ。坂口安吾が「苦しむこと」と「人間の尊さ」とを接続して示したのは、故なきことではない。人間は確定した満足に溺れることで堕落する。言い換えれば、幸福は人間を堕落させ、その尊厳を腐蝕させるのだ。自分だけの安閑たる幸福に自足している人間の閉鎖的な性質を、私たちは祝福すべきだろうか? 苦しみを知らぬ人間に、他者の苦しみを救済する力は決して宿らない。どういう立場であれ、一つの固定した結論に常住している人間の助言や忠告は常に虚しい。不安定な人間だけが、私たちの苦悩を和らげる光源となり得るのだ。苦悩から逃亡すること、あらゆる悩みから救われることが真実の幸福ならば、人間は生涯孤独でも構わない筈だ。孤独の裡に確乎たる安楽が存在するならば、苦悩など紙屑に過ぎない。けれども、人間は孤独を懼れる。それは苦悩が人間の義務であり生命の本質的な大動脈であることを密かに知悉しているからではないか。私は苦悩の裡に佇んで最善を尽くしたい。それ以外に生きる歓びが有り得ようか。