サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 2

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「知識とは何か」という聊か抽象的な設問は、哲学という根源的思考の領域においては、安易に忌避することの出来ない難問である。「知識」という言葉自体は、我々の日常的な生活に悠然と溶け込んでいる。殊更に、その厳密な定義を試みる必然性に支配されるような局面は、頻繁には訪れない。だが、そういう平凡な言葉ほど、精密な解析を施そうとすれば、途端に無明の奈落へ投げ込まれるのが通例である。我々が日常的に用いる言語は、それ自体で独立して働いている訳ではない。様々な非言語的情報と文脈に補助されて、その時々で多様な意味を含み得るのが、日常的な言語の特質である。我々は普段、言葉というものを専ら道具のように扱っている。差し当たり、生活の用が足りれば構わないと安直に考えて、言葉に粗雑な虐使を強いるのが一般的な慣習なのだ。

 けれども、不鮮明な言葉は不鮮明な思考を齎す。曖昧な言葉は曖昧な思考を増殖させる。この悪習を放置すれば、我々は加速度的に、言葉の恣意的な濫用と、相互的な曲解の深みへ陥って逃れられなくなるだろう。同じ単語であっても、我々は各自、それらに異なる含意を背負わせて、四囲に向かって放流する。差出人の考える定義と、受取人の考える定義は、見事に重なり合わないことの方が多い。両者の齟齬は、本来ならば「認識の共有」に際して重大な支障となるべきものである。だから、我々が精確な「認識の共有」を求めるのであれば、用いられる言語の定義は明晰でなければならない。同じ一つの事象を指し示す場合でも、人はそれぞれ異なる言語的表現を充当する。

 言語の定義に関するこれらの問題は、所謂「相対主義」(relativism)に関する問題と通底している。極端な相対主義は、言語の定義に関して個人の主観的な裁定を全面的に支持する。一つ一つの単語が如何なる意味を含むかという問題に就いて、個人の恣意的な裁量を悉く承認するのが、相対主義の考え方である。無論、現実の世界において、言葉の意味が個人によって異なるのは有り触れた現象である。けれども一般的に、そうした相対性の容認は、言葉の規範的な意味を全面的に否認するものではない。若しも言葉が如何なる規範的意味も持ち得ないとすれば、あらゆる言葉は主観的な独白となり、人間は自分以外の誰かと対話する為の重要な媒体を失ってしまうことになる。

 尤も、或る単語の意味が規範的であると看做される場合、我々はその規範的性質が適用され得る範囲に就いて、精確な測定を怠ってはならない。辞書の語釈だけが、我々にとって唯一の規範的意味であるとは限らない。例えば、所謂「隠語」は、特定の集団の内部においてのみ、規範的性質を帯びる言語的体系である。集団に属さない人間に向かって、隠語の規範的性質の共有を期待するのは、合理的な振舞いではない。

 プラトンの提唱する「ディアレクティケー」(dialektike)においては、主題となる単語の明晰な定義が重視される。そもそも彼の展開する精緻な議論の総体そのものが、或る単語の厳密な定義の過程であると看做すことも可能である。一つ一つの言葉が指し示す「意味」を厳密に確定する為に、精緻な論証を通じて一定の合意に達することが「ディアレクティケー」の本質的な意図なのである。

 「テアイテトス」において、プラトンは「知識」という言葉の実質を探究する。「知識」という言葉が指し示す対象の本質的な姿を究明すること、それは常に事物の「実有」(ousia)を把握しようとする「ディアレクティケー」の原則に合致する営為である。「知識」という概念から、偶有的な要素を除去し、夾雑物を洗い流して、純然たる「知識」の「実有」を明示する為の言語的応酬が、この対話篇の主旨である。プラトンの哲学は常に、こうした「言語的蒸留」とでも称すべき過程によって構成されている。

 「テアイテトス」の前半において、詳細な審査の主題となるのは「知識」を「知覚」と同一視する議論の整合性である。所謂「プラトニズム」の体系において、人間の「知覚」は、絶えず生成変化を繰り返す不確定な存在としての「肉体」に属するがゆえに、決して生成変化することのない普遍的な「真理」を把握することが出来ないと看做される。こうした「生成」と「実在」の区別は、プラトンの提示する総ての議論を支える礎石となるものである。彼の考えでは、事物の「本質=真理=実在」は一つの連環を成している。実在するものだけが、その事物の「本質=真理」に相応しいと看做されるのである。一方の「生成」は絶えず流動し、変異し、決して首尾一貫した本質的要素を堅持しない。言い換えれば、生成するものに就いて、その「本質」を定義することは不可能なのである。「本質」と思しき要素を特定したところで、それは時間的な遷移の過程で失われるかも知れない。例えば太陽の光は、時刻や天候に応じて千差万別に色彩を移ろわせる。そのとき、橙色の光や深紅の光を、日光の本質的な特性として定義することは出来ない。日光が常に橙色や深紅の状態に留まり続ける訳ではないからだ。プラトンの考えでは、事物の「本質=真理」は、必ず「常住」の性質を備えていなければならない。そしてプラトンにおける「認識」という概念は、こうした事物の常住する性質を厳密に把握することを指しているのである。

 「生成」に関する認識は、事物の偶有的な側面だけを捕捉している。従って「生成」に関する認識の裡に留まり続けることは、事物の「本質=真理」の把握から遠ざかることを意味している。そして肉体的な「知覚」は正に、専ら「生成するもの」として顕れる。言い換えれば、肉体的な「知覚」は、それ自体が常に一つの生成的な現象であると看做されるのである。「知覚」は「認識」の種類であるというよりも、寧ろ「認識」の「対象」に他ならないのだ。

 諸々の生成的な現象の裡に、普遍的な「実相」(eidos)を見出さない限り、我々の思考は単なる受動的な現象の連鎖であることを免かれない。「知覚」という現象、古代ギリシア語で「アイステーシス」(aisthesis)と呼ばれる現象を、そのまま事物の「本質=真理」に関する「知識」と看做すのは、自らの思惟を生成界の原理に埋没させることに等しい。

 アイステーシスは、各自の肉体の内部で生滅を繰り返す流動的な現象である。それを「真理」として遇することは、即ち「真理」の複数性と相対性を容認することに他ならない。その都度、局所的な法則や経緯に導かれて生起する一つの認識を「真理」に擬することは、つまりアイステーシスの内容をそのまま「真理」として認めることは、プラトンの基礎的な定義に反して、時間的に遷移し変容する「認識」を「真理」として取り扱うことに等しい。それは「真理」の夥しい分裂と飛散を含意する。自己の認める「真理」と他者の認める「真理」との間に齟齬が生じること自体が、こうした「相対主義」(relativism)の主要な弊害なのではない。問題は、こうした齟齬が生じた場合に、両者を共通の認識と合意へ導く手段が棄却されてしまうという点に存するのだ。共通の「真理」というものが有り得るという前提を排除してしまえば、仮に我々が「認識」の共有に至る場合があったとしても、それは偶発的な事象に過ぎないということになる。それはプラトンの信奉する「ディアレクティケー」の存立する理論的根拠の破綻に等しい。プラトンが他者との問答を重視するのは、そもそも「真理」という概念が「万人に妥当する普遍的事実」として定義されている為である。各自の主観的認識(アイステーシス)の絶対的な正しさを認める相対主義の寛容な性質は、却って人々の間に絶望的な断絶を形成してしまう。「真理=正義」を共有しない限り、人間は相互に連帯することが出来ない。アイステーシスの絶対化は不可避的に、そうした連帯の可能性を根本から壊死させてしまうのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫
 

「誘惑」に就いて

 私の職場は女性が多く、色恋沙汰に関する悩み事や様々な見解などが日常的に飛び交っている。結婚や出産も含めて、そうした性愛的な事柄に関するスタンスは人によって千差万別であり、趣味嗜好も実に多様である。先日は「色気とは何か」ということが話題に上った。既婚者であれ独身者であれ、そういう問題に執拗な関心を寄せる人というのは珍しくない。我々は良くも悪くも自由主義的な競争原理に従って生きている。性愛的な領域においても、そうした自由主義的な競争原理が猛威を揮うことは避け難い。「色気」に関する適切な知見を得ることは、より善く生きることと密接に関連する問題なのだ。

 性愛の相手を得る為に様々な訴求を行なって、愛情を勝ち得ようと試みることは、人間に限らず、あらゆる生物が日常的に取り組んでいる普遍的な営為である。動かない植物でさえ、美しい花弁を咲かせることで昆虫を誘惑し、花粉を運ばせて繁殖に結び付けようと躍起である。孔雀が絢爛たる翼の紋様で求愛するのも、人間が華美な衣裳で着飾って他者の注目を集めようとするのも、基本的には同質の現象である。

 性愛の快楽を共有すること、これは多くの人間が生得的に持ち合わせている本能的な衝迫だが、その意味するところは必ずしも明確に定義されていないように思われる。多くの場合、それは単なる純然たる肉体的快楽の獲得だけを企図している訳ではない。肉体的な快楽の共有、相手の存在を生々しく実感することの歓喜、こうした要素に人々が惹かれるのは、煎じ詰めれば濃密なコミュニケーションへの欲求に促されている結果ではないかと考えられる。快楽への期待が、人を生殖的な行為へ駆り立てることは確かに一つの事実だ。だが、その束の間の快楽が、人間の精神に対して持っている暗喩的な「意味」を捉えなければ、性愛に惹かれる心理の秘密を解明したことにはならない。

 端的に言って生殖的行為は、極めて無防備な状態で行われる。それは常日頃、慎重に蔽い隠されている自己の内奥を開示することに等しい。当然、剥き出しにされた自己の内奥は極めて繊弱で傷つき易く、非道な暴力に晒されれば存在の根幹を損なう深刻な痛手を蒙ることとなる。従って一般に性行為は、不特定多数の人間と行なうべきものではないと考えられている。危険な人間と性行為の時間を共有することは、場合によっては致命的な惨劇を齎しかねないからである。

 保身に対する欲求の強い人間は、自己の内奥を他者に開示することに心理的な抵抗を覚え易い。自己の内奥、言い換えれば「魂」(psyche)の開示は、他者の齎す危害への無抵抗を含意しているからだ。必然的に彼らは禁欲的な振舞いを心掛けるようになり、性行為の時間を共有する相手の選定に関して、峻厳な基準を設けることとなる。結果として彼らは「色気」と呼ばれる性愛的な魅惑の力を抑制し、他者の官能的関心を喚起することを回避するようになる。一般に「色気」の稀薄な人間は、異性の趣味が厳格で、容易には他者に心を許そうとしない。「魂」の開示によって致命傷を負うことを何よりも危惧するからである。彼らは他者を誘惑せず、相手の誘惑に応じようとも考えない。

 逆に言えば、所謂「色気」の濃密な人間は、他者に向かって「魂」の開示を行なうことに積極的であり、心理的な傷痍への耐性が堅固であると考えられる。「誘惑」とは要するに「魂」を開示するよう他者に促す表現を含んだ一連の行為である。彼らは「魂」の相互的な開示、換言すれば「魂の共有」を積極的に欲し、その機会を獲得することに熱心である。心理的傷痍への危惧よりも「魂の共有」に対する欲望が優越しているので、他者の欠点に対する苛烈な問責よりも、その美質の評価を重んじる傾向が強い。保身的な人間は他者の重大な欠陥を看過することを懸念するが、開示的な人間は寧ろ、欠陥に拘泥することで他者の美質を看過する事態の方を懼れる。従って開示的な人間の嵌り易い陥穽は、相手の美質を過大に評価して、その欠点を見落とし、思わぬ痛撃を蒙るような事態であると言える。他方、保身的な人間を待ち受ける陥穽は、狷介な孤独への逼塞である。彼らは他者を容易に信頼せず、仮に信頼したとしても、相手の欠陥に着目する頻度が高いので、円満な共有関係を長期的に維持することに困難を覚え易い。「魂の共有」に到達する頻度も持続性も、共に低下せざるを得ない。

 従って「色気の有無」に関するパラメータは、当人の性愛に関する「開示性=閉鎖性」のパラメータに比例すると考えることが出来る。開示的な人間は「色気」が高まり、閉鎖的な人間は「色気」が低下すると言い得る。開示的な人間は「誘惑」の応酬を好み、その過程を通じて「魂の共有」へ到達することを歓ぶ。閉鎖的な人間は「誘惑」を嫌悪し、軽率に「魂の共有」を求めることで蒙るかも知れない心理的傷痍の排除を何よりも優先する。また、開示的人間の審美的基準は寛容であり、閉鎖的人間のそれは峻厳である。開示的人間の審美的基準は、その包摂する範囲が広く、対象に課せられる条件も少ない。他方、閉鎖的人間の審美的基準は極めて厳格で、対象に課せられる条件は非常に厖大である。開示的人間は、実に多様な人々との「魂の共有」を期待するが、閉鎖的人間は、少数の限定された種族との間でしか「魂の共有」が行われることを望まない。

 「恋愛」と「結婚」の相違点は、こうした見地から眺めることで、より一層鮮明になるのではないかと思われる。「恋愛」においては「開示性」が、「結婚」においては「閉鎖性」が重要な価値を示す。何故なら一般に「結婚」の規約は、複数の相手との間に性愛的な「魂の共有」が生じることを禁じているからである。従って限定された単一の相手との間に「魂の共有」を営むことを望む性愛的な閉鎖性は、必然的に「結婚」の原理と合致し易い。但し、この閉鎖的な性向が極端に亢進すると、配偶者に対する依存が過度に強まり、彼らの関係は、公共的な客観性を欠くようになる。

 「恋愛結婚」に附随する構造的な困難は、本来ならば異質な原理に基づいている独立的な営為を、単一の原理によって統合しようとする方針に由来していると言える。つまり「結婚」の条件として「恋愛」の成立を要求する社会的規範は、性愛的な「閉鎖性」の条件として「開示性」を要求するという屈折した論理を含んでいるのである。こうした逆説的構造は、結婚に向いている人間を結婚から疎外したり、或いは結婚に向いていない人間を結婚へ促したりする。しかし、単純に「恋愛」と「結婚」を分離したとしても、様々な問題が一挙に解消される訳ではない。当事者の合意に依拠せず、他律的な規範によって伴侶が決定される旧弊な婚姻の制度を復権させたところで、開示的人間が「魂の共有」に就いて寛容な基準を持ち、閉鎖的人間が峻厳な基準を持つという現状は変更されない。開示的人間は、如何なる相手と婚姻しても円満な関係を築き上げる可能性が高いが、同じ理由で、複数の相手と「魂の共有」を図ろうとする懸念を排除し得ない。閉鎖的人間は、望まない相手との婚姻に適応出来ない虞が強く、それゆえに配偶者以外の誰かと「魂の共有」を実現しようと試みて、不倫という形式へ陥る危険を孕む。何れの場合にも、彼らが性愛的な「魂の共有」を抑圧される見込みは大きいのである。それならば「恋愛結婚」という様式を認めた方が、未だしも合理的な判断であると言えるだろう。

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「テアイテトス」の前半は、プロタゴラスの教説に象徴される「知識=知覚」の等式を反駁することに充てられている。この等式と、そこから導かれる「相対主義」(relativism)の言説が、プラトンの教説に正面から背馳する論理であることは明白である。「知覚」は「肉体」という生成的で流動的な存在と緊密に結び付いた「認識」の形態である。この「知覚」が齎す不安定な認識を「知識」と呼ぶことは、普遍的な「真理」の実在を要請するプラトンにとっては、受け容れ難い謬見となる。

 各自の「知覚」を「真実」と看做すプロタゴラスの理路は、否が応でも相対主義的な分断を形成してしまう。彼の理論に基づけば、個人の感覚の裡に生じる流動的な「現象」(phenomenon)の姿は悉く、事物の「実相」(eidos)の精確な反映として扱われる。「私」の見ている真実と「貴方」の見ている真実との齟齬は、客観的で超越的な審級によって是正されることはない。「現象」と「実在」を結び付けることの困難は、こうした相対主義の地獄を不可避的に析出してしまう点に存する。超越的な「真理」の不在を言い立てる者は、それゆえに生じる悲惨な帰結を受容する覚悟を固めねばならない。

 自分の内在的な感覚、主観的な認識を絶対的な「真理」として処遇すること、こうした相対主義的規範の齎すであろう弊害は枚挙に遑がない。「知覚=現象」を「真理」と等価であると看做すことは、要するに単一の「真理」を複数の「真理」へ分裂させることに等しい。だが、複数形の「真理」というものが成立し得るならば、それらが相互に矛盾するとき、我々は如何にして「真理」の内実を確定すればよいのだろうか? 複数の「真理」を統合する超越的な規範を想定しないとすれば、我々は永遠に妥結しない交渉の円卓を囲み続けることとなる。如何なる話し合いも、共通の利害や目標や理念によって統御され、調整されることがない。相互の融和的な「合意」の代わりに、一方的な「屈服」だけが議論の帰結として生み出される。それは相手の掲げる「真理」への面従腹背であって、全面的な信頼や共通の認識が培われた訳ではない。要するに極端な相対主義は、あらゆるコミュニケーションの断絶と、組織的な紐帯の離散を不可避的に惹起するのである。

 類的なコミュニケーションが成立する為には、必ず共通の認識的基盤の介在が要請される。銘々の主観的な感覚だけが真実ならば、そうした共通の認識的基盤を整備することは不可能である。この認識的基盤は、我々の主観的な感覚を超越した「真実」が存在するという見解の共有に基づいて形成される。外在的な「真理」を想定しなければ、我々の内部に生じる一切の認識は自動的に「真実である」と看做され、必然的に「正しい認識」と「誤った認識」という二分法は成立しなくなる。従って、我々の「認識」が発達したり退行したりすることも有り得ないということになり、如何なる哲学的探究も無意味な循環に過ぎないものとして処遇される。言い換えれば、相対主義的な論法を認めることは、哲学者にとっては致命的な自己否定を意味するのである。如何なる認識も自動的に「真理」として扱われるのならば、つまり「虚偽の認識」というものが有り得ないのならば、そもそも人間は賢明であったり愚昧であったりすることも出来なくなる。我々は如何なる認識に囚われているときでも無条件に「正しい認識」の所有者として認められる。それは要するにプラトニックな「真理」の概念を廃絶することに等しい。

 プラトンの批難する「弁論術」(rhetorike)の遣い手たちは、こうした相対主義的な地獄の中を巧みに泳ぎ回る。彼らにとって「真理」の概念が複数形であることは、聊かも不都合を齎さない。彼らが求めるのは普遍的で絶対的な「単一の真理」ではなく、聴衆の眼に映る相対的な「正しさ」の姿形である。狡猾な弁論家たちは、聴衆の欲望の構造に即して可塑的な「正義」を造形し、それによって間接的な権力を掌握する。他者の心理を操ることに長けた人々は皆、こうして相手の魂を誘惑し、結果として聴衆の惜しみない称讃を集めながら、彼らの頭上に王者として君臨する。聴衆の欲望の種類が豊富であるならば、それに応じて形成される「真理」の種類も自ずと豊富になる。言い換えれば、狡猾な弁論家たちが聴衆に賦与するのは絶対的な「真理」ではなく、聴衆によって「真実」であると期待されたものを実際に「真理」として正当化する巧みな言説なのである。そうした振舞いを、プラトンは「迎合」と呼んで糾弾する。弁論家たちが語るのは、常に揺るぎない単一の「真理」ではなく「真理に似た何か」であるに過ぎない。「真理の幻影」或いは「真理の写像」を巧緻な弁舌によって織り成すこと、それは「弁論術」(rhetorike)ではあっても決して「哲学的問答」(dialektike)とは認められない。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫
 

Cahier(relativism and alternative facts)

*最近は専らプラトンの対話篇を読んでいる。断続的に取り組んでいた『国家』(岩波文庫)の繙読を漸く了えて、その後は『パイドロス』(岩波文庫)に進み、現在は『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に着手している。

 プラトンの厖大な対話篇が綴られたのは、紀元前の古代ギリシアである。今から二千数百年も昔に誕生した著述が、世界中で読まれ、詳細な研究の対象に選ばれ続けているというのは驚嘆すべき事実である。幸いにも散佚を免かれた御蔭で、彼の著作は未だに特権的な影響力を堅持している。そして彼が数多の対話篇を通じて論じた問題は今も猶、完璧な解明を得られぬまま、知性的な刺激の源泉として底知れぬ奥行きを湛えている。

 プラトンの思考は極めて緻密な論証の連鎖である。彼の提唱する「ディアレクティケー」(dialektike)は、あらゆる思考と認識を厳密な再審に附し、世間に横行する諸々の偏見の不完全な性質を見事に曝露する。それは他者との論争に勝利して名声を博する為ではなく、端的に「真理」を把握する為の営みである。普遍的な「真理」に到達する為に、あらゆる認識の妥当性を吟味すること。「テアイテトス」においてソクラテスが語った「助産」の比喩に示されているように、プラトンは何らかの学説を聴衆に信じ込ませる為に、厖大な言葉を費やした訳ではない。弁論術に長けたソフィストたちは、自説を聴衆に認めさせる為の技巧の錬磨に忙しい。しかし、プラトンの手で理想化された「哲学者の範型」としてのソクラテスは、独創的な自説を聴衆に向かって押しつけがましく語るのではなく、相手の抱え込んでいる素朴な偏見を解体することに専心している。「確実な認識」を手に入れること、それが「哲学者」の野心である。「自説への信頼」を獲得することは、飽く迄も饒舌な「ソフィスト」たちに固有の野心である。

 言い換えれば、プラトンの対話篇を学ぶことは、確立された学説を鵜呑みにすることではなく、外在的な知識を吸収することでもない。重要なのは「ディアレクティケー」という思考の技術を習得することだ。従って哲学的な知見は、絶えず四囲の現実に向かって具体的に適用されねばならない。プラトンは「パイドロス」において「ディアレクティケー」の実践的な原理として「綜合」と「分類」の二つの技法を提示しているが、このような論証的思考の過程を学習することが、最も肝腎な点なのである。

プラトンは論証に際して、一つ一つの言葉の厳格な「定義」を重視する。厳格な「定義」を省略した議論は、本来ならば異質な要素を混同して、曖昧で多義的な「言葉」や「認識」を生み出してしまうからだ。

 ソクラテス そのひとつは、多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめること。これは、ひとがそれぞれの場合に教えようと思うものを、ひとつひとつ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。(『パイドロス岩波文庫 p.133)

 「ただ一つの本質的な相」とは、別の言い方を用いるならば「イデア」(idea)であり、或いは「ウーシア」(ousia)である。事物の「本質」を探究することは、プラトンの提唱する「ディアレクティケー」の最も重要な秘鑰である。私見では、世上に蔓延する諸々の偏見や固定観念は、本来ならば相互に異質な事柄を安直な仕方で「混同」することによって培われ、知らぬ間に強固な「謬見」(doxa)として完成される。例えば「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的なイデオロギーは、これらの相互に異質な要素を「混同」することで成り立っている。しかし厳密に検討すれば、これらの要素は分離することが可能である。

 現行の日本国憲法は「婚姻」の根拠を「両性の合意」に求めている。この場合の「合意」という言葉は、必ずしも「恋愛感情」の介在を意味しない。経済的な理由、政治的な理由、宗教的な理由など、様々な事情を加味した上で、何らかの形で「合意」が成立すれば、当人たちが相互に性愛的な関心を懐いていなかったとしても、両者の「婚姻」は可能である。けれども「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的なイデオロギーは、あらゆる「婚姻」が「親密さ」への性愛的な関心に依拠することを求める。若しも「婚姻」が性愛的な関心を欠いていたら、肝腎の「生殖」の過程が円滑に遂行されない懸念が生じるからである。伝統的な「婚姻」の制度は、社会の存続の礎である「生殖」の過程を保護し、促進することを目的として存在しているのだ。

 「結婚=生殖」の緊密な連携に「恋愛」という要素が附加されたのは、個人の「自由」や「権利」や「主体性」を尊重しようとする社会的な趨勢の影響であろうと考えられる。言い換えれば、個人の「幸福」という観念が「結婚=生殖」の連合的な観念に接続された結果なのである。「社会の存続」という公共的な義務の代わりに「個人の幸福」という主観的な基準が「婚姻」の制度を支配するようになったのだ。結果的に「婚姻」の可否は、個人の恣意的な裁量に委ねられるようになり、包括的な「非婚化」(即ち「離婚」及び「未婚」の増大)の亢進を惹起した。「不幸な結婚」は積極的に忌避され、解体されるようになったのである。

 「個人の自由」の優越は、端的に言って「個人的欲望の更なる充足」の優越と同義である。それは「貪婪」という伝統的な悪徳に肯定的な意味を賦与することに等しい。「欲望」は「節制」の対象から「厚遇」の対象へと移管され、画一的な道徳律への従属は必ずしも評価されなくなった。「謹直な人間であること」の価値は「退屈な人間であること」の無価値に置き換えられてしまった。相対的な「市場」の審判に屈することが(プラトンならば、それを「迎合」と呼ぶだろう)正当な振舞いとして認められ、普遍的規範は衰微し、個人の自由な意見や感覚が影響力を増した。極端な「相対主義」(relativism)は「公共的価値」(public interest)への関心や意欲を減殺し、広範な連帯の成立を阻害するだろう。

 自己の感覚や思考を絶対化すること、それが「相対主義」の風潮の中で育まれるということは逆説的な事実である。「各自の考えを尊重する」という方針が「普遍的な正しさの欠如」を伴って貫徹されるとき、我々は所謂「もう一つの事実」(alternative facts)の氾濫する世界へ投げ込まれるだろう。「デモクラシーから独裁が生じる」というプラトンの「国家」における洞察は、極めて犀利なものであったと言える。

プラトン「パイドロス」に関する覚書 2

 プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。

 「パイドロス」の主要な議題は所謂「弁論術」(techne rhetorike)である。前半において詳細に論じられた「エロス」(eros)に関する相互に対極的な二つの学説は、弁論術の恣意的で詭弁的な性質を露わに告示する為の手続きであると考えられる。同一の主題を扱いながら、対蹠的な立論が共に成り立つということは、その議論が事物の「本性」(ousia)に即していないことを暗示している。

 プラトンの弁論術に対する批難は、それが「真実」の確定を求める代わりに「真実らしきもの」の捏造に注力しているという点に向けられている。同一の主題に関して、賛成であろうと反対であろうと、何れの場合にも尤もらしい(つまり「真実らしい」)議論を樹立することが可能であるのは、弁論術の技巧が根本的に「真理」の把握を目的としていないことの必然的な帰結である。弁論家たちは他者の歓心を購い、人々の欲する意見を先回りして贈与する。弁論家にとって重要なのは、聴衆が彼の意見を正しいと認め、心から受容することであり、それに比べれば彼の意見の「真贋」は副次的な問題に過ぎない。こうした弁論術の本質を、プラトンは「迎合」(kolakeia)という言葉で要約している。弁論家の目的は「真理」の把握ではなく、特定の見解を紛れもない「真理」であると聴衆に信じ込ませることに尽きているのだ。従って聴衆の信頼さえ得られるのならば、その見解が「真理」や「本質」に適っている必要はない。

 プラトニズムの本領は「真理」の絶対的な希求と、その精密で徹底的な「論証」の過程に存する。その観点から眺めるならば、弁論家たちの駆使する変幻自在の「詭弁」は堪え難い欺瞞に思われただろう。「迎合」と結び付いた弁論術は、他者を説得し感服させる為ならば如何なる論理的欺瞞も辞さない。普遍的な「真理」に対する忠誠の代わりに、彼らが重んじるのは「真理」の「複数性」及び「相対性」に対する信仰である。文脈に応じて変貌を繰り返す玉虫色の「真理」こそ、迎合的な弁論家たちの栄光を成り立たせる「秘鑰」なのであり、普遍的な「真理」は却って彼らの業務を妨げる障碍となりかねない。「エロス」に関する「両論併記」は、これらの学説が普遍的な「真理」に達していないことの明確な傍証に他ならないが、狡猾な弁論家にとっては、こうした「両論併記」を容認する難解な主題こそ、最良の「獲物」なのである。

 或る主題に関して、極めて強固な社会的合意が成立している場合には、弁論家の巧妙な話術が活躍し得る余地は乏しい。けれども、固より統一的な見解を欠いているような論題に就いては、如何なる学説も等しく「真理」の尊称を勝ち得る可能性を秘めている。弁論家たちの狡智は、こうした不確定で曖昧な領域に分け入ることで、最も華々しい成果を稼ぎ出す。彼らは聴衆の信頼を買い漁り、人々の潜在的な欲望に応えることを何よりも優先して、壮麗な「ロゴス」(logos)の伽藍を建設する。彼らの作り出す精緻な論理は、真実の粗描ではなく、聴衆への巧妙な阿諛追従なのである。

 「論争」と「問答」の区別は、プラトンにとって重要な意味を孕んでいる。「論争」の目的は相手の言い分を打ちのめし、自己の学説の正しさを満座の聴衆に認めさせ、厳格な論証や公平な分析よりも、好意的な「印象」を勝ち得ることに特化している。一方の「問答」は言葉による闘争ではなく、共通の目的である「真理の把握」に向かって論理を積み重ね、議論の勝敗や優劣ではなく「たった一つの真実」へ互いに手を携えて辿り着くことに至高の価値を置いている。プラトンの弁論術に対する批判は、弁論家たちが「真理」を不要と看做し、自己と聴衆の利害に応じて、相対的な正しさを次々に捏造する点に向けられている。

 ソクラテス それならば、弁論家が、何が善であり悪であるかを知らないでいながら、同じように善悪をわきまえぬ国民をつかまえて、説得しようとする場合を考えてみよう。この場合彼は、「驢馬の影」といったささいな事柄について、馬とかんちがいしながら、賞讃の言葉を作るというのではなく、悪について、それを善と信じながらそうするのである。もしこの弁論家が、群衆の思わくというものを研究しつくすことによって、善い事柄のかわりに悪い事柄を行なうように説得するとしたら、君はどう思う? 彼の弁論術は、こうして蒔いた種からあとでどのような収穫をおさめるだろうか。(『パイドロス岩波文庫 pp.114-115)

 「真理」を弁えずに他者を説得し、群衆を悪徳へ向かって嚮導するソフィストたちの振舞いを、プラトンは痛烈に弾劾する。恣意的な弁論を通じて生み出される複数の相対的な「真理」は、彼の信仰する普遍的な「真理」の概念とは全く相容れない。プラトンが「ディアレクティケー」(dialektike)を重視するのは、論争に勝利し、自己の見解を「真理」の玉座へ推戴する為ではない。他者と共同で普遍的な「真理」へ到達する為の慎重な登攀が、その本質的な企図である。「彼の言うことはいつわりである。彼はけっして技術ではない。むしろ、技術としての資格をもたない一つの熟練にしかすぎぬ」(p.116)というのが、弁論術の実情に関するプラトンの言い分なのだ。

 感覚や情動に依拠する思弁は、プラトニックな「真理」を隠蔽する障壁に過ぎない。そして弁論術の実情は、聴衆の感覚や情動に訴求することで何らかの利益を得ようとする営為であるから、弁論家たちは「真理」から疎外されざるを得ない。尤もプラトンは、弁論術そのものを否定しているのではなく、その生成的で現象的な性格を批難しているのである。彼は「真理」に依拠した「弁論術」としての「ディアレクティケー」を提唱し、その崇高な意義を主張する。言い換えれば彼は「真実の弁論術」と「虚偽の弁論術」を区分するという持ち前の手法を駆使して、巷間に横行する不正な「熟練」の称揚を阻もうと試みているのである。

 こうした企図を実行に移すに当たって、プラトンが依拠するのは初期の対話篇において頻繁に顕れる「アポリア」(aporia)の概念である。相手の論理を敷衍し、その矛盾を明示することによって、相手の論理の正当性を自壊させるソクラテス的な叡智が、プラトンの提唱する「ディアレクティケー」を支える核心的な要素なのである。彼は「真理」の価値を等閑視し、専ら「真実らしさ」の追求に明け暮れる通俗的な弁論術の内包する矛盾を焙り出す。「真理」の内実を理解しない人間が、何らかの事実を「真理」として仮構することは出来ない。こうした批判は、通俗的な弁論家たちの信奉する次のような論理を破壊する効果を備えている。

 パイドロス その点については、親愛なるソクラテス、私は次のように聞いています。つまり、将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく、群衆に――彼らこそ裁き手となるべき人々なのですが――その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから、とこういうのです。(『パイドロス岩波文庫 pp.112-113)

 こうした議論は様々に変奏されながら、現代の社会にも根強く息衝いていると言えるだろう。「正義の相対性」という考えは、聊かも奇異な概念ではない。それに対してプラトンは「真理」の把握を抜きにして「正しいと思われる可能性のある事柄」を判別することは出来ないと反駁する。「そのような真実への類似を最もよく発見することのできるのは、いつの場合でも、真実そのものを知っている者なのだ」(p.159)というのが、彼の申し立ての要旨である。

 こうした議論を踏まえて言えることは、プラトンが決して「真理」の高みに逼塞することを肯定していないという点である。彼は不正な弁論術の横行を指弾するが、それは弁論術そのものの廃絶を欲する為ではない。対話篇「国家」に登場する著名な「洞窟の比喩」においても、彼は「真理」を観照した者が、生きながらにして「幸福者の島」に留まることを戒めている。世界を「実有=仮有」の二項に区分し、その優劣を論じる手法はプラトンの常套であるが、彼は決して「実有」の境涯へ安住することを奨励している訳ではないのだ。「実有」を踏まえた上で「仮有」の世界に生きることが、彼の信じる「徳性」の要諦である。「真理」を識別した上で、弁論術の多彩な技巧を駆使することが肝腎なのだ。こうした倫理的規約が、彼の哲学を「神秘主義」への飛躍から救済している。「実有」への移行の不可能性、これがプラトンの思想の「節度」なのである。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

プラトン「パイドロス」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。

 「パイドロス」の前半において熱心に追究される主題は「恋愛」(eros)である。尤も、この「恋愛」に関する精密な定義を示すことが、必ずしも当座の目的であるとは言えない。恐らくプラトンの意図は「恋愛」が「両論併記」を受け容れる流動的な振幅を備えた主題であることを読者に告げる為に、リュシアスの議論とソクラテスの議論を最初に併置してみせたのである。

 リュシアスは「自分のことを愛する者より、愛さない者に身を任せるべき」であると論じ、一方のソクラテスは「自分のことを愛する者に身を任せるべきである」と論じる。興味深いのは、何れの言い分にも相応の説得力が備わっているように聞こえることだ。リュシアスは「恋愛」の野蛮で利己的な側面に就いて論じる。彼の論述の方針に基づいて、ソクラテスが一層精緻な表現を以て粗描してみせた「エロス」(eros)の姿は醜悪で、独善的且つ抑圧的な権威を纏っている。

 だから、恋する者は必然的に嫉妬ぶかくならざるをえない。そして一般に、立派な人間となるのにとくに役だつ数多くの有益な交わりから愛人を遠ざけることによって、重大な害悪をもたらす因となるのは、さけられないことである。とりわけ、叡智を最も高めうるような交わりをさまたげるとき、この害悪は最大となる。叡智を最も高めるものといえば、神聖な哲学のいとなみこそがそれであって、恋する者は、自分が軽蔑されるようになるのをおそれるのあまり、愛人をこのいとなみから遠ざけずにはいられない。またその他一般に、彼は、自分の愛人が何ごとにつけても無智のままでいて、何ごとにつけても、恋している自分のほかには目をくれないようにと策をめぐらすのは、必然のなり行きである。そういった彼ののぞむ通りの人間に愛人がなるならば、愛人はたしかに、自分を恋している彼にとってはこの上なく快い人間となるわけであるが、しかしそれは、われとわが身を最も毒することにほかならないであろう。

 このようにして、精神的な面の事柄に関しては、心に恋をいだく人間は、保護者として、交際の相手として、どうみてもけっして有益な人間ではないのである。(『パイドロス岩波文庫 pp.46-47)

 「パイドロス」の執筆におけるプラトンの綜合的な意図に就いては暫し措く。リュシアスの著述を敷衍する形で、ソクラテスによって展開された議論は、所謂「恋心」に関する適切な分析に成功しているように思われる。この「恋心」は、自己の享楽に他者を奉仕させる狭量な執着と同義である。その便利な奴隷の離反を防ぐ為に、恋する者は恋される者を「無智」と「孤立」の裡に収監しようと策謀する。それは傍目には醜悪な「搾取」の関係に他ならないが、支配者の独善的な悪徳と同様に、奴隷の側にも力強い他者への盲従を厭わない卑屈な悪徳が備わっている。つまり、こうした関係は隠然たる「共犯」の密約に支えられているのである。

 こうした「エロス」の正体は要するに、官能的な欲望による「霊魂の独裁」であると言えるだろう。肉体的な享楽が、総ての欲望や未来への配慮に優越し、当人たちの霊魂の秩序を完全に掌握しているのである。それゆえにリュシアスは「自分のことを愛さない者に身を任せるべきである」と結論する。言い換えれば、自己の存在を官能的な仕方で欲することのない相手に限って、官能的な関係を結ぶべきであるという逆説的な表現が、リュシアスのコロラリーなのである。

 しかしながら、自己への官能的な欲望を持たない相手に限って、官能的な関係を結ぶべきであるという奇態な格率は、必ずしも理解の容易な命題ではない。自己に対して官能的欲望を感じない相手と性的関係を結ぼうと試みるのは、如何なる動機に基づく行動だろうか。欲望の存在しない場所で、欲望を充足させることは論理的に不可能である。こうした疑問を解決する為には恐らく「功利的打算」という観念の補助線が必要だろう。つまり、官能的な関係をそれ自体の享楽の為ではなく、何らかの外在的な利益を得る手段として駆使すべきであるという狡智が、リュシアスのコロラリーには潜んでいるように思われるのである。

 若しも「エロス」が邪悪な享楽と同義であるならば、相手が誰であろうと、官能的関係を取り結ぶことは忌避されるべきだろう。「恋する者の欠点」を論うことは、実際には「エロス」そのものの本質的な悪徳を排撃することに等しい。欲望は理性によって適切に制御されねばならないが、それを功利的な打算の為に使役することもまた、一種の世俗的な享楽に対する衝迫に他ならない。

 他方、ソクラテスの語る反駁は、所謂「エロス」の両義的な性質に論拠を求めている。「エロス」は肉体的=相対的な享楽への欲求であると同時に、超越的な「実有」(仏教的表現を拝借する)の把握が齎す「真実の快楽」への肯定的な契機としても機能する。この場合、恋することは、相手の存在を通じて「実有」の認識を求めることと同一視される。言い換えれば、一口に「エロス」といっても、そこには「仮有」に対するものと「実有」に対するものの二種類が同時に含まれているのである。こうした区分は、プラトニズムの総体を規定する根本的な原則である。つまり、事物に関する認識を「実在」と「現象」の二項対立に還元することが、プラトニックな思考の基礎を成しているのである。

 まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてある﹅﹅ ところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である。真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。されば、もともと神の精神は――そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこのことは同じであるが――けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、いま久方ぶりに真実在を目にしてよろこびに満ち、天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれるその間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、《正義》そのものであり、《節制》であり、《知識》である。この《知識》とは、生成流転するような性格をもつ知識ではなく、また、いまわれわれがふつうある﹅﹅と呼んでいる事物の中にあって、その事物があれこれと異るにつれて異った知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうの意味である﹅﹅ものだという、そういう真実在の中にある知識なのである。(『パイドロス岩波文庫 p.74)

 プラトニズムの倫理的規範は、こうした「実有」の観照を「幸福」の最大の源泉として規定する。「実有」を把握することは単なる道徳的な目標に留まらず、何よりも先ず個人の豊饒な実存を約束する有益な根拠として称揚されるのである。「生成流転するような性格をもつ知識」とは端的に言って感覚的=経験論的な認識を意味する。つまり「エロス」に関しても、感覚的=経験論的な水準に留まるものと「知性のみが観ることのできる」理性的水準に達するものの二種類が考えられるのである。そして両者を繋ぐ貴重な接点として「美」の概念が持ち出される(従って「絶対者の希求」に生涯を捧げた作家・三島由紀夫が、殊更に「美」の概念を重視したことは適切な帰結であると言える)。「美」は「実有」においても「仮有」においても、人間の魂を魅了し、劇しい欲望を喚起する特権を与えられている。プラトンが「美」を重んじるのは、それが「感覚」から「知性」への飛翔を促す最も有効な媒体である為なのだ。

 さて、秘儀に参与したのが遠いむかしになった者、あるいは堕落してしまった者は、この地上において美の名で呼ばれるものをみても、この世界からかの世界なる《美》の本体へとむかって、すみやかに運ばれることはない。したがって、そういう者は、美しい人に目を向けても、畏敬の念をいだくこともなく、かえって、快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で、交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしないのである。(『パイドロス岩波文庫 pp.84-85)

 低劣な「エロス」の虜囚に留まる者は、たとえ美しい事物に逢着したとしても、その背後に超越的な「実有」を見出そうとはしない。その認識的な水準は「生成流転」を義務付けられた感覚的な表象の裡に拘禁されている。しかし優れた知性の持ち主は、美しい事物を通じて「実有」としての「美」を想起し、超越的な世界への帰還を熱烈に希求するようになる。このようにプラトンソクラテスの口を借りて陳述する「エロス」の姿は、殆ど宗教的な情熱に等しい。単なる肉体的な享楽の希求に留まる「エロス」は、侮蔑的に排斥される。それが徐々に段階を踏んで超越的な「実有」への情熱的な希求に昇華されない限り、世俗的な「恋心」は単に節制されるべき野蛮な悦楽への欲求に過ぎない。けれども、それは「恋心」そのものの根源的な否定を意味するのではない。素朴な肉体的恋愛が、超越的な「慕情」へ通じる階梯の端緒であることは、明白に承認されているのである。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

プラトン「国家」に関する覚書 17

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの考えでは、人間の「霊魂=精神」(psyche)は不滅なる「実在」として定義される。「肉体」が生成的な現象界の裡に拘束されているのに対し、人間の「精神」は本来「実相」(idea)に類する存在であって、それは「肉体」と「悪徳」に汚染された状態で地上に顕現していると看做される。「本来ならば美しいものが、様々な障碍によって穢されている」という説話論的な構造が、その哲学の倫理的な規範を支えているのである。

 事物の「本性」(ousia)は普遍的で無時間的なものである。にも拘らず、我々の感覚が捉える事物が絶えず時間的な遷移の裡に置かれているのは、我々の感覚的認識そのものが、時間的な存在としての「肉体」の一部であるからだ。事物の「本性」を把握する為には、生成的で現象的な感覚の機能に頼ることは出来ない。滅び得る認識は、滅び得る対象しか捉えることが出来ない。

 プラトンの哲学的要求は、こうした現象的=生成的な制約への服属を承諾しない。つまり、彼は人間の認識が相対性の枠組みの中へ幽閉されることを峻拒している。プラトンは「理性」(logos)の絶対的な性質を強調し、それが事物の「本性」を捉え得る唯一の手段であり機能であることを説いた。「理性」は普遍的な事実だけを取り扱い、感覚的認識が陥る「流動性」の宿命を超越すると看做される。「理性」の認める真実は、如何なる時間的条件によっても遷移することのない絶対的な普遍性を伴うのである。

 けれども、そのような超越的機能が何故、有限である人間の「肉体」に備わっているのか。例えばルクレーティウスのように「霊魂」と「肉体」の有機的な合一を信じる見地に立てば、理性的認識と感覚的認識の峻厳な区別は成立しない。「霊魂」と「肉体」の有機的合一は、必然的に「霊魂」の有限性というアンチ・プラトニックな帰結を析出するからである。有限なる「霊魂」から超越的な「理智」(logos)が導かれ得るのであれば、有限なる「肉体」から導かれる感覚的認識も同様に超越的であり得るだろう。こうした論理に反駁する為には、不可避的に「霊魂の肉体に対する独立性」という命題を提起しなければならない。「霊魂」の普遍的な性格を認めなければ「霊魂」による認識の普遍的な性格を論証することは出来ない。従って「霊魂」は有限なる可死的な「肉体」から分離され、その自存的な性格を承認されねばならない。

 可死的な「肉体」から分離された「霊魂」は定義上、如何なる変容も遷移も免かれ、普遍的な仕方で、つまり無時間的な仕方で存在する。それならば人間の「霊魂=精神」が様々な不正や悪徳に覆われ得るのは何故なのか。こうした設問に対しては、他の事物に関する場合と同様に「実在=生成」の弁別が応答することになる。「霊魂」の本質は美しく聡明なものであるが、様々な偶有的要素と混淆することによって、その本来的な美徳が抑圧されてしまうのである。「理智」による普遍的な認識が歪められるのは、それが「感覚」による相対的な認識との癒合を強いられる為である。従ってプラトンの学説は不可避的に「霊魂の浄化」という理路を包摂することとなる。それは「霊魂」から「可死的=生成的=現象的」な要素を除去するということである。

 こうした論理を「魂の三区分」の見地から眺めてみれば、事態は一層鮮明な仕方で解剖される。プラトンの考えでは、人間の「霊魂」は「理性=気概=欲望」の三つの範疇に分類される。これらの要素において、普遍的な認識の獲得に対応するのは「理性」の部分である。他方「気概」及び「欲望」は、専ら相対的で生成的な現象に関与する部分であると看做される。従ってプラトンは「気概」及び「欲望」に対する「理性」の優越と権威を認めることで、人間の「霊魂」が「肉体」に代表される可死的な要素へ服属することのないように倫理学的な警告を発する。それは同時に「肉体的快楽」に対して「精神的快楽」を優越させることを含意する。「苦痛」との対比によって喚起される相対的な「快楽」を、理性を通じて享受される「真実の快楽」と弁別する議論は、こうした背景を踏まえて展開されるのである。

 「実在するもの」と「現象するもの」との区別は、プラトニズムの壮麗な体系を支える最も核心的な論理である。「どのようにあるか」ということと「どのように見えるか」ということは等価ではない。「真実らしく見える」ものが「真実である」とは限らない。例えばプラトンによるソフィストへの批判は、彼らの駆使する巧妙な「弁論術」を「現象するもの」に、プラトン自身の標榜する「ディアレクティケー」(dialektike)を「実在するもの」に紐付けることで成立している。「国家」の全篇を通じて議論される「正義」の主題に関しても、他者から「正義であると思われること」と「実際に正義であること」との区別は重要な意義を担っている。「芸術」に関する議論においても、プラトンは芸術家の「創作」に就いて、それが事物の表層的な「模倣」(mimesis)に留まり、精確な「知識」(事物の「本性」に対する適切な理解)の裏付けを欠いている点を指弾している。つまり彼は事物の「本性」(それが実際にどのようなものであるか)を知らずに、事物の「表層」(それがどのように見えるか)だけを把握し、表現することで、恰かも卓越した「叡智」の所有者であるかのように振舞う芸術家の姿勢を、欺瞞的な態度として排斥しているのである。

 民主主義的な政体に関するプラトンの懐疑も、同様の理路に基づいている。多数派の原理に依拠し、民衆の公約数的な総意によって国家の「守護者」を選任するデモクラティックな社会は、往々にして「実際に優れた人物」よりも「人々に優れていると思わせることに長けた人物」を重んじる欺瞞的な帰結へと至る。こうしたポピュリズムが齎した歴史的な悲劇は枚挙に遑がない(民主主義的政体が「僭主独裁」の成立を排除し得ないことは、例えばナチス・ドイツの事例が実証している。そうした理路を、プラトンは「国家」において明晰に予見している)。つまり、如何なる話柄を扱う場合においても、プラトンの議論は「実在=現象」の二元論的な構図に依拠する点で首尾一貫しているのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)