サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夏と女とチェリーの私と」 2

 二十歳の私は、蒸し暑く物狂おしい京都の日盛りの道を、黙々と歩いていた。大学を辞めて、空っぽになった身も心も、持て余しながら、耳障りな喧噪、人々の話し声、生温く湿った熱風、熱り立つような陽射し、それら様々な事象の混淆に、打ちのめされるように歩いていた。鴨川へ向かって東へ、とぼとぼと、だらしない足取りで歩いていたのは、私の心に一つの野心が芽生えた為で、要するに或る女性を好きになったのに、それを具体的な関係へ推し進める重要な一歩が、何も思い浮かばなかったのだ。若者らしい情熱に浮足立つばかりで、どうしたら、触れ合えぬ肌、絡まない指先を、繋ぎ合わせられるのか、もどかしい想いに鬱々としていた。その日は、午前中だけ授業の受け持ちがあり、国語と数学、一コマずつ教えた帰りで、地下鉄で四条まで来たところで、何の宛がある訳でもないのに、脚が自然と生温かい地下のプラットフォームへ逃げ出した。腹が減っていて、何か冷たい麺類でも啜りたいと、躰が疼いていたが、頭の方は然して食欲になど関心がない。
 同じ予備校の先輩講師であった彼女は、私よりも三つほど年上で、大学院の修士課程に通う才女であった。専門は物理学、別けても光学的な研究とやらに携わっており、然し研究者の卵に似つかわしい地味な、陰気な印象など少しも感じさせない、朗らかで円満な気質の人だ。職員室、というほど大した部屋でもない、狭苦しい事務室の一角で、偶然机を並べる機会に恵まれ、二言三言交わし、互いの素性に就いて当たり障りのない情報を交換することから始まった、ささやかな交情は、傍目には有り触れた、袖の触れ合いに過ぎないだろう。然し、私にとっては、何とも甘酸っぱい、奇蹟のようなひと時であった。何故なら、当時の私は未だ、黴の生えた童貞だったからだ。
 女を好きになる心持、その摩訶不思議な原理の成り立ちを、確かに辿り切る自信はない。何れにせよ、その根源に青々とした肉欲が犇めいていることは恐らく確実であるにせよ、動物が生殖という類的使命に背中を突かれ、定められた発情期に判で押したように盛り始めるのとは、幾らか事情が異なる。人間は、単に劣情だけで女の尻を追い掛けられるとは限らない、複雑な作りなのだ。況してや、女を知らず、世間を知らず、生きることの不条理にも疎い、若造の分際で、そんな青々とした肉欲だけを手掛かりに、誰かを慕うなんて、余りに不躾だ。案外、その頃の方が、妄想の翼の助力を要する年頃なのである。夢見る力に引き摺られて、或る日私たちは突然、思いがけない事故のように恋に落ちる。無論、それは事故であるから、傷が癒えれば、退院するほか、しょうがないに決まっている。哀しいが、長続きする事故を望んでも詮無いことだし、落とし穴に引っ掛かった自分を、愛に燃える青年として擬装する為には、どうしたって幻影に溺れる弱さが欠かせない。
 恐らくは何の変哲もない理系女子に過ぎなかった彼女を、そのほんのりと匂い立つ香水の甘酸っぱさや、細身の眼鏡を外した後の清々しい目許に基づき、性愛の対象として見凝めてしまったのは、勘違いに過ぎずとも、幻影には幻影なりの原理と、強度があるものだ。その幻の力強い翼に攫われた心を、闇雲に奪い返せと叫んだって報われないし、そもそもつまらない。
 出町柳の辺りで、静かな小径に面した暗い看板の喫茶店を見付けた。飛び切り苦い珈琲でも飲もうと考え、そのひんやりとした硝子戸を押し開け、席に着こうとしたところで、私は心臓を射竦められたように驚き、そのまま踵を返すべきか、反射的に思い悩んだほどであった。頭の中に、極彩色のペンキをぶちまけられたみたいな、訳の分からない煩悶が迫り上がる。彼女は、窓際の小さな卓子に向き合って、額をノートに擦り付けるように、何かを熱心に調べ、書いていた。さらさらと揺れる手許の万年筆は、成人式の日に母親から貰った贈り物で、確かモンブランだと言っていた。
 後ろで束ねた黒髪に、窓から射し込む夏のぎらついた光が当たって、ナイフのように白く鮮やかに見える。俯いた目許に、淡い橙色のフレームの眼鏡、薄く削いだ水晶のようなレンズ。私は息を呑み、畏怖すべき偶然に戸惑い、進み出て、声を掛けることを躊躇った。だって、こんな馬鹿げた話があるだろうか。これじゃ、まるで小説の中の、絵空事じゃないか。だが、実際に、これは今、目の前で生起しつつある、疑いようのない現実で、手を伸ばせば、触れられそうな近さで、彼女は呼吸し、思考し、ペンを走らせている。偶然の仕業だと信じるには、出来過ぎた抜群のタイミングで、私はこの初めて訪れる珈琲屋の軒先に立ち、ドアノブを、彼女も触った真鍮のドアノブを掴み、引き開けたのだ。
「御疲れ様です」
 堅苦しい他人行儀の鎧を、そう簡単には脱ぎ捨てられない、何しろ当方は奇妙な偶然に取り巻かれ、胸倉を掴まれたような気分で一向に落ち着かないのだから、親しげに微笑むなんて無理難題だ。引き攣った薄笑いだけが、精一杯の仮面となり、彼女の眼差しに対する防護壁の役目を背負ってくれる。静かに視線を上げた彼女の円らな瞳が、一層明るく見開かれ、色素の薄い瞳に、輝くような幸せの光が満ちる。幸せの光、つまり他人の心を温かく和らげる、ラジウムのように危険な放射性の感情。心の奥まで覗かれているような薄気味悪さが、胸一杯に広がって、莨を吸った訳でもないのに噎せ返りそうになる。
「どうしたの、こんなところで逢うなんて、珍しいじゃない」
 僅かに年上の、先輩風を吹かすような言い方も、声が舌足らずな甘さを湛えているので嫌味には感じない。舐められている、甘く見られていると、年下なりの男の矜持とやらを、埃を叩いてまで持ち出そうとも思わない。彼女の、陽射しを浴びた横顔に、特別なメッセージを読み取ろうと齷齪するのは、此方の勝手な都合で、妄想でしかなくて、彼女は唯、木々が風に戦ぐように、単にそこに腰掛けて書き物に時を費やしているだけだ。偶然? 果たして、偶然なんてものが、この世の中に存在するのだろうか。偶然と言えば偶然、必然と言えば必然、そうやって見る角度を革める度に世界は異なる相貌を剥き出すだけで、この意想外の邂逅も、単に「意想」の「外」だったというだけで、これが最終的に偶然となるか必然となるかは、最後まで書き綴られ、筆を擱かれた長い物語のように、結末を読むまでは定められないのではないか。
「ちょっと近くまで立ち寄ったんです。あ、午前中だけ、仕事だったんで」
 歯切れの悪い科白が、舌の上で息切れした魚のように飛び跳ねる。決して狙い澄まして、この邂逅を演出した訳ではないと、知らず知らず言い訳がましい気持ちになるのは、此方がこの数奇な偶然、出会い頭の衝突事故のような接触に驚き、下心を暴かれたような困惑に、苛まれていることの反映でしかない。彼女の真直ぐな瞳、それはそうだ、彼女の側には、何も臆する理由はなく、疾しさを感じなければならない一厘の事情さえない。勝手に慌てふためき、水槽の見えない硝子に鼻面をぶつけて、頭を打ん殴られたような衝撃に騒めいている見窄らしい熱帯魚めいた阿呆面を、彼女は純粋な、澄み渡った心持で眺めているだろう。この対蹠的な二人の構図はどうだ。今更ながら、悔しさの入り混じった反発的な感情が蠢いて、どうにも胸が苦しくなる。呼吸が荒く、額には汗の粒が滲み、私は湿った掌をズボンの尻に擦りつけて誤魔化そうとする。何故、こんなところで行き当たってしまったのだろう。これを運命の呼び声だと思い込みたくなるのは、幼稚な衝動だと知っていても、走り始めた南瓜の馬車に、いきなり消え去れと呪文を唱える訳にもいかなかった。
「この喫茶店、いつも使ってるの?」
 円らな瞳が私を正面から捉える。その寛いだ、柔らかな微笑の浮いた口許が、年上であることも手伝って、猶更胸の内側の下心を、肛門を蹴り上げるように刺激して已まない。彼氏がいるのかいないのか、そんな然り気ない問い掛けさえ遠慮せざるを得ない、ジャングルの下生えに潜り込んだ邪悪な毒蛇のように意気地のない、腐れ童貞の私には、その艶やかな瞳の濡れた水面さえ、心臓に直に縛り付けられた敏感な爆弾のように剣呑なのだ。流石に陽物が嘶いて前肢で宙を掻くような事態にこそ陥らなかったが、精神的な次元では、充分過ぎるくらいに硬く強く勃起して、先端がズボンのジッパーに擦れて砕け散りそうなほどだ。その割れた硝子片、炸裂した榴弾の金属片のように汚らわしい私の精神的精液は、イメージの中の彼女の理知的な面差しに思い切りぶちまけられていた。童貞。その度し難い迷妄、永久に開かれることのないように見える観音開きの厨子の中の秘仏
「いや、偶々です。何してるんですか、先輩は」
 先輩という堅苦しい響きの言葉で、私は彼女という存在に土足で踏み込むこと、素手で触れることを避けている、本当は深く触れ合い、何だったら存分に繋がり合いたいと、とても絵には描けないような妄想なら毎日だって飽きないのに、実際の生活の現場では、その垣根を乗り越えることにさえ、二の足を踏んでしまうのだった。
「あたし? 論文の草稿だよ。今度、教授に見てもらわなきゃいけないんだけど、全然進んでないんだよね」
「大変ですね」
「まあね。でも、嫌いじゃないから、勉強」
 勉強。それは人生の様々な局面に置かれる度に光沢の色合いを変じる鏡面のような単語だ。子供の頃、それは崇高な営みであり、寿がれるべき偉業に違いなかった。何時の間にか、思春期という呼び名が適切かどうかも分からないが、或る時期を境に、その素朴な宗教的観念はだらしなく色褪せ、衰弱してしまった。堕天使のように、勉強という観念は私の胸の奥底で腐り落ち、堪え難い異臭を放つようになった。学問、知識、理性、優等生としての実存。色々なものが混ざり合った、美しい形象。大学で教養を深め、だらしない自分を砥石で磨き抜き、つるつるに輝かせる超人的な努力という奴に、私は何時しか如何なる信仰も情熱も感興も懐けなくなった。何故、社会の歯車と巧く咬み合えなくなってしまったのだろう。親不孝と知りながら、高額な学費を溝に捨てるような真似を恥じもせず、寧ろ曖昧な勲章のように胸許に誇らしげにぶら下げて、意気揚々と、有り触れたメインストリームの生き方を擲ち、落伍してしまった自分の醜態を、日頃は愚かしいとも特に思わないが、先輩の前では、そう、紗環子先輩の前では、みっともない、逃げ遅れた罪人のような気分で、断頭台に縛り付けられている。

「夏と女とチェリーの私と」 1

 河原町四条の繁華な通りを、私は黙って歩いていた。夏の日のことである。
 塾の講師とは言いながら、要は時給で雇われた使い走りで、何しろ二十歳になったばかりの若造である。鍋底のような、茹だる暑さに全身を苛まれて、とぼとぼと歩きながら、私は無性に闇雲であった。心の奥底には、何だか冷え切った塊のようなものが凝っていて、然しその心情の正体は、定かではない。
 本当は此間まで、百万遍の交差点を渡る無数の自転車に跨った若者同様、私もきちんとした大学生の御身分であったのだが、授業には碌に出ず、雀荘に入り浸ったり、馬券を握り締めて淀の芝生を駆け抜ける、立派な体躯の馬の尻ばかり追い掛けたり、酔い潰れて烏丸御池の道端にラーメンの切れ端やら、お好み焼きの残骸やらを吐き出したり、全く殊勝な心根と無縁の暮らしで、軈て大学の事務室から、親に連絡が入った。金沢に暮らす両親は悲嘆の深淵に沈み込み、すっかり擦り切れた、縋るような声で、後生だから学校へ通えと促したが、こっちはてんで聞いちゃいない。親に恨みがある訳じゃないし、高い学費を払ってもらってる手前、反抗するなど言語道断の不孝者だが、いかんせん、内なる夜叉に唆されて、どうにもこうにも抜き差しならない放蕩の日々に、頭から減り込んでしまうのだ。それがどんな素地の上に築かれた、堅牢な人格であるのか、皆目見当もつかない。気付いたときには、もう出来上がっていた性分なので、親に叱られ、事務室の助手に優しく諭されても、少しも態度は改まらず、雀荘の常連であり、居酒屋の傍迷惑な上客である御身分に、変更は生じないのであった。
 情け無いと思わないではなかったが、どうにも身の内を灼き焦がす衝動には逆らえず、下らぬ日々を送りながら猶も学校へは通わず、成人式で郷里へ帰った折に、愈々親父が腹を立て、私の頬を張り倒して辞めちまえ、今すぐ働くがいいと口角泡を飛ばした。流石の私も、日頃は温厚な父が阿修羅の形相で徳利を壁に叩きつけ、零れた酒が畳へ染み入るのも構わず、私の胸倉を掴んで振り回そうとするので、観念しない訳にはいかなかった。愛する親に、何時までも無駄金を払わせておくのも本意ではない。況してや、退学することには吝かでないのだから、御互いの幸福の為に、学生稼業から足を洗うのは適切な措置であるように思えた。母親は溜息をガスボンベのように堪えて、失望を総身から滲ませていたが、親父の決めたことであれば、此れ以上の論議は家庭の秩序を壊すばかりと諦めたのか、泣き言を漏らすぐらいの反応に落ち着いた。親不孝という言葉は、私の代名詞のようなもので、一族の金看板に泥を塗りたくる悪評は、遠くの親戚の耳にも、蜜のように入り込んでいた。
 どうにもならない衝動を、世間は、或いは古人は、若気の至りと呼ぶ。何とも使い勝手のいいクリシェで、私は私自身を周囲から、意識の上でだけでも、庇おうとしていた。驕慢な自意識で、他人の尤もらしい正論を、受け流すことに精励していた。悪質な若造である。そうやって得られるものなど、本当は何もないのに、それで万事が解決すると決め付けていたのだ。
 然し、流石に学生という野放図な免罪符を取り上げられて、ふわふわと浮足立ち、それでも猶、自堕落に暮らせるほど、この心臓はタフではなかった。雀荘へ足繁く通う悪習も、仕送りを停められては、そうそう続けられるものではない。幸いにも、世間様には、どんな言い訳だって通用する。親が病気で、介護をせねばならんので、金沢へ帰ることになりました。然し、兄がそれを不憫に思い、京都へ残りなさいと言ってくれました。勉強を続けようと、思ったのですが、兄に迷惑ばかり掛けられず、一旦は退学して、働きながら学び直し、来年にでも受験をしようと思います。何だか筋が通っているのだかいないのか、はっきりしない出任せで、幾つか面接を渡り歩くうちに、五条坂の近くの予備校へ勤めることになった。といっても、正規の職員ではなく、時給で雇われた居候のようなものである。しかも、その予備校は一流でも大手でもなく、それほど優秀な子供が集まるような条件は整っていない。
 中学生から高校生まで、クラスの顔触れは様々だが、私が主に受け持ったのは、高校受験を控えた中学三年生、しかも、そんなに志の高い連中でもない。彼らは、誰もが通うものだから、親に強いられて、逆らい難くて入ってきたのだ。中には、帰りの夜道で莨を吸っていたり、シンナーを浴びたりする酷い奴も混じっていた。学校の教科書に落書きしかしないくせに、高い金を払って予備校へ通う、その目当てが、学校とは異質の友達付き合い、望めることなら女の子でも引っかけようという浅ましい魂胆であり、そんな連中に何を教えてやることがあるかと、最初は憤ることもあったが、次第に分かってきたのは、自分も彼等と同じ穴の狢であるという真実であった。そもそも、予備校自体が、本格的に整備されたものではない。街角の私塾に腋毛が生えたぐらいのもので、クラスの分け方も雑であり、高い目標や息苦しいほどの情熱に煽られて瞳を輝かせる子供などいない、皆漫然と、暇潰しのような積りで通うから、出席率の変動が尋常じゃない。二箇月ぶりに逢って、黒髪眼鏡の清楚な女の子が、金髪ピアスの垢抜けた女の子に様変わりするくらいの変異は、当たり前に起きた。彼女は、その塾で彼氏を作り、そのうち辞めた。国語が好きな女の子だったが、彼氏の影響に遣る瀬ないほど染まり、下手な音楽に目覚めて駅頭でギターを掻き鳴らし、甘ったるい子供騙しの歌で衆目を集めることに快感を覚え、夢中で低俗な歌詞を書き散らすようになってしまった。

 あなたがいない翳った部屋で
 レモンハイを作るわ
 冷たい銀のマドラー
 窓辺で眠る黒猫のペニスみたい

 若いうちは、付き合う人種によって属性が深刻な変貌を遂げる、此れは珍しいことではないし、彼女の「創造的進化」に難癖をつけても始まらない。大学に入ったのに、雀荘へ通い詰めて講義には出ず、済崩しにフリーターの日々に転落した私と、何も変わらないのだから、責める筋合いはなかった。マドラーとペニスの組み合わせも、別に色情狂という訳ではない。単に彼女のなかの、眠っていた芸術的野心が、唐突に火を噴いただけなのだ。笑ってはならない。彼女は真剣そのものだった。麦藁帽子の中に投げ込まれた通行人の錆びた十円玉に、その瞳は明るく瞬き、喜ぶのだ。先生、素敵な歌詞だと思わない? だってさ、あたしの家の黒猫のおちんちん、勃ったときでも、マドラーみたいに痩せてるんだもん。だから、これはリアリズムなのよ、分かるかな、先生、写実主義って。
 彼女の可愛い飼猫の性器がどのような形状であろうと知ったことではないが、そもそも芸術が人の顔色ばかり窺い、人の好みにばかり阿る義理もないのだから、別に構わないのだ。彼女がどんな歌を芸術と呼び、そこに魂の充足を感じるのなら、その歌声から発せられる光は本物だろう。
 却って、優秀過ぎる子供の方が、壊れ物のように危うく見えるときがある。父親が教育委員会の人間で、母親が大学職員という、いかにも白墨臭い家の長男坊が、私の受け持ちに入っていた時期があり、確かに紛れもない秀才の卵で、賢いのだが、その賢さは、狭い世界で磨き上げられた宝珠のようなもので、本当の挫折を知らないから、当然、傷の痛みも知らない。割れて、砕け散ることに慣れていない魂というのは、危ない。良心的な子供の、秘められ、閉ざされた胸の奥底に、眠っている魔物の顔色を、想像するだけで痛ましくなり、ぞっとする。
 悪人正機という、有難い親鸞さまの遺訓を、私の耳は聞き齧ったことがあるだけに過ぎないが、その言い分は何となく見えないでもない。傷つき、腐りかけ、物事の裏側へ沈み込んだ人間の瞳に、却って世界の根源から湧き出る清水のような希望が映じるという可能性を、私は蔑ろにしない。寧ろ、そのようなパターンの方が安心するのは、この魂自体が、どちらかと言えば落伍の方角へ傾斜している為であろうか。固より、綺麗ごとなど好みじゃないし、道徳的な生き方に憧れる物好きでもないから、私は悪事からの恢復、暗闇からの蘇生、そういった筋書きに縁取られた日々を、愛するのかも知れない。親近感を覚えるのは大抵、駄目な部分がある子供で、然しそれも度を越すと手に負えないから、途端に疎ましく、嫌になってしまう。例えば、その国語好きの歌唄いの女の子も、可愛らしいと思えなくもなかったが、自分自身の情熱に偏り過ぎていて、いつしか私は見放していた。だから、辞めたのだろうか。見放されることに、大抵の子供は敏感だから。それが生死に関わるほどに、子供というのは繊弱な生き物だから、どうしたって敏感にならざるを得ないのだ。
 男の影響に過度に染まるというのも、結局は寄る辺ない心情が常に胸の内へ蔵われているからであって、その空洞のような寂しさを想うとき、私はいつも居た堪れなくなる。いや、厳密には、常時というほどではない、蜉蝣のように儚い「共感」であり「憐憫」だ。その程度の慈愛しか、塾講師のバイトである身分では、懐きようがない。見捨てられた哀しみが、彼女の心を酸のように侵し、蝕み、そして学業への情熱を痩せ衰えさせ、眠らせてしまった。それは私の罪であり、彼女の罪であり、世の中の、世界の罪だ。
 古い話は、もう止そう。いや、この後も続いて語られるのは、古びた日々の話であり、記憶の断片であるから、変わらないのだが、些末な過去の細々としたピース、行き着くまでの経緯に、筆を費やしても墨汁の無駄である。夏の日のことを、話していたのであった。

「Hopeless Case」 29

 一年間の仕事を卒えた歓びと解放感が、人々の心を透明に変えていた。誰もが普段より浮かれ過ぎていて、躁ぎ過ぎていて、消費されるアルコールの総量は止め処なく膨れ上がった。テーブルの上には大小様々の皿や器が濫れ返り、盃が林立し、雑炊を煮立てる土鍋が濛々たる湯気を活発な噴火口のように舞い上げていた。
 酔いが深まるに連れて席替えが頻繁に行われ、誰かがトイレへ立つ度に、その一帯の顔触れが奇術のように入れ替わった。社長の森実が早めに切り上げて帰るとき、一同は盃の把手を握り締めた指を慌てて引き剝がし、主だった幹部社員が沓脱まで見送りに行った。その一瞬の空白を衝いて、辰彦が椿の隣に逃げ帰ってきた。香夏子は役職の上では別に会社の幹部ではなかったが、心理的には自分自身のことを重鎮だと解釈していて、社長の見送りに参加する為に嬉々として立ち去って行ったのである。
「酔っ払いの話に相槌を打ち続けるのは重労働だな」
 椿の顔を見て、仄かな苦笑を滲ませた辰彦の眦にも、明確な酔漢の象徴が泛んでいた。潤んだ瞳も紅潮した顔も、普段の辰彦の印象から遠く隔たっている。捲られたトランプのように、或いは忍者屋敷の廻転扉のように、見慣れない光景が俄かに鼻先へ突きつけられた気がする。辰彦の深酒した姿を目の当たりにするのは、椿にはこれが初めてだった。毎週金曜日の反省会では、多少のアルコールを口にすることはあっても、グラス二杯程度が暗黙の上限に定められていて、辰彦がその規矩に違反したことは一度もなかった。明日から正月休みという開放的な身分と気分が、彼の沈着な理性に猿轡を咬ませてしまったのかも知れない。聊か乱暴に落ち着けた尻の位置も、適切な距離感を僅かに欠いているように思われたが、椿は特に拒絶の含意は示さなかった。彼女自身、女同士の下世話な会話の息継ぎの度に唇へ運んだグラスの回数が、正常な頻度を超えていた為に、酔いの齎した気怠い自堕落さの底に居着いていた。だから、侵犯された正常な距離の強いる生理的な威圧のようなものが、きちんと肌に届かなかったのだろう。
「そろそろ帰らなくて良いんですか。もう結構な時間ですよ」
 大部屋の鴨居の上に飾られた木彫の時計は、午後十一時を指していた。社長を見送った流れに乗って、遠方から通っている数名の社員が年の瀬の挨拶を滑稽な物腰で交わしながら引き揚げて行った。終幕に固有の奇態な侘しさが、例えば夏目漱石の「吾輩は猫である」の終章に滲んでいるような寂寞の香りが、熾火のような雑談の合間を縫って漂い始めた。辰彦は乱れた前髪を払って時計の文字盤を睨んだ。床に突いた腕の表面に、逞しい静脈が浮いて見えた。
「今日は遅くなると言ってあるんだ。だって、一年の締め括りだからね」
 日頃の辰彦とは裏腹の、弛緩した微笑が油滴のように瀝った。重たげに腕を伸ばし、グラスを引き寄せて温くなったエールのグラスを傾ける。薄い黄金色の液体は、気泡が止んで腑抜けのような外見を呈していた。辰彦は眉根を寄せて、苦痛に堪えるような表情で生温いエールを乾した。力加減が狂っているのか、卓子の端に置かれたグラスは硬質な騒音を立てた。
「君こそ、親御さんがそろそろ心配するんじゃないか」
「どうでしょう。もうあんまり子供扱いはされなくなってますけど」
「口に出さないだけじゃないのかい」
「そういうもんですかね」
「きっとそうだよ。言葉を選ばざるを得ない年頃じゃないか」
 一端の父親のような口を利く、と椿は密かに心の表面で苦笑した。確か辰彦の娘は未だ三歳の筈だ。良くも悪くも無邪気で明け透けな年頃ではないだろうか。小さな子供の生態には疎い私だけれど、と思いつつ、眼の前の色素の薄い肌の男性が所謂「保護者」という生き物の一員であるという素朴な事実に改めて思い当たり、椿の心は忽然と突き出した棘に指で触れたような気分になった。船橋市で小さな法律事務所を営んでいる謹厳な父親は、寛容の精神を旨としていて、娘の夜遊びに口出しするようなことは滅多になかった。多趣味な母親は、自分の用事に何時も忙殺されていて、成人した娘を猶も偏執的に監視し続けるような悪趣味に対しては関心を節約していた。もう子供じゃないんだから、という科白は、彼女の両親の信奉する呪符のようなものだった。それは言い換えれば、自分たちはもう親の責務を卒業したのだという晴れやかな宣言の陰画なのかも知れなかった。確かに、そういう気分に陥ることは有り得るだろうと、既に子供ではなくなった娘は考えた。二十歳を過ぎても猶、手綱を握り締めておかなければならない娘というのは、余りに厄介な荷物であり過ぎる。
「親の意向がどうであれ、私はもう子供じゃないんです。何時に帰るのかは、私の匙加減一つです」
「後は鉄道会社の匙加減かな」
「終電って意味ですか?」
「そういうこと。終電を決められるというのは、とても強力な社会的権限だと思わないか」
 そう言って朗らかに笑い出した辰彦の眼を見るのが気恥ずかしくて、椿は慌てていることを悟られない速度で、氷の溶けたファジーネーブルのグラスを掴んで俯いた。

「Hopeless Case」 28

「椿ちゃんはどんな男性がタイプなの?」
 徐々に酔いの深まり始めた幸野が、仄かに舌足らずな声で尋ねた。若しも同じ質問を、年の離れた男性の社員が投げ掛けたら、直ちに淫猥なハラスメントの罪状を眉間に刻印されるだろう。それは奇妙な相対主義ではないだろうかと、グラスの縁に唇を宛がって束の間の沈黙を守りながら、椿は考えた。
「あんまり明確に、こういう人っていうのは、考えたことがないかも」
「でも、誰でも好い訳じゃないでしょう」
 幸野の言葉に、更織と瑞穂が声を上げて笑った。それじゃbitchじゃん、と瑞穂が複雑なニュアンスを帯びた口調と表情で言った。不意に躍り出たbitchという耳障りな言葉は、椿の鼓膜に新鮮な震えを及ぼした。日本語に置き換えれば、売女とか、阿婆擦れとか、尻軽とか、その類の表現になるだろう。異性に関する趣味が明瞭な典型を持っていないと、人間は残らずbitchという不名誉な範疇の中に押し込まれてしまうのだろうか。だが、そんなに明瞭に、自分の好きなものや人を語り尽くせるのは標準的な能力だろうか? 出逢ってみなければ分からない幸福というものも、恐らく存在する筈だ。
「男なら誰でも好いな、あたし」
 先ほどから、この五年ほど誰とも附き合っていないという悲痛な訴えを嬉しそうに躁いで語り続けていた更織が、勢いに任せて下品な科白を吐いた。止めてよー、と態とらしく語尾を伸ばして、幸野が更織の肩を叩いた。笑っている更織の唇には締まりがなかった。辰彦は椿の反対側に座った装幀係の鏑木と話し込んでいて、女性陣の下卑た会話からは遠ざかっていた。椿と辰彦との間には見えない衝立が置かれて、迂闊に踏み込めば良識の破綻へ追い込まれかねない歓談からの隔離を、彼は意図的に維持しているように思われた。それが椿には少し不満だった。
男旱おとこひでりって奴じゃない?」
 矢継ぎ早に交わされる生々しい言葉の応酬に紛れて、耳慣れない古風な俗語が椿の頬を掠めた。飢渇に譬えられた性慾を、椿は途方もなく不衛生な観念のように受け止めた。勿論、純潔な少女を騙る積りはない。一般的な基準に照らして、椿が人より清純な女性であると言える根拠は皆無だった。高校入学以来の遍歴を思い返せば、自分にも若干bitchの素養が備わっている気がした。けれど、そこまで赤裸々な挿話をこの酒席で開示する気分にはなれなかった。余計な風評は、少しずつ改善してきた椿の社会的立場(そんな大仰なものを気にする年齢になったのだろうか)に、雷鳴のような一撃を浴びせ、損壊させてしまうだろう。下半身の乱倫な事情を人前で洩らして猶も体面の傷つかない立場というのは、滅多なことでは手に入らないし、きっと時代の良識も、そのような大胆な露悪趣味を容認しないだろう。
 更織の男旱に関する自虐的で露骨な熱弁(とはいえ、実際に重度の旱天続きゆえに具体的なエピソードが語られる訳ではなかった。彼女は想い出の欠如を嘆きながら、その嘆きを享楽していたのだ)が一区切りつくと、今度は瑞穂がケープタウン大学時代に知り合って関係を持ったアフリカーナーの若者との記憶を語り始めた。更織のような自虐的諧謔の代わりに、聊か冷淡でスノッブな口調が椿の鼓膜にささくれを生んだ。彼女は明らかに、自分が特権的な恋の想い出を語っていることに虚栄の歓びを感じていた。現代の平均的な日本人の中で、一体彼女以外に誰が、真夏のケープタウンアフリカーンス語を話すオランダ系の青年と情熱的な関係を結び得るだろう? その特殊な経験が、如何に自身の創造的な業務と密接に結び付いているかということを、瑞穂は然り気ない口調で幾度も強調した。編輯部企画室という会社の花形部署に、最年少の年齢で配属された自分への堅固な矜持が、その口調の端々に閃いていた。確かに彼女の立場と経歴は憧憬に値すると椿は思った。けれども、彼女がケープタウンで味わった暫時の情熱的な恋愛の挿話は、退屈だった。何が退屈だったのだろう。椿は密かに自分の過去の恋愛を振り返ってみた。どれもこれも、退屈な想い出であることには間違いがなかった。過ぎ去ってしまえば、どれも無価値なガラクタに思えた。武岡亘祐の掠れた面影が、記憶の眼裏を過った。あれから、早くも一年半ほどの歳月が流れたのだ。彼は今頃、どうしているだろうか。迅速な入籍に帰結しただろうか。それともまた、他の女に心を移して、遽しく酷薄な乗り換えに赴いているだろうか。何れにせよ、濃密な関心を寄せることは不可能に近かった。知らぬ間に人生の景色が変わってしまったのだ。かつて鮮やかに瞳孔を射貫いた美しい風景が、すっかり色褪せて荒廃してしまったのだ。遠くの席から、辰彦の名を呼ぶ乱暴な声が響いた。鼓膜を撃たれて他愛のない思索から醒めた椿の眼差しの先で、ペールエールのグラスを捧げ持った辰彦が腰を浮かしていた。室原香夏子の召喚状が発せられたのだ。酒精の染み込んだ赤ら顔で何度も辰彦の名を無躾に呼び続ける香夏子の泥濘のような瞳を、椿は人影の隙間から射るように見据えて確かめた。

「Hopeless Case」 27

 忘年会という風習が悪しき旧弊だと嫌がられるようになってから、どれくらいの年月が経っているのか分からない。けれども辰彦の勤め先では、その旧習は今も頑固に根付いていた。御用納めの納会は、毎年社長の掛け声で潤沢な経費が認められ、経理部長の芳川の苦り切った表情にも拘らず、その無情な大盤振る舞いは改革される見通しすら立っていなかった。定期的に新卒採用を行なう体力に乏しい衰燈舎は、そもそも全体に占める若者の構成比が小さいので、古参の社員たちの忘年会に対する古式床しき愛着が、現代的な若者たちの冷ややかな叛逆に直面する機会も稀であった。
 余り気の進まない誘いであったが、椿も強引に招かれて忘年会の末席に列なることとなった。荒城の厳命で、辰彦が説得に力を尽くしたのである。色々と諍いを起こした経緯も手伝い、椿は自分が古株の人々の歓談の輪に混じることが正しいのか、今一つ確信を持てずにいた。野放図に何でも肚を割って話して構わないのならば良いが、儀礼的な仮面を被って気詰まりな時間を延々と過ごすのは億劫だった。荒城に叱られ、辰彦に繰り返し諭されるうちに、漸く当初の前のめりの焦躁は和らいで、もう少し堅実に、立場を弁えて修業に励むことを心掛けるようになって以来、周囲との関係は、少なくとも表面的には改善の傾向を示していた。あの神経質な校正係の定岡とも、互いに相手の真意を探り合いながらも、一応は言葉を交わせる状態にはなっている。装幀係の御局である室原香夏子も、相変わらず批判的な身構えは続いているが、時には自分の仕事を椿に見学させる機会を設けてくれるようにはなっていた。つまり、荒城の叱責は有効な結果を招いたのである。それは確かに感謝すべき事態だったし、椿自身、そのような状況の変貌を歓ばない訳ではなかった。けれども、本当に垣根が壊れたと言えるだろうか。人間の感情は、そんなに自分の都合に応じて動いてくれるものではない。椿は混乱していた。何が正しいのか、確信を持てずにいた。それは当たり前の現象なのだろうか。新入りの身分であれば、余所者に固有の懊悩を患うのは自然な成り行きなのだろうか。
 それでも余り陰気な悩みに沈み込むのは性に合わなかった。神田駅の近くの、恐らく毎年の定例と思しき居酒屋の大部屋を借り切って、社長の森実すら顔を出した忘年会は、想像以上に大盛況だった。こんな風に、立場も年齢も異なる大勢の大人たちに囲まれて酒食を共にするのは、人生で初めての経験だった。ざわざわと混み合った部屋の中で、それぞれの会話が幾つも星雲のように生滅を繰り返し、追加の酒を注文する声、弾けるような笑い声、興奮した大声が高速道路のジャンクションのように入り乱れて、力強い波動を形作っていた。椿は辰彦の隣に座って大人しくカクテルを呑んでいた。向かいの席に座ったのは、あの齧歯類を想わせる風貌の愛らしい女性だった。編輯部の庶務係に属する湊本幸野みなもとゆきのである。椿の最初の見立て通り、二十八歳の妙齢で、今年の春に入籍したばかりの花嫁だ。
「椿ちゃんはお酒強いの? どんなお酒を普段は呑むの?」
 片隅で縮こまっている椿を見兼ねたのか、幸野は矢継ぎ早に話を振って、彼女の殺伐とした孤立を和らげようと努力してくれていた。その気遣いに応えようと、椿も気持ちを立て直して成る可く饒舌に振舞った。遠くで一際大きな笑い声が爆ぜ、室原香夏子が辰彦と同年代の男性社員の背中を思い切り派手に叩いている姿が見えた。その横顔は紅く染まり、彼女の眼前には群青色の洒落た焼酎のボトルが傲然と聳え立っていた。香夏子は編輯部随一の酒豪で知られ、酔っ払うと日頃の驕慢な勢いに航空燃料が投下されるという噂だった。極力近付かないようにしようと、椿は数日前から固く誓っていた。
 幸野の隣には、同じく庶務係の西谷更織にしたにさおりと編輯部企画室の佐伯瑞穂さえきみずほが座っていた。更織は幸野と同い年で、瑞穂は二人より二つ年上、幸野にとっては同じ大学の先輩に当たっていた。企画室は編輯部の心臓とも言える重要な部署で、瑞穂は部署の中で最も若く、期待の若手という揺るぎない評判に庇護されていた。学生時代、クッツェーの作品に傾倒して南アフリカ共和国ケープタウン大学へ短期留学した経歴を持つ瑞穂は、小麦色の滑らかな肌と艶やかな黒髪を自慢にしていた。淡い橙色のフレームの眼鏡は、彼女の容貌に独特の力強い野性味を添えていた。
 世代の近い彼女たちとの砕けた歓談は、強張っていた椿の心を徐々に寛ろがせていった。日頃の窮屈な警戒心が、アルコールの魔力も手伝って薄らぎ、話題は私生活のことから共通の関心事である書物のことまで、刻々と自在に移り変わった。こういう場面の慣例に従って、異性の話題も一同の熱烈で明け透けな関心を集めた。幸野を除けば全員独身なので、自然と幸野がこの道の先輩という風格を備えがちだった。

「Hopeless Case」 26

 毎週金曜日の夫の帰りが遅いことを、梨帆は何時しか気に病むようになっていた。固より、公務員の如く十七時の鐘と共に終業するような性質の勤め先ではないが、同僚と毎晩のように酒を酌み交わすタイプでもない。娘が生まれてからは特に、夫の飲み会の頻度は眼に見えて下がって、年に一度の忘年会の他は、散発的な歓送迎会くらいしかなかった。そういう年来の習慣が俄かに崩れ出したことを、梨帆は敏感に悟った。
 泥酔という訳ではないが、週によっては二十三時を回って玄関の扉を軋ませる夫の背広は、概ね微醺を帯びていた。その香りを露骨に指摘したことはない。それを声高に指摘するのは、開けてはいけない扉の鍵穴へ乱暴に鍵を挿し込むようなものだと思われた。それに玄関の扉を開けて居間へ入って来る夫の表情は常に奇妙な陰翳で覆われていた。何かしら指弾を浴びることを予期しているような、同時にその予期へ刃向かっているような、複雑で狷介な陰翳である。彼是と詮索されることを嫌がっているのだろうと、梨帆は勝手に判断していた。詳しく問い質すべきであるかも知れないが、育児で疲労した心身に鞭打って、夜更けの口論を勃発させるのは気が進まなかった。結婚して、もう六年が経つ。今更、恋愛の渦中にある若い女のように、相手の不審な行動を糾弾して嘆いたり喚いたりするのは馬鹿げているように感じた。口論の勢いで、漸く寝静まってくれた娘が起き出して泣き声を上げたらどうしようという生理的な恐怖も関わっていた。喧嘩に荒ぶる自分の心を鎮めながら、同時に年端の行かない娘を宥め賺して再び寝入らせるというのは拷問にも等しい苦行だ。
 来春に入社するインターンの学生の面倒を見ているという話は、以前何かの拍子に聴いた覚えがあった。しかし辰彦は、仕事の話を余り家庭に持ち込みたがらない性格である。言っても理解してもらえないと思っているのだろうか。子供が生まれる前は、必ずしもそうではなかった。元々学生時代からの附合で、苦難の就活の末に念願叶って出版社の内定を勝ち取った辰彦の横顔を、梨帆は常に隣で見凝めてきた。その当時は、色々仕事の苦労や歓びに就いて熱心に語って聞かせてくれた記憶がある。露骨に憔悴して、珍しく深酒の後遺症を引き摺って帰って来る夜もあった。仕事が落ち着いてからは、そういう無惨な醜態はめっきり見なくなった。特に娘が生まれてからは、仕事に関する悩みや愚痴の類を殆ど聞いた覚えがない。梨帆はその変化を、夫の人間的な成長の賜物だと素朴に信じ込んでいた。仮に、仕事の愚痴を吐瀉物のように夜の食卓へ撒き散らされたとしても、それを巧く受け止めてあげられる自信は持てない。愚痴を言いたくなる気持ちは決して、辰彦の専有物ではないのだ。お互いが自分の荷物を抱えることに必死で、他人の鞄にまで手を貸す余裕がない。全くの他人同士ならば、その余裕の欠如を気に病むこともないが、夫婦ゆえに相手の冷たさを恨まずにいられないのならば、結婚とは何て厄介な営みなのだろうか。親密であるべきだからこそ、関係の一隅に滲んだ空疎な間隙が際立って見える。元々遠いのが当たり前の間柄ならば、互いの間隙は寧ろ適切な距離として奨励されるだろう。
 年の瀬が迫っていた。辰彦が、今週の金曜日は忘年会で普段より遅くなると言い出した。その日は日曜日だった。日曜日の晩に、次の週末の飲み会の予定を告げて来るのは少し気忙しいように感じられた。そもそも、帰りが遅いのは今に始まったことじゃないだろうと梨帆は思ったが、口には出さなかった。躰の芯が痺れるように疲れていた。妊娠を機に仕事を辞めてから、彼女の内なる曜日の感覚は曖昧に掠れていた。カレンダーが意味を成さなくなっていた。本当に忘年会なのかと、厭味ったらしく尋ねてやりたい意地悪な気分も揺曳していたが、それを実際に口に出すことによって凍ってしまう現実があるのではないかという危惧が、その悪意に歯止めを掛けていた。何時頃になるの、と訊くと、一寸分からないという予測された返答が聞こえた。そのまま、辰彦は娘を連れて浴室へ消えた。水音と、姦しく躁いだ子供の声が入り混じって扉の向こうから聞こえた。テレビの画面はこの一週間の様々な出来事の総括に忙しかった。休日の夜の終わり、墓石のような静寂に浸された夜の帷。全身の筋肉が蒟蒻のように萎えてしまいそうな気分だった。梨帆は台所に立って夕食の洗い物を片附け始めた。平たい皿の底に広がったボロネーゼの汚れを擦っている間に、無性に虚しくなり、惨めな気分が抗い難く押し寄せた。彼女は自分が泣いていることに愕然とした。何故泣いているのか、定かには分からなかった。私は自分自身の気持ちすら見えなくなってしまったのだろうか。絶望的な失明だった。光を取り戻せるのか、酷く心許なかった。洗剤の泡が白く濁って眩しかった。水流を強めて、態と物音を大きくした。皿と茶碗が神経質に触れ合った。私は何故、こんなところで夢中で皿を洗っているのだろう。誰の為に? 何の為に? 家族の為だろうか? けれど、彼女の大切な家族は明らかに、浴室の扉の向こうよりも遥かに遠く隔たった場所で泣いたり笑ったりしているように感じられた。

「Hopeless Case」 25

 小説だって現実だ。椿の断固たる確信に支えられた言葉は、辰彦のスマートな理性を聊か混乱させた。実際、そのように考えることが出来なければ、衰燈舎が手掛けている類の、とてもマイナーで癖の強い外国の小説を翻訳して高価な造本で国内に頒布するという重苦しい事業などは続けられるものではない。社長の森実は事ある毎に「百年先の未来に投資する事業だ」と崇高な理想に燃えた科白を吐くことで知られていたが、確かに小説が恣意的な虚構に過ぎないのならば、百年先の未来のことなんて想い描けないだろう。丈夫な紙を用いて装幀に潤沢な経費を宛がうのも、社長の考えでは、百年間受け継がれるべき書籍を自分たちは造っているのだという自負の証明に他ならなかった。その意味では、椿の豪胆な科白は確かに衰燈舎の創業の精神に相応しいものであると言えなくもなかった。
 辰彦は幼い頃から読書に親しみ、小説家になることに素朴な憧れを懐いた時期もあったが、数多の文豪の遺した傑作を読み漁っても猶、手ずから独創的な小説を生み出してやろうと意気軒昂たる情熱を燃え立たせるには、性格として温和で沈着であり過ぎた。どうしても良識的な理性が優ってしまう憾みがあった。家の書斎に籠って来る日も来る日も真白な原稿用紙や空白だけが無限にスクロールされる電子の画面と対峙し続ける生活の孤独に、胸を張って堪えられる自信もなかった。泥臭く、自分の頼りない力だけを信じて、何も存在しない空虚な曠野に、か細い水路を掘削していくような寂寥を引き受けるには、並外れた覚悟が要るだろう。そのとき、通俗的な良識は却って足枷となるだろう。安心や安全を求める素朴な慣習は勇気を減殺するだろう。
 それでも未練は絶ち切れずに、辰彦は書籍に関わる仕事を希望して、辛うじて叶えられた。華やかな大手の出版社には見向きもされず、それでも一縷の望みを繋いで努力を重ねるうちに衰燈舎と巡り逢った。運命と言えば確かに運命だ。そして人並の社会人らしく、人間関係の軋轢や覚えられない仕事や、一般的な苦労に揉まれて喘ぎながら、何とか逃げ出さずに年月を重ね、妻子を養えるくらいの収入を保って今日の現実に漂着している。先ずは一般的な成熟の過程を無事に辿り遂せたと言えるだろう。勿論、走路は未だ終着駅には到っていないので、これまでのギリギリの成功が終生の安泰を約束する訳ではないのだが、とりあえずの及第点には達していると言えるだろう。その事実は、仄かな誇らしさを辰彦の魂に象嵌していた。
 自分が何故椿に奇妙な肩入れをするのか、金曜日のざわざわとしたカフェで埒の明かない議論を繰り返しながら、少しずつ辰彦は悟り始めていた。彼女の姿は、昔の自分自身の誇張された肖像画のようだった。当時の自分よりも遥かに傲慢で、あからさまで、勇敢で、抑えられない情熱に衝き動かされる一つの若い魂。未成熟であるということは、道理を弁えないということだ。自分は道理に守られて一応の幸福を手に入れたが、この若い女の子は未だ何も獲得していない。だからこそ、露骨に餓えることが出来る。それは眩しい光景に見えた。彼女は守りに入る理由を持ち合わせていないので、こうして総身で痛みを感じたり、創傷に塗れたりすることが出来るのだ。羨望ではない、複雑に屈折した嫉妬が、辰彦の内面を駆け回っていた。
「君は小説というもう一つの現実に救われてきたのか」
 辰彦は自分の声が普段の自分とは異なる場所から濫れたもののように感じた。日頃は抑圧されている古ぼけた鍵付きの抽斗から、日附の掠れた手紙が不意に転がり出たような感覚が生まれた。温くなった珈琲の残りを啜っていた椿の眼に奇怪な光の粒が宿った。上眼遣いに睨まれて、辰彦は頸筋が粟立つのを感じた。この子の、猛禽のような瞳。餓えた禽獣の眼差し。懐かしいと思うのは誇張された感想だ。当時の自分は、こんな風に露骨な飢渇を生きてはいなかった。もっと社会の慣わしや理に従順で、牙を他人の視野に映り込ませることに頗る臆病だった。だから、椿のことが気懸りになるのだろうか。この野獣を何とか生き永らえさせてやりたいと思ってしまうのだろうか。
「救われたのかどうか分からないけど」
 猛禽の瞳をほんの少しだけ柔らげて、訥々とした口調で、椿は言った。
「それがなければ、この世界はとても退屈だと思う。たった一つしかない世界なんて、つまんなくないですか」
 確かに「つまんない」かも知れなかった。勿論、人間は複数の人生を並べて自在に行き来する能力を持たない。何かを選べば、選ばれなかった宿命は棺に抛り込まれ、徹底的に焼き払われる。昔から、そういう慣例だ。だから、有り得るかも知れない別様の現実が耀かずにいないのだろう。そういう別様の現実を知らしめる為に出版という稼業が存在するならば、それは確かに尊いことだろう。
「君は世界を愉しくしたいのか」
 辰彦の問い掛けに、椿は久方振りとも思える明るい笑顔を泛べた。
「そりゃそうですよ。世界が幾つもあるのなら、絶望しなくていいじゃないですか」