サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 24

 季節は矢のように駆け巡った。夏季休業が終わると、椿が衰燈舎を訪れる機会は自ずと減った。内定は学士の肩書を前提としていたから、彼女は卒業証書を確実に勝ち得る必要があった。必ずしも勤勉な学生とは言い難い椿は、普通の四年生に比べて取りこぼしている単位数が多く、付け焼刃の精励刻苦が不可欠だった。失恋の痛手を紛らわす為に新宿の喫茶店古今東西の小説を読み漁っていた時期は、編輯の仕事に携わる上では重要な教養の蓄積に他ならなかったが、学校の事務的な尺度に照らせば怠業以外の何物でもなかった。勿論、今更悔やんでも何にもならない。兎に角、死力を尽くして遅れを取り戻す以外に途はない。
 それでも授業のない金曜日だけは、必ず衰燈舎に顔を出して辰彦の個人授業を受講することが慣例となっていた。相変わらず周りの椿に対する視線は冷ややかだったが、椿は努めて何も考えないように心掛けていた。定岡との一件、そして荒城から振り下ろされた無慈悲な鉄槌以来、彼女は自分の振舞いを革め、火に油を注ぐような真似は差し控えるようになっていた。椿が傍若無人の言行を控えるようになると、周囲の攻撃的な視線も自ずと和らいだ。別に誰も殊更に緊迫した社内冷戦の状況を望んでいる訳ではなかった。疑問の点があれば、椿は先ず辰彦を通してそれを解決するように心掛けた。それが辰彦との重要な約束であったからだ。
「実務のことを根掘り葉掘り尋ねるのも結構なんだけどね」
 晩秋の金曜日の夜だった。八重洲の地下街にある平凡なカフェで、二人は一日の反省に時を費やしていた。数日前から一気に気温が下がって、地下道を行き交う人々は様々なデザインのコートを纏って足早に歩いていた。
「技術を学ぶことだけが本質じゃない。我々は単なる機械じゃない」
 頬杖をついて、角砂糖を泳がせながら、椿は無言で卓子の艶やかな木目を見凝めていた。その態度は明らかに敬虔な生徒の振舞いに相応しいものではない。しかし、辰彦は今更椿の悪辣な態度を咎めようとは思わなかった。彼女が衰燈舎のオフィスで懸命に自分自身を制御していることを彼は知っていた。自分の前で鎧を脱ぎ捨てるのは、彼女が自分のことを畏怖していないという心理的事実の露骨な表明だったが、その点に就いて辰彦は特段の怒りも不満も感じなかった。そこで叱責したからと言って、何が変わるだろう。彼女は愈々追い詰められた鼠のように自暴自棄の叛逆へ逃げ込むだけだ。誰かしら、彼女の味方を引き受ける役割の人間が必要だった。その人選に関しては、これまでの経緯を鑑みれば、辰彦が適任であることは誰の眼にも明瞭だった。いい加減、彼ももう覚悟を固めていた。乗りかかった船なのだ。沖合に出てから岸壁を恋しがっても見苦しいばかりである。
「分かってますよ。何回も聞きましたよ、その注意書き」
「それなのに、一向に君の心は揺さ振られていないように見えるね」
「立ち居振る舞いに気をつけろという意味でしょ? 印刷やら校正やらレイアウトやら、そういう細々した知識以前に、人間として振舞え。そう言いたいんでしょ?」
 辰彦に対する椿の口の利き方も、知らぬ間に随分と解れていた。特に辰彦が専ら家庭教師のように附き添いの役割を担うようになってから、その傾向には拍車が掛かっていた。それも本来ならば適切な仕方で咎めるべきだったのだろうが、辰彦は何となく厳しい注意には踏み切れずにいた。本来ならば咎められるべき悪癖が、椿の辰彦に対する無防備な信頼の顕れであるように思われて、彼の虚栄心を心地良く擽ったのである。それは穢れた歓びであるようにも思われたので、オフィスで椿の物言いが崩れかかると、辰彦は鋭い眼つきで表情を引き締めた。周囲に対する配慮の重要性を始終口を酸っぱくして言い聞かされている椿は、それだけで言葉を呑み込んで過ちの露顕を辛うじて回避した。
「人間として振舞うことが一番大事だ。感情的にならないこと」
「小説には、理窟じゃ割り切れない感情が幾つも幾つも書き込んであるじゃない」
「君は小説の登場人物じゃない。君が生きているのは、この眼の前の生々しい社会だ。現実だ」
「小説だって現実よ。単なる絵空事なら、何の意味も感動もない筈だわ」
 椿は怯むということを知らなかった。少なくともその瞬間に限っては、彼女は荒城との面談で堪え切れずに流した涙の温度や熱量を完全に忘れていた。彼女は変わり身の早い少女のようだった。目紛しく移り変わる感情や思考に追い立てられて過去と分離してしまう、幼い子供の特性を未だ引き摺っているように見えた。それでも、言葉の隅々に行き渡った奇妙な迫力が、安易な説得を撥ね退けるように力強く脈搏っている。この子にはきっと才能がある、と辰彦は思った。その才能の具体的な輪郭や組成が、掴めているという訳ではなかった。不定形のエネルギーが、凡庸な人間の皮を被って、苦しげに悶えている。それを迂闊に解き放てば、とんでもない大惨事が起こりかねない。だが、ずっとそれを抑圧し続けることは出来ないだろう。そもそも彼女が編輯部の業務に向いているのかどうかも不明であったが、その奇態な才能の熱量を肌で感じる度に、辰彦は心臓が疼くのをどうしても誤魔化すことが出来なかった。

「Hopeless Case」 23

「遅かったね。疲れてるの?」
 字面だけを受け止めれば優しい労わりの言葉以外には聞こえようもないが、人間の発する言葉は必ず生身の肉声を伴っていて、その生理的な音楽が吐かれた科白の文脈を規定する。その観点から耳を澄ます限り、彼女は何かしら疲労を抱えていて、しかもその疲労はネガティブな感情を胎児のように宿していると感じられた。その端的な事実が、一日の労働の末に蓄積した辰彦の疲労の相対的な重量を嵩上げした。彼女は明るく満ち足りた専業主婦でも、赤児への夥しい愛情に魂を灼かれて天使のように崇高な心境へ達した理想的な母親でもなかった。つまり、危険な状態だった。感情が氾濫する手前の、危険な増水の徴候が耳慣れた声の響きの中に混じっていた。巧妙な隠蔽、或いは懸命に抑制された演技。辰彦は食卓の椅子に腰掛けて、雨曝しの自転車のように見捨てられた今日の夕刊を捲った。妻の梨帆は新聞代の支出に懐疑的だった。スマホの普及した御時世に、わざわざ嵩張る紙の新聞を契約して月々決まった金を払うのは愚かしいのではないか、というのが彼女の見解だった。どうせ直ぐに捨て去るものならば、森林資源を損なうよりも、電気を損なった方が後腐れがなくて好い。
「色々面倒に巻き込まれてね」
 辰彦は慎重に言葉を選んだ。尋ねられたからと言って、疲れている人間に向かって自分の疲労を綿々と説明するのは紛れもない愚挙である。それに梨帆は、辰彦の仕事の具体的な内容に就いて積極的な関心を持っている訳ではなかった。世間並みの平凡な相槌が得られるならば、それで満足すべきだった。寧ろ、それは呼び水なのだ。自分の抱えている陰湿な不満を相手に呑み込ませる為の、事前の形式的な儀礼なのだ。辰彦が多くの愚痴を並べれば並べただけ、利子を背負って膨れ上がった元本の心理的返済が求められることになる。それは確かに公平な遊戯ではない。梨帆は夕飯の仕度を始めた。叩き起こされたマイクロウェーブが低い唸り声を不平そうに掻き立てて、辰彦の食事を次々に発熱させる。その電磁的な騒音が、乏しい言葉の往来を妨げた。工事中の道路のように、彼らの会話は通い難かった。
 食卓の上に差し出された手料理を、辰彦は黙々と食べた。深いところまで穿たれた深刻な疲弊が彼の口数を奪っていることは事実だった。梨帆の料理は常に美味しかった。不満を覚える余地などない。だからこそ、却って重荷に感じられる場合がある。相手の完璧な働きが、負債のように被さる瞬間の息苦しい閉塞感を、世間の旦那たちは一様に味わった覚えがあるに違いないと辰彦は考えた。落ち度の少なさを競い合う酷薄な将棋のような生活の断面を、誰もが生々しく目撃してきたに違いない。何故、素直に振舞えないのかと第三者は訝かるかも知れないが、距離の近さが却ってそれぞれに鎧を着せるというのは有り得ることだ。近過ぎて素直になれないという逆説は少しも稀な事例ではない。
「私もう寝るから、食器洗っておいてくれる?」
 辰彦が食べ終わるのを待たずに、梨帆は重たい瞼を辛うじて持ち上げる煩瑣な努力を保ったまま、乾いた声で言った。辰彦は鶏肉に振られた黒胡椒の粒を咬んで、その刺すような辛さに顔を顰めている最中だった。黙って頷き、寝間へ消えていく妻の背中を彼は見送った。居間と襖一枚で隔てられた畳敷きの寝間へ、夜の沈黙が広がった。皿の脂をキッチンペーパーで念入りに拭き取ってから、彼は湯を流した。浮いた脂の膜が、流れる湯に押し流されてシンクの底へ零れ落ちた。蟀谷の辺りに鈍い痛みが凝っていた。椿の泣き顔が浮かび、荒城の強面が眼裏を飛び交った。益々疲弊が募るばかりだ。辰彦は洗い物を放置して、先にシャワーを浴びようと考えた。
 熱い湯の流れを汚れた皿のように浴びながら、辰彦は明日の出勤を厭わしく思った。明日も椿と顔を合わせるのは気鬱だった。憔悴していれば、それだけで世話が焼けるし、元気を取り戻していたとしても、その所為で殊勝な反省が揮発してしまっていたら意味がない。荒城の説教で蹴飛ばされた野良猫のように傷つき苛立っている椿を庇いながら、通常の業務まで熟すのは至難の業だ。何で自分ばかりがこんな苦労を背負い込まねばならないのか、釈然としない。その分の疲労が溜って、家庭生活にも不本意な陰翳を投じているような気がして、彼の懊悩は猶更強まった。襖の向こうに消えた梨帆の草臥れた横顔が何度もチラついた。やってられねえ。そうやって叫び出したくなるくらい、彼の内臓にまで染み込んだ疲弊は、マイナスのエネルギーを膨張させていた。
 頭髪の水気をタオルで乱暴に、力任せに拭い去りながら、彼は娘のことを考えた。襖の向こうで、母親の傍らで眠りの底に沈んでいる三歳の無力な悪魔。両親の精神を貪って大きくなる純潔な悪魔。その寝顔は何時でも天使の彫刻のように完璧な愛らしさを纏っていた。そういう数多の矛盾に取り囲まれながら、辰彦はどうやって生きれば、人生というものは楽になるのか、皆目見当もつかないことに絶望的な不安を覚えた。

「Hopeless Case」 22

 もう自分が確りと面倒を見る以外に選択肢はないと、辰彦は覚悟を決めた。荒城との面談を終えた椿は脱け殻のように無口で、そんな憔悴した姿を目の当たりにした編輯部の面々は、ざまあ見やがれという無慈悲な感想を口にしつつも、同時に或る痛ましさも感じていた。彼らの中で、荒城からの苛烈な説諭を免かれ得た者は過去に一人もいない。だから、純然たる悪意だけで、椿の疲弊と放心を嘲ることには、根強い心理的抵抗が働いたのだ。死人に鞭打つことは躊躇われる。たとえ誰もがその人間の非業の死を望んでいたとしても、実際に亡骸と化せば、それほど溜飲を下げた積りにはなれないものだ。他者の死は弔うべきものであって、寿ぐものではないと、生物学的な本能が肚の底で訴えるのかも知れない。
 帰りの電車に揺られながら、辰彦はぼんやりと日中の情景を思い浮かべていた。氷のように白く透き通った椿の顔色が眼裏を壊れかかった蛍光燈の明滅のように幾度も煩く通り過ぎた。それは車窓の向こうの夜景と被さって見えた。混み合う千代田線が地上に這い出して、夜の江戸川をガタガタと音高く渡った。椿は確か、市川の方に住んでいると聞いた覚えがあった。今頃、彼女はどんな想いで拉がれた時間の堆積を遣り過ごしているのだろう。鉄橋の骨組みの彼方へ、江戸川の水面の列なる先へ向かって、彼は少し充血した視線を送った。闇は何も答えなかった。疎らな燈火の散在が、彼の視線を黙って撥ね返した。感傷は要らない、それは自慰に過ぎないと、鼻で嗤われたような気がした。確かにその通りだった。感傷的に思い入れて何になるのか。だが、彼女の雇用に荷担した者としての責任は、粛々と引き受けなければならないだろう。それさえ感傷に過ぎないことは、理窟の上では分かっているけれども、だからと言って、感傷を排除する為に冷酷な無責任を選ぶべきだという確信の裡に安住することは、難しく思われた。
 南柏駅のロータリーで、彼は丁度到着したばかりのバスに飛び乗り、今谷上町で降りた。九時を回っていた。彼には三歳の娘がいた。妻は働いていない。来年の春から、保育園に入れる予定だが、この界隈は待機児童が多くて、彼らの希望が叶う確実な算段はついていなかった。もう娘は眠っているだろう。すやすやと、夢の中で夢を見ているような顔つきで、蒲団に埋もれて、枕の上に両手を無防備に投げ出して眠っているだろう。恐らく、そうした情景を苦もなく頭の中に想い描けるのは幸福な境遇なのだろう。年を追う毎に重たくなってくる肉体を引き摺って、この暗い家路を辿る間にも、燈明のような想像を愉しめるのは、恵まれた生活であるに違いない。少なくとも、自分は孤独ではない。そのように思えるのは、しかもただ頭の中で勝手に思い込むのではなく、具体的な事実が、自らの孤独を現に否定してくれるというのは、有難い話である。
 しかし、その晩の帰り道は、意識の表面がやけに泡立ち、混濁しているように感じられた。荒城との面談の殺伐たる光景が執拗なイメージの列なりと化して、辰彦の頭脳の中枢を繰り返し咬んでいた。それは不愉快極まりない感覚であり、心身の紛れもない耗弱を強いる記憶だった。踏み出す一歩ずつが疲弊に蝕まれているのは平日の夜の習いである。だから、それ自体が奇妙に感じられる訳ではなかった。頭の中の風景を白っぽい危険な靄が覆っているような感覚が絶えない。その所為で、余計に疲労が黒ずんで辛く重苦しく感じられる。出口のない考え事に耽っていたからだろう、自宅へ通じる路地の角を通り過ぎたことに気付いて、彼は慌てて踵を返した。
「お帰り」
 寝かしつけを終えた妻は、台所で食器を洗っていた。ラップで覆われた辰彦の食事が、電子レンジの上にひっそりと血の気の失せた表情で置かれていた。辰彦は低い声で挨拶をしてから、洗面所で顔の脂を洗い落とした。何かが咬み合わないような予感がした。妻の俯いた横顔、辰彦に気付いて持ち上げられた視線の角度、表情の明度、洗い物に勤しむ指先の速度、それらの要素が総合的な評価として、彼女の草臥れた気分を暗示しているように思われた。無論、こんな観察の精確性は大いに疑問の余地がある。結婚するまで、彼の生活は妻のことを何もかも知悉しているという自負に裏打ちされていた。行住坐臥、常に彼は妻の最高の理解者であり、不毛な秘密は日向の打ち水のように悉く渇き切っており、純白のシーツのように清純な日々だけが行く手に広がっている筈だった。けれども実際に籍を入れて共同の生活を営むようになると、妻は一つの堅固な迷宮に様変わりした。距離の近さが却って、あらゆる些細な挙措を難解な暗号に置き換えてしまうのだろうか。密着した生活への移行は、心理の更なる密着を必ずしも意味しない。赤の他人には見せない私的な姿を軒並み目の当たりにするという経験は、一糸纏わぬ裸身でさえも、如何なる人間の秘密、魂の機密を表示するものではないという厄介な真実を辰彦に教えた。包装紙しか見えない立場なら、包装紙を剝ぎ取れば真実に出逢えるだろうという素朴な期待を信じることが出来る。しかし、赤裸々な肉体にしつこく触れた後で猶も、包装紙の手応えしか感じることが出来ない場合、人は慄然として途方に暮れるしかないのだ。

「Hopeless Case」 21

「色々と面倒な繰り言が俺のデスクに押し寄せて来るんだよ」
 各種の打ち合わせに用いられる殺風景な部屋の奥まった場所に置かれたソファで、荒城は乱暴に膝を組んで、左右に分かれて座った二人の顔を順繰りに眺めた。二人とも沈黙で自分の身を護る以外の途を、当座は何も思い浮かべられなかった。呼び出しの背景は、誰の眼にも明瞭だった。活発な新参者の野兎を、老獪で大人しい先輩たちが不快に思い、業務に支障を来すようでは困ると、尤もらしい正論をコレクションして、農場のボスに提出したという訳だ。理由や経緯は兎も角、部長の手を煩わせたという動かし難い事実が既に、野兎の保護者である辰彦にとっては手痛い失錯に他ならなかった。こんな狂暴な兎だとは思わなかったと被害者の面構えで訴えることも不可能ではないが、それは良心が咎めた。狂暴であることは、喫茶店での面談だけでも、充分に窺い知ることの出来た彼女の個性であったからだ。今更白を切っても、余計に野兎の憤怒を煽動し、荒城との面談の首尾を悪化させる結果に繋がるだけだろう。
「川崎。お前がきちんと面倒を見ないから、こういう事態に陥ったのか」
 椿への仄かな気遣いだろうか、荒城の口調は抑制されて、日頃の剣呑な粗暴さを辛うじて隠していた。けれども、言葉の張り詰めた硬さが、彼の秘められた感情を明らかに示唆していた。彼は余計なトラブルを持ち込んだ二人に対して、一般的な憤激を感じているのだ。余計な仕事を殖やされる、しかもそれが下らない感情的な諍いの多様な変奏であるというのは、荒城という人物にとっては「愚の骨頂」以外の何物でもない。感情に囚われて脇見をする奴はさっさと車に撥ねられちまえ、という苛烈な叱声を、辰彦は以前に自分の鼓膜で受け止めた覚えがあった。
「申し訳ありません」
 謝る以外に術はないと思い切って頭を下げた辰彦の傍らを、椿の如何にも不機嫌そうな声音が矢のように駆け抜けた。
「川崎さんは何の関係もありません。叱られるのなら、私です」
 辰彦が顔を上げて掣肘を試みる前に、渋面の荒城が凍えるような声で報いた。
「安心しろ。順番に怒鳴りつけてやる積りだ」
「順番じゃなくて、私だけで結構です」
「何でそんなことを、あんたに指図されなきゃならない?」
 恐らくは「お前」と無骨に言い掛けたのを寸前で堪えて「あんた」に掏り替えたのだろう、聊か歯切れの悪い口調で、荒城は椿の双眸を射貫くように見据えた。
「あんたは新人だな? うちの仕事は何一つ知らない。本の一冊、いや一頁すら、仕上げたことのない素人だ。それがあんたの身分だ。間違いないな?」
「はい、間違いありません」
「あんたは芸能人が一日駅長やら一日警察署長やら観光大使やらを任されるような積りで、このオフィスをうろついている訳でもねえ。そうだな?」
「はい。そんな厚遇を受けた覚えはありません」
 皮肉な返答に、辰彦は心臓を締め上げられるような息苦しさを感じた。
「だったら、あんまり調子に乗って他人の仕事に嘴を挿むのは止せ」
「教えを乞うことがいけないんですか」
「教えてやりたいと思わせられない人間に、教えを乞う資格があると思うか」
 荒城の痛烈な反撃は、椿の反骨精神に満ちた饒舌を怯ませた。椿の眼は見開かれて、その視線は劇しい風圧に抗うように荒城の唇を捉えていた。その横顔は砂嵐に削られた古びた石像のように見えた。
「男だ女だ、そんなことは関係ねえが、つまり明るく媚びるのが女の役目だなんて古臭い常識には縛られてねえ積りで言っとくが、教師をその気にさせられねえなら、せめて他人の仕事の邪魔をするな。大体、あんたの世話は川崎に任してある筈だ。あんたが川崎を頼らねえで直に他の人間の机を窃み見るから、誰もが辟易するんだ。根本的に言って、お前は恩人である筈の川崎のことすら蔑ろにしてるんだぜ」
 遂に自制の緩んだ「お前」という呼び掛けが旋風のように過ぎ去った後で、椿はもう如何なる反論も試みずに口を噤んでしまった。凍り付いた横顔の輪郭を辿るように、無音の涙が、嗚咽を欠いた涙が流れて瀝り落ちた。堪えているのだろうか、と辰彦は思った。荒城は忌々しそうに顔を背け、片手で虚空を払った。
「もういい。川崎、連れて行け」
 辰彦は立ち上がり、椿を促した。彼女は何も答えず、身動きもしなかった。時間が停止したように、椿は無言で涙を流していた。悔しいのだろうか。だが、奇妙な眺めだった。抑圧された嗚咽の遣り場が気懸りだった。内臓に負担が掛かりそうな泣き方だ。
「長居は無用だ。じゃあな」
 女の涙を何よりも忌み嫌う荒城が足早に去った後の部屋には、緊迫した沈黙と、後味の悪い叱責の余韻だけが遺された。止むを得ず、辰彦は手巾を差し出した。椿は黙ってそれを受け取り、広げて顔に押し当てた。初めてか細い嗚咽が漏れた。ダムの放水が始まったらしい。辰彦は静かに項垂れて、自分の損な役回りを再び呪った。

「Hopeless Case」 20

 定岡と遣り合った翌日の金曜日、窓から射し込む光が仄かな茜色を混淆し始めた午後四時、椿は編輯部長の呼び出しを受けた。彼女の実質的な保護者である辰彦も、同席を命じられた。
 定岡との諍いが、何か劇的な破局に結び付いたという訳ではない。悲劇的な惨事が衰燈舎の静かなオフィスに決定的な亀裂を走らせた訳ではない。固より余り饒舌ではない定岡は、胸底に蟠るどす黒い感情を巧く言葉に置き換えることが出来ないまま、憤然と踵を返して、椿の許を足早に立ち去ってしまった。オフィスには息苦しく冷ややかな沈黙と、抑制された会話が充ちた。辰彦は椿の立場を危うくしない為に、敢て声高に、彼女の自制心の欠如を詰った。しかし、椿は膨れっ面で耳を貸さなかった。先輩の忠告に平伏すような殊勝な感情は彼女の持ち分ではなかった。辰彦は心底疲労を感じた。一体この女は、自分の立場を弁えているのだろうか。声を荒らげたり、不愉快な感情を剝き出しにしたりすることに抵抗を感じるタイプの辰彦は、それでも珍しく語気を強めた。相手の心情や個性に配慮することが、君にとってはそんなに難事業なのか。厭味な言い方は、余計に椿の感情を硬化させた。そうやって露骨に保護者のような態度で、私を叱ったり庇ったりするのは止めて下さい。随分と恩知らずな言い分だと、辰彦のみならず、周りで聞き耳を立てていた同僚たちの誰もが思った。たった一人で戦いたいと偉そうに吠え立てることが出来るのは、所詮彼女が幼気な子供であるからに過ぎない。内定者という以外に如何なるレゾンデートルも持たない若い女が、何を言っているのか。衰燈舎の人々が共有する「良識」は挙って、椿の態度に有罪の判決を言い渡していた。尤も、それは明確な言葉としては表示されなかった。それらの民意を、辰彦が自分の言葉に置き換えて、椿の頑迷な反駁と争っていた。見ているだけで疲弊するような光景だった。そして誰かが、或いは定岡本人かも知れないが、検察官に密告した。いや、堂々たる告訴であったかも知れない。
「君は一体、何を考えているんだ。君自身のメリットは何処にあるんだよ」
 指定された別室へ向かう廊下の途中で、辰彦は抑えた声音で椿の真意を問い質した。彼は苛立ちと絶望と、一縷の切なさを併せ持っていた。衰燈舎に入りたいと言い出した椿の熱望と、現に彼女がインターンの身分で示している諸々の振舞いとの間には、奇妙な断絶があるように思われた。確かに彼女は情熱を持ち、積極的な行動を積み重ねている。しかし、それは既に作り上げられた秩序へ馴染もうとする人間の態度ではない。新米の定石を外れている。彼女の言動は悉く周囲の反感を買っている。それが本当に君の希望に適う現実なのかと、辰彦は尋ねたかったのだ。
「私は一刻も早く、この会社の仕事を理解したいと思っているだけです」
「だったら、もう少し謙虚に振舞ったらどうなんだ」
「謙虚に振舞えば、何でも教えてくれるんですか。例えば室原さんとか」
 辰彦の眼裏に、室原香夏子の濃く描かれた眉と、濃厚で重層的なファンデーションの映像が泛んだ。昔から、新人に手厳しいことで知られる彼女の大人げのない態度、癇性の気質にも問題が含まれていることは事実だ。しかし、だからと言って厚かましく接したり、口答えしたり、相手の事情を斟酌しなかったりするのが有効な抵抗の手段であるとは言えない。情熱とは良し悪しだ。それが空転するならば、方々に引火を招くことになる。
「君の情熱を疑う訳じゃないが、情熱を表現する方法にもっと神経を遣ってもらいたい。君の居心地が悪くなるばかりだ」
「説教なら、この後で幾らでも聞かされるんだから、川崎さんまで彼是言わないで下さい」
 切り口上のように言い放った椿の横顔の輪郭が、少しぼやけているように見えた。白い肌に被さる明るい茶髪の毛先が、何かを隠蔽する障壁のように感じられた。彼女は明らかに、辰彦の視線を避けていた。彼は更なる疲労を感じた。こういう場面で泣き出すのは反則であり、狡猾であり、心底うんざりさせられる。散々、周りとの軋轢を悪化させて、揚句の果てに編輯部長の呼び出しまで食らっておきながら、最終的に感情の抑制を緩めてしまうのは卑怯ではないか。辰彦は初めて、椿の為に会社との橋渡しを担った自分の軽率な行動を悔やんだ。
「部長の前で泣き顔を晒すのは止してくれよ。部長は、女の涙が何より大嫌いなんだ」
 椿は何も答えなかった。営業部の男性社員が、怪訝な表情で二人の様子を見遣りながら擦れ違っていった。辰彦は堪え難い居心地の悪さを感じた。何故、自分がこんな役回りを引き受けなければならないのか、少しも腑に落ちなかった。
「聞こえてるのか、椿」
 思わず「高邑さん」という日頃の呼び方を忘れて声を掛けた瞬間に、背筋を冷たい刺戟が走り抜けた気がした。それは錯覚であったかも知れない。鋭い眼つきで顔を上げた椿の眦には、砕けた水晶のような雫が辛うじて睫に獅噛みついていた。

「Hopeless Case」 19

 椿の生活は充実していた。傍目には、それを充実と呼んでいいのかどうか、判然としなかったに違いないが、少なくとも彼女は活々と動き続けていた。就活の終わった同世代は、人生最後の夏休みと思い定めて螽斯キリギリスのように遊び呆けていたが、椿は学友たちと余り触れ合おうとはしなかった。一応は誘われて山にも海にも行ったが、何処へ行っても浴びるように酒を呑んだり猥褻な誘惑に励んだり猥褻な誘惑に欺されたような芝居を打ったりする人たちの青臭い温度には余り共感出来なかった。そういうことは大人になってからも出来る、きっと、と彼女は考えた。何故、この夏休みが、一つの人生の終幕であると決め付けるのだろうか、永い人生なのに。彼らの焦躁が、椿は腑に落ちなかった。無論、椿自身も一種の焦躁に心を灼かれているという点では学友たちと同類であったが、彼女はその点に就いて充分に自覚的であるとは言えなかった。見た目が違うだけで、僅かばかりの異質な要素があるだけで、何か自分だけは特別だと思いたがるのが人情だとすれば、そしてそれが「虚栄」ということであるとすれば、椿もまた紛れもない「虚栄」の眷属であった。
 漸く発見したという想いが、決して手放したくないという執着に転じることは少しも珍しい話ではない。それを失ってしまえば再び冷たい荒廃の世界へ舞い戻ってしまう、墜落してしまうという感情は、通俗的な恋に似ていた。二度とあの場所へ戻りたくないと思い詰めるほど、切迫した苦しさではなかったと感じるのに、いざ温度が変わり、景色が変わってしまえば、人間は贅沢で強欲になるのだった。潜り込んだ職場で、自分が必ずしも歓迎されていないことは椿自身、理解していた。けれど、それは今更撤退の理由にはならない。引き返して、何処へ戻ろうと言うのか? 亘祐と別れて自分では思いも寄らぬ空白に、色々な本で見掛けた覚えのある「虚無」という奴に、身も心も蝕まれた頃の記憶は既に遠かった。ただ、遠いからと言って、その痺れるような後味まで綺麗に拭われた訳ではなかった。帳消しということは有り得ない。忘れた事件が、どんな後遺症も授けないとは限らない。
 いざ踏み込んでしまえば、辰彦が入念に語ったように、衰燈舎の日々の業務は極めて地味であった。一流の盛名に彩られた作家と原稿の遣り取りをする訳ではない。大学教授が応接室に招かれることはあっても、見た目には普通の人々で、専門書に縁遠く学者の卵でもない椿の感情を高ぶらせることはなかった。海外のマイナーな作家たちにしても、翻訳係に所属する語学の堪能な数名のスタッフがメールやスカイプで商談を進めるだけで、その存在は蜃気楼のように生身の手応えを欠いていた。視野に映るのは、只管に地味な作業の連続で、固より文学という世界、書籍という世界がそんなに華々しく耀かしい筈もない。虚構の楽屋は酷く散文的で索漠としていた。それゆえに椿の意欲や情熱が色褪せるということはなかった。白紙に綴られた活字の羅列自体が華やかである理由もない。その活字の彼方まで翔ばなければ、どんな鮮烈な風景も捉えることは出来ないのだ。踏切板が耀く必要はない。飛び込む空が青ければいいのだ。
 校正係の定岡は、神経質な風貌の男で、三十歳を僅かに過ぎたばかり、概ね辰彦と同年輩だった。華奢で繊細な顎の輪郭、髭が伸びているところを見たことがない。彼は明らかに椿という闖入者を嫌っていて、彼女に話し掛けられたり仕事を観察されたりすることを極度に嫌がった。スマホで定点から動画を撮影させてくれと頼み込んだときも、直ぐには首を縦に振らなかった。辰彦が間に立って熱心に口説いてくれなかったら、きっと椿の願いは叶えられなかっただろう。
「何でそんなに嫌がるんですか。あたしのことが気に入らないんですか」
 定刻の十八時を回り、仕事の後片付けに着手した定岡の背中に向かって、椿は不敵な問いを投げ掛けたことがあった。流石に余りに直截な尋ね方だったので、別に筋金入りの悪人でもなく、寧ろ不器用で寡黙なたちである定岡は面食らい、咄嗟に返事もしなかった。机に広げた愛用の文房具を丁寧に纏めて筆箱に蔵う手を止めただけだった。その背中には危なっかしい困惑が充ちていた。
「僕は君みたいな女の子が苦手だ。無躾だし、距離感がおかしい」
「距離感がおかしいって、どういうことです。別にくっついたり手を握ったりした訳じゃないし」
「当たり前だろう、そんなこと」
 椿の投げ遣りな口調に苛立って、定岡は思わず気色ばんだ。立ち上がった背中、それを包むダークスーツの鈍い光沢や鋭い輪郭さえも怒りに慄えているように見えた。
「君は仕事の邪魔をしている。僕たちは、君の存在を負担に思っている」
「何故?」
「何故って、彼是質問攻めにしたり、集中を擾したりするじゃないか。僕たち編輯部の人間は、横槍を何よりも嫌っているんだ」
「皆で集まって働いてるんだから、少しぐらいの横槍は我慢して下さい」
「君は僕のことを馬鹿にしているのか」
 堪りかねて珍しく真っ直ぐに椿の顔を睨み据えた定岡の唇は蒼褪めていた。リムレスの眼鏡、その淡い金色のテンプルが余計に彼を神経質な男に見せていると、彼女は思った。背後から辰彦の声が聞こえた。不毛な諍いの勃発を目敏く発見したのだろう。保護者に護られている限り、子供扱い、余所者扱いは終わらないんじゃないかと感じた椿は、振り向いて掌を突き出し、辰彦の疲れ果てた眼差しを見凝め返して、それ以上近付かないでと無言の表現で厳しく訴えた。

「Hopeless Case」 18

 否が応でも、川崎辰彦の仕事は増えた。椿と最初にコンタクトを取り、尚且つ荒城に掛け合って面談の場を誂えたのが辰彦の仕業であることは周知の事実だったから、椿の世話を引き受けるのも辰彦であるべきだというのが、社内の暗黙の了解だった。それを受け容れない理由もなかった。辰彦は忙しい編輯の仕事の合間に、どうしても孤立しがちな椿の面倒を見て、荒城から無責任な野郎だと叱られないように気を配る必要があった。面談の後の喫煙所で、彼は荒城から直に、来年の春が来るまでには椿を少しでも使い出のある人材に鍛え上げるよう厳命されたのだ。場を取り持った以上、それは抗い難い命令だった。日々の負担が増すことは事実だったが、それが不愉快だという訳でもなかった。
 椿自身は周囲の偏見や忌避や好奇や、或いは半ば妄想に等しい種々の風聞やらを一向に意に介さずにいた。だから、彼女自身の頑強な精神を殊更にケアする必要は稀薄だったが、余りに秘められた陰湿な思惑を真に受けないのも、周囲の人間からすれば業腹だった。厭味の通じない相手に、その鈍感さを咎めたくなるのは一般的な人情である。だから、辰彦は両者の間に入って、疎通しない意思を取引するブローカーのような役目を担わなければならなかった。彼は荒城の名を随所で拝借して、部長の評価なのだから彼女は会社に必要な人材なのだ、採用が決まったからには少しでも使えるように育てるしかないのだ、仕事は選り好みさせないから、どうか協力してもらいたいという趣旨の言葉を方々で吐いて回った。
「あんたが余計なことをするから、ああいう訳の分からない女の子が潜り込むことになったんでしょう」
 装幀係を取り仕切る室原香夏子むろはらかなこは、椿に対する不満を隠そうともしない右派の急先鋒だった。御年四十一歳の独身である。辰彦は香夏子が余り得意ではなかったが、他人への好悪を露わにせず固定もしないことが彼の処世訓であったから、苦手だという感覚を認めること自体、彼にとっては内面的な敗北を意味していた。香夏子は露骨な敵意と苛立ちを突きつける為に、頻繁に辰彦を呼び出した。捗らない装幀のスケジュールさえ、椿という余所者を招き入れた辰彦の軽率な判断に責めを帰すのが、香夏子の大人げない遣口だった。呼び付けられても、辰彦の側では同じような言い訳を繰り返す以外に術がない。椿が内定者として夏季休業の期間をインターンに充てるのは自然な成り行きであったし、インターンの学生を受け容れる体制の整っていない会社で、彼女の存在が浮き上がってしまうのも必然的な帰結だった。その現実を理解した上で、ぐっと堪えるという成熟した振舞いに屈辱を覚えるのが、香夏子の幼い欠点であった。
「彼女の雇用は、会社として正式に決定したことなんですよ」
 余り下手に出ても権高な勢いを増長させるだけだと心得ている辰彦は、時に毅然たる口調で香夏子の苦情を腕尽くで抑えに掛かった。無論、先方はそんな硬質な理窟に大人しく論破されるような柔弱とは縁がない。一層依怙地になって、辰彦の顔を睨みつける。
「あんたのガードが甘かったのよ。若い女の子に甘い夢を見させたんでしょう。気に入ったの?」
「彼女の熱意は評価に値すると思いますよ。別にこれは依怙贔屓じゃありません」
「公正な評価だってこと? 誰がその公平さを保証するのよ」
「決まってるじゃないですか。荒城部長ですよ」
「あんたが口添えしたんでしょう」
「私の口添えだけで切り替わるほど、部長の判断は軽率なものではありません」
 傍で二人の舌戦に耳を傾けながら、パソコンの画面に向かって装幀の図案を品定めしていた鏑木という男性社員が、小さく口笛を吹いた。
「辰彦、なかなか弁が立つじゃないか。荒城部長の御判断に逆らう奴なんか、この部屋にはいないもんな」
「鏑木さん、黙っててくれる?」
 香夏子の鋭利な一瞥に大袈裟に首を竦めて、鏑木は再び画面に向き直った。
「どうしても納得が行かないのなら、荒城部長に直に掛け合って頂くほかありません」
「卑怯な言種ね。あんたは跣足で逃げ出す積り?」
「逃げ出したりしませんよ。一つ屋根の下で共に働く同僚なんですから」
 口論が済んだ後も収まらずに延々と愚痴を並べる香夏子を無視して、辰彦は自席に戻った。明日印刷に廻す予定の原稿をチェックしなければならないのに、一向に進捗していない。椿の世話と、香夏子のような連中の苦情に附き合うだけで、貴重な勤務時間は粉糖のように瞬く間に溶けてしまう。自分だけが、こんな厄介な役回りを引き受けるのは不当な処遇であるようにも思われた。香夏子は辰彦が椿を引き入れたと言いたがるが、彼の立場からすれば、大学の恩師に頼まれて軽い気持ちで面談を引き受けたのが始まりであり、義理を欠くことが一般に褒められた振舞いではない以上、彼が総ての禍事の出発点であるかのように糾弾されるのは腹立たしい話であった。そもそも、彼女を雇用したのは辰彦ではなく、人事権を行使したのは飽く迄も部長の荒城である。荒城が取締役に上奏して承認を得た結果である。文句があるなら荒城に言ってくれという科白は、別に喧嘩を売っているのではなく、辰彦の素直な心境から導かれた答えに他ならなかった。