サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Digital Anxiety 安部公房「第四間氷期」

 安部公房の長篇小説『第四間氷期』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める。

 荒唐無稽の奇怪な設定を案出し、それによって我々の属する社会の日常的現実を宙吊りにしてしまう実験的精神は、安部公房の作風を成す顕著な特徴の一つである。無論、作家ならば誰しも虚構の物語を拵えて、人間の実存の多様な「可能態」(dunamis)に、想像の力を借りて克明な「現実態」(energeia)を授けることに労力を支払うものだが、安部公房の場合は特に、その想像力の射程が幅広く、しかも絶えずそこに科学的な論理による補強が附されているように見える。無論、彼の主要な関心は必ずしも科学的な論理の実際的な精確さに寄せられている訳ではない。科学的知見は着想の材料であり、重要なのは案出された奇怪な設定の内部で動き回る人間たちの心理的葛藤や、存在の根本的な変容である。
 「予言機械」と「水棲人」という二つの怪奇なイメージを縒り合わせて、安部は不吉な未来の「ブループリント」(blueprint)を描き出してみせる。人体を改造して水棲に適した新たな生物に進化させるという着想は、人間の古典的な定義を疑って已まない作者の揺るぎない信条を明瞭に反映している。肉体を単なる物質に還元しようとする作者の冷徹な視点は、科学者の特質であるとも言えるし、或いは「論理的帰結」(corollary)に対する強靭な忠誠心の顕れであるとも言えるだろう。人間の主体的意志を必ずしも重視しない作者の姿勢は、人間を実験用のモルモットの如く遇することに躊躇しない。言い換えれば、彼は「人間」という種族の固有性や特権的な栄光を、つまりヒューマニズムの感傷を涼しい顔で踏み躙っているのである。
 勝見博士の作り出した予言機械は、未来に関する仮借ない論理的帰結を導き出し、告示する。その予言が描き出す未来のブループリントは、劇しい心理的抵抗を勝見の内面に惹起する。勝見はその抵抗ゆえに保守的な人物として断罪され、推進されるべき未来図を毀損する不毛な存在として処刑される。彼の保守性は、通俗的ヒューマニズムに根差したものである。彼は予言機械の論理的な整合性、精確性に疑義を呈し、水棲人による地球の支配という突拍子もない青写真に猛烈な敵意を示す。言い換えれば、勝見は人類の歴史的な連続性、日常という秩序の連続性に対する不合理な冒瀆を「水棲人社会」という奇態なブループリントの裡に読み取ったのである。
 安部公房の作品の過半は、平凡な日常性の急激な瓦解、しかも理不尽な瓦解という劇的構成を備えている。その瓦解に、明晰な説明が与えられることはない。いや、論理的説明は幾らでも豊富に与えられるのだが、それは常に「水棲人」という「未来」のイメージのように、超克し難い根源的断絶を孕んで主人公及び読者に向かって迫るのである。作者は後書きにおいて「第四間氷期」という作品の中心的主題が「未来」という観念に内在する本質的な「残酷さ」であることを明瞭に述べている。「現在」の側から眺めれば、恐らく「未来」というものは常に残酷な相貌を伴って顕現する定めを帯びている。「未来」の本質的な断絶性、つまり「現在」の平坦な延長線上に存在する世界が「未来」に該当するのではなく、例えば「現在」の急激な相転移の帰結のようなものとして「未来」が存在しているという考え方が、安部公房の創作の主眼を成しているのである。
 こうした考え方は「現在/未来」の関係性という問題に限って提示されるものではなく、謂わば「離散的」な信念、即ち「連続性に対する不信=懐疑」とでも称すべき精神の傾向が、安部公房という表現的人格の中核を領しているのではないかと思われる。「連続性」に対する絶えざる不信は、例えば「S・カルマ氏の犯罪」で示された「自己同一性」に対する懐疑や、或いは「赤い繭」や「闖入者」などの作品に見出される「帰属」の不確実性といった観念と密接に結び付いている。堅牢な日常に安住することの出来ない根源的不安、それは確かに「本質に対する存在の先行と優位」を唱えた実存主義に近しい不安の様式であるように思われる。安部公房の作品に登場する夥しい「変身/分身」のイメージ、或いは世界全体の極端な変貌のイメージ(「第四間氷期」の他にも、例えば「水中都市」や「洪水」など)は、こうした「連続性」に対する不安、言い換えれば「離散的不安」とでも呼ぶべき種類の心理的不安が、安部公房の芸術における基調音として充満していることを物語っている。
 同時代の傑出した芸術家であり理論家でもあった三島由紀夫の不安は、安部公房の「離散的不安」とは異なるベクトルを有していたように思われる。彼の場合、寧ろ忌まわしいのは日常性の揺るぎない堅牢さであり、自己が自己から逃れられない現実への絶えざる嗟嘆こそ、その生涯の精神的基調音であった。三島が望んだのは日常性の劇的な破綻であり、それを通じて崇高な絶対的価値との融合を果たすこと、つまり自己同一性からの脱却を成し遂げることであった。この退屈な日常が無限に持続するのではないかという不安、つまり「連続的不安」こそ、彼の拭い難い宿痾である。それゆえ日常性を破壊するような悲劇的瞬間が、要するに「断絶」が切実に希求される。だが、それは本当の意味で自己同一性を破壊する行為であるというより、謂わば「剝製」や「彫像」のような仕方で、無時間的な自己同一性を結晶させること、煎じ詰めれば「自己神格化」に向けた審美的な手続きであったようにも感じられる。自ら「断絶」そのものに化身し、普遍的な真理や正義や美しさと一体化すること、無限と合致することで、有限性という肉体的実存の条件を超越すること、それが三島の濃密なロマンティシズムの核心である。

第四間氷期 (新潮文庫)

第四間氷期 (新潮文庫)

 

「サラダ坊主日記」開設五周年記念の辞

 過日、八月二十五日を以て「サラダ坊主日記」は、開設五周年の節目を迎えた。

 一年前の今頃は何をやっていたのだろうと記事を漁ってみると、近頃は自作の小説を書くことに熱中しており、過去に投稿した創作を纏めて「カクヨム」へ移管し、このブログから削除した旨、記述があった。結局、一年が経過した今では、既に「カクヨム」のアカウントは抹殺され、拙い草稿の類は再びこのブログへ転居している。何だか、一年経っても遣っていることに何らの進捗もないようで、滑稽でもあり気鬱でもある。
 仕事の方は配属が変わり、新型コロナの災禍を蒙って目下業績不振であるが、不振ゆえに肉体的な負担は軽少である。緊急事態宣言の発令中は、転属先が休業の為、無闇に休みが多くて閉口した。尤も、珍しく家族との濃密な時間を過ごせたのは貴重な収穫だった。忌まわしきコロナウイルスに謝辞を捧げる意志は毛頭ないが、逆境においても明るい材料を努めて掘り起こすのは処世の叡智である。悲嘆の淵に沈んでも、状況が劇的な好転を遂げる訳ではない。コロナの影響で窮屈な生活、不如意な生活を強いられているのは別に私だけではない。だから、嘆いても無益である。
 仕事の環境は変わっても、私生活のリズムは余り変化していない。四歳になった娘は日に日に姦しく、口達者で小生意気になり、愈々頼もしくなってきた。気に入らないことがあると、父親を足蹴にするので迷惑している。どうも我が強く、頑迷で、そのくせ妙に剽軽な気質である。相変わらず保育所では男子に混じって走り廻っている。ただ最近は親密な間柄の女友達もいるらしく、とりあえず純度一〇〇パーセントの男子ではなくなって安心している。性別の隔てなく、周りと親しくしてくれるなら、親は安心である。

 時々小説を書いたり、読書の感想を綴ったり、私生活の定石は弛まぬ反復の裡に封じられている。三島由紀夫の繙読に区切りがつき、最近は安部公房の小説を集中的に読んでいる。先々は、大江健三郎中上健次古井由吉車谷長吉村上春樹坂口安吾などに取り組んでいきたいと夢想している。だが、計画が順調に進むかどうかは心許ない。小説を読むことは、簡便な娯楽ではない。受動的に身構えていたら、行間の意味を悉く取りこぼしかねないし、多方面の分野における知識の欠如が、順調な読解を妨げることもある。安部公房の文章など、確り集中して掴まっていなければ、あっという間に振り落とされかねない強靭な奥行を備えているので油断大敵である。それに読書は頁を捲って終わりではない。読み終えた後に反芻して、充塡された意味の複雑な編み目を解すことも重要である。小説は読むだけでなく、時折想い出すべきものでもある。その追想の密度を高める為の工夫として、感想の記録は有効であると信じているが、実際はどうだろうか。よく分かっていない。

 「表現」ということに就いて、最近考える。それは「形を与える」ということなのだろうか。その「形の与え方」のパターンに、作者の個性が滲み出る。三島由紀夫の文体と、安部公房の文体との間には明瞭な異質性が存在する。それは即ち、両者の思想や価値観や感受性の歴然たる差異の存在を示唆している。「表現されたもの」から遡行して、読者は「表現」と分かち難く結び付いた「世界観」に接触する。三島と安部は、少なくとも同じ時代の同じ国家に生き、同時代の日本語を用いて種々の表現を行なっているにも拘らず、そこには明らかな差異が顕示されている。共通の言語を駆使しながら、猶もそこには表現における異質性が不可避的に顕れている。単純化して言えば、それは言葉の組み合わせの問題である。しかも、その組み合わせは、単語同士の並列的な組み合わせのパターンに留まるものではなく、文脈との組み合わせにおいても無限のヴァリエーションを持つ。並列的な結合と、垂直的な聯関が複雑に入り乱れているのだ。そうやって言語の複雑な連携を通じて粘り強く醸成される個性の表現、それは様式が小説であろうとなかろうと同じことで、無論「小説」という形式に固有の表現の様態というものは有り得るだろうが、何れにせよ言語的な表現が、人間の固有性を表示する重要な機能を担っていることに変わりはない。
 私は書くことを通じて、確かに自己の表現を行なっているのだろう。但し「小説」という形式に関して言えば、それは自己の直截な告白であるとは限らない一方で、極めて直截な告白の形式を選び取ることも可能だ。色々な「小説」を読みながら、その厳格な定義の難しさに私は何度も当惑してきた。そもそも個々の作品を十把一絡げにして「小説」という名称で括ること自体が、余りに雑駁な便宜的措置に過ぎないのかも知れず、極端に言えば「安部公房のテクスト」「三島由紀夫のテクスト」とでも呼ぶしかないものが銘々独自に存在しているだけに過ぎないのかも知れない。小説であろうが詩歌であろうが随想であろうが劇作であろうが、要するに同じことで、それぞれの作品が備えている形式的な特徴も一律ではない。限りなく「批評」に近い小説もあれば、限りなく「詩歌」に近い小説もある。その意味では、そもそも「小説」とは単なる「物語」ではなく、従って「小説」を「散文で書かれた虚構」と看做すことに実効的な意義はない。
 それならば、一体人間は何を書いているのか。書くということは何を意味しているのか。言語を通じて表現する、それが様々な形態を取り得るというだけならば、歴史的に形成された「小説」や「詩歌」といった分類は、その極めて曖昧な拡大に過ぎないのではないか。
 言うまでもなく、作者は生身の個人である。しかし、書かれたもの、表現されたものから帰納的に類推される「作者」の像は、生身の個人と完全に重なり合うとは限らない。類推された「作者」の形象は、確かに一つの人格であり、価値観であり、世界観であり、それらの綜合的な表現である。明示された署名以上に、類推された「作者」の固有性こそ、諸々のテクストを結び付けて統御する重要な中核を成す。そして読解とは要するに、類推された「作者」を隈なく把握し、理解することなのだろう。そうやって「他者」と結び付くことが「表現」の価値である。或いは、このようにも考えられるだろうか。書くことは、自己の分身を創造することに等しいのだと。書かなければ表出されることも形成されることもなかった自己の分身を生み出すことが、あらゆる「表現」の眼目なのではないか。想像的分身、とでも呼ぶべきだろうか。何も書かなかったとしても、三島由紀夫という生身の個人、安部公房という生身の個人は歴史的に存在しただろうが、その名前で指し示される一つの表現的人格は、書かれることがなければ存在しなかったものだ。言い換えれば「表現」とは自己の改造であり、拡張であり、分化であり、脱出である。在るがままの自己に充たされないとき、人間は何らかの「表現」に向かって性急に赴く。少なくとも、自分自身の裡に完全に充足している限り、人間は「表現」の生理的な必要性を認めない。それならば「表現」の源泉とは要するに「飢渇」である。このままの自己によって充たされない人間が「表現」という営為を切実に要求する。別様の自己を産むこと、つまり「表現された自己」という別様の自己を産むことが、あらゆる「表現」に内在する原理的な願いなのである。

「ツバメたちの黄昏」 四十五 革命家の横顔

 その女の名前は、クエルザ・パトノスといった。その名前を聞いただけで、私たちは彼女が典型的なフェレーン皇国の臣民とは異質な素性の所有者であることを直ちに察知した。パトノスという苗字は、ダドリアの西部地方では頻繁に見聞きする名前だが、フェレーンの版図では滅多に耳にすることがないものだと、クラム・バエットは明確に断言した。
「そう。浜辺には、隠避船の悪党どもの頭目が待っているという訳ね。呼びに行かなくていいのかしら」
「彼を呼び出すと、きっと話が錯綜してしまうでしょう。その前に先ず、御互いに冷静な状態で、意見の交換に努めるべきではないでしょうか」
「ふん。口の達者な人ね。まあ、反対する理由はないけれど」
 クエルザ・パトノスの暮らす粗末な小屋は、薄汚れた無骨な外見とは裏腹に、住み心地の良い、上品で快適な清潔さを維持していた。彼女が丁寧に磨き上げられた玻璃の杯に注いでくれた清らかな湧水は、慢性的な飢渇に苛まれ続けてきた私たちの口腔を甘く潤した。
「何が目当てで、こんな離れ小島に流れ着いたのかしら」
 淡白な口調で言い放つクエルザの眼差しは、絶えず油断を拒むような鋭さを保っていて、その風合いは丹念に磨き抜かれ油を引かれた流麗な刀身を想起させた。
「決してこの島が目当てという訳ではなかった。それは素直に信じてもらいたいですね。貴女の素性は知らないし、それを知った上での悪企みで、この辺鄙な離島の砂浜を踏み締めた訳じゃない」
 バエットはクエルザの色褪せた亜麻色の頭髪を、その解れたような毛先を静かに見凝めて、一つ一つの言葉を丁寧に慎重に削り出した。
「此処はマロカ島。無人島という建前には、一応なってるわ。尤も、この辺りの島々はどれも、得体の知れない連中の巣作りには恰好の土地ばかりだけれどね」
「貴女は此処に長く暮らしているのですか」
「長く暮らすような人間がいる環境に見えるのかしら」
「少なくとも清らかな甘露のような真水は湧いている。日当たりも抜群だ」
「まあね。太陽と真水は、この島では無料で幾らでも手に入るのよ。それだけが取り柄と言えるわね」
 気怠い口調で言い捨てて、目映い外光の射し入る窓辺に視線を転じた彼女の横顔には、はっとするような艶やかな美しさが高価なインクのように滲んでいた。私は黙ってバエットと彼女の巧みな肚の探り合いを眺めているだけの役立たずであったが、その瞬間に、この女は信頼に値するのではないかという何の根拠も持たない感想に、半ば強制的に囚われてしまった。実際、そこには如何なる明確な理由もなく、俄かに迫り上がってきた情緒的な直感を正当化する為の方法は何一つ思い浮かばなかった。
「累代の原住民という訳ではないのならば」
 バエットは涼やかな瞳を煌かせて、意地悪な角度に唇の輪郭を捻じ曲げて微笑んだ。
「止むを得ない悲劇的な理由に、狐のように狩り立てられたということですか」
「随分と詩的な物言いをするじゃない。顔立ちに似合わないわ」
「顔立ちに似合うかどうかは、詩人を志す理由には関わりを持たないでしょう」
「言葉の遊びを重ねていられるほど、悠長な御身分なのかしら」
「貴女の素性を教えてくれませんか」
「訊いてどうするの」
「助けてもらえる相手なのかどうか、その手懸りを欲している訳です」
 クエルザは凛とした、崇高な輝きすら感じさせる瑠璃色の虹彩を外光に照らされながら、ゆっくりと呼吸を整えるように暫時の沈黙を選んだ。
「貴方は、隠避船の悪党どもと何故、手を組んでいるの」
「それを先に言わなければ何も教えたくないという考えですか」
「何か不都合でもあるの」
「いいえ。我々は、ダドリアの王党派を支援する為に派遣された、護送団の人間です」
「王党派なのね」
 女にしては随分と太く長く見える指を器用に操って、彼女は草臥れた亜麻色の前髪を掻き揚げ、それから煙に燻した大振りの葉で巻いた莨を、薄い唇の間に押し込んで火を点けた。未だ嘗て嗅いだことのない独特の甘ったるい芳香が、狭苦しい掘立小屋の内部に悠然と行き渡った。
「フェレーンから派遣された護送団が隠避船と手を組んだ挙句、危うく海の藻屑となりかけた。そういう間抜けな筋書きなの?」
「みっともない話ですが、その通りです。我々は不幸にも、洋上の難民と化したのです」
「みっともないとは思っていないような口振りだわ。貴方は、この窮状を愉しんでいるように見える。違う?」
「苦痛だとは思っていませんね。この程度の窮状は、苦痛を覚えるには値しません」
「頼もしい限りだわ。けれど、王党派の狗なんでしょう」
「私は誰の狗にもなった覚えはない。それだけは明確に断言しておきましょう」
 バエットの昂然たる発言に誑かされたように、クエルザの口許を嫣然たる微笑が覆った。彼女は満足げに幾度か頷いてみせた後で、肚を括ったように深く息を吐いた。
「私は革命派の一党なの。生憎、貴方とは政治的な信条が異なっているみたいね。尤も、貴方にとっては所詮、ダドリアの内乱は対岸の火事に過ぎないのかも知れないけれど」

「ツバメたちの黄昏」 四十四 離島の淑女

 南洋の気怠い静寂と不穏の渦中に埋もれた昔日の墓標のように、その小屋は切り払われた樹林の一隅へ佇んでいた。私たちの訪問を待ち受けていたとは思えないが、少なくとも無惨な遭難者である私たちにとっては、その人工的な建築物は一種の運命的な恩寵のように感じられた。自然という非情な存在の懐に刻み込まれた、一つの僅かな人間の痕跡は、何よりも力強い励ましの情熱に満ちた、美しい希望の象徴のように見えた。
 だが、何もかも忘れ去って、眼前に突如として出現した壮麗な幻影の虜になってしまう訳にもいかなかった。誰でも等しく承知していることだろうが、人間という生き物は常に、敵と味方の境界線によって隔てられ、相手の所属に応じて善意と殺意を切り替えるという畏怖すべき性質を魂の奥底に宿している。その簡明な真理を擲って、手放しで「小屋」の登場を鑽仰する訳にはいかない。私たちの置かれている状況は少しも安穏なものではなく、見知らぬ土地の何処に得体の知れぬ強烈な艱難が、鼠捕りの罠のように仕掛けられているか分からないのだ。
「迂闊に踏み出すのは止した方がいいな」
 後列に控えて黙って待ち続ける立場に堪えかねて、銛撃ちのクラッツェルが野蛮な羆のような巨体を揺すってバエットの隣まで進み出て言った。
「どんな連中が潜んでいるか、知れたもんじゃねえ。腹を空かせた狂暴な野猿どもかもしれねえぜ」
「尤もな意見だが、我々に許された時間が乏しいことも、もう一つの確かな事実だ。そうだな、ジグレル?」
 両方の脾腹に分厚い掌を押し当てて、毅然と直立するバエットの眼には、爛々たる野心の光明が華々しく瞬いていた。今更、怖気付いて手を拱いたところで意味はないという隊長の宣言に、勇猛果敢な鯨捕りは颯爽と頷いてみせた。
「呼び鈴を鳴らして来いって言うんですかい?」
「それが礼儀ってものだと思わないか。何しろ、初対面だ」
「隊長の御命令なら、逆らいようもねえな」
 半ば冗談交じりの相談の末に、クラッツェルは一切の怯懦を振り捨てたような勢いで最初の一歩を乱暴に踏み出した。南洋の劇しい陽射しを浴びて、萎れた草花のように黒ずんで見える粗末な小屋の周辺に、人間の気配を読み取ることは出来なかった。誰が住んでいるのか、この辺りの島嶼に昔から住み着いている連中なのか、或いは洋上で遭遇した野蛮なフクロウの眷属なのか、偶に立ち寄る漁師たちの仮寓なのか、何れにせよ慎重を期すに越したことはないが、先鋒を引き受けたクラッツェルの足取りに、間怠い遅滞は微塵も纏いつかなかった。
「誰かいるか」
 驚くべき無鉄砲な率直さで、銛撃ちのクラッツェルは逞しい喉笛の筋肉を雷のように奮い立たせた。その大音声に驚いて、小屋の屋根に差し掛けられた梢から数羽の極彩色の鳥が飛び立ち、甲高く間の抜けた叫び声を撒き散らして蒼穹の片隅へ吸い込まれていった。
 暫くの間、小屋の周辺を取り巻く離島の静寂は少しも崩落しなかった。痺れを切らしたクラッツェルは再び、分厚い喉の粘膜を鞴のように動かして、大きな声で喚いた。それでも切り崩されずに留まり続ける沈黙は、劇しい灼熱の光の中で異様に澄明な凝結を示していた。
「誰もいねえのか! 誰もいねえのに、こんな小屋なんか建つ訳ねえよなあ!」
 敢えて挑発するように理不尽な文句を並べ立てるクラッツェルと、その果敢な奮戦を見守る後背地の私たちの視線の先で、不意に小屋の扉が軋みながら開いた。静まり返った私たちの眼差しは、薄汚れた上衣を纏った壮年の女性が徐に姿を現し、小屋の玄関から地面へ渡された踏み段に歩み寄る光景を無言で捉え、追跡した。彼女は色褪せた亜麻色の毛髪を油で整えて項の辺りで一つに束ね、鋭利な双眸を私たちに向けて固定した。
「煩い男ね。他人の庭先へいきなり踏み込んでおきながら、礼儀も何も弁えずに喚き立てるなんて、随分と育ちが悪いわ」
 悠然と紡ぎ出された女の口調には僅かな興奮の気配もなく、騒ぎ立てるクラッツェルと屈強な男たちの形作る異様な迫力にも全く怯む様子を見せなかった。豪胆な女だと、私は素直に感心した。見知らぬ不穏な男たちに取り囲まれても、荒事に慣れ切って退屈したかのように平然と振舞っている。しかも、こんな南洋の離島の寂れた小屋に引っ込んで、謎めいた時間を過ごしているのだ。尋常ならざる素性の女であることは確実だろう。
「餌でも探しに来たのかしら。見た感じ、漁師じゃないわね。あんたたち、一体何者なの?」
「難破したのさ。真水と食糧を必要としている」
 クラッツェルの代わりに小屋の踏み段へ歩み寄ったバエットが、冷静な口調で個人的な要求を提示した。女の素性が知れない段階で彼是と策略を弄するのも無益だと判断したのだろう。実際、そのときの私たちには入り組んだ議論よりも先ず、清冽で新鮮な真水と、乾涸びた胃袋を満足させる為の滋養が優先的に必要であった。
「汲み置きの湧水なら幾らでもあるわ。けれど、訳の分からない連中を歓待するほど、あたしたちは御人好しじゃないのよ」
「敵意はない。それは保証する。あんたの側に、敵意はあるか?」
 バエットの素気ない質問に、女は血色の良い唇をにやりと撓めた。
「それは、これから考えるべきことだわ。とりあえず、話を聞きましょうか」

「ツバメたちの黄昏」 四十三 真昼の静かな小屋

 私たち護送団の一部が、砂浜から海岸線に沿って進む東西の二つの見晴らしのいい経路から除外され、何処に危険な野獣や異族が潜んでいるかも知れない不穏な叢林の中を分け入る経路へ割り当てられてしまったのは、確かに不本意な事態ではあったが、何れにせよ誰かが引き受けるしかない厄介な命運ならば殊更に嫌がるのも筋違いだろうと、我らの隊長クラム・バエットは落ち着き払った態度で言い切った。その勇敢で高潔な姿勢は益々、クラム・バエットという人物に対する私たちの尊崇の感情を強め、極限まで煽動した。この男は如何なる窮地に追い込まれても微動だにせず、如何なる艱難や不幸にも屈することのない冷徹な指導者なのだ。
 だが、幾ら沈着無比の偉大なる指導者に恵まれたとしても、彼がこの絶海の離島における無知の新参者である事実に変わりはない。彼の堂々たる体躯は、決して眼前に広がる不快な樹林の地理に通暁しているという満腔の自信に基づいている訳ではない。彼も私も、この離島の地理に関して全くの素人である事実において、等しく緊密に結び付けられた間柄なのであり、堂々と大股で力強く大地を踏み締めようが、腰抜けの屁っ放り腰で情け無く這い回ろうが、如何なる危難にも無知な素人であるという厳粛な真理が書き替えられる見込みは皆無なのだ。
 実際、その樹林は南洋の孤島に相応しい鬱蒼たる深淵として、私たちの行く手に荒々しく立ち開かっていた。何れの方角に鼻先を向けても眼に映る風物に大差は生じず、不気味な、胆嚢の表面を冷たい舌先で嘗め回されるような心持のする見知らぬ鳥の啼き声が、私たちの鼓膜を恫喝するように鳴り響いて直ぐに又消え去っていく。得体の知れぬ、姿も捉えられぬ種々の虫たちの唸り声も、濫れんばかりの日を受けて育った大振りの濃緑色の葉叢の擦れる音も、異邦人である私たちの耳には間接的な警告のように聞こえ、幾度も背後を振り返り、剣呑で物欲しげな野獣に血肉を狙われていないか、我々の言語も習俗も解する力を持たない未知の蕃人に追尾されていないか、絶えず注意を払いながら進まずにはいられぬ心境を、憐れな私たちに強要するのであった。
 だが、私たちの気疲れすること甚だしい探索行は幸いにも事前の想定を好ましい方向へ裏切り、具体的な危険によって妨礙されることなく、慎ましやかに進捗した。巨大な野猿に頭の毛を乱暴に毟り取られることも、毒蛇の石灰のような牙に尻の肉を削り取られることもなく、私たちは単調な密林の息詰まる風景の中を只管に黙々と掻き分け続けた。無論、私にとっては南洋の密林を探索するなどという経験は生涯で初めてのことで、野猿や毒蛇の跋扈する薄暗い樹海に対する純真な処女の戦慄は片時も胸底を去らなかった。それでも、一向に具体的な危難に巡り逢わない時間が続けば、現金なもので当初の恐懼も警戒心も徐々に薄れてしまい、気付けば異郷に身を置くことの不安より、息苦しい暑さに覆われた密林を往くことの退屈さの方が、精神の主題を占めるようになっていった。
 黙って薄暗い密林を少しずつ徒歩で踏み分けていくことの単調な倦怠を、人々は想像することも出来ないだろう。況してや当時の私たちは数日間の命懸けの不幸な漂流を終えたばかりの陰惨な窮境にあり、体力も気力も限界まで痛めつけられ、踏み拉かれた直後であった。そういう極限の疲弊に五体を蝕まれた人間が、異郷の密林で容易く散漫な精神状態に陥ることが如何に止むを得ない仕儀であるか、正しく読者諸賢に理解してもらうことは恐らく困難であろう。
 だから、先頭に立って仄暗い樹林の繁みを切り拓き、颯爽と突き進んでいたクラム・バエットの頑丈な肉体が不意に立ち止まったとき、私が束の間の夢想に囚われて、彼の逞しい背中に思い切り鼻先を叩きつける結果となったのも、所謂不可抗力の所産なのである。その瞬間、私は密林の奥で見つけた秘跡のような、清らかな真水の濫れる泉の窪みに餓えた馬車馬のように鼻面を押し当てて、息をする時間さえもどかしく感じながら、ごくごくと喉笛を鳴らして火傷にも似た渇きを癒やしている白昼の妄想から、手荒く引き剥がされるように眼を覚ました。
「野蛮人の御出ましか、それとも気立ての良い宿屋の主人との運命的な邂逅か」
 低い声で卑俗な詩句を諳んじるように呟くバエットの声が、私の澱んだ意識を甘く揺り起こした。
「いきなり、何を言い出すんです」
「見えないんですか、ルヘランさん。光を失うには、未だ早過ぎる。希望は酒精のように儚いが、たった一滴でも、魂に火を燈す力を備えていると、私の故郷が生んだ偉大な詩人パーレンヤットは歌いました。正しく、それと同じ気分ですよ」
 朦朧とした意識の縁から漸く顔を出したばかりの私の貧弱な理性は、バエットの詩的な科白が暗示するものの正体を咄嗟に掴み取ることが出来なかった。立ち止まった彼の隆々たる肉厚の肩越しに、先刻とは異質な光の塊が切り拓かれているように見えた。半ば眼が眩んでいたのかも知れない。
「小屋ですよ。此処は無人島じゃないんだ。無論、同族に巡り逢えたとしても、それが幸福な出来事であるかどうかは、別の問題ですがね」
 バエットの冷笑的な物言いを聞き流しながら目線を持ち上げた先には確かに、木組みの粗末な小屋が一棟、南洋の赫奕たる陽射しを浴びて聳え立っていた。

「ツバメたちの黄昏」 四十二 南蛮の潮風

 冴え渡るような純白の砂浜が、飢渇に追い詰められた憐れな船乗りたちの乱暴な着岸を黙って受け容れてくれた。有難いことに、三日三晩の漂流の末に漸く遭遇することの出来た陸地へ縋るような想いで漕ぎ着けるまでの間、私たちの隠避船の行く手を妨害する不愉快な障礙と巡り逢うことはなかった。
 後に知ったことだが、私たちは乱暴なシュタージの尻尾に呑み込まれたまま、錦繍海峡の涯に広がるダドリア海を只管南方へ向けて押し流され続け、最終的にはラカテリア亜大陸の北岸に散らばる夥しい島嶼の一つ、マロカ島へ辿り着いたのであった。無論、漂着した当座は、白く照り輝く美しい砂浜を踏み締めるだけで精一杯で、危うく途切れかかっていた命の綱が辛うじて繋がれたという事実を咬み締めることに夢中になっていたから、この島が何処なのか、何という名前なのか、一体どんな人々が住んでいるのか、そもそも有人の島なのかどうか、といった素朴な疑問は悉く等閑に付されてしまっていた。
 帆を食い破られて、羽を毟り取られた無惨な水鳥のような醜態を晒しながら、息も絶え絶えに純白の砂地へ舳先を減り込ませた風花号は、明け方の冷たい潮風の中で巨大な廃墟のように動きを止めた。疲れ果てた乗員たちは貧しい食事によって痛めつけられた肉体を引き摺り、尖端に鉤のついた縄梯子を浜辺へ放り投げて砂地へ食い込ませ、低い呻き声のような息遣いを漏らしながら順番に下船していった。尤も、到着の瞬間の気忙しい高揚が過ぎ去ってしまった後には、良識的な理性が発する平凡な警告に注意を払わぬ訳にもいかなかった。この純白の閑雅な砂浜の行く手には、南国の温暖で湿潤な気候に育まれた鬱蒼たる樹林が犇めき合っており、その複雑に絡み合った蔓草や喬木の暗がりに、如何なる種類の獣や人間が潜んでいるのか、精確な答えを私たちは誰も知らなかったからだ。
「油断するなよ。何処に誰が隠れてるか知れねえんだ」
 マジャール・ピント氏の独語めいた警告に、彼の配下の水夫たちだけでなく、私たち護送団の面々も同意して、総身の神経を研ぎ澄まさずにはいられなかった。少なくとも洋上での餓死や不慮の難破による溺死は免かれたものの、絶海の孤島に流れ着いただけならば、決してこの先の未来を安穏と待ち受けている訳にもいかない。北洋の凍てついた離島に漂着したのでないことは確かだから、食べられる植物の果実などが全く手に入らないということはないだろうし、この澄み切った南国の海辺に潜って大きな魚を銛で仕留めたり、水底の岩場に悠然と群棲する貝類や藻類を採集したりすることも、不可能ということは有り得ないに違いない。だが、最も根本的な問題は、この静かな島における外敵の有無であった。先住民たちが排他的で粗暴な連中であったら、私たちが幾ら徒党を組んで立ち向かったところで、地の利を得られずに無惨な敗北を喫する虞は決して小さくない。
 だが、怯えたところで何も始まらない、兎に角此処で辛うじて繋ぎ留めた痩せ衰えた命の蝋燭の焔が掻き消えることのないように細心の注意を払い、なけなしの勇気を振り絞って異郷の大地を踏み締めて歩く以外に如何なる方途も存在しないのであった。漸く陸地に流れ着いたという安堵と虚脱が、隠避船の面々と、不愉快な積荷である我々コスター商会の面々との間に深々と穿たれていた剣呑な溝を一時的に彌縫していた。この期に及んで不毛な諍いを繰り広げて、見知らぬ土地で限られた資源を奪い合いながら、血腥い嬲り合いに興じる訳にもいくまい。私たちは力を合わせて、砂浜に減り込むように碇泊した風花号の巨体が引き潮に攫われぬよう、頑丈な棒杭と纜を用いて大地へ固定する作業に取り掛かった。一通りの措置が終わると、次は食糧の確保が重要な議題に上った。何よりも私たちは新鮮な真水に飢えていた。飲料水を詰めた樽は既に概ね乾上がっており、食物以上に澄み切った泉や池の類を探索して喉笛を潤すことが喫緊の課題となっていたのだ。
「三方に分かれて探索しよう。一部はこの砂浜へ残って、この島の人間に船の積み荷を奪われないように見張りを務めることにしよう」
 バエットの常識的な提言に、頑迷で狷介なピント氏も大仰な反論や毒気の色濃い皮肉を投じようとはせず、あらゆる意見に先駆けようと努めるかのように、自分は船荷の監視を引き受けると言い張った。隻眼の彼を不案内な土地の探索に充てるのは確かに余り適切な選択であるとは言い難かったし、固より口論には滅法強い気難しい人物であったから、誰もピント氏の気楽な居残りに異を唱えようとはしなかった。そもそも、下らぬ議論に時を費やすには、人々は余りにも疲弊し過ぎていた。
「ルヘランさん。行きましょう」
 出口の見えない苛酷な船路を漸く済ませたばかりだと言うのに、バエットは怠惰な休息を欲する素振りも窺わせずに、頗る現実的な姿勢を明確に示して、私に出発を促した。無論、私としても一刻も早く新鮮な真水を呷り、罅割れた肉体の渇きを癒やしたいと痛切に望んでいたところだったので、愚図な子供のような言い訳は差し控えて、誘われるがままに即座に鈍重な尻を持ち上げ、行く手に広がる木暗い領域を正面から見据えた。

「ツバメたちの黄昏」 四十一 マロカ島の砂浜

 四日目の明け方、すっかり体力の衰えた私は瞼を開く労力さえ頑迷に惜しんで、船艙の暗がりに薄汚い砂色の毛布と共に身を横たえ、懶惰な眠りの深淵を彷徨していた。
 乏しい食糧と真水の備蓄は、公平な管理とは無縁の荒くれ者たちの手で恣意的に取り扱われており、その残量は刻々と野放図な減少の一途を辿っていた。特に彼らから見れば疫病神の穀潰しに過ぎない私たち護送小隊の一団への割り当ては極めて禁欲的な水準に留まっており、部下たちの怨嗟の声に堪えかねたバエットが高額の報酬を更に上積みしてやるから分け前を増やせと水夫たちを口説きに掛かっても、最早無事に生きてヘルガンタへ帰れるかも分からない状況に追い込まれた今となっては、単なる空手形と受け取られても止むを得ず、窮状が打開されることはなかった。貧しい食事が人々から奪い去る希望の分量は侮り難いもので、幾多の艱難を乗り越えてきた護送員たちは兎も角、蒼白い書記官の私とポルジャー君は早々に絶望の淵へ腰まで沈み込み、立ち上がることさえ億劫な日々が続いていた。
 眠りが浅くなり、それ以上眼を閉じて躰を横たえ続けることにさえ倦んでしまった私の怠惰な脳裡には、ジャルーアの記憶が次々と紙芝居のように浮かび上がり、水牛の如く肥満した商館長モラドール氏の不機嫌そうな表情を思い浮かべる度に、任務に失敗しかかっている現状への焦慮と、そもそも無謀な指令を下した商館長への憎しみと恨みが複雑に入り混じりながら氾濫した。やっぱり、初めからこんな仕事は無茶な話だったんだ、大して評価が高い訳でもない単なる書類屋と、由緒あるファルペイア州立護送団に所属しながらも荷厄介な存在として蔑まれている食み出し者の群れが手を組んで、深刻な内乱に苦しむダドリアへ弾薬を運び入れるなどという途方もない法螺話のような計画が、順調に成し遂げられる見込みなんて皆無なのだ。そういう類の愚痴が喉首まで嗚咽のように迫り上がり、煮え滾る不満と呪詛を理性の力で抑え込むことは非常に困難であった。
 軈て噴き上がってくる商会の幹部たちへの怒りに睡魔は完全に追い払われ、興奮で熱くなり汗ばみ始めた躰を持て余すように輾転反側を重ねていると、俄かに甲板の方が騒がしくなってきた。荒々しく動顛した靴音が天井裏から遽しく列なって聞こえて来る。
 誘い出されるように擦り切れて毛羽立った暗い砂色の毛布を蹴飛ばし、私は喉の渇きを覚えながら立ち上がって、脱ぎ捨てていた革靴の紐を丁寧に結び直した。船艙では他にも多くの護送小隊の仲間たちが眠り込んでいたが、豪胆な彼らは甲板から漏れてくる騒がしい物音に惑わされることなく、夢魔の蔓延する世界へ没したまま、寝返りすら打たずに高鼾を奏でていた。
 廊下へ出た途端、船首の方面に設けられた船長室の扉が蝶番を軋ませながら押し開かれる瞬間に私は遭遇した。狐色の頭巾を目深に頭部へ纏いつかせた隠避船の主人マジャール・ピント氏が、久々に衆目の前へ登場したのだ。彼は相変わらず不機嫌そうな態度を隠そうともせず、眼帯で覆われていない右眼に鋭利な刃物を想わせる炯々たる光を鏤めながら、堂々たる足取りで甲板へ通じる階段へ歩いて行った。その逞しい背中、如何にも「悪漢」という形容が相応しい居丈高な後ろ姿を見送りながら、私は閉塞の極みに置かれていた状況が大きく変貌しつつあることを直感的に悟った。
「陸地が見えるぞお!」
 引き摺られるようにピント氏の背中を追って甲板へ通じる階段を昇り切ったところに、望楼へ攀じ登って哨戒の任に当たっていた水夫の興奮した叫び声が覆い被さってきた。群青から紺青へ、紺青から浅葱へと移り変わっていく広大な夜明けの空へ、朝焼けの光が金粉を撒いたように煌々と滲み、私たちの貧弱な風花号を東方から照らしていた。南へ向いた舳先の最果てに、確かにぼんやりと消炭の色を湛えた陸地の輪郭が浮かび上がって、堂々と身を横たえているのが見えた。次から次へと船艙の深淵から跳ね起きた男たちが数珠の如く列なって姿を現し、漸く視界に映じた紛れもない希望の実体に焦がれるような熱い眼差しを注ぎ掛ける。その瞬間に限って言えば、ヤミツバメの水夫たちと、私たちコスター商会の護送団との間には如何なる懸隔もなく、遂に勝ち得た巨大な幸福の目映い輝きに総身を貫かれて、誰もが瞳を潤ませ、乾上がった喉を顫えさせていた。
「島か」
 私の立ち竦んでいる場所から然程離れていないところで、背筋を伸ばしたマジャール・ピント氏が努めて平静を装った人工的な声色で、静かに呟くのが聞こえた。その口調は無味乾燥なほどに平板な響きに縁取られていたが、抑え付けられた興奮が今にも足枷を引き千切って飛び出しかけていることは明瞭であった。
「朝日が昇り切る前に、あの島へ船を着けろ。誰が待ち構えていようと構わねえ。一刻も早く、陸地へ纜を投げるんだ」
 ピント氏の荘厳な号令に呼応して、甲板に鈴生りになった水夫たちは、櫂を握り締めて夢中で海流を泳ぎ渡る為に、奔馬の如く我先にと走り出した。