サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Philosopher's Stone”

 英語学習の一環として J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Philosopher's Stone,London,2014 を読了したので感想文を認める。

 原書の初版は1997年、邦訳の初版は1999年に刊行されている。本書は世界的に爆発的流行を示し、巨費を投じて映画が製作され、現在に至ってもその盤石の知名度は衰えていない。私も十代の頃に邦訳で最初の四巻を読み、魅了された覚えがある。
 今回、語学修業の一環としてBritish Englishで綴られた原書を、半可通の英語力ながらも実際に読んでみて、邦訳との雰囲気の違いを実感した。英国の寄宿学校を舞台に、古めかしい神秘的魔術と現代的な文化との混淆を描いた本書の世界観には、alphabetの活字がよく似合う。言い換えれば、その土地に固有の言語と文化、感覚、意識との間には不可分の繋がりがあるという至極当然の認識を新たにした次第である。
 Harry Potterの数奇な物語を、堅苦しい日本語に置き換えるとすれば「貴種流離譚」の典型的な実例ということになるだろう。彼はwizarding worldにおける一種の英雄でありながら、凡俗なmuggleの家庭に引き取られ、自身の生い立ちに関する正しい知識を欠いたまま養育される。養父母から冷遇され、孤独で退屈な生活を強いられていたHarryが、その高貴な出自ゆえに或る日、俄かに運命によって救出され、偉大なphilosopherとしての才能を覚醒させるという筋書きは、自己の置かれている恵まれない境遇に何らかの慢性的な不満を有する総ての人々にとって、素晴らしく魅惑的な享楽的幻想であると言えるだろう。現代の日本で流行するweb小説の過半が、異世界に転生して卓越した栄誉に与るというtemplateによって占められているのも、こうした変身願望の強力な普遍性を示唆する有力な証拠であると言えるのではないか。
 とはいえ、本書の作者の誠実な意向は、Harryに高貴な出自を賦与する一方で、彼の無力な側面も克明に描いているという点によって傍証されている。Harryは確かに恵まれた才能を両親から受け継いでいるが、弛まぬ勉学と種々の困難な経験を伴わずに、その才能が開花することは有り得ない。仮に転生が有り得たとしても、自分自身を聊かも革新せず改善しないまま、過分の栄誉や富が授けられるという僥倖を望むのは、余りに非現実的な妄想に過ぎないのである。その意味では、奇妙で神秘的なwizarding worldの様相を緻密に描き出しながらも、本書の作者は、実際の社会における一般的な正義の称揚という選択を採用しているのである。魔術的な小道具と多様な設定を援用して、謂わばmetaphoricalな仕方で、少年少女の成長の過程を興味深い虚構に結実させているのである。
 その意味で、確かに本書は児童文学の範疇に帰せられるべきものであろうかと思う。しかし、児童文学であるからと言って、清廉潔白な美辞麗句が羅列してある訳ではない。The DursleysやDraco Malfoyたちの陰湿で狡猾な言動、或いはThe Weasley twinsの陽気な悪童ぶりなどの描写は、本書の作者が、年少の読者に対する教化的な正義を無条件に振り翳そうとは考えていないことを示しているだろう。意地の悪い級友に対する接し方、という題目で、小学校の教師が適切な作法を教室で講義することは恐らく一般的には見られないだろう。場合によっては規則に抵触してでも勇気を奮って目的を遂げねばならないこともある、とは、普通の教師ならば決して表立って口にはしないだろう。事実、Hogwartsの教師たちもまた、遵法精神の堅持に就いては頗る厳格である。けれども、そういった「明示されない正しさ」が、つまりpublicな仕方では主張されない機敏で融通無碍の「正しさ」が重要な価値を帯びていることを、本書の読者たちは自然と学び取るに違いない。何時如何なる時も明示された規則を遵守することが正義であるとは言い切れないし、他方、規則に反して自らの行動を処決することが常に適切な勇気の証明であるとも言い切れない。こうした両義的矛盾を理解する為には、物語という媒体は有用な装置である。それは一つの論説を語る代わりに、解釈を待つ事実の効果的な構成を試みる。こうした特性は必ずしも児童文学に限られたものではないが、少なくともHarry Potterの物語は、優れた文学の不可欠な条件であるambiguityを豊富に含んだ実例であると私は思う。

Harry Potter and the Philosopher's Stone (Harry Potter 1)

Harry Potter and the Philosopher's Stone (Harry Potter 1)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(語学的生活)

*引き続き、英語学習に励んでいて、もう直ぐ HARRY POTTER and the Philosopher's Stone を読み終える。未知の単語や言い回しには幾つも出逢うが、文脈に基づいて推測したり、観念して辞書を引いたりしながら、坑道を掘削するように読み進めている。それが意外に苦行ではなく興味深い探究の日々と化しているのは個人的な僥倖である。恐らく、日本語の文章を日常的に読解する習慣を子供の頃から蓄積してきた経験が、洋書の繙読にも一定の有益な貢献を成しているのではないかと思われる。日本人として生まれ、日本語のnative speakerとして生まれ育ったからと言って、誰もが日本語で綴られた文章ならば何でも完璧に意味を把握出来る訳ではない。読書の習慣を持たなければ、自分の生活が及ぶ限られた範囲内で経験する単語や表現にしか理解が行き届かないのは当然の理窟である。母国語であるから、自動的にあらゆる語彙が把握出来るようになる訳ではない。子供の発達の過程を間近に眺めている限りでは、母国語であっても、その運用能力は明確に学習の産物であって、断じて本能の帰結などではない。況してや文字の読み書きは猶更、後天的な技術である。oral communicationの技倆は周囲の人々の振舞いを模倣することを通じて自然と発達する傾向にあるが、literal communicationの習得と強化には意図的な訓練が必須である。それゆえに読書の習慣の累積が、一定の歳月を閲した後に、有意な差を作り出すこととなる。例えば私は「嚆矢」という言葉を小学生の頃、子供向けに読み易く編輯された夏目漱石の「吾輩は猫である」の註釈を通じて学んだ。だが、この「嚆矢」という言葉に、日常の生活の如何なる場面で遭遇し得るだろうか。無論、日常の如何なる局面においても邂逅しない言葉であるならば、わざわざ「嚆矢」という言葉を学ぶには及ばないと、実利的な人々ならば結論するだろう。事実、言葉を単なる道具と捉えるならば、使用頻度の低い単語は箪笥の奥底に眠らせておくのが賢明な選択である。あらゆる単語に通暁せずとも、あらゆる漢字を、その異体字に至るまで暗記せずとも、日常の雑用を片附けることに支障はないし、身近な人間とのコミュニケーションが途絶する虞もない。トイレのことを古い日本語では「厠」や「雪隠」や「後架」と呼んだという知識は無益な雑学に類するもので、少なくとも平均的な社会生活に必須の教養ではない。
 だが、世の中には「言葉」というもの自体に愛着を示す奇特な人々がいて、幼稚園の頃に遊びの一環で国語辞書を読んでいた私も、その末席を穢す一員であろうと思われる。そういう人間にとっては日常の用務に適さない古色蒼然たる死語さえも、熱烈な好奇心の主要な標的である。これだけ動画の通信技術が発達した現代においてさえ、猶もちまちまと活字の羅列に眼を走らせる不健康な習慣を絶やさない類の人間は十中八九、言葉の中毒患者である。彼らは珍しい言い回しや独創的な造語に強く惹き付けられるし、場合によっては古語の蒐集や外国語の習得に血道を上げる。それは、見知らぬ言葉の習得が、彼らの属する世界の範囲を大きく拡張するからである。見聞の及ぶ範囲は固より、思考の深浅なども語彙や文法の知識によって左右される。彼らにとっては多様な「類義語」を学ぶことも大いなる喜悦の源泉である。或る言葉を別の言葉に置き換えることは、単なる代替を意図するものではなく、より精密なニュアンスの提示を可能にする為である。言葉の多様な発達、文法の変遷や語彙の増大(場合によっては異国からの輸入・借用。例えば英語におけるフランス語・ラテン語、日本語における漢語のように)は、概ね言語的表現の精度を高め、絶えず変異し続ける現実への適応を果たす為に行なわれてきた。そして、言葉を偏愛する人々は、既に用済みとなって棄却された単語や言い回しにさえ、何らかの感興を見出すのである。それは効率の観点から眺めれば不毛な振舞いであるかも知れない。確かに私も、自分の生業たる仕事の現場においては、非効率な方法を積極的に唾棄する。けれども、堆肥が耕土を豊かにするように、多様性は非効率であっても、或いは非効率であるがゆえに豊饒であり、世界の解像度を向上させるのである。走査線の数がディスプレイの画質を定めるように。
 古い言葉、異国の言葉、或いは方言や俗語の意味に通暁し、その運用に熟達するということは、翻せば、その言葉の遣い手との間に共通の紐帯を獲得するということである。例えばPlatoの著述の本格的な研究に従事する学徒は、日常の使用に関しては疾っくに廃れてしまった古典ギリシア語の習得に数多の日月を捧げるだろう。そして古典ギリシア語を自在に読解し、達意の文章を認める能力を得た者は、少なくともPlatoと対等の立場で議論を展開する基盤を手に入れたことになるのである。それは驚嘆すべき奇蹟的現実であると言えるのではないだろうか。Ancient Greekという共通の枠組みに基づいて、Platoと共に哲学や政治における普遍的課題を検討出来るというのは、殆どtime-tripにも等しい魔術的な振舞いである。無論、万人がPlatoとの難解で抽象的な議論に私的な情熱を掻き立てられるという訳ではない。恐らくそれは、一部の酔狂なdilettanteだけの関心事に留まるだろう。けれども、これほど奥深い趣味というのは稀少であり、一生を懸けるに値するのではないか。日本語に限っても、例えば夏目漱石森鷗外の文章を読めば、我々は百年前の日本人との間にコミュニケーションの機会を得ることが出来る。古語でも外国語でも何でも構わないから、未知の語学に時間と労力を傾注したい。それが私の本年の抱負である。

Cahier(Non-Platonic Days of Learning English)

*最近は英語学習と称して専ら J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Philosopher's Stone,London,2014 を読んでいる。十代の頃に邦訳で読んだ経験があり、大まかな筋書きは記憶の底に残っているので、知らない英単語や見慣れぬ表現の意味を推し量りながら読むのに相応しいだろうと考えたのだ。
 見知らぬ単語には幾らでも出喰わす。都度、辞書を引きたくなる気持ちを堪え、和訳するのではなく英語の語順、英語の音韻を遵守したまま読み解くことに尽力する。そうやって英文の意味を辿り、語られている世界の内容を想像しながら思うのは、翻訳というものの根源的な不可能性である。英語でも日本語でも、類義語というものは豊富にある。例えば「賢い」という概念に対して、英語ならばclever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualなどの複数の単語が有り、日本語でも「賢い」「利口」「頭が良い」「聡明」「賢明」「明敏」「頭脳明晰」「頭の回転が速い」「知性的」といった複数の表現がある。問題は、特定の文脈において、何れの単語が最も適切な選択肢であるかということは、それぞれの言語の内部の相互的聯関によって規定されるのであり、そうした言語の内在的体系が、英語と日本語の狭間で完璧に対応することは有り得ないという点に存する。clever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualといった単語たちが相互に有している関係性と完璧に照応する関係を、英語以外の言語の裡に見出すことは出来ない。文脈に応じてcleverを用いたりsmartを用いたりするときの判断基準は英語という体系に固有の規範に基づいており、あらゆる言語に共通する恒常的で普遍的な基準、謂わば「言語」のideaが存在する訳ではない。翻訳は、可能な限りの近似値を探し当てる懸命な苦闘である訳だが、多かれ少なかれ「意訳」となることの宿命は避け難い。完璧で純然たる「逐語訳」というのは妄想的理念である。あらゆる言語は共通の基礎の上に成り立っていると考えることに根拠はない。それゆえ、外国語学習の本義を「逐語的和訳」と看做す考え方は決して自らの理想に到達し得ないのである。英文の多読を推奨する人々が、成る可く辞書を引かずに単語や文脈の意味を推測するように勧告する背景には、こうした原理的事情が介在しているように思われる。重要なのは英語に対応する日本語、英文に対応する和文を探究することではなく、英単語や英文に対応する事物や状況を発見し認知することである。cleverに対応する和語を考えて充当するのではなく、cleverが指し示す事物や状況を、つまり現実的要素を理解することである。実際、日本語の話者が日本語で事物を把握したり意思疎通を図ったりすることに英語の扶助は無用である。同様に、英語で読み書きしたり会話したりするのに日本語の介助は必要ない。そして、例えば今「扶助」と「介助」或いは「無用」と「必要ない」という風に日本語を使い分けた基準は、日本語という体系の内部にしか見出し得ないし、しかもその基準は頗る感覚的で個人的なものである。この使い分けに符合する英語の関係性を探索するのは無益だろう。つまり、英語を習得することと英語を翻訳することとは、同一の作業を意味しないのである。possibilityとlikelihoodを使い分ける根拠は英語の体系の内部にあり、それを日本語に置き換える場合に如何なる使い分けのパターンが照応するかという問題は、どちらかと言えば日本語の体系の内部における課題なのである。

*もう一つ重要なことは、あらゆる単語は常に帰属する文脈との関係によって、その意味を規定されており、その文脈はverbalであると同時にnon-verbalでもあるという点である。だから、単語だけを文脈から切り離して、その純然たる意味を抽出しようと試みるのは、無益とまでは言わなくとも、尋常ならざる難題であるとは言える。言い換えれば、個々の単語に普遍的な意味が内在するというplatonicな考え方は、必ずしも我々の属する日常的=経験的現実を反映しないのである。明確な定義を有する複数のideaが複合して具体的な現実を構成していると考えるのは理念的な、つまりidealisticな発想である。仮にそのような普遍的定義が「真理」として永久に君臨し続けるならば、言語の新しい用法や造語が生成される見通しは皆無ということになるだろう。寧ろ我々は思わぬ言語の組み合わせから新しい意味を見出すのであり、言語の実際的運用の過程で次々に単語や表現の意味を増殖させ、革新するのである。無論、学術的な議論においては、用語の意味は厳密に定義されねばならない。しかし、それは言語の普遍的で恒常的な本質が、Platoの信じるように不変のideaとして事前に存在することを意味しない。議論の場においては、その都度、用語の意味に関する暫定的合意が形成されねばならない。或る単語を如何なる意味で用いるか、或る単語に如何なる意味を担わせるかということは、議論の場であろうと生活の場であろうと一冊の書物の内部であろうと、その都度、その時々で決定されるべき流動的な実質なのである。従って「正しい日本語」という保守的なidealismは、或る郷愁に充ちた理念としてのみ享受されねばならない。言い換えれば、予め完璧な辞書が存在するという考え方は棄却される必要があるのだ。その意味で、普遍的に正しいと看做される知識=epistemeから演繹的な手順で出発する語学は、我々の属する本物の現実を反映しないと結論することが出来る。寧ろ我々は言語の具体的な運用の実例から学ぶしかなく、その実例が何らかの意味を結晶させ、それを他者と共有することに成功したという事実に信頼の根拠を求めるしかない。大事なのは、単語の辞書的=普遍的定義の総覧を諳んじることではなく、その単語が使われている実例を学び、その言語が如何なる意味で使われているかという実例に通暁することである。多読の推奨の論拠は、こうした認識に基づいているのではないかと推察される。

*様々な言語的芸術は、言葉に新たな意味を与え、言葉に斬新な運用の方法を授けることを自らの使命としているのではないだろうか。そして、あらゆる議論は、要約すれば、この特定の言葉に如何なる定義を与えるかという合意形成の迂遠なプロセスに他ならないのではないか。我々が言葉を尽くすのは、その言葉が期待される特定の意味に到達することを熱望するからである。一冊の書物が著されるのは、或る一つの事物、或る一つの状況、つまり何らかの事実を可能な限り精確に言い当てる為である。単語や文法の辞書的定義は、こうした格闘の成功を何ら保証しない。我々は話したり書いたりする度に、言語の新しい運用を発明する。それが成功する絶対的保証は存在しない。我々の言語的格闘は常にrelativeな営為である。そして要するに私は、辞書を引かずに英文を読むという学習方法の正当化を目的として、こうした弁論を展開した次第である。

The Pessimistic Vision about the Culture and Population of Japan in the Future

 新型コロナウイルスの感染爆発に歯止めが掛からない状況が続いている。二度目の緊急事態宣言発令に就いて、その限定的な対策に関する疑念は方々で論じられており、対象となる地域の範囲の拡大も漸進的で、リモートワークの社会的進捗も順調とは言えない。
 厚生労働省は昨年末に、2020年1月~10月の期間における妊娠届の件数が、前年比で5.1%減少したと発表した。雇用の喪失や賃金の減収に伴い、経済的な面で将来の生活を悲観する若い世代が増えたことが、妊娠出産の抑制に帰結しているのではないかという観測が、各紙で報じられている。何れの報道も、コロナの影響で日本の少子高齢化が加速するのではないかという懸念に触れている。
 少子高齢化という社会的現象は、先進諸国に共通する深刻な課題であり、各国で様々な議論が交わされ、対策が進められている。日本社会の現状は、その最も尖鋭な帰結を示しており、2016年の合計特殊出生率は1.44、65歳以上の老年人口が総人口に占める割合は27.3%に達している。
 2019年の人口動態統計(年間推計)によれば、日本の出生数は1899年以降最低の86万4千人(ちなみに私が生まれた1985年の日本の出生数は約143万人である)を記録した。この数年間で出生数は坂を転げ落ちるように急減している。そこにコロナの影響が加わり、2020年の妊娠届の件数が減少した。この事実は、来年度の出生数の更なる急減を示唆する根拠にもなり得る。厚労省の試算によれば、2065年の日本の総人口は、約8800万人まで落ち込むだろうと推計されている(2020年12月1日時点の日本の総人口は1億2571万人)。
 唯でさえ急速な亢進を示している少子高齢化が、新型コロナウイルスに伴う「社会的距離」(social distance)の拡大によって一層激化するという懸念は、現実的なものである。日本では未婚者による出産が極めて少なく、出産と婚姻との間には密接な相関が存在する。しかしながら、日本における婚姻の件数及び比率は凋落の一途を辿っており、未婚率の上昇は出生数の減少に直結している。社会的距離の確保に附随する他者との接触機会の低減が、婚姻に結び付く関係性の構築を阻害する要因となり得ることは、誰の眼にも明らかな事実である。
 人口の減少は、我々の社会、政治、経済、文化、生活、それら総ての局面に重大な影響を及ぼす。既に生産年齢人口の慢性的減少に伴い、定年や年金受給開始年齢の引き上げが進められ、高齢者であっても引退せず労働に従事することが社会の常識に登録されつつある。女性の社会進出は言うまでもなく、古き良き昭和期の「専業主婦」という概念は既に朽ち果てた遺物と化している。外国人労働者の雇用の拡大も、生産年齢人口の減少が齎した不可避的な帰結である。頗る単純化して言えば、日本は滅亡への緩慢な道程を辿っている。日本人が消滅すれば、日本の文化や歴史もまた消滅し、古代の文明と同じく、学術的研究の対象としてのみ保存されることになる。日本語を理解する人間が消滅すれば、数千年に亘って日本語で綴られ継承されてきた文献や典籍は悉く無意味な死骸と化すだろう。人口減少は、日本という社会の滅亡、文化の滅亡、そして言語の滅亡を意味する。そのことに私は、漠然たる不安を覚える。
 今年度の個人的な目標として私が英語の学習を掲げたことの背景にも、こうした危機感が一つの理由として横たわっている。日本は翻訳大国であり、海外の様々な書物を日本語で読めるという恵まれた文化的環境が整備されている。しかし、それは日本語が、1億2千万人のnative speakerを抱えているからこそ成り立つ話であり、日本語による出版市場が慢性的な不況に苛まれながらも滅びずに済んでいるのは、読書離れの影響を考慮しなければ、1億2千万人の潜在的顧客を有しているからである。そして日本という国家が、強力な政治的=経済的=文化的なpresenceを発揮している限りは、日本語を学ぶ外国人を一定数確保することも出来るだろうが、現状を徴する限り、日本の国際的影響力は凋落の範疇に属していると言わざるを得ない。
 日本語は、英語やフランス語のように国際的なLingua francaとして流通している訳ではない。従って日本の人口が減少すれば、その話者の総数は露骨に急減する筈である。そうやって凋落していく社会において、日本語の築き上げた文化的伝統を保護しようと思えば、外国語を通じて国際的な文脈にアクセスする能力は必須である。日本語しか理解出来ない人間は、日本という社会と共に滅びざるを得ない。また、日本語とその文化を世界に向かって発信し、共有を進めることも出来ない。日本語と、日本語によって涵養され成長した文化の価値や特質を相対化し、客観的分析の対象に据えることも出来ない。それは日本語という監獄に幽閉されていることと同義である。
 恐らく、あらゆる教育の本義は、学習する者を、その居住する環境から生じる多面的な制約から解放することである。教育を通じて、今まで知らなかったことを知り、出来なかったことを出来るようになるという一連の営為は、当事者に課せられた諸々の制約を解除し、その社会的な可動域を拡大し、生きることに関わる自由な選択や裁量の範囲を拡張することに等しい。知識を学び、技術を体得することは、生きる力の強化と深化を意味する。語学がその一助になれば良いと願いながら、私は日々英文のペーパーバックを繙いて、不可解な文字の羅列に挑戦する。その地道な営みは、私の精神的な世界の限界を押し広げ、私の度し難い無智を徐々に癒すだろう。無論、私は日本語の豊饒な富を愛する者である。ただ、日本語以外にも豊饒な「言葉」の資産があるのならば、それにも手を出してみたいと貪婪に希っているのである。

My Reading Record of "The Old Man and the Sea"

 英語学習の一環として繙読した Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 について、感想の断片を認める。

 邦訳を含めて、ヘミングウェイの小説を通読するのは今回が初めての経験である。私の英語力では、贅肉を削ぎ落とした緊密な文体と評される彼の文学的特質を適切に把握し、実感することは出来ない。そもそも、意味を掴めない箇所も複数存在したくらいで、果たして本当に読んだと言えるのかも心許ないのが実情である。だが、英和辞書と首っ引きで英文を読むのは、英語を都度、日本語に置き換えて理解する悪しき慣習を培養するものであるという風説を踏まえ、乏しい語彙に基づき、成る可く辞書に頼る機会を減らして想像力を逞しくする方針で英文に挑んでいるので、概略を掴めただけでも望外の収穫とせねばならない。何れもっと私の英語に関する理解が進んだら、再読を試みることにしたいと思う。
 この小説の筋書きは単純である。幸運の女神に見限られた老年の漁師が、巨大なカジキマグロと格闘を演じて遂には捕獲に成功するものの、帰途に鮫の来襲を蒙って折角の貴重な収穫を奪われるという物語で、読者は只管、洋上を彷徨する老人の孤独な時間を共有するように仕向けられる。アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」を髣髴とさせる、この報われない労役の苦みはしかし、必ずしも暗鬱な色彩に覆われている訳ではない。年老いた漁師は華々しい英雄ではなく、彼の手に入れた束の間の幸運は、鮫の襲撃という凡庸な不幸に相殺されて白骨化する。その意味では、彼の人生から客観的な幸福を読み取ることは難しい。けれども、死闘を卒えて帰港した後に彼が味わった泥のような眠りは、少なくとも私には、驚嘆すべき充足の恩寵に庇護されているように思われた。彼は何ら現実的な利益を獲得しなかった。苦心して釣り上げた巨大なカジキマグロは鮫に貪られて、殆ど骨だけの状態で港へ持ち帰られたのである。彼の生活は、一頁目から最後までずっと度し難い不幸と悲運に蚕食されている。それでも、物語の最後に味わう彼の深甚な睡眠は、独自の充溢と安息に涵ることと同義なのである。

But he liked to think about all things that he was involved in and since there was nothing to read and he did not have a radio, he thought much and he kept on thinking about sin. You did not kill the fish only to keep alive and to sell for food, he thought. You killed him for pride and because you are a fisherman. You loved him when he was alive and you loved him after. If you love him, it is not a sin to kill him. Or is it more?

(Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 p.81)

 老いた漁師の言葉は、悲惨な現実の主観的な曲解に過ぎないだろうか。彼は身も蓋もない現実を直視せずに、奇妙な自閉的論理を弄んで、己の不幸な境遇を糊塗しているのだろうか。恐らく、そのような解釈に賛同することは、多くの読者にとって容易ではないだろう。確かに現実的利益の度重なる逸失が、彼をこのような思考の形態に導いたことは事実であるかも知れない。けれども、こうした「行為」そのものへの自足は、幸福の必然的な形態であるとも言える。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の冒頭で、あらゆる行為は、その行為そのものとは異なる何らかの目的に奉仕するが、幸福=最高善は定義上、如何なる外在的目標も措定せず、その行為そのものに自足するという趣旨の見解を述べている。こうした観点から眺めるならば、ヘミングウェイの描き出す漁師の心境は幸福なものであると言える。現実的な不幸は、老人の内面的幸福を毀損しない。それゆえに年老いた漁師は次のように呟くのだ。

'But man is not made for defeat,' he said. 'A man can be destroyed but not defeated.'

(Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 p.80)

 現実的不幸は我々の心身を破壊するが、我々の魂が敗北を喫することはない。こうした考え方は極めてstoicな見解である。現実的不幸に見舞われることと、現実的不幸に屈服することとは同一の状態ではないというdualismは、負け惜しみの詭弁に聞こえるかも知れない。けれども実際に、あらゆる苦難に立ち向かう為には、こうした詭弁は有益な効能を発揮するのである。現実的不幸に見舞われることと、現実的不幸に屈服することとの間に境界線を画定するのは、極めてintelligentな営為であり、そこに固有の人間的尊厳を見出すのは必ずしも詭弁ではない。或いは、詭弁こそ我々を苛烈な現実から庇護し、復活させる重要な活力であると看做すべきかも知れない。全篇に漂う仄かな諧謔は、こうした詭弁的知性の齎す崇高な恩賞なのである。

The Old Man and the Sea

The Old Man and the Sea

 

My Reading Record of "Who Moved My Cheese?"

 英語学習の一環として取り組んだ Spencer Johnson,Who Moved My Cheese?,London,1999 を読了したので、感想の断片を認める。

 本書は二〇〇〇年に扶桑社から邦訳が出版され、日本国内でも累計四〇〇万部に達する売上を誇る、極めて華々しい数字に彩られた国際的に著名な自己啓発の為の書物である。内容は単純明快で、その主題は「変化への対応」である。新型コロナウイルスの蔓延に伴って価値観や生活の過半を強制的に改革されるという得難い経験を踏まえた我々にとっては、本書が扱っている主題は否が応でも馴染み深いものであると言えるだろう。
 変化に対応することの重要性に就いて、現代に生きる多くの社会人はうんざりするほど夥しい回数の有難い説法を聞かされているだろう。社会の様々な局面において、事物の変化する速度が増し、その範囲や密度が拡大していることは経験的な事実である。通信技術が発達し、交通網が整備され、国際的な交流が活性化すればするほど、局所的な知見が幅広い領域で迅速に共有され、新たな技術や発想の醸成に発展するのは自明の理である。技術や知識が目紛しい勢いでupdateされていく為に、かつて有益であった知見や有効であった技術が瞬く間に古びていく社会に我々は所属して、日々の活動に従事している。そうした現状を鑑みれば、変化への適応を奨励し、場合によっては強要する世界的傾向は、不可避の現象であると言える。
 著者は、変化の重要性と価値を説くと共に、人間が如何に変化を怖れるか、過去の成功に執着し、過去から未来を演繹することを望むか、快適な環境の永続を望むか、という人類の普遍的特性に就いて、簡潔な言葉で論じている。しかしながら、非常に残念なことに、快適な環境の永続が不可能であり、何らかの変化を蒙ることが不可避であるという事実は否認し得ない。それゆえ、変化に対する不安や怠惰を払拭し、寧ろ変化を前提とした生活の設計を推進すべきであると、著者は穏やかな口調で訴える。こうした論理は、それこそ古代ギリシャヘラクレイトスや古代インドの釈迦牟尼の時代から営々と倦まず弛まず語り続けられてきた、歴史的な真理の重要な典型である。「常住」ということは有り得ず、森羅万象は「無常」であり、変化を拒絶し得るという考え方は妄想的な謬見に過ぎない。けれども、生活の恒常的な安定を求めるのは人間の本能である。だから、理窟として真理を把握しただけでは、我々は本能の要請に容易く屈してしまう。意識的な訓練の蓄積がなければ、真理は有益な影響力を発揮する機会を得られないのである。真理は、その正しさを証明するだけでは決して実現されないのである。
 東洋の叡智の本質的源泉の一つである仏陀の教説は「四苦八苦」というideaを展開した。「生老病死」の四種に加えて「愛別離苦」(愛する者と別れる苦しみ)「怨憎会苦」(憎むべき相手から離れられない苦しみ)「求不得苦」(欲しいものが手に入らない苦しみ)「五蘊盛苦」(自己の心身を随意に制御し得ない苦しみ)が存在するという仏陀のpessimisticな認識は、人間の生存の条件を冷徹に照らし出している。そして、これらの苦しみの根源は悉く「諸行無常」という世界の存在の条件から齎されているのだと言い得る。「諸行無常」即ち「変化は不可避である」という事実を適切に認識しない限り、認識と現実との不整合によって、これらの苦しみが生じるのである。変化の不可避的な性質を理解し、変化を忌避するのではなく寧ろ積極的に変化と合一することが、望ましい生涯の為の心得であるという訳だ。
 過去の慣習、前例、伝統、これらへの固着が滅亡を齎すという考え方、そして伝統を保存し継承する為には持続的な革新を試みねばならないという考え方は、現代の常識であり定説である。無論、絶えざる革新は誰にとっても容易ではない。だが、そのstressfulな生き方は、少なくとも衰弱の極北で滅び去るよりもマシな境遇であるというのが、著者の根本的な認識である。

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2021年)

 謹賀新年。皆様如何御過ごしでしょうか。サラダ坊主で御座います。本年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 旧年中の記憶は絶えざる新型コロナウイルスの猛威と共にあり、誰もが生活の変質と苦闘を強いられ、総理大臣が緊急事態宣言の発令に就いて否定的な見解を表明した翌日の大晦日に、首都圏を中心に過去最高の感染者数を記録するという劇的な幕切れを迎えた一年でありました。海外ではワクチンの実用化が始まり、本邦においても二月頃から医療関係者を皮切りにワクチンの接種が開始されるという報道もあり、微かな希望の燈火が瞬き始めたようにも思われる一方で、イギリスやナイジェリアで変異した株が発見され、既に世界的な蔓延を実現しつつあり、ワクチンの効能の不透明性は高まっています。その意味では、世界は疑いもなくcorona virus diseaseに深刻な敗北を喫した一年でした。
 現在の私が所属する職場は東京駅構内の店舗であり、COVID-19の感染が始まる以前は、厖大な数の乗客を抱える立地ゆえに全国の頂点に立つ売上高を誇る、社内では最も繁忙な場所でした。しかし、リモートワークの拡大や外出自粛に伴う観光客の激減で、東京駅の風景は一変しました。その意味で、私にとってもコロナウイルスは憎たらしい宿敵であり、本来であれば得られた筈の栄光と成長を蹂躙した忌まわしい害悪でした。しかし、ウイルスに不満を述べても仕方ないでしょう。私よりも悲惨な境遇に追い詰められている人々は大勢いる筈です。ですから、私の立場でこれ以上の泣き言を申し上げるのは恥ずべきことでしょう。

 年頭に際して、何かしら抱負を述べるのは世上の古典的習慣であり、私もその伝統に倣って来る新年の目標を記録しておきたいと思います。それは世間に対する宣言ではなく、固より移ろい易い人間の記憶と感情の生理を踏まえて、自分自身の為に明確な里程標を設置しておく為です。
 私は最近英語の勉強を始めました。別に業務上の必要に駆られた訳ではありません(少なくとも私の勤め先は極めてdomesticな企業です)。私は直近の二年間、海外の古典の翻訳に触れる機会を意図的に増やしてきました。当然、総て邦訳を通じて取り組む訳ですが、異国の言語に微塵も通暁しない立場でありながら、一部の邦訳に対して、これは本当に適正な訳文なのだろうかと疑念を懐くことが時折ありました。そもそも、どんなに達意の訳文を望んだとしても、英語と日本語、ラテン語と日本語、古代ギリシア語と日本語との間には、理想的な対応関係というものは存在していません。総ての語彙や文法が相互に完璧なcorrespondenceを示し得るという期待は、幻想的な希望の所産です。その意味では、邦訳を通じて例えばプラトンの対話篇を読むということは、プラトンの思想を多かれ少なかれjapanizeするということに他ならず、また翻訳者の主観を経由するということに他ならないと言えます。
 無論、プラトンを英訳で読んだとしても、同様の問題は共通して発生します。但し、英語によるプラトンの読解の歴史は恐らく、日本語によるプラトンの読解の歴史よりも遥かに長く、分厚く、深いものでしょう。英語至上主義を標榜する積りはさらさらありませんが、少なくともLingua francaとしての英語に習熟すれば、英語で綴られたあらゆる書物に直接アクセスすることが出来るようになります。翻訳の品質や、そもそも翻訳が存在しないという問題に悩まされることも少なくなるでしょう(翻訳の品質の問題は、私の英語力が翻訳者のそれを上回らない限りは解決しませんが)。
 日本語の世界だけで完結することは、少なくとも外国の著述を読解する上では不可能です。Googleが総てを翻訳してくれるようになれば、個人の語学力など不要になるでしょうか? 同じことです。そうなれば我々はGoogleの助力と支配なしには、世界の外部に出られないのです。つまり、それは本質的な解決にはならないのです。
 能書きばかり垂れていても詮ないことですから、先ずは地道に自分の掲げた目標に向かって小さな努力を日々蓄積していく所存です。偶々ネットで、英語一辺倒の勉強は真のglobalizationではなく、多様性の圧殺に過ぎない、従って英語の勉強は無益だという乱暴な意見に接したこともありますが、そういう人間が、英語以外にも複数の外国語を学んで真の国際化に対応しようと努力しているとは思えません。多様性の尊重を理由に、異国の言葉に対する知的関心を放棄するのは単なる鎖国であり、端的に言って堕落に過ぎないでしょう。或いはxenophobiaの典型的な症例かも知れません。
 以上で年頭の御挨拶とさせていただきます。本年も何卒「サラダ坊主日記」を宜しく御願い申し上げます。