サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Days when I was younger so much)

*元旦以来、一年の計として英語学習を志し、毎日洋書を読んでいる所為もあり、学習するとは何なのか、どういう本質や特徴を備えているのか、ということを時折考える。他人が未知の物事を学ぶ際にどういう方法論を採用しているのかということに対しても関心が湧出してくる。英単語の暗記にしても、知り合いに尋ねると、単語帳を繰り返し読んで覚えたという人もいれば、書き取りをしないと覚えられないという人もいる。インターネットの世界を渉猟してみれば、多様な人々が実に多彩な方法で語学に取り組んでいることが分かる。何を学ぶかという対象は状況と必要に応じて千変万化するが、何れにせよ自分の個性に適した学習の方法を案出することが肝腎であるのは明白である。特に大人になって銘々の人生を歩むようになると、互いに従事する職業も違えば、置かれている私生活の環境も異なる訳で、必然的に学ぶべき事柄のジャンルや性質は分散する。初等教育の如く、教養課程の如く、誰でも知っているべき社会の基本的事項を一律に学ぶという態度は否応なしに変化を迫られざるを得ない。況してや誰に強いられる訳でもなく、業務上の要求に応じる訳でもなく、自らの私的な関心と情熱に基づいて何かを学ぼうとする場合には、自己の生存の条件に応じた対象と手法のカスタマイズが不可欠である。独学ならば猶更だ。
 私は十代の頃、怠惰な学生であったし、大学は一年で放擲した。その意味で、体系的な高等教育を享受したことがない。受験勉強の類にも碌に身を入れなかった。ただ幸いにして読書の習慣があったから、その恩恵によって多少は知的な関心の対象が拡張された部分はあるように思う。本を読んで感想文を認める習慣も長い間持続している。けれども私は性来我儘な気質で、関心のない事柄に意識を向けさせられることが人一倍苦手だ。勉強しろと言われて勉強する殊勝な精神を欠いていた。怠惰という特性は、極めて弊害の大きい悪徳である。極端に言えば人間の生涯は、知らないことを学び、出来なかったことを出来るようにするというプロセスの無限の反復と累積であり、その意味で怠惰は人間の生命の宿敵である。怠惰である限り、人間は何処にも行けない。新しい世界を切り拓き、見知らぬ生活の形態に足を踏み入れることが出来ない。従って現状から離れた理想を追求する情熱や努力とも無縁である。無論、それが一概に悪いとは言えない。無謀な夢想が人生を空費させる事例も決して少なくないからだ。
 勉強を嫌がる私に対して、かつて父親は言った。勉強している間は、その勉強が何の役に立つかということは分からない。それは実際に勉強してみない限り分からない。だから、勉強してみるべきだ、それは未来の可能性を広げ、人生の選択肢を増やすことに繋がると。私の父親は、学生運動が吹き荒れた時代に東京大学教養学部を卒業した。高校の先生に、お前の頭では東大なんか受かる訳がないと言われて腹を立て、毎日八時間以上勉強して、試験の当日に鼻血が出て答案用紙を汚したと昔言っていた。二十歳の頃、私が就いたばかりの仕事を投げ出したときだ。その死に物狂いの努力の経験があるから、自分を信じることが出来るようになった、あのとき自分はあの苛酷な試練を乗り越えたという自負があるからだ、何でも直ぐに投げ出していたら早晩お前は自分で自分を信じられなくなるぞ、と諭された。
 自分で自分を信じられないということほど、精神的に辛い状況はない。大学を辞めた当時の私は、今思えば、明らかに目的を見失っていた。どういう人生を歩みたいかという鮮明な目標を欠いていた。小説家に憧れていたが、具体的な見通しは何もなく、大した努力もしていなかった。当時の私は、未来の自分が一人前の社会人として会社に勤めたり、結婚して家庭を持ったり、そういう普通の人生を送っている姿を全く想像出来なかった。私は我儘で思い込みの強い性格であったし、聊か不遜で、傲慢で、そのくせ臆病だった。実体のある自信を持っていなかった。相対的に賢く要領が良かったので、勉強もせずに大学に受かったが、何の努力も情熱もなく入ったので、続けることが出来なかった。私には、何かを自分の力で遣り遂げたという経験が欠けていた。部活でも勉強でも社会活動でもいい、自分の軸になるようなものが欠落していた。だから、本当の意味で自分の力を信じることが出来なかった。今思えば、小説家云々という夢は、現実逃避の一種だったのだろうと思う。小説家という職業には、才能さえあれば、社会の夥しい仕来りや制約から遠ざかって気儘に生きられるという浮薄なイメージがあった。恐らく無頼派辺りの古色蒼然たる作家たちのイメージに漠然とした救済の光明を見出していたのだ。事実、今でも私は坂口安吾を敬愛している。けれども、実際問題として才能の有無以前に、毎日来る日も来る日も原稿を書き続ける孤独な生活を自分が本当に欲しているという確信もなかった。
 坂口安吾の作品に「風と光と二十の私と」と題された簡素な、とても美しい自伝的小説がある。その小説の終盤に、当時の作者が、小説家を志しながらも自分の才能の欠如を憾み、現実から逃避する手段として出家遁世に憧れていたという記述が含まれている。その心情は、私には馴染み深いものだ。私も出家遁世に憧れて、高名な禅僧の逸話などを読み漁っていた時期がある。出家も小説家への志望も共に、煩わしい世間を離れて自由気儘に暮らしたいという厭世的な欲望の発露だったのだろう。それは裏返せば、自分には社会や世間に適合する気力も能力も備わっていないという劣等感の反映であったのだと思う。大学を辞めたのも、仕事を辞めたのも、煎じ詰めれば同根の現象だ。
 けれども私は、大学を辞めた年の夏に、年上の子持ちの女性を妊娠させた。それで急遽所帯を持ち、何でもいいから給料を稼いで来なければならなくなった。私は仕事を探し、採用され、そして直ぐに辞めた。それを二回繰り返した。当時の妻の誕生日に、私は二回目の無職となっていた。妻の臨月が間近に迫っていた。私は自分を信じていなかった。自分の能力も未来も。そのくせ、安易に子供を儲けるのだから度し難い愚かさ、軽率さである。そして日傭いで多少の賃銀を稼ぎながら、幸いにして現在の勤め先に拾われた。そこでも最初の上司と折り合いがつかず、日々の暴言や叱責に堪えかねて、一度無断で職場から逃げ出して、辞める積りで行方を晦ました。身内には散々叱られたが、会社は私を叱らなかった。辛い想いをさせて済まなかったと部門の幹部に謝罪された。思わぬ成り行きに、私は動揺した。誰がどう考えても、悪いのは逃げ出した私だ。理由がどうであれ、無断で逃げ出すのは常識に反している。私の妻は、私の両親と共に警察署へ行って、私の捜索願を出した。妻は、警官から私の歯型を用意するようにと言われたらしい。後日、父親に、お前は自分の妻にそんなことをさせるのかと叱られた。考えてみれば、叱られてばかり、正に太宰治が「人間失格」の冒頭に書き付けた「恥の多い人生」そのものである。
 そのとき、私は初めて「この世界には逃げ場なんかない」という考えに想到した。実際には、その後の人生でも何度も、私は逃げ出したいという想いに囚われた。転職も考えたし、異性関係で不始末も犯した。日夜数字を追いかける仕事だから、プレッシャーは尽きず、絶えず何かしらの不安に急き立てられて生きてきたような気がする。現実逃避という言葉は誰にとっても親しいものだろう。追い詰められて逃げ出したくなることは誰にでもあるに違いない。けれども、逃げ出したところで現実は変わらない。それは誰でも知っている。ただ、追い詰められたとき、人間は様々な理窟を駆使して、自分自身を説得しようとするのだ。ここではない何処かに、素晴らしい理想的な環境がある筈だと。
 無論、逃げ出すことが常に罪ではない。虐待される子供、ハラスメントに苦しむ組織人に必要なのは逃亡、或いは脱出という選択肢である。ただ、何れにせよ必要なのは冷静沈着な判断である。衝動に従って振舞えば、多くの場合、賢明な結果には帰結しない。衝動は理性と対立するのではなく、理性を誑かして自分の奴隷に仕立て上げるのである。そのとき、人間は衝動に支配されているにも拘らず、自分は理性的な判断を下していると誤認するのである。
 苛酷な現実に直面したとき、感情や衝動の指示に従うのは得策ではない。結局、好不調の波動に関わらず、人間が取り組むべきことは冷静な判断力の堅持に尽きる。そして人間は、困難な状況、意のままにならない環境に置かれない限り、成長も進化もしない。順境は人を堕落させる。既に容易に熟せることを繰り返すばかりでは、人間は退化する。その意味で、学習の習慣は明らかに人間の精神的衛生を改善し、強化するものである。何故なら学習は常に、自分の知らないことや出来ないことへの挑戦と格闘を含意するからである。それは現実の具体的で実効的な改革を意味する。私は二十歳のときに拾われた現在の会社に、紆余曲折を経て彼是十五年ほど在籍しているが、その間に学んだことと言えば要するに「諦めない」「屈しない」の二語に集約される。何が起きても粘り強く現実的な対策を考え、実行に移す。結局、それ以外に現実を変革する方途は存在しない。その為には、思考の習慣を堅持しなければならない。本を読み、考えたことを文章として形象化するのも、その習慣の一端を成す営為である。「諦めない」「屈しない」というのは単なる感情の抑圧を意味するものではない。逆境に置かれても、思考力や判断力を手放さないことが肝腎である。一般的に人間は、精神的に追い詰められ余裕を失うほどに、感情や衝動の言いなりになる。つまり逆境に置かれた人間は、一時的な感情や衝動の奴隷と化して、理性的な模索の努力に堪えられなくなるのである。如何なる状況に置かれても、自分の知性と思考力を堅持することが、延いては逆境の打開に帰結するのだ。その為には日頃から思考と知性を鍛錬する習慣を身に着けておく必要がある。あらゆる学習は正に、思考と知性の鍛錬に他ならない。極論を言えば、学ぶ対象は何でも構わない。個人が随意に対象を選択すれば、それで差し支えない。重要なのは、快活で機敏な知性の涵養である。それを欠いてしまうと、人間は長期的な指標を見失い、束の間の欲望に押し流され、困難に打ち克つ為の持続的な努力を保てなくなる。一般的に困難な課題は解決に時間を要する。解決に時間を要する課題に取り組む際に、流動的な感情や欲望を用いるのは悪手である。毀誉褒貶はあるだろうが、こうした問題に就いては、セネカなどストア学派の典籍が重要な参考となるように思う。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

Cahier(Various Changes Increasing in Our Lives)

*引き続き、洋書の繙読を続けている。先日「ハリー・ポッター」シリーズの第四巻に当たるHARRY POTTER and the Goblet of Fireを、幕張新都心イオンモールにある蔦屋書店で買い求めた。眩暈を覚えるような分厚さである。本文だけで600頁以上、外観は完全に国語辞典のボリュームで、活字のサイズが明らかに従来より縮んでいる。本来ならばiPadを駆使して電子書籍で読む予定だったのが、生憎肝腎のiPadが予約して一箇月以上経つのに未だ入荷しないので、止むを得ず紙で購入することに決した次第である。
 仮に日本語であっても600頁の分量を、生活の隙間に転がっている切れ端のような時間を凝集して読み通すのは容易な営為ではない。況してや緻密なアルファベットの隊列が延々と連なっているのでは、読了までに相当な時間と労力が要求されることは歴然としている。けれども、見方を換えれば、この分量をきちんと総て読破した暁には必ずや、私の英語力は着実な向上を成し遂げているだろうと推測される。辞書一冊分の英語を読み漁れば、否が応でも海馬の奥底には降り頻る無数のマリンスノーのように、単語や文法に関する知識の断片が降り積もって、脆弱ながら優美な珊瑚礁を形作るに違いないと性急にも期待している。現在の私は、語学の基礎である語彙や文法的知識をじっくりと練り固め、強靭な足腰を作り上げる段階に置かれている。劇的な成果を日々発見し実感することが出来ないからと言って、地道な鍛錬を疎かにする訳にはいかない。一年後の収穫に淡い希望を寄せるくらいの温度が、心構えとしては相応しい。一瀉千里の速度に憧れて己の鈍間な両足に苛立つくらいなら、蝸牛の真似に耽る方が余程精神の健康に宜しい。

*残り一週間ほどで娘の四歳児としての一年間が終幕を迎える。五歳になり、春から年長児となり、そろそろランドセルの仕度も考えねばならない季節が訪れる。日々接していると累積する微細な変化に気付き難いが、昔の写真と比べて眺めれば、明らかに顔つきが利発になり、言葉遣いも随分と大人びてきた。話す内容にきちんと理窟が通うようになり、想像や仮定の話も出来るようになった。記憶力も発達してきた。その分、親の指示や命令に黙って従う素直さは影を潜め、日夜国会議員のように自己主張が劇しくなっている。それが成長というもので、親の立場としては度々辟易させられるが、辛抱強く接する以外に途もない。時間や曜日、日附の感覚も鮮明になっている。要するに知的成長とは、眼に見えず形を持たない事柄を想像して理解し得るということ、抽象化の能力を獲得するということと同義なのだろう。言葉は正に抽象化の典型的な象徴であり、感覚的な事物と言葉を紐付けて理解する段階を過ぎれば、今度は言葉の側から事物を想像的に構成する段階へ進む。文字を読んで内容を理解するのは、そうした手続きの代表的な事例である。大いに言葉の力を鍛えて、磨き抜いてもらいたいと思う。その傍らで私は、異国の文字と言葉に塗れて右往左往している。

*仕事は徐々に忙しさを取り戻し始めた。形骸化した緊急事態宣言は最早、人波を抑え込む高圧的な権能を失っていると看做して差し支えない。私の勤め先である東京駅の構内も人出の明瞭な増加に晒されている。ICOCAで決済したりエスパルのポイントカードを提示したりする顧客の姿を頻繁に見掛ける。これらの現象は、人々の都道府県を跨いだ移動が旺盛になりつつあることの端的な徴候である。旅行や出張に対する人々の根深い意欲を肌身に感じる。とはいえ、感染第四波の襲来は早晩避け難い成り行きであろうから、これは束の間の小康状態に過ぎないのだろう。ワクチンの接種が感染者数の劇的な減殺に結び付かない限り、好況と不況との目紛しい循環は何時まで経っても安定した平坦な軌跡を描かないに違いない。
 私は商売柄、テレワークとは無縁の日常を送っているが、世間のテレワーク従事者の方々は、日々をどんな気分で過ごしておられるのだろうかと思う。極めて快適で二度と通勤電車には乗りたくないと感じているのか、それとも職住一体の閉塞的な生活に窒息の予感を覚えているのか。無論、不毛な通勤が撲滅されるべきなのは好ましい変化であるが、家庭生活と職場生活の境界線が限りなく曖昧になる生活というのも案外息苦しいものではないかと個人的には推測する。少なくとも、家庭の内部に職場の論理が侵入する頻度は増しているのではないか。テレワークでは労務管理が難しいと、管理者の立場においては従業員の怠業を警戒する意見も当初は根強かったが、実際には、眼に見えぬ緊張感を昂らせて鬱屈している人も多いのではないかと思う。家族や夫婦の距離が近くなり過ぎて関係の破局に至る人も実在すると伝え聞く。殆どの人間は、家庭における顔と職場における顔を使い分けているだろうし、それによって鬱屈や閉塞感を緩和する習慣を身に着けているだろう。それが悉く家庭という根拠地に集約されるのは、果たして幸福なことなのだろうか。
 尤も、歴史を顧みれば、職住一体という生活は別段珍しいものではない。少なくとも農業に従事する人々は、土地に縛られるがゆえに、職住一体の生活を基本的な様式として当たり前に受け容れていたのではないだろうか。通勤という文化が生まれ、一般化した背景には、都市化の進行、つまり都市部への人口や資源の集中という現象が深く関与しているものと思われる。それによって生じた「過密」という状態が、感染症に対して極めて脆弱であるという事実を、我々はコロナウイルスの猛威から教わった。その意味では、地方への回帰や分権という潮流が勢いを増すのは自然な帰結である。都市化は、国土の限定された部分を集中的に使い倒して消耗させ、それ以外の広漠たる領域を無為に放置するという不均衡な統治体制を要求する。地方への人口分散が、国土の有効利用を促すと共に、人々の生活環境を向上させるのであれば、コロナが齎した災禍は革命の狼煙となり得るだろう。
 とはいえ、都市の衰退は、国家全体の文化や経済の水準に対して、如何なる影響を及ぼすのかという課題も併せて検討されるべきだろう。人口や資源の集中によって齎される爆発的な変化や尖鋭な革命、要するに創造性の発露が有り得るのではないか、それは平穏無事な地方の風景からは生み出されないものではないのか、という疑念が、私の脳裡の片隅を、明確な論拠を欠いたまま領している。確かに通信技術の発達は、地理的条件に制約されないコミュニケーションの成立を劇的に促進しているが、生身の人間が実際に犇めき合って生活している空間の熱量を、それらの技術が凌駕し得るのか、未だ確証は得られていない。そして「都心」という概念の衰退が、良くも悪くも「分断」の温床となり得る懸念も完全には払拭し得ない。相互に混じり合わない世界、それは頗る快適な環境かも知れないが、余りにも快適な生活は、人間の心身を退化させる危険を孕んでいる。異種交配は革新の唯一の淵源ではないのだろうか。

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban”

 英語学習の一環として J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban,2014,London を読了したので感想文を認める。

 シリーズ三作目に当たる本書では、ハリー・ポッターの亡父の親友であったシリウス・ブラックに纏わる一連の騒動が、物語の中核を成している。その根底には、ジェームズ・ポッター、シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、ピーター・ペティグリュー、そしてセブルス・スネイプたちの過去の因縁が蟠り、遠景には絶えず、史上最も邪悪な魔法使いヴォルデモートの犯罪と陰謀が隠見している。物語の陰翳は徐々に深まり、暴力と悪意の荒廃した投影が少しずつ濃度を増しつつあるように感じられる。ヴォルデモートを巡る複雑な歴史的経緯が、物語における重要度を高めていくのに伴って、物語の構成はより稠密で入り組んだものとなり、殺意や憎悪、復讐心など、穢れた情念の継起と屈折が齎す様々な事件が、一層前景化してきた印象を受ける。
 悪とは何か、という問いに簡潔な答えを与えることは難しい。誰もが多かれ少なかれ善悪に関する倫理的基準を携えて日々の出来事に対処しているが、その基準の妥当性を厳密に定める超越的根拠は存在しない。善悪の相対化、つまり何を悪と看做すか、という問題に就いて共通の集団的合意が成り立ち難い世界では、簡明な勧善懲悪の図式は空疎な御題目に堕してしまい易い。善悪の戦いを困難な泥濘に帰結させる要因は、善悪そのものの基準の危うい流動性の裡に存する。善悪の基準は複数存在し、部分的な賛同と反発を織り交ぜながら、相互に絡み合って様々な矛盾を惹起する。例えばハリーは、シリウス・ブラックの無実を確信しながらも、ペティグリューの逃走によって彼を弁護する為の根拠を見失い、公共的に認められた事実は、秘められた真実との間に夥しい乖離を抱えたまま流通する。常に真実が勝利するという簡明な考え方に、血腥い現実の側から意地の悪い掣肘が加えられたのである。ダンブルドアでさえ、シリウスの無辜を立証することの不可能性に就いて言及している。タイムターナーの力を駆使して秘密裡にシリウスの逃亡を幇助することに成功したとしても、それは彼に擬せられた冤罪の不当性を本質的に立証する手段とはなり得ない。
 魔法という超越的な手段が存在する世界においても、善悪に関する困難な諸問題を一斉に解決し得る方法は発見されていない。例えばバックビークを殺処分に追い込もうとするマルフォイ父子の陰惨な悪意や、それに由来する権力の不当な濫用そのものは、魔法という超越的な力によっても解決されない。そもそも作者は、魔法の超越的性質を認めておらず、その限界や制約に就いて、明確な表現を与えている。ハリーが直面する諸々の課題は、普通の人間が所属する社会において見出される諸々の課題と本質的に同一である。確かに魔法使いとしての才能は、ハリーを不幸な居候の境遇から救済する重要な条件として働いたが、それによって彼の出自に纏わる種々の懊悩が免除された訳ではない。如何なる宿命に対しても、固有の艱難は必ず附随する。それは人間の世界における普遍的な慣わしであり、人間的実存の基礎的な前提である。どんなにリーマス・ルーピンが優れた教師としての才覚と人格に恵まれていたしても、狼男という固有の身体的条件は、彼に対する社会的差別を不可避的に伴ってしまう。正しい人間には正しい待遇が用意される運命にあるという素朴な信憑の虚しさを、この挿話は端的に物語っている。けれども、それを無垢な子供への教訓と捉えるのは適切な解釈ではない。子供たち自身、日々の生活を通じて現実の不条理な性質には、うんざりするほど繰り返し直面させられている筈なのだ。寧ろ彼らこそ、不条理の発見に就いては鋭敏な嗅覚を備えていると言えるかも知れない。経験の浅い無智な人間にとっては、あらゆるものが不可解な未知の条理に従っているように見えるからである。とはいえ私は、経験の豊かな人間が特別に優れていると言いたい訳ではない。彼らは要するに、不条理と呼ばれる種類の現象に関して、精神的に麻痺しているに過ぎない。それほどまでに、複雑な矛盾は世上に氾濫し横行しており、それ自体の実在や認識を拒否することに意義はない。
 ダンブルドアやルーピンは、優れた教師としての資質を潤沢に備えているように描かれている。彼らに共通する特質は、原則として常に温厚であること、そして苦境に直面した場合でも成る可く諧謔の精神を忘れずにいることである。ルーピンが主宰したボガート退治の授業は、内面的な次元で眺めるならば、要するにセルフ・コントロールの訓練であるように思われる。自分が最も恐怖を覚える対象を滑稽な事物として捉え直すこと、それによって恐怖に打ち克つこと、こうした教訓は明らかに心理的な自制の技術の要諦を成している。如何なる環境に置かれても自分の日常的な個性を保持すること、冷静な判断力を維持することの重要性に議論の余地はないが、実際にそれを体得する困難は誰でも熟知している。シリウス・ブラックもまた、十年以上に亘るアズカバン収監の間、ずっと本来の自分を見失わず、その魂を誰にも明け渡さずに生き延びた。結局、あらゆる教育の本義は、困難を乗り越える為の綜合的技法の伝授に尽きるのではないかと、個人的には思う。

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(The Desire to Purify Everything)

*人間には、何かを純化したいという欲望が時折兆す。何か不安定な要素、不当な要素を排除することによって劇的な改善を望みたいという、謂わば「リセット」することへの欲望が人間の精神の根底には巣食っている。仕事でも家庭でも、対象は何でも構わない。夾雑物を排除して、衛生的な状態を恢復して、そうすれば万事好ましい方向へ改善していくという信念、殺菌消毒の理念、厳密な同一性の基準に基づいて裁判し、審理し、摘発するべきだという正義の理念、それは人間の内なるロマンティシズムと結び付いている。
 例えば人間は時々、無垢だった幼少期の記憶に特別な郷愁を寄せる。人間の社会に存在する諸々の暗部を知らず、規則や倫理との相剋に懊悩することもなく、素朴な愛情と信頼の中で暮らしていた日々の記憶に、奇蹟的な恩寵を見出し、世智で穢れた後の我身と引き比べて、幼少の日々が如何に輝かしく美しいものであったかと慨嘆するのである。如何に自分は純粋な存在であったか、長じてからの種々の出口の見えない煩悶に日夜苛まれることもなく、単純で明快な幸福の中で生きていたかと、甘美な情緒と共に懐かしむのである。
 純化による解決、これを私は警戒する。世の中はそれほど単純な仕組みで出来上がっていない。記憶は往々にして美化されるものであり、幸福な幼少期の回想は、それ自体では無力な幻想に過ぎない。問題や弊害は複雑な構造によって形成されており、その相互的な依存の関係は錯綜しており、単一の明快な異物によって総ての症状が惹起されていると考え得る事例は極めて稀である。或る一つの事柄の善悪は、その事柄が他の事柄と如何様に関連しているかによって、相対的に、流動的に決定される。今日の正義は明日の犯罪であり、逆もまた然りである。
 例えば様々な種類の差別、これは明らかに純化への欲望、同一性への信仰の為せる業である。先般、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長であった森喜朗氏が、ジェンダー差別に該当する発言によって自らを辞任に追い込んだことは記憶に新しい。円滑な意思決定を阻害する要因を「女性」というファクターの裡に求め、恰かも「女性」の理事を排除すれば、自ずと組織運営は合理化され改善されるかのような論旨を披歴した彼の振舞いは、煎じ詰めれば「純化」に対する衝迫の具体的事例に他ならない。或いは歴史を繙けば、あらゆる社会的差別の事例が、こうした「純化」への情熱的衝動と要求によって駆り立てられていることは直ちに窺い知れる。例えば先般、国軍のクーデターによってアウンサン・スー・チー氏が身柄を拘束され、民主化の機運に蒙昧な冷水が浴びせられたばかりのミャンマーでは、ロヒンギャと呼ばれるイスラム系の少数民族(インド系の移民)に対する厳しい迫害が恒常化し、武力衝突や虐殺、難民化などの深刻な人権問題の慢性化が憂慮されている。思い起こせば米国においても、大統領就任当初のドナルド・トランプ氏が、南米からの不法移民の排斥を訴えてメキシコとの国境に隔壁を建設するという極めて排外的な国策に踏み切ったことがあった。日本の歴史においても、関東大震災に際して生じた流言蜚語によって、多くの朝鮮人が虐殺されたと伝えられている。ナチス・ドイツにおける「ホロコースト」や旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」などの事例も含め、社会的不満の原因を移民などのマイノリティに見出そうとする悪しき風潮は枚挙に遑がない。こうした思考の形態は悉く「異物を排除すれば我々の置かれている状況は改善する」という信仰に支えられている。これは「多様性の尊重が国力を賦活し、世界をより良いものに変えていく」というダイバーシティの発想の対極に位置する古びた信念の様式である。

*こうした「純化」への欲望は実に様々な形態を取り得る。保守的な思考を愛する人々は「伝統への回帰」を「純化」のヴァリエーションとして声高に主張する。日本古来の文化や風習を重視し、現代的な変化を唾棄する人々は、知らず知らずのうちに「多様性」の観念の最も尖鋭で陰湿な宿敵と化している。例えば「日本語」の純粋性を愛する人々は、片仮名で綴られた外来語の氾濫に険しい顔つきで警鐘を鳴らす。何でもかんでも横文字に置き換えるのは知的な怠惰であり、日本語で表現し得るものを気取った新奇な横文字で言い換えるのは伝統的な文化に対する破壊的行為であり、堕落であるというのが、その一般的な論旨である。「感染爆発」を「オーバーシュート」と言い、「都市封鎖」を「ロックダウン」と呼ぶのは怪しからん、不親切である、何故もっと明快な日本語で表現しないのか、というのは、彼らの抗議の一例である。だが、彼らも日常生活において、わざわざ「トイレ」を「厠」と呼んだり「スマートフォン」を「高機能携帯電話」などと呼んだり「ブラジャー」を「乳当て」と呼んだりしている訳ではないだろう。
 そもそも「純粋な母国語」という観念は、実在の疑わしい神秘的幻像である。日本語が現在の高度な発達を遂げたのは、例えば古代中国から「漢字」という純然たる舶来の体系を大々的に輸入し、移植した成果である。海外の文物を取り入れる際に、併せて海外の言葉も摂取するのは当然のことで、それを日本風にアレンジすることで、我々の母国語は持続的な成長を遂げてきた。純粋なる母国語の庇護に固執して、排外的な宣言を革めないのであれば、片仮名に置き換えられた英語に限らず、一切の漢文脈も摘出し除去してしまえばいい。そうすれば、日本語による思考の水準や品質は致命的に下落し、我々の文化は頗る貧弱な、栄養の足りない脆弱な生き物に変貌を遂げるだろう。そもそも、日本の伝統的文化と信じられている仮名文字が、漢字の変形を通じて構築されたものであることは常識であり、舶来の文化を徹底的に排除すべきなのだとしたら、我々日本人は馴染み深い仮名文字の廃棄すら真剣に検討せねばならないのである。それが聊かも合理的な方策ではないことは自明である。従って「日本語」における「純化」への欲望は極めて不合理な情熱であると結論することが出来る。寧ろ、あらゆる外国語を片仮名に置き換えて日本語の体系の一部として併呑する強力な伝統は、日本語という文化的制度の旺盛な食欲、その強靭な生命力を立証するものに他ならない。英語もまた、ラテン語やフランス語の語彙を貪婪に咀嚼し摂取することによって成長を遂げてきた。あらゆる言語の健康は、純化ではなく交雑によって保たれる。言語に限らず、純化によって健康の恢復を図ろうとする性急な衝迫は、システムの弱体化を示唆する簡明な症候である。多様性の理念は、強靭なシステムの存在を要求する。異物を排除するのではなく包摂することの重要性を、多様性という理念は自らの存立の基礎に据えている。つまり、純粋なものに憧れる心理は、自らの心身の衰弱の確たる証明なのである。弱った胃袋を守る為には食事制限が不可欠であるが、そもそも偏食を避ける日常の心掛を重んじるべきである。私のような観念的偏食家は、三十五になっても自らの夥しい食わず嫌いを糺さずに厚顔にも恬然としている。こういう人間は正に「純化」への欲望の権化である。好きなものしか食べたくないという心理的偏向が、多様性に堪え得る強靭な心身の醸成を毀損しているのである。何でも嫌がらずに食べなさいという家庭の凡庸な教訓は蓋し、不変の真理を衝いている。

Cahier(Portrait of the Artist As a Young Suicide)

*引き続き、仕事と育児と英語学習の三本の矢で私の日常は貫かれている。先日はリスニングの勉強の一助になればと思い、近所のブックオフハリー・ポッターの映画のブルーレイディスクを購入した。尤も、本気でリスニングの勉強をするならば、Amazonの展開するAudibleなどを活用して、英語の音声を徹底的に鼓膜へ浸潤させる必要があるだろう。今はリーディングを通じて基本的な語彙や文法、表現を覚え込む段階であると定義しているので、とりあえずAudibleの導入は考えていない。そもそも、一月下旬に予約したiPadが未だ入荷すらしない状況で、電子書籍による読書というファーストステップさえ停滞している状況なのだ。
 先日は、英作文のささやかな真似事を投稿した。未だ拙い技術と乏しい知識のアマルガムに過ぎない仕上がりだが、下手でも構わないから実践を繰り返すことは何事においても上達の秘訣であり、破綻した下手糞な英文だと指弾され嘲笑される懸念は百も承知ながら、勇気を振り絞って試しに電子の海へ放流してみたのだ。あわよくば誰か該博な知識を備えた寛容で慈悲深い方が懇切に添削してくれないだろうかと、淡い期待もないではなかった。何れにせよ、現在の学習の中心は英文の多読の裡に存する。土台を固め、強靭な基礎を構築しなければ、応用や発展的学習も期待される有益な成果を挙げることは恐らく難しいだろう。

*時折、思い出したように読者登録が増える。直近の方々は、私の書いた三島由紀夫に関する記事に関心を寄せて下さったようだ。最近はハリー・ポッターに明け暮れて三島由紀夫の書物に手を伸ばす機会は激減しているが、もっと多読の経験を積んだ暁には、英訳の『金閣寺』や『真夏の死』に挑戦してみたいと考えている。三島の書き遺した流麗な日本語の文章を、生得の日本語話者という恩寵に恵まれた立場でありながら、何故わざわざ英訳で読む必要があるのか、三島の本来的な魅力を味わい損ねるだけの無益な選択ではないかと、保守的な愛読者の方々は疑義を呈するかも知れない。しかし、英訳の三島を読むという経験は、三島由紀夫の構築した日本語の世界を、異質な視野、新奇な観点から捉え直すという点で、非常に有益な営為ではないかと勝手に推測している。三島由紀夫は、天皇を崇拝する右翼的な過激派の側面を持ち、和歌から剣道に至るまで、日本の古典的な文化にも造詣が深く、その文体には古式床しき和語の伝統が随所に織り込まれているが、それゆえに彼を純然たる排外的国粋主義者、或いはxenophobiaのように遇するのは短絡的な誤解である。彼は英語に堪能であると共に、その作品はフランスで発達した心理小説の遺産を色濃く受け継いでいた。レイモン・ラディゲ、ジャン・コクトージョルジュ・バタイユマルキ・ド・サドバルザックスタンダール、フランソワ・モーリヤック、そしてオスカー・ワイルドなど、海外の文学者が遺した作品に関する彼の精緻な分析と懇切な言及を徴する限り、彼は決して偏狭な国粋主義者であったとは言えないし、日本語の伝統に固執する保守的な閉鎖性とも無縁であった。寧ろ「近代能楽集」から「サド侯爵夫人」に至る、彼の遺した芸術的結晶の驚くべき多様性は、その才能が極めて国際的、普遍的な性質のものであったことを明確に立証している。
 けれども、こうした客観的粗描は未だ、三島由紀夫という特異な才能の本質を剔抉し得るものではない。彼の作品を一つずつ入念に読んでいくと、その複雑なキャラクターが、東西の文化の混淆や日本文化に対する愛国的関心といった分析には還元し得ないものであることが明瞭に看取される。彼が或る奇妙な「虚無」に苦しんでいたことは恐らく確実で、それは明らかに太平洋戦争の経験と結び付いているが、だからと言って、戦争の悲惨が、彼の内なるニヒリズムの全面的な始原であるとは言えないと思う。彼は、自らの人生の初期において既に「虚無」の感覚と親密であり、濃密な「現実」の感覚に対する飢渇を宿痾としていた。その「虚無」を、壮麗な言葉と幻想で補填することが彼の前半生における常套であったとするならば、後半生における戦略の要諦は、そうした幻想の畏怖すべき性急な現実化であったと思われる。三島の生涯を貫く重要な要素として「演技」或いは「擬態」が挙げられると私は個人的に考えているが、前半生においては精緻な虚構の形成が重視されていたのに対し、後半生においては、虚構の現実化が企図されたのである。言い換えれば、彼は「作品」と「現実」との華々しい一体化、信じ難い融合を目指したのだ。それは空虚な現実に粗暴な手段で超越的な意味を宿らせようとする痛ましい努力の帰結であったと言えるかも知れない。実際、三島の特異な自殺の顚末は今も猶、彼の人生の全体を一つの特異な物語のように浮かび上がらせている。そして三島由紀夫という人物は、あれほど社会的良識に反した蛮行によって自らの末期を彩りながらも、極めて深刻な水準で、他者の視線を徹底的に内面化した人物であったように感じられる。彼は誰かに見られていない限り、自己の存在の実感を決して確認し得なかったのではないだろうか。

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
金閣寺(英文版) - The Temple of the Golden Pavilion

金閣寺(英文版) - The Temple of the Golden Pavilion

 
真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(Falling into Foreign language)

*引き続き、英語学習に明け暮れる日々である。とはいえ、明け暮れるというほど熱心に努力しているとは思わない。地道に洋書を読み、分からない単語や文法を時折スマホで調べるという程度で、御世辞にも効率的とは言い難い。けれど、私は別に一刻も早く英語に堪能になりたいと焦っている訳ではないし、何より継続を重んじて取り組みたいので、自分の情熱や能力を過信してハードなカリキュラムを組み立てる積りは毛頭ない。そもそも、私の最終的な目標は、英語の書籍を自在に読めるようになることであり、仕事の必要に迫られて英語を学ぶ訳でもなければ、海外旅行や留学の予定がある訳でもない。そして、英語の書籍を自在に読めるようになる為の最も実践的な訓練は、実際に洋書を買って自分のペースで読んでみることだろうと結論して、背伸びは承知で来る日も来る日もハリー・ポッターの原書を繙読しているのである。直近では、J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban,London,2014 を100頁ほど読み進めたところである。
 英語を学ぶ目的をもう一つ、強いて挙げるとするならば、娘が将来、学校で英語の勉強を始めて躓いたときに、彼女の分からないところを教えてやれる父親になることである。2020年から、小学校における英語教育が必修化され、三年生以上の児童は皆、英語を学ぶことになっている。娘はもう直ぐ五歳になる保育園児で、彼女が小学校三年生に進級するのは2024年4月の予定である。概ね残り三年間、そして三年間地道に勉強を続ければ、それなりに私の知見も増え、英語の初等教育を支援するぐらいの能力は身に着いているだろう。そして難問に苦しむ娘に優しく然り気なく颯爽とアドヴァイスを授けて、娘の称讃と尊敬を一身に浴びたいという欲望に今から想像上の涎を垂らしているのである。賢く頼もしい父親であると思われたいという旺盛な自己顕示欲を満たす為に、貪欲な準備に着手しているのである。唯一の懸念材料は、齢年中児にして既に父親に対する横柄且つ粗暴な態度を隠そうともしない娘が、私に英語の宿題を総て押し付けて意気揚々と公園へ去ってしまうのではないかという暗鬱な未来予測である。或いは、自分の分からない問題を嬉々としてしたり顔で教えたがる父親の振舞いに堪え難い生理的嫌悪を懐くのではないかというリアリティに満ちた想像である。それならそれで、一つの人生である。私の血を半分受け継いで生まれ育った帰結が、そうした非道な横暴であるならば、父はそれを甘受するより他に途を持たない。つまり、宿業である。

*目的が何であれ、新しい知識を学ぶことには固有の高揚が存在する。小さな発見の蓄積が、更なる学習への意欲を煽動し、堅持するのである。私は今、只管にハリー・ポッターの原書と格闘する日々を過ごしているのだが、頻出する単語とは徐々に顔馴染になりつつある。同じ作者の書いたシリーズであるから、繰り返し愛用される単語というものが存在する。見知らぬ単語に遭遇する都度、辞書を引くよりも、前後の文脈から単語の意味を推し量ることが重要であるという洋書多読の秘訣に倣い、成る可く日本語を介さずに英単語の意味を考えるように心掛けている。
 英語であろうと日本語であろうと、単語には所謂「類義語」(synonym)というものがあり、概ね同じ事柄を指し示しているのだが、相互にニュアンスが異なる単語の一群というものが存在する。このニュアンスの多様性や重層性は、言語的表現の豊饒性と解像度を高める役目を担っている。ハリー・ポッターを読みながら感じたことの一つは「叫ぶ」という言葉に関する表現の多様性である。ざっと思いつくままに挙げれば、cry,shout,exclaim,screech,scream,howl,bark,yell,yelp,roar,erupt,growl,bellow,shriek,snarl,squeal,croakなどがある。これらは決して一様に「叫ぶ」という意味ではないが、配置された文脈に応じて、それぞれに固有のニュアンスを伴いながら「大声を出す」という状況の表出に役立っている単語たちである。この類義語同士の関係性や使い分けの目安に通暁することは、外国語の習得においては、かなり重要なファクターではないかと思われる。英単語と日本語との照応関係に関する理解は翻訳において重要な知識となるだろうが、それ以前に先ず英単語同士の関係性を理解しなければ、英語を運用することは不可能である。状況に応じてbarkとroarを使い分けることが出来なければ、英語における表現力は著しく低減してしまうだろう。
 また、直訳すると自然な日本語に置換し得ない表現というのも、その外国語の特性を理解する上では重要な手懸りとなるだろう。例えばget to one's feet(立ち上がる)やmake one's way(前進する)といった表現は、ハリー・ポッターの原書にも頻出するカジュアルな用語法であるが、日本語に染まった人間からすると、聊か迂遠な言い回しに聞こえる(私だけの感覚かも知れないが)。或いは、少なくとも私にとって難解であるのは、助動詞及び時制の使い分けの基準である。could,should,mightを「推測」の意味で使い分ける場合のニュアンスや、過去形と完了形の使い分けのニュアンスが直感的に把握出来ていない。仮定法が乱入してくると事態は一層混迷の度合いを増す。前置詞にも副詞にもなれる単語の、その文章における役割を見抜くのも努力が要る。no sooner thanやnothing butといったタイプの構文も滑らかには頭に入って来ない。There's nothingとかI have no ideaといった言い回しは、存在しないものが存在する、無が存在するという発想に基づいた表現で、日本語の思考回路とは明らかに異質な様式ではないかと思う。
 とはいえ、こうした瑣末な知識を一つずつ拾い集めていくのは愉しい。日本語であっても、難解な書物ならば、前後の文脈から表現の意図を推測するといった作業は日常的に行なわれる。英語も同様である。私は中学生の頃、父親の書棚を漁っていて偶然、批評家として名高い柄谷行人氏の「意味という病」という著作と邂逅し、その極めて難解な文章を辿りながら、何故かしら無性に魅了された経験がある。普通に考えれば、意味の理解出来ないものに魅了されるというのは不可解な話であるようにも聞こえるが、私は分からないながらも繰り返しその本を読み、少しずつ意味を理解出来るようになっていった。幼い子供が徐々に母国語を習得していく過程というのも、概ねそのような軌跡を描くものではないか。従って、母国語による読書の経験は、異国の言葉の学習に際しても有益な基礎の役割を果たすのである(そう信じたいというだけの話を、こうして私は理窟っぽく正当化しているのである)。

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 
意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)

 

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Chamber of Secrets”

 英語学習の一環として取り組んだ J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Chamber of Secrets,London,2014 を読み終えたので、感想文を認める。

 数奇な出自を持つ少年ハリー・ポッターが、ホグワーツ魔法学校(Hogwarts School of Witchcraft and Wizardly)の生徒として様々な困難を乗り越え、成長していく姿を描き出す本作の第二巻は、周到に張り巡らされた巧緻な伏線の効果を存分に活かし、緊迫感に充ちた神秘的な構成を備えて、少年の苦闘と葛藤を明瞭に浮かび上がらせている。
 これは私の個人的感想に過ぎないが、一般には児童文学の範疇に括られると思われるハリー・ポッターの物語には、人間の心の陰湿な暗部に迫るような描写が不断に鏤められている。ダーズリー家の人々がハリーに加える諸々の冷淡な仕打ちは、現代の基準に照らせば児童虐待の水準に達していると言えるし、マルフォイ家の人々が示す露骨な選良意識、Muggle-bornの魔法使いに対する鮮明な差別感情は、危険な優生思想や民族浄化(その破滅的帰結は、様々な歴史的事件が実証し続けている)の観念と親和的である。作者はハリーに対して次々と困難な試練を投げ与え、勇気、機智、そして他者の援助によって、彼がそれらの障害を克服していく過程を入念に描いている。それらの障害は必ずしも子供向けに調整された手頃な艱難ではなく、たとえ大人であっても容易には克服し得ない多くの重大な課題を含んでいる。それは単純に、現実自体がそのような性質を備えているからである。地上のあらゆる困苦は、襲い掛かるべき相手の素性や年齢を問わない。悲惨な運命の標的は皮肉にも、あらゆる種類の差別を超越している。大人でさえ解決に手を焼く問題に巻き込まれる子供は、この世界に無数に存在している。
 公教育が普及している社会において、子供の生活の過半は、学校という特殊な領域を舞台に営まれる。そこに渦巻く感情や欲望の複雑な様相は、大人の社会に匹敵する厄介な性質を孕んでいる。例えば「スクールカースト」という表現の存在は、子供たちが「皆仲好く平等に」という道徳的理念と隔絶した世界に、実際には抛り込まれているという酷薄な事実を鮮明に示唆している。彼らは明確に「階級」の障壁を意識し、それゆえの優越感や劣等感と日夜交わっている。様々な指標によって比較され、偏見に晒され、優劣の序列を定められる生活に、子供たちは人生の早い段階で投げ込まれる。それが社会的経験というものだと、したり顔で言い放つのは容易い。しかし、渦中にある当事者の心理が、それほど簡明な諦観に辿り着いている事例は稀であろう。苦労を重ねた大人でも、聖者の境涯に達することは稀である。大人が仕事や家庭の問題で苦しむのと同様に、彼らもまた学校や家庭の問題に日々精神の磨耗を強いられている。そしてハリー・ポッターの物語は、魔法という非現実的な設定を援用しているものの、その筋書き自体は明らかに、子供たちの置かれている苛酷な社会的現実と照応しているのである。他者との軋轢に苦しみ、自分の力では解決し難い困難に直面して思い悩み、社会的正義と個人的信念との矛盾に引き裂かれながら、ハリーは智慧を絞り、勇気を発揮し、具体的な行動を通じて問題の解決に挑む。その姿は、生きることの模範的形態の一例を、機智と皮肉に充ちた文体を通じて提示していると言える。
 ハリー・ポッターの物語には、少年少女が抱え込む様々な困難の事例が隠喩的な表現を伴って象嵌されている。例えば、トム・リドルとジニー・ウィーズリーの「日記」を通じた交流の裡に見出される危険性は、例えば現代社会における喫緊の課題として認知されつつあるSNSの問題と、不吉な暗合を示しているように思われる。幼いジニーの苦悩に誠実な仮面を被って熱心に耳を傾け、徐々に信頼を勝ち取り、その紐帯を悪用して相手の心身と行動を支配しようとする手口は、近年告発の相次ぐ教師と生徒との不適切な関係(多くは性暴力を伴う)や、2017年に神奈川県座間市で起きた遺体損壊事件(自殺願望を有する女性とSNSを通じて交流を持ち、誘い出して殺害するという行為を繰り返したもの)を想起させる。子供たちの置かれている生活の環境は、大人たちのそれに負けず劣らず、種々の困難に苛まれているのである。そうした環境を生き延びる上で、知識と勇気は重要な武器となる。そして優れた文学は常に、我々の困難な生に関して、何らかの指針を示す。とはいえ、それは文学の役割が道徳的訓誡に尽きているという意味では全くない。文学は身も蓋もない現実の剔抉を通じて、暗示的な指針を仄めかすだけである。虚構を通じて未知の現実を経験すること、他人に憑依して他人の人生を味わうこと、それが延いては自分自身の困難な人生を乗り超える為の有益な助言となる。こうした観点から眺めれば、ハリー・ポッターの物語は決して荒唐無稽な絵空事ではなく、子供たちの生活と成長に対する重要な支援なのである。

Harry Potter and the Chamber of Secrets (Harry Potter 2)

Harry Potter and the Chamber of Secrets (Harry Potter 2)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック