「よそゆき」の言葉 / 「普段着」の言葉 個人的な文体について
昨年の八月下旬にこの「サラダ坊主日記」というブログを開設して以来、私はずっと「ですます調」の文体で記事を書いてきた。特別に深い理由があった訳ではなく、ブログというメディアを生まれて初めて運営するに当たって、見知らぬ人々に語りかけるのに突慳貪な口調よりも丁寧な「ですます調」の方が相応しいような気がして、その書き方を選んだのだ。
この「ですます調」の文体というのは、今この記事を書くのに使っているような普通の文体とは違って、色々な表現をオブラートで包み込むような効果があり、角が立たないという利点はあるが、論理的な考察などがいまいち奥深くまで切り込めないというか、どうしても他人の顔色を窺うような弱々しさ、物足りなさが払拭出来ないという難点がある。どちらが良いとか悪いとか、一概に決めつけられる問題ではなく、ケースバイケースということになるが、これから暫くの間は「ですます調」で書くのを止めようと考えている。
「ですます調」は、いわば「よそゆき」の言葉で、誰だって自分の家族と会話するときと会社の上司と会話するとき、友達と会話するときとお客さんと会話するときでは、用いる単語の選択や言い方、声のトーンなどが異なってくるのは当然で、それは会話する相手との関係性に応じて規定されるが、同時にそれは「私の言いたいこと」と「実際に私の言っていること」との距離の定め方の問題でもあると言えるだろう。ですます調で語りかける時には、私が言おうとしていることと、実際に言っていることとの間には、距離が開いていく傾向がある。自分自身の個人的な言葉を披歴するのではなく、あくまでも他人にとって聞き易い、受け取り易い言葉に仕立て上げた上で発語する訳だ。
だが、ブログというのは本来極めて個人的なメディアである筈で、そこで綴られる言葉、語られる言葉が「社会性」の仮面を被らなくてはならない義理はない。以前、このような記事を書いたこともあるので機会があれば参照してみてほしい。
これはあくまでも私の「個人的な意見」に過ぎないのだが、個人が運営する無料ブログなどは何らかの商業的な利益に資することが本分ではなく、日頃は誰も耳を傾けることもなく、特別に尊重されることもない極めて「個人的な表現」を通じて、偶発的に「赤の他人」と繋がり合えることに画期的な意義が存する筈なのだ。だから、そういう空間を運営するに当たって「よそゆきの言葉」ばかり使っていると、どうしても自分の「本音」なり「直截な意見」なりを抑圧してしまい、個人ブログの本来的な意義が実現されなくなってしまうのではないか。そのような考えに基づいて最近、私は「ですます調」で文章を書き綴ることから離れようとしているのだ。
無論、「ですます調」で書くのを止めた途端に自分自身の思っていることが極めて精密にトレースされ得るなどと強弁する積りはないが、少なくとも「普段着の言葉」で書くことによって、他人の顔色を窺いながらでは書けなかったような事柄、或いは書くのを無意識に避けてしまったような事柄でも、そこに何らかの具体的な表現を与え得るのではないか、という考えは、今の私にとっては「恩寵」のように聞こえる。何というのだろうか、それは「何故、書くのか」という私にとって根源的な問題とも深い関わりのある話で、何らかの具体的な効用を得るために、例えば大学生がレポートを書いたりサラリーマンが業務日報を書いたりするような次元とは完全に異質な領域で、或る不明確な効用のために書くこと、それは言い換えれば「普段失われている自分自身を取り戻すために書く」ことなのではないか、と思う。普段抑圧され、全面的に開示されることのない「自分自身の思い」とやらに、何らかの形を授けることで、いわば「鎮魂歌」を奏でるように、その得体の知れない「もの」に居場所を与えてやることが、個人的な執筆という営為を支える根本的なモチヴェーションなのではないだろうか。
作家の村上春樹氏は「風の歌を聴け」のなかで、書くことについて「自己療養のためのささやかな試み」という形容をしてみせた。確かにこの控えめな思慮深い定義は「書くこと」の本質に関する適切な指摘であると言える。業務上、実用上の理由に背中を押されて渋々書くのではなく、原稿料を得るために締め切りの期日に鞭打たれるようにキーボードを叩くのでもなく、何らの見返りも報酬もなく、ただ純粋に自分自身の「内なる衝動」に衝き動かされて書くとき、人はきっと満たされない思いを埋め合わせるための「補償」のような積りで、半ば無意識に言葉を紡ぎ出しているのだろう。それが一体何のためになるのか、つまりそこに何らかの有為な「社会的価値」を附与し得る見込みなど微塵も存在しない時でさえ、人は何故か「書いてしまう」のだ。その深甚な症候を、私たちはどのように名付け、定義すればいいのだろうか。考えるため? 世界をクリアに捉えるため? 残念ながら、今の私にはどんな明確な結論も導き出せそうにない。
書くことの本性は「何かを取り戻すため」にあるのではないかという考想は、完全には答えに近づけていないにせよ、それほど的外れでも無益でもない仮説のような気がする。それは日頃実現されていない「本当の言葉」を探り当てるための地道な努力の堆積であり、言い換えれば私たちは普段、当たり前のように「言い損なっている」筈なのだ。自分自身の思いや感情とぴったり精確に重なり合った「言葉」を探し当てるのはとても難しい。口数を増やせばいいというものでもなく、削りに削った挙句に手に入る一滴の「詩的な言葉」が真実を穿つとも限らない。色々な場面で私たちは平気で「誤解」の遣り取りを繰り返している。完全には届き得ない言葉を遣り取りすることは虚しいだろうか? だが、そういう日常的な遣り取りの虚しさに触発されることでしか、書くことの「扉」が開かれることはないだろう。
全然何の結論も出てこないままだが、それこそが「書くこと」の効用だと言えなくもない。書くことは常に「言い損ねる」ことであると同時に「言い直す」ことでもあり、その螺旋的な反復の先に少しずつ、自分自身気付いていなかったような「本当の言葉」が具体的な相貌を現し始めるものなのだ。それは「書くこと」全般に共通して指摘し得る特徴だと思う。例えば私は最近、中上健次氏の「枯木灘」という小説を通勤の行き帰りに少しずつ読み返しているのだが、そこに書き込まれた言葉の連なりはそのまま、中上健次という作家がどうにかして言葉にしようとして出来ずにいた「本当の言葉」へ接近し、到達するための漸進的な努力の証明に他ならないのだ。「小説」というカテゴライズはそのとき、大して意味がない。重要なのは「語り得ないものを語ろうとする努力」であり、苦闘なのだ。
そうして書き綴られ、公開された言葉が予期せぬ反応を惹起することがあるのも、この世の摂理であり、不可避的な「事故」のようなものである。中上健次氏が「秋幸」というキャラクターや「路地」という世界を通じて描き出そうとしたもの、それは「言葉にしなければならない究極の真実」であり、それを言葉に置き換えない限り、彼は自分自身の抱え込んでいる形の定まらない「厖大な思い」に押し潰され、呑み込まれてしまっただろう。そうした「本当の言葉」を語りたいという衝動は、単なる社会的職業区分としての「作家」の役割とは余り関係がない。金のために面白い小説を書くというクレバーな職業性に満足してしまう人間は、中上健次氏が抱え込んでいたような「語り得ないもの」への度し難い執着などとは無縁の、市民的成熟に胡坐を掻いているだけだ。金儲けがしたいなら、作家などにならずとも、もっと利鞘の大きい商売は他に幾らでもある。作家というのは本来、常に結果として「金を儲ける」だけであって、その根本的な動機としては立身出世の野望などではなくて、もっと純粋で個人的な「本当の言葉」への執着だけが存在している。巧く言葉に置き換えることの出来ない、いわば「名状し難い何か」をどうしても暴かずにはいられない衝動だけが、作家という生き物の本質を成しているのである。
余談と脱線だらけの文章になってしまったが、要するに私が言いたいのは、書くことは本来「普段着の言葉」で営まれるべきものだということである。着飾った「よそゆきの言葉」は社会性に奉仕するために存在するが、それでは「本当の言葉」へ辿り着くことなど不可能であるに違いない。そのための試みとして、今後は私も「普段着の言葉」を用いて「サラダ坊主日記」を書いていきたい、という決意表明を趣旨として、この記事を書き終えることにする。