Cahier(愛情・依存・貢献)
*愛情と依存は本質的に異なった感情である筈だが、私たちは極めて容易に両者を混同してしまうし、感情だけの次元に脚光を浴びせてみれば、それほど決定的な差異が介在しているようには見えないのも事実である。
人間は生きていく上で実に様々な対象に向かって偏執的な依存を行ない、その泥濘に果てしなく耽溺してしまう。先刻、仕事から帰宅して、食事を取りながら漫然とテレビの画面を眺めていたら、耳慣れない「クレプトマニア(kleptomania)」という単語が登場した。日本語に訳した場合は「窃盗症」と称するらしいが、要するに「盗む」という行為に対して異常な執着と依存を示す精神的な障碍の一種であるらしい。そのテレビに映し出された、かつてクレプトマニアであった中年の女性は、雪の日も、骨折していたときも、何軒もスーパーマーケットを駆け巡って夥しい量の品物を窃盗していたそうだ。そこまで行き着くと、盗癖は最早、単なる経済的な理由によるものとは言えなくなる。
傍目から見れば、冷蔵庫の蓋が閉まらないほどの厖大な食糧品を盗んで、揚句の涯には腐敗させてしまうほどの異様な窃盗を常習的に繰り返す人間の姿は、理解し難い奇行に類するものとしか思えないが、本人の精神的な構造においては、そうした窃盗行為は重要な価値を担っているのだろう。その症状の発生の機序に就いては生憎、審らかにしないが、対象が何であれ、人間の精神が常軌を逸した「依存」の症候を示すことは、案外に普遍的な現象であるようだ。その衝迫が例えば「人間」に向けられた場合、異様に偏執的な「愛情」が発生する訳だが、それは厳密には「愛情」という言葉の定義とは全く無関係である。
依存というのは、自分で自分の精神を支えられない為に、何らかの外在的な「基盤」を熱烈に切望する状態を指している。従って、依存の背後には必ず精神的な退嬰の現象が控えていると言い得る。自力で自分の精神を支えると言っても、それが如何なる手段によるのか、という設問に答えることは無論簡単な作業ではない。だが、そのような「自立」を志向しない限り、人間はあらゆる種類の「依存」の誘惑から逃れられなくなる。
自立という言葉の定義を、単なる絵空事や言葉の戯れではなく、実質的な意味を持った、生々しい観念として体得するには、相応の現実的な悪戦苦闘が不可欠である。その為には先ず、自分が如何に自立していないか、他者や物質に頼り切った状態で日々の生活を遣り過ごしているか、それが如何に無惨な堕落を齎しているか、という酷薄な真実を痛いほどに実感することが必要であると言えるだろう。依存の渦中にあるとき、私たちは己の「自立」の決定的な不足を絶対に理解しない。自分が依存的な人間であるという痛切な自覚を経由せずに、「自立」とは何かという問い掛けに進むことは原理的に出来ないのである。
だが、自立することと、誰かを本当の意味で愛することとの間には、絶対的な連絡性が存在している。自立しない人間は、誰かを愛している積りで、単に依存的な立場を寡占し、自堕落な要求の羅列を叫び立てているだけに過ぎない。それが赤児の心象であることは論を俟たない。自立することは、他者に貢献することと同義であり、他者に貢献することは他者を愛することの本義である。自立しない限り、人を愛することは出来ない。そして人を愛することは、単に自身の価値観や嗜好に応じて、他者を審美的な観点から品評することではない。人を愛することは、自分の所有している何らかの価値を相手に分け与え、共有することである。言い換えれば、依存的な人間が発揮する愛情は単に、吝嗇な略奪に他ならないのだ。