サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(三島由紀夫「禁色」・恋情・倫理)

*昨年の暮れから読み始めた三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)だが、丁度仕事の最も立て込む時期に重なった所為もあって、なかなかページを繰る手が捗らない。決してつまらない訳ではなく、底意地の悪い心理的解剖が丁寧に積み上げられて面白いのだが、やはり頭を使わないと、理解に空白や欠落が生じてしまう性質の文章なので、疲れているときには手に取る意欲を奮い起こすのが難しいのである。私生活でも色々と多忙であったので、読書の速度は未だに緩慢なままだ。

 それでも、この「禁色」が、三島由紀夫という作家にとって極めて重要な作品であることは、たった百ページしか読み進んでいない段階でも、明瞭に了解することが可能である。「同性愛」と「演技」という主題は、彼の出世作である「仮面の告白」の中に濃密な痕跡を刻み込んでいる。「禁色」が、その更なる発展と拡大の成果であることは議論の余地がない。あらゆる女の琴線に触れずにはいない、絶世の美貌の持ち主である同性愛者の男を主役に据えることで、三島が追究しようとするのは、いわば「仮面の生理学」のようなものであると、一応は呼び得るだろう。「仮面」を被らずには、普通の生活を送ることさえ許されない運命を背負った男の実存を丹念に描き出すことで、彼は如何なる悪魔的な結論を目指しているのか。暫く時間が要るだろうが、自分のペースで確りと読んでいきたい。

 

*人を愛するということは、それほど簡単なことではない。無論、誰かに単純明快な好意を懐くということ自体は、極めて容易である。だが、誰かを素朴な意味で好きになるという経験的な事実と、人を愛するという倫理的な感情との間には、必ずしも滑らかな関係性が組み込まれている訳ではない。一つの愛情が、別の愛情に対する残虐な暴力として作用するということは、誰の身の上にも起こり得る陰惨な茶番である。

 愛するがゆえに、愛情を断念するという奇怪な逆説は、単なる感情的な好悪とは次元の異なる問題に属している。それは、一種の動物的な愛情の応酬、或いは、肉体的な愛情の交歓とは異質な、もっと抽象的で観念的な現象である。肉体的な愛情には、倫理という観念の立ち入る余地が原理的に認められない。それは肉体的な愛情が倫理に反するものだという意味ではない。肉体的な愛情そのものに、倫理的な観念を要求するのは無意味であるということが言いたいのだ。

 だが、愛情は時に、肉体的な愛情の禁止さえも、愛情の一環として、必要な過程の一部として要求する場合がある。愛情は、眼に見える、具体的な形を備えた個物ではない。それは人間が、全身全霊を費やして悩み抜いた末に漸く、その断片を捉えることが出来るような、壮大な「思想」であり、「信仰」である。徹底的に考え、理解しようと試みる強烈な意志だけが、単なる動物的な愛情を、人間的な愛情へと昇華させることが出来る。真の愛情は、単なる官能的な悦楽の領域に留まるものではない。重要なのは、相手の幸福を願うことである。その願いが、別の人間の幸福を残酷な仕方で毀損する場合があるという、酷薄な浮世の現実に直面したときには、私たちは一つの重要な決断を下すしかないだろう。「好意」という感情を、愛情は綜合的な視野に立って包摂している。単なる「好意」の応酬だけでは、そのような綜合的視野を獲得することは、困難であると同時に不充分である。