サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「盛岡・小岩井」 其の三

 盛岡旅行の二日目は、小岩井農場へ遊びに行く計画であった。朝の九時に盛岡駅の東口を発車する路線バスに搭乗せねばならない。早起きしてホテルでビュッフェ形式の凡庸な朝食を摂り、チェックアウトの手続きを済ませて、晴れ渡った午前の街並へ繰り出す。

 バスの案内所で小岩井農場までの片道のチケットを買い、一〇番線の乗り場に並ぶ。やがて到着したのは、内部に座席がぎっしりと列なったマイクロバスのような車体で、畳んだベビーカーを保管するスペースもない。観光バスのように大きな荷物を格納するスペースもサービスもない。この予想外の成り行きには閉口した。幸いにして車内は空席が目立ったので、二人掛けの座席の片側にベビーカーを捻じ込むことにした。

 バスは雄大雫石川の流れに沿って国道を走り、緩やかに迫り上がる地面を踏み締めて、徐々に山奥へ分け入った。途中、JR小岩井駅の駅舎を経由する。如何にも辺鄙な土地に相応しい、小振りで簡素な駅舎である。千葉の田舎にも、こういう駅舎は沢山ある。曲がりくねる山道を登り、やがてバスは広大な駐車場へ辿り着いた。「小岩井農場まきば園」の表玄関である。切符を買って改札を通り、緑色に燃える芝生の広がる園内へ足を踏み入れる。未だ十時にもならないというのに、陽射しは既に灼熱の温度である。

 正門を入って直ぐの場所で、中年の女性がタオルで汗を拭いながら客を待ち受けている。傍らには乳牛の柄の長椅子があり、愛らしい縫いぐるみが整列している。要するに記念撮影をして、カメラマンの撮った写真を売りつけようという商いに従事しているのである。無論、我々はその誘惑に引き摺り込まれた。私は写真を撮られるのが余り好きではないが、こういう場面で写真撮影のチャンスをスルーするという選択肢が妻の脳内に存在していないことは理解している。従って、拒絶という選択肢はない。娘を膝に抱えて、眩しい青空に眼を細めながらファインダーを見凝める。仕上がった写真の中の娘の顔は、頗る不機嫌そうに見えた。起き抜けで未だ調子が出ないのである。

 暑さに堪えかねて、未だ何もしていないのに早速ジェラートを喰らう。遮るもののない農場の芝生は青々と萌えて、陽射しに燦々と灼かれている。その芝生の周辺を周遊するトラクターが運行されていたので、とりあえず乗る。ドライバーの女性が園内の簡単な説明を行なう。遊歩道で繋がれた隣の敷地に牛舎があり、別のトラクターでそこまで連れて行ってくれるらしい。徒歩で向かうと十五分余りの時間を要するという。到底、この暑熱の中でベビーカーを押して十五分も歩く気力はない。未だ午前中なのに、既にない。我々はトラクターに乗って、ゆっくりと隣の敷地へ移った。忽ち、動物の臭気が膨れ上がって我々の鼻腔を悉く塞いだ。古びた牛舎が幾つか見える。

 娘を抱えて、大きな換気扇の回転する乳牛用の牛舎に入る。どの牝牛も夢中で飼葉を喰らい、喉を鳴らして水を飲んでいる。噎せ返るような獣の臭いが充満している。娘はそれほど動物の生態に関心を示さず、直ぐに「いこ」と呟いて移動を促す。別の牛舎には仔牛の群れがいたが、それにも余り興味を持とうとしない。空調の利いた小さな記念館に入ると、そこでは嬉しそうに走り回っている。

 一通り見物してから、再び現れたトラクターに乗って元の敷地へ引き返す。農場の運営する大きなレストランで早めの昼食を摂ることに決めた。要するに暑さに堪えかねたのである。午前のレストランは未だ昼時の混雑を迎えておらず、涼やかに閑散としていた。私はデミグラスソースのオムライスを、妻はトマトソースのオムライスを、娘はキッズプレートを注文した。序でにハロウミチーズのステーキという珍しい品物を頼む。咬み締めると弾力があって、洋風の練り物のような味わいである。なかなか美味しい。乳製品ゆえのコクを感じる。

 食事の後は土産物を商う売店を暫し冷やかして、再び夏の陽光が降り注ぐ農場へ舞い戻った。アスレチックなどの遊具が設置された場所に差し掛かると、娘が俄然好奇心を掻き立てられて騒ぎ出す。シーソーや滑り台やブランコで遊ぶと、大汗を流しながら満面の笑顔で声を立てて歓ぶ。彼女が熱中症にならないか、不安で仕方ない。

 園内の片隅にはトロ馬車というものがあった。軌道を敷設して、その上を馬車が進むのである。馬車鉄道とも称するらしい。中年の物静かな男性が馭者を務め、環状の軌道を、虫除けの白い布に胴体を覆われた巨大な馬の曳く客車に揺られて一周する。途中、馭者が何かの気配を察知して塵取りのようなものを取り出し、老い牝馬の臀部に宛がった。やがて尻の穴から夥しい量の尿が濫れ出した。それを塵取りで受け止めるのである。娘は眼を丸くして「おしっこしてるね」と言った。再び馬が歩き出すと、馭者は塵取りを少しずつ傾けて、軌道の脇に尿を捨てていた。

 来た道を引き返し、再び暑さを避けて今度は喫茶店へ入った。アイスコーヒーと一緒にチーズケーキを食する。娘は冷たい新鮮な牛乳をごくごく飲んだ。日焼けした顔に汗が滲んで、如何にも快活な子供の顔をしていた。