サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「盛岡・小岩井」 其の四

 小岩井農場の涼しい喫茶店で軽食を済ませた後は、土産物売り場を見物して幾つか日持ちのする菓子を購い、腕時計の文字盤に急かされるように正門を出て、待合室で路線バスの到着を待った。予定よりも一本早い、盛岡駅まで直行する便である。

 行きの便はマイクロバスのような構造の車体であったが、帰りの便は普通の路線バスであった。ベビーカーを折り畳み、優先席に腰掛ける。娘は妻が膝の上に抱えて座った。

 東口のロータリーでバスを降りると、再び猛烈な暑気が総身に纏わりついた。燦々たる午後の日光が膚を舐め回すように焼き払う。西口の観光バス用の発着場へ、今夜投宿するホテルの送迎バスが来るまで、一時間以上の猶予があった。

 市街地へ出て観光するには中途半端な猶予である。鉈屋町という界隈に古い歴史的な街並が保存されているとガイドブックで読んだので、行ってみたい気持ちもあるのだが、いかんせん盛岡駅から交通の便の悪い場所にある。徒歩で往復するのでは、恐らくバスの時刻に間に合わない。諦めて駅ビルに入り、タリーズコーヒーで時間を潰す。娘はベビーカーに横たわってすやすやと眠っている。農場で直射日光を浴びながら随分と躁いだから、疲れたのだろう。比較的、深い眠りである。

 定刻が迫り、エレベーターで駅ビルの二階へ上がり、駅のコンコースへ出る。コインロッカーに預けておいたキャリーバッグを回収し、東西自由通路を渡って西口のロータリーへ出る。二九番乗り場はロータリーの端にあり、見れば既に巨大な観光バスが停まっていた。男性の運転手がバスの外に佇んでいる。嵩張る荷物を車体の脇腹にある収納スペースに預かってもらい、閑散たる車内へ乗り込む。年配の乗客が数名いるだけで、耳障りな話し声も聞こえない。定刻を迎え、バスのドアが自動で閉まる。傾いた橙色の陽光を浴びて、バスは再び雫石川に沿って我々を鶯宿温泉の方角へ運び始めた。

 少しずつ山深くなっていく景色の中に、巨大な湖水が姿を現した。時折樹影に紛れながら、その広範な水面は幾ら進んでも絶えることがない。雫石川との境目にダムを有するその湖は、御所湖と称するらしい。我々を乗せたバスは湖水の縁に沿って延々と西方へ向かい、つなぎ温泉の旅館の群落を左手に見ながら通過して、どんどん山奥へ分け入っていく。

 やがて到着した我々の泊まるホテルは、広大なゴルフコースに隣接していて、敷地の中に四季の花々が咲き誇る庭園を備えていた。ロビーに入ると、前夜に泊まった盛岡市内のビジネスホテルとは比較を絶した広大で立派な眺望が視界を圧倒した。夥しい数のソファと、絨毯を張った緩やかな螺旋状の階段があり、ロビーの床に穿たれた水路には数匹の鯉が悠然と泳いでいる。背の高い女性の係員に案内され、四階の露天風呂付き客室へ通されると、正面の窓から遠くの夏山が見渡せた。荷物を下ろし、座卓の上に置かれた茶菓の塩羊羹を一つ平らげる。娘が欲しがるので少し千切って口へ運んでやったが、余り好みではなかったらしい。

 居間の障子を開け放つと、硝子越しに浴室が出現した。檜だろうか、木製の湯舟に掛け流しの温泉が滾々と注がれて、縁から濫れ出ている。白い玉砂利の敷かれた向こうは隔てのない露天の眺望で、夕暮れの山並みが幾つも連なっている。食事の前に汗を流すべく、我々は仲良く風呂へ入った。妻が洗髪を卒えるのを待つ間、先に湯舟へ躍り込んだ私と娘は、小さな盥と白い樹脂の湯掻き棒を用いて遊んだ。最初は熱く感じられ、冷水を足していた温泉も、慣れれば快適で、殊更に冷ます必要もなくなった。小さな娘は温泉に浸かることよりも、湯掻き棒を振り回すことに夢中である。途中、丈の低い踏み台に登っているとき、湯舟から濫れた湯に足許を掬われ、娘は転んで浴室の床に押し流された。しかし涙一滴零さずに平然としている。両親に似て、意地っ張りな娘である。

 湯浴みを卒えて、別館の地階にあるレストランフロアで夕食を取る。創作和食のフルコースである。私は食べ物の好き嫌いが劇しく、特に魚介類に関しては、魚以外のものは殆ど好んで食べない。けれども折角高い金を払って頼んだ料理である。成る可くなら挑戦して、意外に旨いものだという感想に達したい。

 だが、帆立や海鞘は流石に食べることが出来なかった。私は見た目がグロテスクなものに箸をつけることが苦手で、海鞘なんてとんでもない。イメージだけで、もう無理なのだ。帆立は風味が嫌いで、小学生の頃、給食の八宝菜に含まれている干した貝柱を嗚咽しながら嚥下していたほどである。仕方なく、帆立も海鞘も妻に引き取ってもらった。娘はホテルの出してくれた御飯と味噌汁の他に、フェザンの食品フロアで購入した塩味の唐揚げを食した後、食卓の周りをうろうろと歩き回りながら、時折我々の料理に関心を示して、その一部を頬張った。二歳児には贅沢な夕餉である。

 窓際の席だったので硝子越しに、ホテルに隣接する庭園のイルミネーションが見える。食卓に着く客の数は疎らで、辺りは閑寂な空気に占められている。私は銀河高原ビールというのが気に入り、普段は滅多にビールを飲まない質であるのに、グラスを三杯も空けてしまった。適度に酔っ払って、非日常の安らぎに耽溺する。食後は、黒服の男性が娘の為にアイスクリームを用意してくれた。膝に抱え上げて、少量のアイスを食べさせる。食事が済むと、我々は本館二階の大浴場の傍にある「おまつり広場」という空間へ移った。