サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「金沢・加賀温泉郷」 其の一

 過日、妻子を伴って北陸の中心都市である金沢と、福井との県境に近い加賀温泉郷へ旅行したので、その見聞を備忘の為に記録しておきたいと思う。

 我々夫婦が金沢へ赴くのは此度で二回目である。前回の旅行で金沢には好意的な印象を覚えていた。一回り縮約された京都のような街並みで、一定の範囲内に主要な名所や見所が集まっているのが、観光客には便利である。同じ土地へ何度も旅をすることの良し悪しは分からないが、金沢という都市には、反復を許容する懐ろの深さが備わっているように感じられる。歴史と由緒が随所にあり、古来の明確な名所があり、その一方で駅舎や美術館などの現代的な革新があり、何より人々の具体的な生活がある。過ぎ去った歴史の堆積と、身も蓋もない慌ただしい現代の生活の活気とが混淆している。

 梅雨明けを間近に控えた夏の早朝に、私は眼を覚ました。既に妻は起き出して出発の準備に余念がない。三歳の娘は、昔の早起きの習慣が嘘のように、最近は寝起きが悪くて、その日も居間のクッションに蹲って睡眠の名残を存分に惜しんでいた。

 八時過ぎの北陸新幹線「かがやき」に搭乗すべく、我々は六時過ぎに家を出て、総武線幕張駅へ向かった。津田沼で快速に乗り換え、通勤客で混み合う車内に、娘を片腕で抱え上げて佇む。六時台の電車でも、東京へ向かう車両の中は背広を着た勤人で埋まっている。片手で吊革を握り、片手で十五キロの三歳児を抱えて、東京までの道程を堪えるのは随分と苛酷な時間であった。

 いつものように東京駅のコンコースで駅弁を買い、早く新幹線に乗りたいと訴える娘を宥めながら、我々は蒸し暑い夏の朝のプラットフォームで列車の入線を待った。私が新幹線を電車と呼ぶと、電車じゃなくて新幹線だ、でも新幹線は電車の仲間なんだよ、と娘が注意と教育を施してくれる。丁度、昨年の同じ時期に、我々は岩手県の盛岡へ旅行した。その当時と比較して、娘の弁舌の機能は爆発的な発達を遂げている。段々、論理や物語を操るようになり、場面に応じて声色を用いたり、私の言い分の矛盾を指摘したり、なかなか侮り難い。

 金沢駅到着は午前十時四八分だった。コンコースへ出ると、駅ビルのショーケースに巨大な「ひゃくまんさん」(石川県の観光PRマスコットキャラクター)が鎮座している。バギーを押して、娘をひゃくまんさんの前に連れていく。彼女は、この不可解で煌びやかな金色の達磨がお気に召した様子で、旅行中の三日間、街中でひゃくまんさんを見掛ける都度、大声で我々の注意を促す役回りを自ら積極的に引き受けてくれた。

 金沢駅の東西は、それぞれ「兼六園口」と「金沢港口」と銘打たれた玄関を備え、初日に逗留する予定のホテルは、開発の進む金沢港口の開けた道路に面して立っていた。先ずキャリーケースを預けて、宿泊客へのサービスの一環である北鉄バスの一日周遊切符を受け取る。平日の十一時台で、チェックアウトとチェックインの狭間の時間帯であるから、ロビーは森閑として人影を欠いていた。

 晴れ渡った北陸の夏空から、夥しい陽光が降り注ぎ、あらゆる場所に惜しみなく氾濫している。有名な「鼓門」を視野に収めながら、我々は市内を周遊する観光客向けのバスに乗り込んで、昼餉の為に近江町市場を目指した。娘は未だ生魚を食べないが、折角の旅先でファミレスやファストフードに明け暮れるのも勿体ない。武蔵ヶ辻で降車し、アーケードを戴いた市場の構内へ足を踏み入れる。平日とはいえ、既に小中学校は夏休みに入っているというのに、凡そ四年前に訪れた時と比べると、明らかに観光客の数が少ない。店によっては閑散としているところも多い。北陸新幹線開業当時の熱狂と活気は聊か落ち着いてしまった様子である。

 間口の狭い一軒の店を選んで、我々は急勾配の階段を上がって二階の席へ通された。店頭の看板に記された豪奢なノドグロ丼に魅惑されたのである。一食三千円の高価な昼飯を我々夫婦は味わい、見慣れぬ生魚を嫌がる娘は、おかかの入った巨大なおにぎりを頬張った。ノドグロ丼には熱い出汁が添えられていて、所謂「ひつまぶし」のように食する形式となっていた。私は出汁の茶漬けを余り好まないのだが、保守的な頑迷さを旅先で発揮するのも無益なので、半分くらいは茶漬けにして掻き込んだ。そして少し後悔した。私より食事のペースが遅い妻に、茶漬けにするのは最後の一口二口くらいの分量でいいと勧めると、忠告に応じて総て平らげた後で、妻も同意していた。出汁に浸かると、ノドグロの蕩けるような脂の感触が曖昧に霞んでしまうのである。

 食事を済ませた我々は、暑い夏の日盛りを、橋場町の方角へ向けて歩き出した。有名な「ひがし茶屋街」を散策する為である。丁度橋場町の交差点に差し掛かる辺で、バギーの振動に眠気を擽られたのか、娘は汗を浮かべて寝落ちしてしまった。

 北陸銀行の隣に、小綺麗なモーテルがあり、一階の部分がカフェとなっていた。娘の昼寝という貴重な好機を活かして、我々は閑静な店内で一休みすることにした。余りに街衢の陽射しが劇しいので、疲労が亢進するのである。私はアイスコーヒーを、妻はアイスカフェオレを頼んだ。何れも「ドラフトコーヒー」と称して、黒ビールのように上層の表面を細かな窒素の気泡の塊が覆っている。