サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(成育・自我・素直)

*三月十五日を以て、娘が三歳になった。永いような、短いような、不思議な感覚に囚われている、と月並な科白を書きつけてみる。

 新生児室のベッドに横たえられてすやすやと眠っている生まれたての娘の顔を、大きな硝子越しに眺めた記憶が、今でも鮮明に眼裏へ残っているのに、現に今、寝間に充てている和室の中の娘は別人のように大きい。毎日同じ屋根の下で暮らしていると、その微細な変化の蓄積に気付かないのは、人間の認識に刻まれた宿痾だろうか。何となく、娘はずっと前から今の娘の顔をしているように思ってしまうが、古い写真を見返すと、比較にならないほど幼い面差しで此方を見ている。時々唖然とさせられるほど生意気で饒舌な現在の娘との会話に慣れ親しむと、この子がほんの数年前は単語一つ発声出来なかったという事実が信じ難くなる。

 余所の家の子供と比べてみなければ、精確な判断であるか結論を導きかねるが、少なくとも私の眼には、娘は非常に自我が強く、理窟っぽく、その割に人懐っこい女の子として映じている。日を追う毎に、簡単には親の言い分に耳を貸さなくなっている。何処で覚えたのか、大人顔負けの生意気な言い回しを駆使して、親の指示や言種に反論を試みてくる。自分の欲望を是が非でも貫き通そうとする上に、自分の決めた規則や習慣には異様な執着を示す。

 何でも従順に親の言いなりになってくれれば、子育ては頗る楽だろう。権力で無理矢理に押さえ付けられるのならば、種々の悩みは半減するだろう。だが、子供は親の奴隷でも所有物でもない。親の言うことを何も信用しないのでは困るが、反対に何もかも鵜呑みにされても困る。この兼ね合いの、絶妙な匙加減に何時も苦労を強いられる。

 自我の発達は、親にとっては苦労の種が増える要因となるが、同時に、歓びの源泉でもある。小生意気な言種で自分の要求を押し通そうとする娘の腹立たしい態度は、同時に貴重な成長の果実である。時には母親の口真似で、私を子供のように扱い、諭してくることもある。「だってさあ」という前置きを口癖に、反駁を試みてくる。そういう一つ一つの変化が、着実に刻まれた年輪の紛れもない証明なのだ。

 何時からか、娘は同じ保育園に通っている0歳の子供たちを「赤ちゃん」と呼んで、自分自身に就いては「赤ちゃん」ではなく「お姉ちゃん」の範疇に属するものと信じるようになった。或る日、私が保育園に迎えに行ったときなど、娘は「赤ちゃんがいるから、しーしてね」と声を潜めて囁き、無神経な父親を訓育する素振りを示したほどだ。

 これから、どんな大人に成長していくのか、全く見当もつかない。何に興味を覚え、何を愛し、何を自らの信条として選び取るのか、幾ら想像しても、夥しい可能性の放物線が視野を遮って、答えを攪拌してしまう。兎に角、自分を素直に表現出来る人間に育って欲しいと思う。私の乏しい経験を繙いて確かに言えることは、人間の苦悩や煩悶の過半は、自分の想いを素直に表現出来ない為に生じるものだということだけである。