サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「心拍数」

いつものように

しゃべっていた

仕事終わりの

夜の休憩室で

古いテレビから

足摺岬を蹂躙する台風十号のニュース

暴風域は

おそろしく広い

だけど別に関係ないよな

膝を組んでタバコを吸ってた

缶コーヒーはもう温くなっている

なにかしゃべっていて

なにか答えようとして

テレビから君に視線を移した

予想してなかった

君は頬杖をついて

憧れるように

こっちを見つめていた

キラキラする瞳に思わず焦った

なんだか急に

心の側溝から

栗鼠かなんかが もぐりこんだ感じで

恥ずかしくなって

タバコの煙が染みたふりして

君の目線を避けた

心臓が甘くふるえるんだ

何だろうな

君に彼氏がいるのは前から知ってるし

だからこういう時間は

いわばタバコを吸うような愉しみ程度に

留めておきたいと思ってたんだ

タバコを吸うついでの雑談が愉しいよねって程度に

抑えとかなきゃ

後悔するし やるせないでしょ

だからそんな目で見るなよ

そんなにまっすぐ

こっちを見るなよ

 

普通にしゃべろうと思ったけど

言葉が宙を舞ってる感じで

それでも別にぎこちない空気にはならない

きっと無意識に見つめてたんだろう

それが余計に悪質だよな

はっきり言って

その幸福な笑顔はかわいかったよ

休憩室の切れかかった蛍光灯のしたで

その幸福な笑顔はキラキラしてるから

俺だって見とれたいけど遠慮しておく

さあ いつもの感じに戻ろうぜ

どうせ君には男がいるんだ

 

想うことは

様々な意味の重ね書き

一緒に過ごす時間に

「かけがえのない価値」を見出すのは

勝手な妄想だけどさ

でも その笑顔を眼裏に思い浮かべる度に思うんだ

このありふれた時間は

君にとっても「かけがえのない価値」を

抱きしめるような瞬間であったりしないのかな

 

そろそろ帰ろうぜ

ストイックに

越えられない距離の切なさを黙らせるんだ

今日も疲れたなあとか言いながら空き缶を捨てる

それから何か

くだらない冗談でまた君を笑わせてみる

物まねでも下ネタでも何でもいいから

最後の最後まで

君が女子更衣室のドアの向こうに消えていくまで

笑わせてやる

その笑顔が残像のように

この網膜を焼いてくれますようにと

君はさっき 幸せそうに笑ってたね

ちなみに俺だってほんとうは同じように幸せな笑顔で見つめ返したかったよ

そんなことは口が裂けても言えないけど

でもいっそ

口が裂けてもいいやって思えるぐらい 好きになりたいな

 

坂を転がるように

ハンドルも握らずに飛ばす自転車のように

夏の風を浴びて

毎日すこしずつ近づいている

なにか明確な根拠があるわけじゃなくて

カラダが明るいシグナルを捉えてるんだ

前はそんな風には少しも思わなかったのに

そんな未来を予想したこともないのに

君に男がいることは知っていたのに

時間が積み重なって

笑顔のまぶしさに額を撃ち貫かれたように

だんだん自分を抑えるのが面倒になってきたよ

そんなに素敵な笑顔で

甘ったるくないけど高くて凛と響く女子の声で

呼び掛けられたら

誰だって道を踏み外すでしょ

心拍数が上がるでしょ

 

恋に落ちた後でも

結ばれた後でも

そして別れて連絡が途絶えた後でも

あの夏の夜は何だか忘れられない

未練はもう捨てたけど

あの夏の夜の君はとても素敵だった

今どこで何をしているのか知らないけど

あの笑顔なら男を落とすのは簡単だぜ

 

夏の夜の休憩室で

切れかかった蛍光灯のしたで

ニュースは足摺岬を襲う台風について語っていて

雑談の合間に

ふと君を見た瞬間に

きっと恋に落ちていた

自分は世界でいちばん幸福な人間だと

思い込めるくらいに

輝いていた

遠い夏の夜の

古びた休憩室

Cahier(結婚の社会的機能)

*「結婚」という法的な選択肢を自らの人生に引き受けることの個人史的な背景や経緯は、実に様々である。往々にして、現代の日本人は「結婚」を「恋愛」の幸福な結論として捉える考え方に浸り切っている。それは確かに間違いではないし、「恋愛」から「結婚」へと、私的な領域から公共的な領域へと段階的に、漸進的に移行を遂げることは、人間の社会的な成熟にとって重要な役割を帯びている。

 だが、国法によって規定された「婚姻」という制度の齎す果実を、所謂「恋愛」の良好で建設的な賜物として捉える考え方は、いわば「恋愛の永遠化」としての「結婚」という奇妙にロマンティックな幻想を夢見ることに他ならない。本質的に考えるならば、所謂「恋愛」が「恋愛」としての独自な現象や性質を示す根底には、それが「永遠」という理念への絶対的な「未踏性」を含んでいるという否み難い真理が横たわっているのである。「恋愛」と「結婚」との間に滑らかな放物線を見出すのは、余りにナイーブな信仰の産物であると言わざるを得ない。

 結婚という制度自体が、現代の社会の実情に十全に適応しているかという問題は、既に夥しい数の疑問符によって飾り立てられている。離婚件数も未婚率も、数十年前の日本と比べれば、殆ど異常な数値を示すほどの状況に到達していることを鑑みれば、それが社会的な構造との間に重大な軋轢を抱え込みつつあることは、基本的な事実として承認せざるを得ないだろう。その要因は様々であろうが、それが個人の選択肢の増加という重要な社会的進歩と緊密に相関していることは、概ね真実であろうと考えられる。

 批判的な意見を寄せられることは承知の上で書いておきたい。私見では、恐らく「結婚」という社会的制度の背負っている最も重要で本質的な機能は、子供を養育することである。かつて不妊が離縁の理由になったように、或いは現代においても同性婚の解禁に対する社会の動きが極めて緩慢であるように、子供を産み、育てるという理念の下に、家族という制度、婚姻という制度は法制化されており、それ以外の要素、例えば夫婦の幸福などというものは、結婚という制度自体とは本質的に無関係であると考えられる。

 極端に言えば、子供を持たずに、互いを人生の伴侶として選択し、協力して家庭を築いていくということだけに重点を置くのであれば、殊更に婚姻という制度に固執する理由は、既に薄弱であるような印象を受ける。結婚せずとも同棲することは可能であり、子供を持たないのであれば、婚姻の実態と同棲の実態との間に、それほど多くの相違点は存在しない。にも拘らず、婚姻という生活の形態に対する素朴で幻想的な憧憬が今も根強く生き残っているのは不思議な現象ではないか。

 男女の幸福ということだけを考えるならば、必ずしも婚姻という制度が必要であるとは思われない。だが、生まれてから一人前になるまでに極めて長い期間を要する人間の子供を正しく養育する為には、安定した家庭的環境が整備されることが望ましいのは無論である。

 言い換えれば、そうした婚姻の本質的な役割(「次世代の育成」という重大な使命)を等閑に付したまま、婚姻を男女の幸福に資するものとして捉え、過大な幻想を負託するのは、謬見の一種であるということになる。

詩作 「SOLID MIND」

夢うつつで生きていた

足もとは

いつも宙に浮いていた

想いの強さが

物理的な現実から

私のこころを隔てていたのだ

夏は去り

秋が訪れる

蝉が死に

蟋蟀が啼き始める

慟哭のように

 

おぼれられる限り

おぼれていくような恋に

その胸の苦しさに

どんな必然を信じていたのだろう

優しい笑顔も遠ざかる靴音も

思い出の写真のなかに封じ込められて

遺影のように私の暮らしを黒くふちどる

額縁は傷だらけで

色褪せた写真のなかのすべてに

喪服の私は弔辞をささげる

 

愛し合って別れて

ありふれた経緯に

どんな奇蹟を信じていたのだろう

秋は深まり

冬の匂いにつつまれる

紅葉や銀杏が散り

灰色の幹があらわになる

なつかしく見えるものは未来を阻む

ドアの向こうに

消えてしまった背中に

嘆きの歌は届かないと知っている

知っていても

こころだけ立ち止まって

終電の過ぎ去ったホームに

夏の麦わら帽のように

置き去りにされているよ

 

裁きを与えるものは正義

しかし愛することに正義はなじまない

裁くことは愛をころす手続きだ

正しさはいつでも愛することに敵対している

冷たい刃物が

首筋に押しあてられて

はじめて好きですと告げるような

泥沼の日々に

私のこころは沈められていた

裁きを与えるものは正義だが

愛することには誤謬だけがふさわしい

 

正しい答えを選ぼうとして

思い悩むあなたの長いまつげに

夜露のように飾られた涙を

私はただ美しいと思った

その刹那の純粋な想いだけを

手懸りにして

なぜ人は生きていけないのか

なぜそこに

確かな意味を求めたがるのか

経緯を説明せよ

論理的に述べよ

意図を簡潔に示せ

そうやって車輪は荒れた道をふみこえていく

あなたはそれが苦しかったのか

その苦しさを

私の乾ききった皮膚は痛みとして認識しなかった

 

要約すること

付箋を貼ること

拡大したり縮小したりすること

その果てしない営みのなかで

愛するきもちの温度がうしなわれていく

迷子のように

あなたの魂への帰り道が

夕闇にまぎれてうまく見つけられないよ

差し出した手を

あなたは邪険に振り払うだけで

真昼の太陽のような

無邪気な笑顔はもう私を照り返さない

信号も標識もない

まっすぐな一本道の途上で

私は群青の夜陰に抱かれた

あなたの自転車のベルが

遠ざかっていく

駆けだせない自分の弱さを

否定しても否定しても否定しても

この関係はかわらないだろう

時間が傷をいやすのだとしても

この深い傷口は

時の流れが開いた血の花びらだ

無慈悲な変容が

この真夜中の部屋に月明かりのように射すので

私は今日も寝苦しさに

もだえて

のたうつ

 

さよならさえ

曖昧だった

幕をおろす手際だけが鮮やかで

不器用なあなたには似合わないね

必要でなくなったものを

飼い猫を捨てるように

あなたは寒々しい戸外へ追い出した

私はいつまでも硝子の向こうから見つめていた

傷ついたのは私だけではない

たとえ痛みを感じなくても

あなたの魂にだって

無数の擦り傷が亡霊のように刻まれている

それを知るまで

人はどれほど多くの挫折を

くぐらなければいけないのだろう

答えの出ない路地の行き止まりで

黙って細い月を仰ぐ

この世界に穿たれた

冷えびえとした傷口に似た三日月

詩作 「UNDERGROUND TRACK」

地下のホームで

久々にあなたを見かけた

一年以上経つだろう

人生八十年と仮定すれば

一年の歳月は

一瞬の泡沫にすぎない

だけど

ひとつの泡が生まれて弾けるほどの

短い季節の循環のなかでも

変わっていくものは

ひどく大袈裟に

様変わりしてしまうのだ

記憶の手触りも

だいぶ変遷を重ねてきた

地下のホームの奥まった場所で

あなたはスマートフォンの画面を

俯いて見つめていた

まっすぐな黒髪が

緩やかに浮かぶ

明るい茶色に変わっていた

列車が来るまでのあいだ

私はあなたの横顔を

古びた回想に重ねて

その輪郭を指先で繰り返し

なぞった

 

東京駅の胎内

にぎやかな雑踏の絶えない

地表の世界とは裏腹に

静まり返った午後の地下ホームで

私たちは同じ列車の到着を待っていた

目的地はきっとちがう

だけど同じ列車を待っているその偶然が

私をあの頃の生活へ不意にいざなうのだ

心が静かに痛んでいる

打撲のような

鈍い疼きが

嘗ての幸福のありかを報せる

(警笛のように無音でひびく)

スマートフォンの画面を見つめる

その横顔は

かつては見慣れた

ありきたりの光景だったのに

今は新鮮に見える

数メートルの距離が

私の孤独を痛切に強調する

(フォルテッシモの合図)

 

出逢いと別れは溶接されている

選り好みはゆるされない

はじめて言葉を交わした瞬間から

すでに私たちは遠ざかり始めているのだ

列車の到着を報せるアナウンスが聞こえる

あなたが顔をあげた

私はすぐに顔を背けた

心臓がドキドキする

もう一度盗み見たとき

あなたは呆けたような顔で

列車のいない線路を見つめていた

 

求めても得られないものを欲しがって

泣いたり喚いたり

騒がしい生き物だ

掴めないものにばかり

こころ奪われて

いったい何を望んでいるのやら

千葉行きの列車に乗り込む

あなたと同じ車両に私は移った

平日の午後で

乗客は疎らだ

あなたは誰かの音楽を聴いている

私はあなたの声が聴きたいと思う

 

もう諦めたつもりなのに

あなたの本性は見抜いたつもりなのに

復縁を望む気持ちだって息絶えたはずなのに

なぜ実際にこうして

偶然にでもあなたの姿を見つけると

心が苦しくなるのだろう

この切ない距離が歯がゆくなるのだろう

もう逢いたいとも思わなくなっていたのに

淋しさも麻痺していたのに

少しだけ好きになりかけている人もいるのに

あなたを愛した頃の実感もリアルには取り出せないのに

姿を見ればなぜ

呼吸が苦しくなるのだろう

 

列車が停まってドアがひらくたびに

私はあなたが降りてしまわないか心配して

横目で確かめる

あなたは最初の場所から動かないで

物思いに耽っている

分かっているこんな邂逅に何の意味もない

すべて終わってしまったあとでは思い出なんて生ごみのようなものだ

いずれ腐敗して悪臭を放つことしかできない

知っているけれど視線はあなたを狩人のように狙っている

あなたの急所をさがしている

せめてもう少しだけ

延命させてほしいんだ

この無意味な時間を

この無意味な奇蹟を

 

あなたは依存と愛情を履き違えているように見えた

それを頭ごなしに否定する訳ではないけれど

それが愛しく想えることもあるけれど

私はあなたの依存に力を奪われた

私は様々な言葉であなたに伝えようとした

(言葉は界面活性剤のように果てしなく滑った)

依存が全面的にゆるされないとき

あなたは私の誠意をうたがった

あなたは非情な検察官の眼差しで

二人の絆を点検した

冷淡なロジックを

ナイフのようにひるがえして

あたしの優しく繊細な心を傷つけないで(というナルシズム)

あたしの望むことと

あなたの望むことを

あなたの努力で合致させて(というエゴイズム)

その幼さが可愛く見える瞬間はあっても

それは消耗品の恋愛ではありませんか

結婚したいとあなたは気軽に口にするけれど

消耗品に結婚する資格はありませんよ

子どもが欲しいとあなたは安易に口にするけれど

幼児が嬰児を分娩など聞いたこともない

そしてあなたは私を見限った

理窟っぽくて冷淡で思い通りにならない私を見限った

私はあなたの想い描く理想の鋳型に嵌まらなかった

(ちゃんと形の合う奴を今度あたらしく買って来るわね)

洋服を品定めするように

愛する人をマウスでクリックするのですね

それがあなたの習慣なのですね

だったら破局は免かれない

鍵と鍵穴との

不幸な訣別

 

錦糸町であなたは降りた

私は船橋で降りるからまだ降りない

さよならと呟いてみたが

そのくだらない感傷に

吐き気を覚えた

詩作 「ADDICTIVE GIRL」

求めることに躍起な

麦わら帽子の少女

波間に揺れるヨットの明るい帆が

難破船の残骸のように

ふるえている

苦い薬を飲んだように

少女は険しい目つきで

私の裏切りをなじった

なぜ総てを受け容れてくれないのかと

なぜ完璧な肯定を与えてくれないのかと

怒りと哀しみで

彼女の眦は紅く染まっている

私は口ごもる

完璧な肯定

それに昔の私はあこがれた

その実在を信じて日々を生きた

それが手を伸ばしても

得られない幻想であることを悟って

私は新たな道を歩き出したのだ

 

涙をぬぐう顔は美しい

しかしその涙には

有害な成分がふくまれている

阿片の涙を

あなたはマスカラのように飾りつけて

満たされない孤独におびえている

胸を締めつけられるような想いには

私も覚えがあるけれど

その感情に明るい希望を授けてはならない

あなたの淋しさは

人間の淋しさだ

それを受け容れないのなら

あなたは人間である資格を剥奪される

淋しさは消去されるべきバグではない

それは私たちの生命に組み込まれた至上命令

孤独であることは

生きることの本質にまっすぐにつながっている

 

私を冷たい男と責めるあなたの

乾いた声には聞き覚えがある

かつてそれは別のひとから告げられた言葉で

そのとき私は地獄を這い回った

当たり前の日常から

汚水のあふれる己の魂の深みへ没した

それは投身自殺のような深刻な内省で

私は私自身のみにくさと対峙するために

多くの夜を用いた

私は私自身のみにくさのなかで窒息しそうだった

あの頃の私と今のあなたはどこか似ている

三面鏡のような

不気味な連鎖が

私たちの暮らす世界を閉て切ってしまう

あいがたりないあいがたりないあいがたりない

愛が足りない

酸素のように愛を欲するのは

酸欠のような淋しさに心臓をえぐられるのは

未熟であることの証明だ

自分に足りないものを相手に求めるばかりの

崩れた需給バランス

もっとあいしてもっとあいしてもっとあいして

わたしをひていしないで

否定してるんじゃないんだよ

責めてるんじゃないんだよ

きっと分からないと思うけど

幼いあなたにはきっと分からないと思うけど

 

コントロールされることを

拒む感情が

人間の平凡な生活を

塩酸のようにむしばむ

光がまっすぐに伸びていくように

あなたはまっすぐに私を求めて

得られないものを計え上げて

きっと絶望したんだろう

その絶望に共感できないとは言わない

見覚えのある風景

切実な荒廃

けれど私が譲っても

きっと際限がない

地獄の涯まで

同じ顔の悪魔がついてまわる

麦わら帽子の少女は嘆く

私の冷たい人格をうたがう

もっと大人になりなさい

しかし幼い少女をいくら諭しても

現実の経験が追いつかない限り

彼女は彼女自身を持て余すだろう

 

麦わら帽子が風に攫われるように

あなたは私との絆を断ち切って

空へ舞いあがった

完璧な肯定を求めて?

それは宇宙の最果てにあるのだろうか

何億光年も離れた闇の懐で

少女はそれに出逢えるのだろうか?

Cahier(契機と理由・潜在的なものと本質的なもの)

*或る現象が生じたときに、私たちはそれが生じた「きっかけ」や「理由」を探索し、特定しようと試みる場合がある。だが、これらの二つの観念、つまり「契機」と「理由」との間には、極めて抽象的な次元において、微妙な相違点を孕んでいるのではないかと考えられる。

 例えば、私たちが特定の「ヒト」や「モノ」に特別な愛着を懐くようになった場合、私たちは如何なる「理由」に導かれて、特別な愛着を有するようになったのかを分析しようと企てる。そのとき、私たちは「理由」と「契機」との区別を必ずしも明瞭には意識していない。或る特別な感情が発生するに至った「理由」と、その感情を惹起する際に重要な役目を担った「契機」との区別は、確かに実際の人生の現場においては、然したる意義を有していないかも知れない。だが、私はその区別を厳密に理解することが、本当はとても大切な心得なのではないかという漠然たる予感を今、見出している。

 「契機」とは、潜在的な形で予め存在していた「可能性」のようなものを、具体的な事例へと転換させる際の「引鉄」のような事象を指し示している。特別な愛着、もっと端的に言って「愛情」を懐くようになった経緯には必ず、何らかの偶発的で表層的な現象が介在しているものである。そもそも、そうした「愛情」の発生には、前提として「邂逅」とか「遭遇」といった言葉で表現されるべき偶然性の介入が要請されているのである。だが、それは「愛情」の発生の、直接的な「理由」と称すべきものだろうか。

 或る出来事が「契機」として具体的な仕方で作用する為には、そもそも「契機」を「契機」として成立させる為の本質的な構造が事前に準備されていなければならない。ライターのフリントが炎を生み出す為には、予めライターという着火の為の構造が先行して設計されていなければならないのである。その構造が成立していないときに、ライターのフリントを擦って火花を散らしても、安定した炎が形成される見込みは存在しない。

 あらゆる人間が、例えば「スポーツ」に強烈な関心を寄せるとは限らない。「鉄道模型」に熱中するとは限らない。或いは「情事」に絶望的なまでの嫌悪を示す人間もいるだろう。昨年末から遅々とした速度で読み進めている三島由紀夫の「禁色」(新潮文庫)には、稀代の美貌に恵まれながらも、女性を愛することの出来ない青年が登場するのだが、女に愛される為に必要な資質を十全に備えた男が皆、一様に女との性的な関係を望むとは限らないことも一つの否み難い事実なのである。言い換えれば、そこには「本質的なもの」の次元において、「潜在的なもの」を現実的な事態へ転換させる為の重要な条件が欠落しているのだ。「潜在的なもの」は単に、何らかの「契機」に媒介されることを待ち望んでいる仮定の状態に過ぎない。

 「本質的なもの」と「潜在的なもの」との間に穿たれた決定的な懸隔に就いて考えてみたい。「契機」は「潜在的なもの」を顕在化させる為の、一つの表層的な事象である。それは予め事物の裏面に存在している要素を、可視的な領域へと「移動させる」のだ。「契機」は、既に存在しているものを、不可視の暗部から可視の明るみへ移転させる為の、一つの引鉄に過ぎない。

 だが、或る物事が惹起された「理由」は、そのような「引鉄」の表層的な性質とは次元の異なる問題である。何がきっかけで、その事態や現象が惹起されたのかという問題と、何が理由で、その事象が招来されたのかという問題との間には、微妙な径庭が横たわっている。言い換えれば、「理由」の存在しないところに「契機」は有り得ない。これは両者を結果的に同一視する為の論理ではない。両者の次元が相互に異なっていることを強調する為に言うのである。

 本質的なものは、様々な状況や環境の変化を貫いて、持続的に維持される「原因」のことである。例えば、或る人物を好きになるとき、その過程で作り出される「契機」と「理由」との間には、本質的な差異が介在していると言える。「契機」は、周囲の状況に著しく左右され、安定的な根拠を有さず、時間的な検証の重みに堪え得ない。だが「理由」は、そうした状況の現象的な変容とは無関係に、或る堅牢な構造を保ち続ける。「契機」は偶発的なものであり、「理由」は普遍的なものである。或る潜在的な観念が、明るみに出るかどうかの境目は、絶えず流動的な変化の荒波に晒されている。従って「契機」を「理由」の代行者として転用することは、適切な判断ではなく、殆ど謬見に等しい。「理由」は「契機」ほど鮮明ではないし、簡潔に具体的な仕方で捉えることが非常に困難である。それは寧ろ、様々な「契機」の破綻を経由することで初めて見出される、一つの隠微な「闇」のような存在なのだ。どんな「契機」も、「それ」が出現したことを説明する根拠としては不充分であることが確認されたときに漸く、私たちは「理由」という不可解な暗部を思索の対象に据え始めるのである。

Cahier(愛情・依存・貢献)

*愛情と依存は本質的に異なった感情である筈だが、私たちは極めて容易に両者を混同してしまうし、感情だけの次元に脚光を浴びせてみれば、それほど決定的な差異が介在しているようには見えないのも事実である。

 人間は生きていく上で実に様々な対象に向かって偏執的な依存を行ない、その泥濘に果てしなく耽溺してしまう。先刻、仕事から帰宅して、食事を取りながら漫然とテレビの画面を眺めていたら、耳慣れない「クレプトマニア(kleptomania)」という単語が登場した。日本語に訳した場合は「窃盗症」と称するらしいが、要するに「盗む」という行為に対して異常な執着と依存を示す精神的な障碍の一種であるらしい。そのテレビに映し出された、かつてクレプトマニアであった中年の女性は、雪の日も、骨折していたときも、何軒もスーパーマーケットを駆け巡って夥しい量の品物を窃盗していたそうだ。そこまで行き着くと、盗癖は最早、単なる経済的な理由によるものとは言えなくなる。

 傍目から見れば、冷蔵庫の蓋が閉まらないほどの厖大な食糧品を盗んで、揚句の涯には腐敗させてしまうほどの異様な窃盗を常習的に繰り返す人間の姿は、理解し難い奇行に類するものとしか思えないが、本人の精神的な構造においては、そうした窃盗行為は重要な価値を担っているのだろう。その症状の発生の機序に就いては生憎、審らかにしないが、対象が何であれ、人間の精神が常軌を逸した「依存」の症候を示すことは、案外に普遍的な現象であるようだ。その衝迫が例えば「人間」に向けられた場合、異様に偏執的な「愛情」が発生する訳だが、それは厳密には「愛情」という言葉の定義とは全く無関係である。

 依存というのは、自分で自分の精神を支えられない為に、何らかの外在的な「基盤」を熱烈に切望する状態を指している。従って、依存の背後には必ず精神的な退嬰の現象が控えていると言い得る。自力で自分の精神を支えると言っても、それが如何なる手段によるのか、という設問に答えることは無論簡単な作業ではない。だが、そのような「自立」を志向しない限り、人間はあらゆる種類の「依存」の誘惑から逃れられなくなる。

 自立という言葉の定義を、単なる絵空事や言葉の戯れではなく、実質的な意味を持った、生々しい観念として体得するには、相応の現実的な悪戦苦闘が不可欠である。その為には先ず、自分が如何に自立していないか、他者や物質に頼り切った状態で日々の生活を遣り過ごしているか、それが如何に無惨な堕落を齎しているか、という酷薄な真実を痛いほどに実感することが必要であると言えるだろう。依存の渦中にあるとき、私たちは己の「自立」の決定的な不足を絶対に理解しない。自分が依存的な人間であるという痛切な自覚を経由せずに、「自立」とは何かという問い掛けに進むことは原理的に出来ないのである。

 だが、自立することと、誰かを本当の意味で愛することとの間には、絶対的な連絡性が存在している。自立しない人間は、誰かを愛している積りで、単に依存的な立場を寡占し、自堕落な要求の羅列を叫び立てているだけに過ぎない。それが赤児の心象であることは論を俟たない。自立することは、他者に貢献することと同義であり、他者に貢献することは他者を愛することの本義である。自立しない限り、人を愛することは出来ない。そして人を愛することは、単に自身の価値観や嗜好に応じて、他者を審美的な観点から品評することではない。人を愛することは、自分の所有している何らかの価値を相手に分け与え、共有することである。言い換えれば、依存的な人間が発揮する愛情は単に、吝嗇な略奪に他ならないのだ。