サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「不条理」という観念をめぐる逍遥 アルベール・カミュ「異邦人」に関する読書メモ 1

 最近、アルベール・カミュの「異邦人」を少しずつ読み進めているのだが、なかなか面白い。二十世紀のフランス文学を代表する古典的小説の一つであるという大仰な前評判は、時に幼気な読者を恐れ戦かせ、敬遠させるような危うさを孕んでいると思うが、普通に気取らない感じで着手すれば、読むことは全く苦行ではない。

 未だレエモンの乱闘騒ぎが終わって間もないくらいの件までしか読んでいないので、作品全体の概観のようなものを述べる段階には達していない。だから、断片的に由無し事を綴ろうと思うのだが、例えばネットでアルベール・カミュについて検索を掛けると、彼の文業を「不条理」というキーワードと絡めて論じる記事が数多くヒットすることに否が応でも気付かざるを得ない。私は未だ「異邦人」の純粋な読者としての観点から「不条理」という単語を思い浮かべる段階には達していない。専らムルソーのデタッチメント(村上春樹の作品の語り手を連想させるような)的な態度が目立つばかりである。単なる一介の読者の私的な感想としては、「不条理」という観念は作品に群がる鬱陶しい蠅のようなものでしかない。しかし、何となく「不条理」という観念が重要視される理由は分かる。ムルソーのデタッチメントは恐らく「不条理」という観念と不可分の関係を有しているからだ。

 別にわざわざ「人生」という但し書きをつけなくとも、世の中で生起する諸々の現象全般に関して「意味」など存在しないと考えるのは、それほど奇矯な思想ではない。先日のエントリーで、私は巷間に蔓延する「呪術的思考」の浅薄な因果律について書いたが、そのように素朴な実証主義の思考法が穴だらけの道具であることは論を俟たない。 

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 どんなことも、何らかの原因に基づいて生起していること、それ自体は客観的な真実であり、そこに具体的な因果律を発見することは人類が営々と積み重ねてきた偉大な努力の結晶であるには違いない。だが、その因果律の恐るべき錯綜は、人間の為し得る探求の強度を遥かに上回る絶対的な「暴力性」を帯びている。言い換えれば、世界を構成する様々な現象から「秩序」を抽出するのは、一般的に信じられているほど生易しい話ではないのだ。

 だが、カミュにおける「不条理」の観念は、そういう認識論的な主題である以上に、倫理的な主題であると捉えるべきであろう。世の中の因果律の複雑さは人間の認識的努力が及び得る水準を超過している、という至極平凡な認識を語るためだけに、わざわざ一篇の小説を著す必要はない。彼が問い詰めたいのは恐らく「不条理」の倫理的意義であり、何らかの「物語」によって(それは自然科学の見地から組み立てられた種々の「仮説」や「理論」も含んでいる)物事を覆い尽くそうとする人間の近代的な病(柄谷行人ならば「意味という病」と呼ぶだろう)を否定することであろう。いや、否定という言い方は適切ではない。彼が様々なイデオロギーの表皮を引き剥がすことから、その哲学的な人生を歩み出そうと試みたのは、所謂「不条理」の観念が、彼の魂との間に否定し難い親和性を有していたからであろう。無論、こんな言い方は呪術的な暴論に過ぎないが、そのように考えるとき、ムルソーの異様に冷淡な無関心さは、世界の実相に関する根源的な省察と有機的に結びつき得るのである。

 ムルソーが「太陽の所為で」人を殺したと言い立てるのは、彼が傍若無人で不遜な殺人者であるからではない。彼は素朴な因果律の介在を信じていないし、例えば母親の葬儀と、その翌日の海水浴との間に「非人間性」という「意味」を読み込もうとする社会的な道徳の物語性に、極めて冷淡な態度を選ぶほかない人物である。そのことは、彼の人格的な「欠損」を暗示するものだと決めつけられるだろうか。ムルソーを反道徳的で反社会的な人物であると指弾することが、カミュの文学的野心の「果実」だろうか。そんな筈はないし、ムルソーは少しも非人間的ではない。寧ろ作者はムルソーの独白を通じて「人間の本性」を稠密に描き出そうとしているのだ。誤解を避けるために附言しておくが、それは「人間の暗部」を倫理的に剔抉するということではない。物事の連関に「意味」を見出せないということは、人間の根源的な実相であり、そこに何らかの「意味」を見出すのは客観的実在への探究でも省察でもない。人間はいつも「不条理」に、つまり非合理的に行動し、生活している。それを「条理」によって解釈するのは理性の働きであって、人間そのものの実相とは異質なのだ。その断層に敏感であること、それがムルソーという一見すると怠惰で虚無的な人物に仮託された「人間」の根源的な形象なのである。

 一方、殺人の罪を犯したムルソーを裁く「社会」の側は、彼が感知しているような「断層」に対して無自覚であり、素朴な因果律によって物事を一面的に捉えることへの羞恥とも躊躇とも無縁である。彼らは人間が或る道徳的な「慣習」へ従属することを、人間の「本性」に位置づけているが、それが特定の歴史的文脈に依拠した相対的な規範でしかないことを認めようとしない。そのことが「罪」だという訳ではない。素朴な因果律に基づいて、つまり「呪術的思考」に基づいて社会が運営されるのは、世界中どこでも変わらぬ普遍的な摂理なのである。だが、その「呪術性」に異議を唱えることが封殺されてしまうとなれば、幾分事情は込み入ってくる。

 こういう「不条理」の観念に対する鋭敏さが、何らかの政治的な背景と関わっているであろうことは想像に難くない。フランスの植民地アルジェリアに生まれ、第二次世界大戦ナチス・ドイツの時代を生き延びた彼にとって、特定の派閥が作り上げた道徳的な「因果律」との関係をどのように制御するかという命題は、極めて切迫した政治性を帯びた問題であったに違いないのだ。それを具体的な政治の用語で切り取るのではなく、人間の根源的な「本性」にまで遡行して、精緻な省察を重ねたことに、カミュという作家の卓越した文学性はその淵源を有している。

 

異邦人 (新潮文庫)

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