サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 2

 引き続き、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)に就いての感想文を認めておく。

②「鏡の契約」とナルシシズムの虜囚

 「禁色」において、檜俊輔が企てた女たちへの陰湿且つ残酷な復讐は、南悠一の「絶世の美青年でありながら、女性を愛する能力を持たない」という人間的な特性を利用することで成し遂げられる。だが、この場合の「愛する」という言葉の定義に関しては慎重な見極めが必要である。作者は明らかに「愛する」という言葉に「精神的な愛情」と「肉体的な愛情」の重要な乖離を含ませている。そして、両者を分離しようと試みる心理的な作為の欺瞞に就いて予め注意を促している。それは「禁色」という物語を成立させる為の計算された伏線であり、人工的な布石である。

「いいえ、まだ」――青年は頬を赧らめた。「しかし先生の仰言ることはわかるような気がします。僕はしょっちゅう考えるんです、何故僕は一度でも女を欲したことがないのだろうと。女に対する僕の精神的な愛を欺瞞だと考えるたびに、僕は精神そのものを欺瞞と考える考え方に傾きました。今でも僕はしょっちゅう考えるんです。何故僕は皆と同じではないんだろう、何故友人たちには僕のような肉慾と精神の乖離がないんだろうと」(P50-P51)

 「肉慾と精神の乖離」という言葉は一見すると、同性愛の志向を有する悠一の心理的な窮状を明晰に言い表しているように思われる。だが、厳密に考えてみるならば、必ずしも「異性愛の原理」に抑圧された同性愛者だけが「肉慾と精神の乖離」に苦しめられる訳ではない。異性愛者であっても「肉慾と精神の乖離」を経験することは日常茶飯事であると言うべきであろう。それを同性愛者に固有の問題であるかのように論理的な擬装を施すことによって、俊輔と悠一の厭らしい共謀は初めて成立するのである。

 同性愛という主題に過剰な意味付けを行なうこと、それが作者の文学的な戦略の焦点の一つであることは疑いを容れない。何故なら、作者にとっては「禁圧された性愛」という主題が重要な関心を唆るものであったからだ。だが「絶世の美青年でありながら女を愛さない」という悠一のキャラクターは必ずしも「肉慾と精神の乖離」を意味しない。それだけでは、悠一が俊輔の仕掛けた謀略に荷担するには不充分である。重要なことは、彼が幾らでも自在に女性を誘惑する力を持ち、その審美的な資格に非常に恵まれながらも、女に対する愛情を一切持たないという点に存しており、それは彼の「肉慾と精神の乖離」だけでは満たされない条件なのである。

 南悠一はその美しさに神秘を味わった。これほど青春の精気に充ち、これほど男らしい彫琢の深みを帯び、これほど青銅のような不幸の美しい質量をもった青年の顔が、彼なのであった。今まで悠一は自分の美を意識することに嫌悪を感じ、愛する少年たちの絶えず拒んでいるかのような彼岸の美に絶望を感じていた。男性一般の慣習に従って、悠一は自分を美しいと感ずることを自ら禁じた。しかし今目前の老人の熱情的な讃辞が彼の耳に注がれるにつれ、この芸術的な毒、この言葉の有効な毒は、永きに亘ったその禁を解いたのである。彼は今や自分を美しいと感じることを自分に許した。そのとき、悠一はこれほど美しい彼自身をはじめて見たのである。小さな丸い鏡面の中からは、見知らぬ絶美の青年の顔が立ち現われ、その男らしい唇は白い歯列を露わして思わず笑った。(P60)

 彼が自らの卓越した官能的な魅力(つまり有無を言わさぬ絶対的な「美」)を、俊輔の考案した邪悪な謀の為に使役する為には何よりも先ず、斯様な「鏡の契約」即ちナルシシズムの虜囚となることが必要なのである。女性に対する肉体的な愛情の欠如は、確かに謀略の為の重要な天分には違いない。しかし「肉慾と精神の乖離」が生じている以上は、それだけでは「女に指一本触れぬドン・ジュアン」(P59)の役柄を担い切ることは出来ないだろう。憐憫と共感が、彼に課せられた冷酷な野心を裏切りかねないからだ。だが、絶世の美青年である自分自身だけに向かって愛情を注ぐ主体が完成したならば、そのような如何にも情緒的で人間的な失錯は未然に防ぐことが可能になる。彼は絶対的な魅力によって数多の女性を容易く魅了しながら、しかも全く彼自身は相手に執着することがない(厳密に言えば、執着が皆無という訳ではないが、極めて薄弱なものである。少なくとも、官能的な執着は存在しない)。これが俊輔の企図した陰湿な計画の枢要を成す、悠一の人格的な特性である。

 同性愛とナルシシズムの奇怪な混淆によって、悠一は女性のみならず、あらゆる種類の人間に対する残虐な官能的刺客として暗躍するようになる。彼が愛さないのは女性だけではない。肉慾によって数多の男性と結び付きながらも、彼は恋人たちを斬り捨てることに殆ど痛痒を覚えていない。

『もし最初の夜にしか僕の十全な愛の発露が見られぬとすれば、その拙劣な模倣の繰り返しは、僕自身と相手とを二人ながら裏切ることに他ならない。相手の誠実で僕の誠実を量ってはならない。その逆であるべきだ。おそらく僕の誠実は、次々とかわる相手との最初の夜を無限に連続させた形をとるだろうし、僕の変らぬ愛といえば、無数の初夜の喜びのなかに共通する経糸、誰に向っても変らない強烈な侮蔑に似た一度きりの愛に他ならぬだろう』

 美青年は康子に対する人工的な愛と、この愛とを比べてみた。どちらの愛も彼を憩ませず、急き立てた。彼は孤独に襲われた。(P150-P151)

 「鏡の契約」が、俊輔の悪魔的な甘言によって生み出された心理的な幻影であることは事実だが、少なくとも悠一には、そのナルシシズムを外部から支える社会的承認を確保する為の絶対的な根拠が備わっており、それは俊輔の恣意的な詐術によっては購えないものである。作者は悠一の美しさを、個性に依拠しない「普遍的な美しさ」として描いている(「彼等の美は個性の域を脱していないのに、悠一の美は個性を蹂躙して耀いていたからである」P147)。それは悠一の「鏡の契約」が、単なる滑稽な自惚れに終始してしまうという馬鹿げた事態を回避する為の設定であろう。己の「普遍的な美」を自覚することによって創始された極めて堅牢な肉体的=感性的ナルシシズムは、あらゆる精神的な観念を駆逐しながら、無際限に強化されていき、悠一を苛酷で両義的な「社会的現実」から庇護する役目を担う。そして、悠一を冷酷な官能的謀略の世界へ連れ出していく。だが、作者の主眼がナルシシズムの病態に置かれていたなどと早合点するのは愚かしい。恐らく作者が最も重要視していた主題は「美」というものの特異な性質に関わっている。

 此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」(P680)

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)