サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(自由・面従腹背・闘う勇気)

*最近、改めて「自由」というものの価値に就いて考える時間が多い。

 「自由」という言葉を通じて、私が指し示したいと思っている対象は「何でも自分の思い通りにしたい」という風な、幼稚で独善的な欲望ではない。そもそも無数の時間的、空間的、物理的、社会的な制約に搦め捕られている私たちの内なる欲望が、赤ん坊の欲しがるミルクのように、全面的な充足によって報われることなど、ある筈がない。精々、私たちは自分の身の丈に合った行為しか選ぶことが出来ない。その意味で、被投性に占有された私たちの実存は、無数の「本質」によって制限された、不自由極まりない苦役のようなものである。

 だが、そのような意味での「自由」が手に入らないことを悲嘆するのは、賢明な人間の取るべき態度ではない。私が考えている「自由」とは、単なる欲望の放縦な充足への憧れではない。「自由」とは、言い古された表現だが、自分で選択し、決定したことを、その結果に関わらず引き受ける覚悟を持つことである。それは他人の言いなりにならないという決意であり、他人への無際限な隷属を斥ける勇気を握り締めることである。無論、現実の世界では、他人の指示や命令に一切従わずに生きることは不可能であるし、他人の言い分や思惑に逆らうことだけが特権的な価値を備える理由もない。だが、仮に他人の言い分を受け容れ、その思惑に従う場合であっても、己の正直な感情や思考の中身を忘れないことは、大事な心構えである。

 他人の忠告に耳を傾けることは確かに大切な心得であり、そこから汲み出される現実的な利益は決して小さくない。「傾聴」の精神を失って凝り固まった偏狭な人間が、より良い生を享受することは非常に困難である。だが、どんなに有難い他人の忠告であっても、それを無作為に鵜呑みにするのは奴隷の振舞いであろう。重要なのは、これも言い古された表現であるが、自分の頭で考えてみることだ。どんなに愚かな頭脳であっても構わない。知性の優劣は副次的な、些末な問題に過ぎない。自分の頭を濾過せずに他人の意見や教訓をそのまま嚥下して疑問さえ持たないような態度が、最も悪しき慣習なのである。

 私たちの人生は普通、何らかの「幸福」を求める為の旅路のように看做されている。だが、誰にとっても「幸福」が至高の価値であるという信憑は、様々な自己啓発や宗教を蔓延させる温床であろう。誰が「幸福」を生きることの終極的な目的であると、超越的な仕方で定めたのだろうか? 私たちには、幸福になる権利と同等の重さで、不幸になる権利が与えられている。成功する権利と同等の重さで、失敗する権利を認められている。以前、長谷川豊という人物が、糖尿病患者の人権を毀損するような内容の文章を公表して劇しい批判に晒されたことがあった。彼は糖尿病を患うことを当人の自業自得であると糾弾し、そのような人間を救済する為に公費が使われるのは亡国の沙汰だと声高に言い放ったのである。だが、極論を言えば、人間には病に陥る権利がある。それによって生じる苦しみを引き受けることは当然の前提だが、自業自得だから殺してしまえなどという暴論が罷り通ることを許容する訳にはいかない。人間は何者の奴隷でもない、神の奴隷でさえないという認識が、近代の生み出した最も崇高な理念であることを、安易に忘却してはならない。

*他人の顔色を窺うことがあるのは、人間ならば止むを得ない。何らかの社会的な集団に属する限り、他人の心情を忖度するのは自然な行為である。だが、他人の顔色を窺うことに何の疑念も持たず、それを崇高な、忠実な営為であるかのように考えるのは明らかに謬見だ。己に課せられた主体性から逃亡するのは、それが如何に殊勝な態度に映じたとしても、生きることに対する怠慢ではないか。自分の内なる想いをきちんと確かめてみようともせず、半ば自動的に他人の心情に追随して、その恩寵に縋ろうと試みるのは、飼い犬の根性であろう。たとえ愛する人の言葉であっても、己の信念を踏み躙って従おうとするのは、煎じ詰めれば「愛」という理念に対する深刻な侮辱である。「愛」という感情の成立する根本的な条件が「自発性」に存することは言うまでもない。恋人の思惑や機嫌に阿諛するのは「愛」の条件に叛いているのである。言い換えれば、主体性を持たない人間に誰かを愛する力はない。愛していると言い張る資格も、或いは存在しないのかも知れない。他律的な「愛」は往々にして、華美な虚飾に彩られた怠惰な依存心の変種である。依存心と愛情は全く異質な感情であって、両者の不毛な混同が、地上の様々な悲劇の要因であることは論を俟たない。

 他人の顔色を窺うのならば、堂々と窺えばいい。それを忠誠心や道徳心と混ぜ合わせようとする根性が却って卑劣なのだ。面従腹背が必要ならば、それが面従腹背であることを明瞭に自覚した上で、便宜的な手段として行なうべきである。面従腹背を奇怪な正義と接合することが不潔なのだ。そういう人間は、他人の権威を言い訳にして、奴隷の脆弱な立場を口実にして、極めて不誠実な言動に及ぶに決まっている。そういう人間に、私はなりたくない。少なくとも、私は己の魂を他人に売り渡したくない。魂のない人間には、人を愛する力も湧かないものだ。愛する為には、他人への阿諛追従ではなく、寧ろ他人と格闘する挑戦的な気概が必要なのである。

Cahier(「金閣寺」再読・紀州神話・作家の実存)

三島由紀夫の「沈める滝」(新潮文庫)を読了したので、今は同じ作者の誉れ高き代表作である「金閣寺」(同上)を再読している。きちんと読み返すのは十年振りではないだろうか。改めて、その緊密で観念的な文章の厳密な彫琢に惚れ惚れしている。

 三島が「金閣寺」において追究し、探索しているのは「美」であり「悪」であり「虚無」である。或いは、滅び去るものを美しいと感じる精神的な様態の特性に就いて語っているとも言い得る。彼は「永遠」の象徴のように屹立する歴史的な建造物である金閣寺を焼き払った僧侶の行動に、或る象徴的な共感を覚えて、筆を執らずにいられなくなったのだろうか。美しいものは、永遠不滅のままでは、その真の美しさを開示しないという三島固有の美学的論理には、死臭が付き纏っている。彼は「永遠」を憎み、いわば「永遠」の化身である「日常生活」を嫌悪している。彼が「永遠」を憎む理由は何なのか。この問題は様々な角度から照明を当てることが可能である。例えば、三島の文学を貫く重要な主題である「擬態=仮構=演技」の観点から眺めるならば、演じることは日常生活とは相容れない。演じることは常に束の間の尽力であり、一方の日常生活は、あらゆる演劇的行為を摩耗させる強靭な影響力を、不可避的に発揮してしまう。日常は私たちの作り上げた入念な仮面と化粧を徐々に剥落させていく。そもそも終わりのない演技とは、論理的に矛盾した概念であろう。演じる者は常に終幕のベルが鳴り響く刻限を待ち受けているのだ。演技の本質とは、限られた時間を生き延びることに他ならない。

*「金閣寺」を読み進める一方で、不図思い立って中上健次の作品、別けても「紀州神話」と特筆大書される「枯木灘」を中心に試論のようなものを書き綴っている。私の理解力が足りない所為だろうか、幾ら読んでもその奥深く複雑な作品の世界を咀嚼し、消化し切ったという実感が湧かない。余りに混濁して、余りに幾重にも枝分かれした物語の「組織」に、読解のメスが競り負けて容易く刃毀れしてしまうかのようだ。

 中上健次が「枯木灘」を中心とする諸作品で追究しているのは「系譜」の問題である。人間は生殖の原理に基づいて複雑な血脈の体系を形作り、一つの巨大な「系譜」を建設する生き物である。中上健次がフォークナーやガルシア=マルケスから多大な影響を受けたという事実は、血の「系譜」が齎す惨劇を淡々と描き出し、その悲惨と栄光を普く文字に焼きつけようとする彼の文学の様態によって傍証されている。

*最近改めて感じるのは、三島由紀夫中上健次といった作家にとって「書くこと」は己の実存的な問題との間に極めて緊密で切り離し難い関係を持った営為として存在し、機能していたのだろうということだ。彼らは単に面白おかしい絵空事を文字に起こして読者の歓心を誘い、そこから経済的な利潤を上げる為に筆を執り続けた訳ではない。彼らの情熱の在処はもっと個人的なものであり、その個人的な追究の徹底性が却って、彼らの作品に異様な普遍的性格を賦与することになったのである。作家にとって「書くこと」が「生きること」と密接に結び付いているのは、職業的な特性として考えれば至極当然の結論だと人は言うかも知れない。だが、一口に作家と言っても、彼らのように切迫した実存的理由に迫られて、己の人生を賭してまで、文学の世界に没入し続けるような人種は稀少である。彼らにとって「書くこと」は「生きること」と不可分であるが、世の中には「書くこと」が「生きること」の一環であり、手段に過ぎないような作家も少なくないだろう。無論「書くこと」と「生きること」の不可避的な融合は、必ずしも幸福と安寧を齎さない。彼らにとっては苦しい宿命であった筈だ。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

 

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 3

 引き続き、中上健次に就いて書く。

③「系譜」をめぐる鏡像的な関係性

 人間の生物学的な構造と秩序の内部に根源的な仕方で装填された「性愛」の原理は、否が応でも他者との間に複雑な関係性を織り成す。そもそも「性愛」の根本的な機能である「生殖」の原理自体が、他者という不可解で取り扱いの困難な存在を創出する役割を担っていることは言うまでもない。

 「枯木灘」の全篇を貫いているのは、そのような「性愛」の原理に対する両義的な感情である。秋幸は絶えず「性愛」から逃れようとして、しかもそれが本質的に逃れ難いものであることを、ひしひしと感じ続けている。どれほど「性愛」の原理を嫌悪し、透明な無機物のような存在に己を擬することに憧憬しても、自分が親の血を受け継いで産み落とされた存在であるという根源的な事実を否認することは出来ない。「性愛」が齎す諸々の惨劇を忌避する為に「性器」を斬り落としたところで、その根源的な問題、つまり「他者」の問題を根底から消去することは不可能なのだ。

 自分を透明な存在として捉えること、あらゆる煩わしい人間同士の入り組んだ関係性から切り離されて生きること、それが秋幸の内面を領する主要な衝動であり欲望であることは、作中で繰り返し明示されている。

 海は、秋幸をつつんだ。秋幸は沖に向かった。波が来て、秋幸はその波を口をあけて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と撥ねる光の海そのものに溶ける気がした。空からおちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい。透明な日のように在りたかった。それは土方をしている時と一緒だった。沖に向かいながら、泳ぐ自分の呼吸の音をきき、そのままそうやって泳ぎつづけていると、自分が呼吸にすぎなくなり、そのうち呼吸ですらも海に溶けるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.163)

 だが、実父である浜村龍造の接近は、そのような「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という秋幸の欲望を妨げる。同時に秋幸の内部には、己の来歴に対する関心が、或いは「俺は何者なのか」という問いが形成される。己の来歴を問うことは、己の実存の本質を問うことと密接に通じ合っている。「父」の登場と「来歴」の探究は互いに不可分の関係に置かれているのだ。

 それからコーヒーを飲みながら徹は川遊びの話をした。秋幸は徹の話をきいてはいなかった。秋幸はスナックの窓から外を見た。その男の生まれた有馬は眼と鼻の先だった。山と海にはさまれた土地、このあたり一帯はほとんどそうだった。山は高野にも、奈良にも伊勢にも通じた。山と山が折り重なり、山の切れたところにわずかばかりの土地があり、海がある。そこを熊野と言った。その土地のどこをとっても、日に蒸され、風にさらされ、夏になるときまって台風に襲われ、火事が多く人殺しが多かった。昔からの本によく出てくる伝説の多いところだった。(『枯木灘河出文庫 pp.157-158)

 自分が何者であるのかを知りたいという欲望は、秋幸自身の出生が極めて複雑に絡み合った関係性の中で育まれたものであるからだろう。或いは、彼は明確な「自己」というものを持ち得ない人格の持ち主であるのかも知れない。彼が直ぐに「自然」との幻想的な融合の快楽に溺れてしまう人間であることは、繰り返し登場する「労働」の描写を徴すれば明らかである。言い換えれば、彼の「自己」は余りにも複雑な血縁の絡まりに蝕まれて、或る宿命的な「透明性」を附与されてしまっているのではないか。それが秋幸の抱える実存的な苦悩の根本的な要因ではないだろうか。

 複雑な過去によって明確な「自己」を破壊されてしまった人間として秋幸を捉えるならば、彼が「自然」との幻想的な合一を通じて、いわば「自己の喪失」の快楽を自瀆のように味わうのも自然な現象であると言い得るかも知れない。「自然」との幻想的な合一の愉楽を経験する為には、確固たる社会的な自己の境界線は不要であり、寧ろ障碍となる。己を解体し、その社会的な関係性を悉く切断し、世俗の猥雑な事情を遮断しない限り、無機的な「自然」の領域へ没我的な陥入を遂げることは不可能である。秋幸のメンタリティは、そのような没我的陥入の成立を容易にする特性を備えている。明確な「自己」を持ち得ないということは、自分自身で「私はこういう人間である」という明確な定義を下すことが出来ず、その定義を基軸として己の社会的な実存を構築することが出来ないということである。気付けば直ぐに周りの自然、大地や草木や海の類に自分自身の存在を同化させてしまう秋幸のメンタリティは、あらゆる社会的な規定から逸脱し、不可解な漂流を反復する。

 秋幸は日を浴びて川原に立って、二人を見ていた。浅瀬に堰をこしらえるために洋一が石を持ちあげて運ぶ。様々なことがこの一、二年のうちに起こったのだった。人が様々な噂をしていたのだった。その噂のひとつひとつに自分がかかずらっているのが不思議だった。おれはここに在る、今、在る、秋幸はそう思った。だが、人夫たち、近隣の人間ども、いや母や義父、姉たちの口からついてでる噂や話の自分が、ここにいる自分ではなくもう一人の秋幸という、入り組んだ関係の、あの、人に疎まれ憎まれ、そして別の者には畏れられうやまわれた男がつくった二十六歳になる子供である気がしたのだった。「あの男はどこぞの王様みたいにふんぞりかえっとるわだ」いつぞや姉の美恵はそう言ってからかった。「蠅の糞みたいな王様かい」秋幸は言った。その蠅の王たる男にことごとくは原因したのだった。(『枯木灘河出文庫 p.15)

 或いは、このように言い換えることが出来るかも知れない。秋幸は、社会的な関係性の内部で、様々な観念によって規定された自己、他者の視線によって規定された自己を、内在的な自己と巧く接合することが出来ない性格の持ち主である。彼にとって「噂」のアマルガムとして産み出された幻像のような自己と「ここに在る」自己は必ずしも合致しない。彼は社会的な自己というものを信頼する能力を持っていない。錯雑した社会的な関係性の中に、適切な仕方で自己の存在を配置することが出来ない。この「分裂」或いは「断層」は、如何なる原因に基づいて作り上げられたのだろうか。

 もっと端的に、彼の眼には錯雑した社会的関係に搦め捕られた「自己」の異様な形態が「信じられない」のかも知れない。余りにも「複雑な血のつながり」に呪縛された客観的な自己の様態が、まるで他人事のように感じられるのではないか。この「自己を他人として感受する」という離人症的なメンタリティは、氾濫する「過去」の凄まじい重量によって齎された、いわば精神的な「骨折」の結果である。堪え難い経験の重量が、何処かで彼の内なる「自己」との関係性を骨折させたのではないか。それは秋幸にとっては己の実存と精神を外在的な脅威や抑圧から保護する為の不可避的な戦略だったのではないか。

 周囲が見ている「秋幸」と彼自身が捉えている「秋幸」との間には、乗り越え難い断層が介在している。言い換えれば、彼は何処かで「秋幸」という人間を他者のように眺めている。内在的な自己と社会的な自己との間に設けられた、この顕著な「断層」は、秋幸自身を野蛮で複雑な外界から保護する弁膜のようなものである。

 それは一定の調和を保って、これまで秋幸の生活を庇護してきた。社会的な自己と内在的な自己、彼を取り巻く夥しい数の「関係者」との距離、それは落ち着いた平穏な律動を維持してきたのである。その幸福な「諧和」の崩壊と、それが齎す血腥い惨劇の様相を剔抉することが、この「枯木灘」という作品の重要な主題である。

 秀雄の姿が見えなくなってから秋幸は、五郎によって、自分が二十六歳の今まで、その男やその男の血につながった者と保っていた距離が混乱したことに気づいた。山と海と川に四方を取り囲まれた狭いこの土地で、秋幸は生き、その男も生きる。秀雄もさと子も生きる。(『枯木灘河出文庫 p.177)

 離人症的なメンタリティが支えてきた生活の諧和は、次第に狂い始める。彼が「他人事」のように遠ざけてきた「複雑な血のつながり」が、一挙に堰を切って押し寄せ始めたのである。それは具体的な物語の進行としては、実父である浜村龍造の接近として顕現する。或いは、このように言い換えることも出来るだろう。実父である浜村龍造への抜き難い憎悪と敵意が、彼の離人症的なメンタリティを構築する根源的な要因であったのだと。

 その男龍造蠅の王が、秋幸の実父だった。その蠅の王の周りにはいつも、噂が立ちのぼっていた。大きな男だった。どこの馬の骨やら、と人は言った。或る時、こんな噂が流れた。熊野の有馬の土地に、浜村家先祖代々の碑をたて、元をただせば馬の骨などではさらさらなく、戦国の時代、織田信長の軍に破れた浜村孫一という武将が先祖である、と言いはじめた。人の失笑を買っていた。「金があれば御先祖様までええのんと取り換えできるんかいの」人は言った。「そんなことまでして、町の人の仲間入りをしたいんかいよ」一度その碑を見てやろうと秋幸は思っていた。(『枯木灘河出文庫 p.27)

 実父に対する敵意、恥ずべき悪事に手を染めて成り上がった悪党が自分の実父であるという現実への内的な拒絶、それが秋幸の胸底に離人症的な「切断」を強いる。彼は実父に対する敵意と憎悪を消し去ることが出来ず、結果として彼の内在的な拒絶はそのまま、性的なものへの道徳的な嫌悪にまで拡張され、敷衍される。父親を拒絶すること、母親及び姉の側に立つこと、それが性的な諸観念への抑圧として機能する。同時にそれは「複雑な血のつながり」を自分とは無関係な事象として排斥し、己の内面とは異質な次元、異質な領域に移行させることを意味する。秋幸が「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望に駆り立てられる根本的な原因は、この実父に対する峻拒に関わっている。

 実父に対する内的な拒絶が、彼の離人症的なメンタリティの根本的な原因であり、その「複雑な血のつながり」を「他人事」のように取り扱う姿勢の淵源であるならば、実父の接近が、そのような秋幸の内面的な秩序を瓦解させるのは当然の成り行きである。言い換えれば、実父の接近は「複雑な血のつながり」を「他人事」として捉える秋幸の心理的な機制を根本から崩壊させる事件なのである。秋幸は徐々に外界の現実へ連れ戻され、離人症的な諧和は危機に瀕する。

 一方の浜村龍造は、己の「血のつながり」を捏造することで、明確な「自己」を建設し、その正統性を確立しようと躍起になっている。彼は「存在しない記憶」を拵えることで、己の存在を支えようとする。そうした振舞いを単なる虚栄心の顕れに過ぎないと断定して斥けるのは、生産的な態度ではない。興味深いのは、秋幸の実存と龍造の実存との間に鏡像的な関係性を見出し得る点だ。秋幸は否応なしに背負い込まされた「複雑な血のつながり」を自分とは無関係な事柄として排斥することで己の実存を支えている。一方の龍造は、本来自分とは無関係な歴史的伝承を「血のつながり」の記憶に組み入れることで、己の実存を正当化しようと試みている。二人の精神的形態は見事に対蹠的な関係を有している。彼らの態度は「系譜」に対する拒絶と捏造として鏡像的な対称性を形作っているが、何れにせよ彼らは共通して「系譜」の真実性に対する忠実な姿勢を備えていない。秋幸は龍造の捏造した「系譜」を嘲笑し、龍造は秋幸に向かって「わしの子じゃ」と明瞭に宣告する。

 このように考えてみると、中上健次が「岬」から「枯木灘」を経て「地の果て 至上の時」に至る紀州神話の三部作で一貫して問い続けたのは「系譜とは何か」という主題であったのではないかと思われてくる。そこには無論、作者自身の個人史における「系譜」の問題も関わっていただろうし、被差別部落というものが何故生み出されたのかという歴史的な「系譜」への探究心も介在していただろう。その「系譜」への関心が「私は何故このように生きなければならないのか」という宿命的な被投性への疑問符によって培われた可能性は決して小さくない。中上健次の文業に普遍性が備わっているとすれば、それは「系譜」に対する人間の普遍的な関心によって育まれたものなのだと言い得る。

 秋幸は己の錯雑した「系譜」を否定し、血腥い「系譜」の重力から逃れようと足掻く。一方の龍造は、歴史的な伝承を己の「系譜」に接続し、縫合することによって、己の実存に首尾一貫した体系性のようなものを与えようと試みる。これら二つの鏡像的な潮流が、徐々に接近して混淆の予兆に顫え始める。秋幸がさと子との「近親相姦」の秘密を告白することで実父に痛撃を加えようと企てたのは、それが龍造の信じる正統的な「系譜」への冒瀆であり、侮辱であり、叛逆であると考えたからではないか。

 いや秋幸は、心のどこかに男にむかって言っている声があるのを知った。おまえがおれをつくった性器と同じおれの性器で、おれはおまえを犯した。生涯にわたっておれがおまえの苦の種でありつづけてやる。(『枯木灘河出文庫 p.149)

 この猛烈で混濁した呪詛の独白は、浜村龍造が信奉する「系譜」の正統的な秩序への悪意に満ちた叛逆の響きを伴っている。秋幸は妹を犯し、弟を殺すことで、実父がその頂点に君臨する「系譜」の秩序を瓦解させようとする。彼の敵意は、浜村龍造の司る「系譜」への抑え難い憎悪に基づいているのだ。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 2

 引き続き、中上健次の「枯木灘」と「地の果て 至上の時」に就いて試論を書き綴りたい。

②「枯木灘」の世界を支配する「愛慾」と「淫蕩」の原理

 前回の記事で、私は「枯木灘」の世界において、繰り返し描写される竹原秋幸の「労働」に附与された「神話的な性質」に就いて論じた。同時に物語の進展に伴って、そのような神話的性質の呪術的な効用が徐々に限界へ近付いていく過程に就いても述べた。その「限界」は具体的には、実父であり「蠅の王」と蔑視される(その蔑視には同時に畏怖の念も籠められているだろう)浜村龍造の登場と接近によって齎される。

 秋幸は日に染まり、汗をかき、つるはしをふるいながら、耳に蟬の声を聴いた。幾重にも声がひびきあう蟬の声に、草も木も土も共鳴した。それが自分のがらんどうの体にひびくのを知った。秋幸にはその体の中に響く蟬の声が、なむあみだぶつともなむみょうほうれんげきょともきこえた。フサや美恵から子供の頃きいたように、土方をやり土を掘り起こしながら、いつの日か熊野の山奥に入り込んで修行し、足首を木にひっかけてついに崖からぶら下り、白骨になっても経を唱えつづけていた者に似ている気がした。大きな体だった。日に染まりたい、と思った。そして、ふと、秋幸はさと子の事を思った。それは姉の美恵が、実弘の兄の古市を実弘の妹光子の夫安男が刺し殺すという事件で、心労と過労のため狂った頃だった。その女は駅裏新地で娼婦まがいのことをやっていた。秋幸は二十四歳、兄の郁男が死んだ年齢になっていた。その女が、キノエの娘らしいとは思っていた。キノエの娘とは、秋幸の腹違いの妹のことでもあった。だが、確かではなかった。秋幸はその女に魅かれ、その女を買った。寝た。それから半年ばかりたって或る時、平常にもどった美恵が、駅裏の新地で店を持っているモン姐さんにきき込み、秋幸の腹違いの妹をみつけたと連れて来た。(『枯木灘河出文庫 pp.121-122)

 秋幸は絶えず「日に染まりたい」という欲望に囚われている。その欲望は決まって、彼が自分の血筋に纏わる錯雑した因縁の泥濘を想起し、それによって内面的な苦悩や葛藤を強いられるときに劇しく亢進する。「日に染まりたい」という欲望は、己の存在をあらゆる社会的な関係性から断ち切って純化したいという欲望の隠喩的な表現である。だが、幾ら「労働」の呪術的な効用に頼ろうとしても、彼の生物学的な系譜の中に降り積もり、蓄積した夥しい「因縁」の濃密な重量を、その呪いによって振り払うことは出来そうもない。それは秋幸自身が明瞭に理解し、知悉しているだろう。

 涙をふいたさと子が「兄ちゃん、きょうだい心中でもしよか」とぽつんと言った。

「あほを言え」秋幸は答えた。きょうだい心中とは町中のそこかしこで盆踊りに唄われる音頭だった。兄が二十で妹が十九、という歌い出しだった。兄が妹に恋をし、病の床につき、せめて一夜でも想いを遂げさせてくれと頼む。きょうだいではないかと妹は兄をたしなめるが、兄はきかない。妹は一計を案じた。自分には好きな男がいる、それは虚無僧の姿でいる、それを殺してくれるなら、と言う。兄は夜、その虚無僧を斬る。悲鳴をきき、それが妹であったことを兄は知った。兄は、自分で死んだ。

 秋幸は汗でまみれ日の熱にあぶられた自分の体のどこにその秘密が隠れているのだろうかと思った。眼にか、それとも胸の中にか、性器の中か。秋幸はつるはしをふるった。つるはしは今、腕の一部だった。つるはしで土はめくれた。土を掘るのはそこに家が点在する村から国道に通じるまでの道にコンクリート側溝を造るためだった。雨の日、山からの水が道路にたまり、穴ぼこが出来る。その水を溝に流すためだったが、秋幸は単につるはしを土にふりおろす掘り方が好きだった。日は秋幸を風景の中の、動く一本の木と同じように染めた。風は秋幸を草のように嬲った。秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることも口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつへの愛しさが自分なのだった。秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになむあみだぶつともなむみょうほうれんげきょとも聴こえていた蟬の声さえ、いま山の呼吸する音だった。(『枯木灘河出文庫 pp.122-123)

 自分の存在を純然たる「物質」へ還元してしまいたいというマゾヒズム的な欲望と、そのような自閉的願望を許容しない彼の内なる「血」の問題が、ここでは切迫した息遣いと脈拍を伴って殆ど一枚の絵画のように重ね合わされている。彼の内なる矛盾と葛藤は徐々に高まり、それは今にも堰を切って氾濫しかねないほどの強度にまで接近しつつある。言い換えれば、秋幸は「労働」の呪術的な効用に頼って「血」の錯雑した絡まりを扼殺することの不可能性を悟りつつある。彼は浜村龍造の誘いに乗り、さと子との「近親相姦」の秘密を打ち明けようと考える。それは何故なのか? 浜村龍造に「近親相姦」の秘密を打ち明け、所謂「きょうだい心中」の背徳的な旋律を思い知らせることで、一体如何なる種類の利得が秋幸に齎されるのか? それは「血」の因縁から遁走し、純然たる物質的な存在として「自己」を定義することで、錯雑した因縁による窒息を回避すべく努めてきた秋幸自身の従前の生活を、自らの手で破壊することに通じるのではないか?

 秋幸はその男の顔を見ていた。この男が、二十三年前、「アキユキ」と共同井戸のそばで呼んだのだった。それから男にも、秋幸にも、さと子にも二十三年の時間は流れた。路地や〝別荘〟のそばの家々での噂に、この男の話が出てこない時はなかった。男の二十三年間は路地のフサの家から高台の家に駆けのぼった時間だった。男はいまここにあった。男は五十三歳だった。黒い冬物の生地のような長袖シャツをつけていた。だが乗馬ズボンではなかった。男は顔をあげ、秋幸を見た。一重の眼が秋幸に似ていた。秋幸は男が自分を見ているのを知りながら、男の眼の他に自分を見ているものがあるのを感じた。のぞかれている。噂がまた路地の家々を伝う。秋幸が男の眼に見つめられ、思い出したその噂もそうだった。誰がそれをのぞいていたわけでも、見たわけでもなかった。郁男が「きょうだい心中」のように美恵に恋し、美恵はそれを拒んで実弘と駆け落ちした。根も葉もない噂ではあったが、秋幸には、根のようなもの、葉のようなものが分かった。(『枯木灘河出文庫 p.147)

 それを「色事」と呼んでも「肉慾」と呼んでも構わないが、徹頭徹尾「枯木灘」の世界は、男女の交情の営みが動かす「原理」によって覆われている。「生殖」の原理と言い換えてもいい。「枯木灘」の世界を包囲し、その隅々にまで浸潤している度し難い「愛慾」の有無を言わさぬ影響力に、秋幸は恐らく息苦しさを覚え、愛慾が齎す錯雑した因縁の絡まりに嫌悪を懐いている。それが彼を「労働」の神話的な性質へ依存させ、物質的で無機的な存在へ己を擬することへの形而上学的な欲望を煽動するのである。

 「枯木灘」における事件や悲劇の悉くは常に「愛慾」と「血縁」によって駆動されている。そこには抽象的で透明な関係性、都会的な孤独の旋律は微塵も存在しない。近代的な「家族」の典型的な幸福さえ、余りに目紛しく移り変わる愛慾の不安定な関係性によって覆され、踏み躙られている。「枯木灘」においては、愛慾が総ての人間的な関係を根源から規定し、支配しているように見える。言い換えれば、秋幸が「労働」の神話的な性質に固執する背景には、労働の規律だけが、愛慾の堪え難い「淫蕩な性格」に抵抗する為の基盤として役立ち得ると考えたからではないのか。彼にとって「労働」は男女関係の淫蕩な暗がりを斥ける為の唯一の健全で堅実な「希望」だったのではないか?

 さと子はコップを音させて置き、秋幸の腕をついた。「黙っとらんとあんたも何か言うてよ」と言った。さと子は秋幸の顔を見た。涙が眼にみるみるあふれた。

「あんたもこいつの子やろ?」

「どうか分からん」秋幸は言った。動悸がした。

「わしの子じゃ」男はどなるように言った。「二人共わしの子じゃ」

 その時、秋幸は随分昔からその言葉を聴きたいと待っていた気がした。あのアキユキと呼ばれた時からだった。秋幸は男を見つめた。男はいた。男はまっすぐ秋幸を見つめ返した。その眼が不快だった。蛇のような眼だった。三歳ではない、秋幸は二十六歳だった。喉元に言葉が這い上ってきた。確かにおまえの子だ、おまえからこの胸も眼も歯も性器も半分ほどもらった、だがその半分が嫌だ。男は町で秋幸を見ていた。それは秋幸を見ているのではない。半分ほどの自分を見ているのだ。秋幸は男を消してしまいたかった。男を殴りつけたかった。さと子のように酒に酔っているなら、男を、膳をとび越えて殴りつけたかもしれなかった。(『枯木灘河出文庫 p.148)

 この一節から屈折した父性愛の観念を読み取るのは早計であるように思う。重要なのは、秋幸が自らの体内を駆け巡る「血」を嫌悪するのみならず、浜村龍造が秋幸の中に「半分ほどの自分を見ている」ことに対しても劇しい不快を覚えている点だ。言い換えれば、彼は父親に子供として見られる事実に憤懣を禁じ得ない。何故なら、それは秋幸を独立した個人として、あらゆる社会的な関係性から解除された状態で取り扱う「労働」の原理から切り離してしまうからである。龍造の眼差しは、有無を言わさず秋幸の存在を「愛慾」の世界へ引き摺り込み、強制的に包摂する。秋幸は純然たる自己、血統の問題から切り離された純然たる自己を、龍造の眼差しによって腐蝕されるのである。それは秋幸が「労働」を通じて奪還し、恢復しようとしていた希望への残酷な痛撃である。

 だがこの期に及んで猶、秋幸は単に「労働」の神話的な性質だけに縋るのではない。彼は龍造が象徴する「愛慾」と「淫蕩」の原理へ一矢を報いる為に、さと子との情事の秘密を告白する。無論、それが単なる報復とは称し難い両義性を孕んでいることも、否み難い事実である。

 男は秋幸を見た。

「知っとる」男は言った。「しょうないわい」男はこころもち怒ったような声で言った。

 涙が流れた。秋幸は涙をぬぐった。

 何故涙が流れ出てくるのか秋幸にはわからなかった。一切合財、しゃべってしまいたかった。

「さと子と二人で寝た」秋幸はそう言い直した。言ってからも秋幸の中に、しゃべりたいものが渦巻いている、許しを乞いたい、と思った。許しを乞うため、畳に頭をこすりつけてもよい。いや秋幸は、心のどこかに男にむかって言っている声があるのを知った。おまえがおれをつくった性器と同じおれの性器で、おれはおまえを犯した。生涯にわたっておれがおまえの苦の種でありつづけてやる。秋幸は譫言のように、「さと子と姦った」と言った。秋幸は男が苦しみのあまり呻き叫ぶのを待った。頭を壁に打ちつけて血を流し、秋幸とさと子を別々の腹に作ることになった自分の性器を引き裂き、そぎ落とすのを待った。男は二つの眼を潰す、耳をそぐ。それが父親だった。その父親として、秋幸を打ちすえ、さと子を張り倒してもよかった。(『枯木灘河出文庫 p.149)

 秋幸は「愛慾」と「淫蕩」を象徴する実父に復讐を仕掛ける。自ら淫蕩な行為に手を染めることで、父親の淫蕩な性質を排撃しようと試みる。だが、このような形式の報復が、浜村龍造という鵺のような男を、しかも極めて淫蕩な男の魂を毀損する効果を持ち得るだろうか? 或る意味では、秋幸は男を買い被っていたのである。彼は通り一遍の凡庸な「家族」の原理を、龍造が信奉していると素朴に考えたのだろうか? 彼が極めて淫蕩な男であることは、過去の履歴を確かめれば一目瞭然であるというのに?

 秋幸の目論んだ復讐の告白は、呆気ないほどに効力を示さぬまま潰える。彼の報復の失敗という事実は何を意味しているのか? 何故、彼の復讐は実父に打撃を与えなかったのか? それ以前に問うべきことは、何故、近親相姦の告白が実父に対する打撃になる筈だと秋幸が踏んだのか、という点である。近親相姦という営為に付き纏う社会的な嫌悪に、龍造が屈服するだろうと素朴に信じ込んだだけなのだろうか。

 秋幸は「複雑な血のつながり」が齎す錯雑した悲劇の数々を嫌悪しているが、それは要するに「単純な血のつながり」に対する憧憬の陰画なのではないか? 彼は素朴な「家庭」の原理に対する信仰を懐いているのではないか? だからこそ、そのような「家族」の近代的原理を蹂躙するように次々と女を孕ませた実父の所業が、忌まわしく思われたのであろうし、腹違いの妹との性交という禁忌への罪悪の観念を信じて疑わなかったのではないだろうか?

 ふと秋幸は、その昔、秀雄を水に溺れさせた後、男に呼びとめられた時を思い出した。その時も蟬が鳴き交っていた。男は秋幸を見ていた。だが何も言わなかった。秋幸をとがめはしなかった。さと子と秋幸の事を知ってもそうだった。秋幸は顔をあげ、子供らが三人で裸になり水遊びする青く光る渓流を見ながら、人にしゃべるべき秘密、さと子との秘密は、さと子を抱いた、自分の腹違いの妹と性交した、そんなことではない、と思った。その女は美恵のようだった。それが秘密だ、と秋幸は思った。その新地の女は、秋幸のはじめての女だった。二十四のそれまで秋幸は女を知らなかった。それは姉の美恵が禁じた。繁蔵との逢い引きでフサが行商からの帰りが遅い日、美恵は秋幸を添寝して寝かしつけた。朝、秋幸は美恵の布団で寝ていた時もあった。起きた秋幸を見て、「兄やんみたい」と美恵は言った。小便がたまって秋幸の朝顔の蕾のような性器は勃起していた。「見せて、見せて」と三女の君子が言った。秋幸はへらへら笑い、性器を見せた。「一人前に」と美恵がわらうと君子も「一人前に」と秋幸をつついた。それから郁男が死んだ。郁男と美恵の噂は知っていた。自分の勃起する性器をそぎ取ってしまいたい、と思いながら自瀆し、その自瀆を禁じていると夢精した。その女が、弦叔父が持ってきた噂のように腹違いの妹でもそうでなくともよかった。女であり、腹違いの、父親の血でつながった妹であり、種違いの、母親の血でつながった姉であるその女を犯した。尻を振りたてた。乳房をつかんだ。だがあの男は怒りもしなかった。秋幸の体にひびく蟬のようにわらった。いや、今、秋幸の耳に、その蟬の声は幾重にも入りまじった嘆き泣く声に聴こえた。苦しかった。立ったまま蟬の声に呼吸をすることさえ苦痛になった。誰にでもよい、何にでもいい、許しを乞いたい。(『枯木灘河出文庫 pp.151-152)

 どうやら話はそれほど単純な造作ではないようだ。秋幸の内部には性的なものに対する嫌悪と、それを裏切るように迫り上がる性的なものへの欲望の双方が同時に共存している。だが、少なくとも秋幸の内部では、性的なものへの抑圧が支配的であり、それが彼の「労働」に対する特権的な依存と没入にも関連しているように見える。その禁圧を(姉から科せられた禁則を)食い破り、己の欲望に屈服したことを、秋幸は明瞭に「罪悪」として捉えている。それは一般論としての「近親相姦」に対する禁圧に基づく罪悪の意識ではない。実際、秋幸は「その女が、弦叔父が持ってきた噂のように腹違いの妹でもそうでなくともよかった」と考えているのである。血縁の有無は主要な問題でも論点でもない。重要なのは「女を犯した」という単純な事実そのものであり、その事実に対する罪悪の観念である。性欲を罪悪と結び付ける秋幸の潔癖な道徳性は、何に由来しているのか?

 例えば郁男の自殺の理由は、作中では明示されていない。その悲劇に関する記憶は繰り返し言及されるが、何が真実であるかを、秋幸の立場から見極めることは不可能に等しい。だが、性的な問題が数多の悲劇を生み出す種となったことは客観的な事実である。美恵と郁男との「きょうだい心中」を彷彿とさせる噂、或いは浜村龍造の噂、様々な方面へ「血脈」で通じている性的な人間関係の噂、それらの苦しみの総てが煎じ詰めれば「勃起する性器」に淵源している。性的な行為が数多の悲劇を生み出すという認識、それは「路地」の閉鎖的な共同体においては、決して大袈裟な妄言ではない。

 海は、秋幸をつつんだ。秋幸は沖に向かった。波が来て、秋幸はその波を口をあけて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と撥ねる光の海そのものに溶ける気がした。空からおちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい。透明な日のように在りたかった。それは土方をしている時と一緒だった。沖に向かいながら、泳ぐ自分の呼吸の音をきき、そのままそうやって泳ぎつづけていると、自分が呼吸にすぎなくなり、そのうち呼吸ですらも海に溶けるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.163)

 「性慾」は否が応でも他者との錯雑した関係性を生成し、不可避的に悲劇の「種子」を孕んでしまう。秋幸にとって「労働」は、そのような性的領域に対する抑圧の為の身振りであり、儀式である。だが、この道徳的な意識は結局のところ「他者性」の否認に過ぎないのではないか。「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望を、道徳的なものとして肯定するのは短絡的な考えである。若しも、そのような遁走の欲望が具体的な成果に結び付き得るのならば、そもそも「枯木灘」という小説が書かれる必然性は生じなかっただろう。「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望の道徳的な性質は、要するに「世界」との融合を果たすことで自他の境界線を踏み躙り、無効化しようとする欲望のアモラルな性質の反映に過ぎない。それが「枯木灘」という作品の要諦であるならば、作者は「枯木灘」を小説として仕立てるのではなく、抒情詩として歌い上げるべきであった筈だ。無論、作者は抒情詩を踏み躙る為に「枯木灘」を書いたのである。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

三島由紀夫「沈める滝」に関する覚書 2

 前回に引き続き、三島由紀夫の『沈める滝』(新潮文庫)に就いての感想を書く。

②「快楽」という意味に包摂されない女体

 数多の女と関係を持ちながら、絶えず相手の背負っている「現実的属性」との錯雑した交流を注意深く拒み、自らを「無名の任意の人間」として擬装してみせることに技術的な熟達を有する城所昇は、菊池顕子という不感症の女性と運命的な遭遇を果たす。それだけならば、この「沈める滝」という小説は、漁色家の青年の倫理的な「回生」の物語として要約され得る凡庸な代物に仕上がったかも知れない。だが、三島の屈折した文学的野心は、そのような「家族愛」の近代的ファンダメンタリズムへの無防備な屈服を断じて容認しないばかりか、人工的なまでに態とらしい仕掛けを弄することで、昇と顕子の関係を酷薄な不幸と惨劇へ陥れる。

 しかし顕子はちがっていた。目をつぶって横たわり、小ゆるぎもしなかった。完全な物体になり、深い物質的世界に沈んでしまった。

 焦慮するのは昇のほうであった。彼は墓石を動かそうと努めて、汗をかいた。彼がこれほど純粋な即物的関心に憑かれたことはなかった。よくわかることは、顕子が自分の無感動をあざむこうとしていないことである。彼女は絶望に忠実であり、すぐさま自分を埋めてしまう沙漠に忠実である。この空白な世界に直面して、自分が愛そうと望んだ男を無限の遠くに見ながら、顕子は恐怖も知らぬげに見えた。生きている肉体が、絶望の中にひたっている姿の、これほどの平静さが昇を感動させた。(『沈める滝』新潮文庫 pp.40-41)

 自分が抱いている女の性的な無感動の状態に感動を覚えるという心理的な機制は決して一般的な現象ではないだろう。往々にして男は、相手の無感動を己の官能的な魅力、或いは性的な技術の欠乏として捉え、気鬱を抱え込むものである。それは男から性的な愉楽への切迫した動機を奪い去る。だが、昇は相手が如何なる性的愉悦とも無縁の状態でいることに、凡百の男たちとは異質な意義を読み取るのである。

 このままを抱かなければならない。そう思った彼は、別のやさしさで女を抱いた。

 そのとき昇に、異様な力で、彼の幼年時代が還って来た。再び石と鉄の玩具が与えられたのである。祖父が拾ってきた河底の石や、鉄の組立玩具や、発電機の模型は、彼の両腕の中いっぱいにあった。それらのものを胸に抱きかかえて、昇は腕の強さを自慢した。ああいう玩具の冷たさ、固さ、感情を持たない機械の忠実な動き、子供の指に抵抗を与える重さ、ああいうものは何と好もしかったろう! 石は決して子供におもねらず、堅固な石の世界に住まっていた。鉄は子供の指の力を冷酷に嘲笑し、決して壊れない玩具が彼を囲んでいた。友だちはしょっちゅう玩具を壊していた。昇は分解したり組立てたりすることはできるが、決して自分の玩具を壊すことができなかった。玩具たちは彼の所有物でありながら、彼に属してはいなかった。そういう堅固な別の世界に属するもので、自分の欲しいものを組立てて遊ぶことは、昇の大きな喜びであった。……

 こんなわけで昇は今、女の形をした石像を、記憶のもっとも深いところから生れる親しみを以て抱いていた。彼が愛しているのは絹の優雅や柔軟さではなかった。それは石、明快な物質だったのである。(『沈める滝』新潮文庫 pp.41-42)

  性的な愉悦を覚えない女体を「石像」に譬える三島の筆致に、女性に対する抑圧された憎悪と敵意を見出すのは不当な見解であろうか。少なくとも三島は、不感症の女性が真実の愛に触発されて性的な愉悦を恢復するという、如何にも近代的な異性愛の神話を一向に尊重していない。寧ろ三島は、そのような顕子の変貌を、顕子自身の絶望的な不幸の端緒として設定するという悪辣な筋書きを仕組むことで、近代的な異性愛の神話に冷笑的な鉄鎚を叩きつけているのである。

 昇は顕子の不感症の肉体を「記憶のもっとも深いところから生れる親しみを以て」優しく慈しむ。それは昇が顕子という女性を殊更に愛していたからではなく、彼女の肉体が如何なる愛情とも無縁の即物的な個体として存在している事実に驚いた為の成り行きである。顕子の肉体が如何なる快楽とも無縁であるという現実は、昇の即物的関心を最も純粋な意味で満足させる。いや、こういう言い方は適当ではない。昇にとって顕子という女性が凡百の異性から隔たった特権的な意味を担うのは、彼女の存在を自分の同類であるかのように錯覚した為なのである。

『俺は生活を変えることができる』と昇は確信に充ちて思った。『顕子は俺に訓誡を垂れた。虚無の只中にこんなに自若として横たわること、それがこの女に出来て、俺には今まで出来なかった。石と鉄の世界にかえろう。俺のいちばん身近な、いちばん親しいものに没頭しよう』

 彼は蘇った人のように、床に起き上って下着をつけた。(『沈める滝』新潮文庫 pp.43-44)

 無論、顕子は決して昇の同類ではない。顕子は「石と鉄の世界」から逃れようとして常に失敗し、その絶望の過剰な深甚さに縛られて、止むを得ず「石像」としての自己を受け容れているに過ぎない。だが、昇は顕子のそのような実存の様態に特権的な意義を読み込む。無論、これは昇の側の勝手な都合であり、彼が顕子に対して読み込む特権的な意義の内実は、顕子の側から眺めれば少しも受け容れられるものではないだろう。昇の感動は、女性の肉体に対する即物的関心の極限まで純化された様態である。従ってそれは、顕子が本来希求しているような「愛情」と「快楽」のアマルガムの実現とは正面から対立するものなのだ。この不幸な擦れ違いは最終的に顕子を自死へ追い込む。真実の愛によって肉体的な愉悦に覚醒したと信じる顕子の幸福且つ哀切な幻想は、決して「愛情」と「性慾」を混同しない昇の冷酷な感受性によって裏切られ、その反動で顕子の心は一層深まった絶望の奥底へ屍の如く投げ込まれてしまう。昇にとって「性慾」は相手に対する倫理的な愛情とは全く無関係の、自然科学的な「認識慾」に過ぎず、従って「愛情」と密接に結び付いた女体の一般的な快楽は本来、彼の関心の埒外に位置している。彼が求める女体は「愛情=快楽」の複合的な観念から逸脱したものであることが望ましい。それを理解出来ずに「愛情=快楽」の複合的観念へ果てしなく傾斜していく顕子の悲劇に、作者は極めて冷淡な態度を堅持するのである。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

 

三島由紀夫「沈める滝」に関する覚書 1

 三島由紀夫の『沈める滝』(新潮文庫)を読了したので、断片的な感想を書き留めておきたい。

①「愛情」という観念を信じない男の肖像

 三島由紀夫が「沈める滝」という作品の内部に植え付け、鋳造した城所昇という人物の如何にも観念的な造形には、仄かに「禁色」の南悠一を彷彿とさせる彩色が施されている。昇は悠一のような神話的美貌を作者によって授けられてはいないが、女を愛さないのに女からは愛されるという特徴は瓜二つである。「禁色」の場合には、悠一が女を愛さない理由として「同性愛」という確固たる性的特質が用意されていたが、昇の場合は幾らか抽象的である。尤も、それが本当に抽象的であるかどうかは、断定し難い。何れにせよ、この「沈める滝」という作品の内部に「禁色」と同一の主題の残響が含まれていることは端的な事実であると私は思う。

 昇は未だかつて一人の女と、一度以上夜をすごしたことがなかった。自分の空想力の乏しさをよく知っている昇は、二度目の逢瀬の援けになるその力に頼らなかった。即物的な好奇心だけが彼に愬えた。彼を冷酷だと云えるだろうか。一度だけで人はそんなに冷酷になれるものではない。一度だけでは、捨てたり、捨てられたり、という残酷な人間関係は生じようがない。

 終った行為から離れるようにきわめて自然に、その肉体から、その女の存在そのものから離れること、昇はいつもそれを志し、予め伏線を張り、大抵の場合、その通りになったのである。彼はそこのところをいつも巧くやったので、単なる即物的関心から子供が生れてしまうというような矛盾に、たえて身を縛られることがなかった。

 或る官能に身を委ねることは、昇にとっては知的な事柄だった。一人の特定の女に対する心理的な認識慾なるものの曖昧さをよく承知していた昇は、単なる反復を深化ととりちがえたりはしなかった。感覚に惑溺する才能の持ち合せがなかったので、彼はまるで自制や克己に似かようほど、ひたすら欲望の充足のために、おのれの知的な統制を心がけた。もし認識が問題なら、色事は決して一つところに足踏みしていてはならないし、もし特定の女を愛することが問題なら、色事はとたんにその抽象的な性格を失うのだ。しかしそもそも性慾とは、人間を愛することであろうか?(『沈める滝』新潮文庫 pp.21-22)

 ここには「性慾」と「愛情」を接続する社会的な枠組みへの疑問符が刻まれている。言い換えれば、単なる「性慾」に「愛情」という意味を附与する社会的な観念の体系への疑念が表明されている。それが「禁色」にも通底する重要な主題であることは言うまでもない。「禁色」とは違って「沈める滝」の主役は専ら異性を好むが、女性に対する関係の持ち方は「禁色」の悠一と相似形を描いている。城所昇は典型的な「女誑し」であるが、彼は漁色家であることによって、社会から公認された「異性愛の原理」に抵抗していると看做すことが出来るのだ。

 城所昇は徹頭徹尾「即物的関心」だけに囚われた人物として描写されている。「単なる即物的関心から子供が生れてしまうというような矛盾」という皮肉の利いた言い回しは、彼が単なる性慾に過ぎないものを人間的な愛情と同一視することに関して、極めて禁欲的な性格の持ち主であることを含意している。彼は「官能」が単なる官能以上の何かを意味するようになる種類の観念的な越権を否定している。

 夜のおののき、官能的な燈火、いかなる場合にも勝利を疑わない心、……彼は一人で歩いているとき、明敏な眼差をし、いきいきと呼吸した。昼間のきちんと秩序立てられた整理戸棚のような社会から、夜は完全に脱け出して無名の任意の人間になることの快楽を、おそらく祖父は、生涯知らなかった。祖父は猟といえば、あらかじめ勢子に狩り出させて囲いの中へ追い込んだ獲物を、大ぜいの見物人の前で、金ぴかの弓に矢をつがえて、射てみせることだと思っていたのだ。……(『沈める滝』新潮文庫 p.24)

 「無名の任意の人間になることの快楽」とは、あらゆる事物に名前を授け、意味を刻まずにはいられない人間的社会の制約から解放されることの快楽である。人間は純然たる物質的存在にさえ、何らかの超越的な観念を附与せずにはいられない。それが幻想に過ぎないとしても、幻想によって形作られた「精神」の体系が社会を覆っている以上、超越的観念の接続と支配を粘り強く峻拒し続けるのは至難の業である。城所昇が「ただ単に官能的なものであっても、彼はそれを崇高化したり軽蔑したりして歪めずに、まっとうにそれに身を委ねることのできる稀な若者の一人」(p.8)として描かれ、その特質を強調されるのは、作者の主眼が超越的観念への抵抗、具体的には「異性愛」と「結婚」と「家庭」の組み合わさった近代的な「ファンダメンタリズム」(fundamentalism)への抵抗に置かれていることの露骨な反映であると言い得るだろう。

 昇が即物的関心に固執するのは、言い換えれば「禁色」において「感性の密林」と称された領域に固執するのは、純然たる肉体的なエロティシズムを「結婚」や「家庭」の論理に接続することに抵抗する為である。無論、そのような特異な信念を小説の世界に導入するに当たって、作者は几帳面にも、城所昇の特殊な生い立ちに就いて一頻り説明した上で、物語の本編へ足を踏み入れている。だが、小説としての滑らかで自然な外貌が保たれているかどうかは、敢えて触れずにおきたい。少なくとも「沈める滝」に関して言えば、作者の主眼は作品としての艶やかな仕上がりや洗練された出来栄えではなく、即物的関心に殉ずる特異な男の実存を追求することに懸けられていた筈であるからだ。

 昇には独特の倫理感があった。顕子にせよ、又ほかの有夫の女にせよ、少くとも情事の発端では、彼は一度として「姦通の趣味」などにそそのかされて、行動したことはなかったのである。彼の即物的関心には、その対象のもっているいろんな現実的属性に対する興味は、ほとんどまじっていず、もし昇と附合のあった女の目録を作ってみれば、その階級や環境の雑多さで、昇が決して何らかの趣味に従って行動しているのではないことがわかっただろう。顕子のような特殊な場合は、たまたま昇が一夜ぎりの戒律を破って、彼女の引きずっているくさぐさの現実的属性とも、附合わねばならぬ羽目に陥ったというのにすぎなかった。

 厳密に言えば、彼はそういう現実的属性とまともに附合った憶えはなかった。愛の行為が結婚や姦通と名付けられる一種の社会的行為に敷衍されるそこのところの継目の意識が、昇にはなかった。次元のちがうものを巧妙に継ぎ合わせる技術は、この孤児の若者の心のなかで、いちばん成熟していない部分であった。(『沈める滝』新潮文庫 pp.256-257)

 昇の女性に対する関心は首尾一貫して即物的なものである為に、情事を「結婚や姦通と名付けられる一種の社会的行為」として捉えることが出来ない。出来ないというのが大袈裟であるならば、捉えようという意志が根底的に欠けている。彼は「愛の行為」の意味を即物的な官能の問題に限定する為に「知的な統制」を堅持するような人物である。彼が無機的な自然の峻厳な姿に憧れ、心からの深甚な親しみを覚えるのは、それが本質的な意味で常に「即物的であること」を命じられている存在であるからだ。人間的な尺度を超越した大自然の威容は、当然のことながら人間が捏造した多彩な観念による汚染の被害を受けていない。そこには「現実的属性」と称される非現実的な観念の欠片さえも存在していないのである。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

 

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 1

①「労働」の神話的な性質、あらゆる「記憶=意味」からの離脱

 中上健次は「岬」から始まる所謂「紀州サーガ」を書き上げることによって、時代に冠たる偉大な作家へ成長したと看做すのが、世間に流布する通説である。批評家の柄谷行人は、盟友である中上健次の作品が絶えず、前作の批判的な乗り越えとして紡がれていることを幾度も強調している。確かに「岬」と「枯木灘」との間、或いは「枯木灘」と「地の果て 至上の時」との間には、同じ物語の時系列的な側面からの延長という形式には留まらぬ、或る質的な変貌が必ず埋め込まれている。

 作者の最初の長篇小説であり、屈指の傑作と讃えられている「枯木灘」において、主役である竹原秋幸は幾度も「土方」という労働の没我的な「幸福」に浸っている。土を掘り、シャベルで抄い上げる肉体労働の無際限な反復を通じて、秋幸は四囲に広がる自然との官能的な融合を経験するのだが、その没我的な幸福が定期的に強調されるのは偏に、彼がそのような没我的幸福を許さない厄介な「血」の諸条件に搦め捕られてしまっているからである。つまり「枯木灘」の世界においては、繰り返し執拗に描写される肉体労働の特権的な法悦は、入り組んだ「人間」の血腥い社会からの逃避と安楽という側面を濃密に示しているのである。

 秋幸は二十六歳だった。なにもかも察しはついた。繁蔵はけっして秋幸にこと細かに教えはしなかったが、一つの工事を入札で落とすのにも茶屋遊びがあり裏工作がいる。冠婚葬祭のつけ届けはいる。ただそれにいま首をつっ込みたくなかった。繁蔵のつくった組の経営を引き継いだ文昭と、文昭に請われて現場をまかせられた秋幸の違いを、彼は知っていた。いま見たくない。知りたくない。繁蔵や文昭も、それから美恵の夫の実弘も、あの蠅の糞の王とたいして違わない、と思っていた。彼らと違うためには、まず働くことだ。十九で土方についてから、その考えはいまも昔も変らなかった。日のはじまりと共に働き、日の終りと共に土を相手に体を動かすのをやめる。日に照らされ、光に染められ、季節の景色に染められ、秋幸は自分が一切合財なくなり自由になる気がする。複雑な血のつながりの中にいることは確かだった。だがそれは秋幸だけに限らなかった。文昭も徹も、そして洋一さえもそれ相応に絡みあった関係の中にいる。(『枯木灘河出文庫 p.27)

 この「労働」に対する考え方を単なる道徳的な勤勉さや純粋さと自動的に同一視するのは誤解の素である。「茶屋遊び」や「裏工作」や「冠婚葬祭のつけ届け」に関わりたくないと思う秋幸の心情を健全な道徳性の反映と捉えるべきではない。その道義的な善悪は別として、それらの後ろ暗い不潔な策略の類も明らかに「働くこと」の一環であり、それを賤視した上で現場の労働だけを特権的に扱うのは「偏向」であり、個人的な「信条」に過ぎない。秋幸が「裏工作」を嫌悪するのは、それが「複雑な血のつながり」と似通った特性を有する社会的な領域へ、彼の存在を包摂してしまうからである。彼にとって「働くこと」は「自分が一切合財なくなり自由になる」ことを意味しており、その限りにおいて「働くこと」は極めて清廉で純一無雑の営為である。だが何故、秋幸にとっては「働くこと」が「自己の消滅」と結び付かなければならないのか。「自己の消滅」が何故、重要な特権性を帯びることになるのか。その背景には無論、彼の投げ込まれた「複雑な血のつながり」に関する諸問題が横たわっている。種違いの兄弟姉妹、悪名高い実父、様々に縺れ合った人間同士の錯雑した関係性の中に置かれ、閉鎖的な環境で日々を生き抜いている秋幸にとって、恐らく「労働」は「純粋な自己」への幻想的な回帰を可能にする特別な時間であったのだ。

 秋幸は日を受けて風に色が変る山の現場の景色を見たかった。水に撥ねる光に眼を眩ませたい。秋幸の体がその快楽を覚えていた。そうやって十九以来、この狭い土地で秋幸は暮らしてきた。土の色は秋幸を洗った。つるはしを振りおろして力をこめて土地を掘り起こし、額から流れ目蓋に玉になってくっついた汗で、変哲もない草は明るい緑に光った。風が吹いた。秋幸はいきなり吹く風に喘ぎ、大きく息をした。血と血が重なり枝葉をのばしまた絡まりあう秋幸は、吹く風には一本の草、一本の木、葉と同じなのだった。風を感じとめる草として秋幸は在る。そんな自分が好きだった。いま、むしょうに日を見たかった。日にあたれば、何もかもがはっきりと形を取ってあらわれ、草が草にすぎないと分かるように、秋幸は秋幸にすぎないことが分かる。(『枯木灘河出文庫 p.76)

 秋幸は自分の存在に付き纏う社会的な意味を消滅させたいという切迫した欲望の虜囚である。「血と血が重なり枝葉をのばしまた絡まりあう秋幸」としての自己から、一切合財の「意味」を剥奪したいという衝迫が、彼の内面に「肉体労働の至福」という観念を植え付けているのである。つまり、彼にとって「働くこと」は錯雑した社会性からの解放を伴っているのだ。「秋幸は秋幸にすぎないこと」とは、入り組んだ血縁の閉鎖的な呪縛から解放された自意識の様態である。

 「枯木灘」という作品は、いわば二つの要素の反復的な鬩ぎ合いとして構築され、或る不穏な律動を刻んでいる。秋幸が置かれている錯雑した地縁と血縁の共同体、それに纏わる種々の記憶のパートと、秋幸が労働に精励することで非人間的な自然との幻想的な融合を感得するパート、これらの対蹠的な旋律が交互に現れる。言い換えれば、秋幸の労働の描写は一つの詩的な転調であり、入り組んで混濁した社会的関係性の「休符」のようなものである。

 光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、草の葉、土に当っていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当り、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上ってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。(『枯木灘河出文庫 p.80)

 例えば、この「労働」の幻想的な至福の告白は、恋人である紀子との束の間の逢瀬の後に置かれているが、その逢瀬にも様々な社会的因縁がどす黒い汚点のように混入している。紀子は「旅館に男と泊ったと噂されて」苦悩している。秋幸は「ほっとけ」と繰り返すが、それは自分自身に言い聞かせる科白のようにも聞こえる。「枯木灘」の世界では、人々は絶えず真偽の定かならぬ種々の噂に取り巻かれて、寄生されながら生きているように見える。狭隘な共同体の拘束と制約の中で、彼らは常に相互的な監視の息苦しい圧迫を感じ続けている。ここには近代的な「自由」の理念が通用しない。自立した主体的な個人の権利など、極めて容易に蹂躙され、捨て値で買い叩かれてしまう。素性や家柄や、様々な先天的条件によって有無を言わさず規定される人生の堪え難い閉塞感に、秋幸も紀子も憔悴し切っているのだ。

 秋幸の切迫した遁走への欲望は、彼が抱え込んでいる重層的な「記憶」の巨大な質量によって育まれた、反動的な衝迫である。彼はあらゆる事物の知覚から、日常の些細な経験から、直ちに夥しい分量の「記憶=意味」を抽出して、その厖大な熱量に搦め捕られてしまう。彼の住む世界に純粋な「事物」が存在することは不可能に等しいように感じられる。秋幸が「労働」の営為に期待するのはまさしく、その不可能な夢想であり、あらゆる「記憶=意味」から解除された純然たる事物として、自らの実存を享受することである。だが、労働の特権的な至福は飽く迄も限られた時間と空間の枠組みの中で、束の間の逢瀬のように顕現するだけであり、押し寄せる社会的な意味の凄まじい重量に抗し得るほどの堅牢さは有していない。

 秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。

 日がかげった。(『枯木灘河出文庫 p.107)

 繰り返される労働の描写、自然との幻想的な融合の告白は、徐々にパセティックな強度を高めていくように思われる。それは単純な「気分転換」のような時間ではなく、もっと切実で命懸けの遁走への欲望であり、錯雑した社会的関係から切り離されて「自分が考えることもない一本の草の状態」に耽溺し得ることを必死に信じ込もうとする哀切な努力の相貌を備えている。同様の信仰告白が反復されるほどに、その信仰の不可能性が不穏な予兆と共に立証されていくように感じられる。それは具体的には「蠅の王」と渾名される実父・浜村龍造の接近という形で具体化される。浜村龍造の実子であることは、秋幸にとっては最も忌まわしく抗し難い「記憶=意味」である。彼が最も強く逃れたいと願っている、否み難く厳粛な事実である。

 それはまったく突然だった。その男は、一旦停止をしたダンプカーの前にいた。日に染まって顔が黄金に光っていた。車に乗ってきたらしくサングラスは外していた。「おい」と言った。秋幸が素知らぬ振りをしてダンプカーのハンドルを右に切り、右に曲ろうとすると、男は「兄やんに、ちょっと話があるんじゃ」と言い、歩み寄った。そして振り返り、「こっちへ来んか」と言う。道の際にクラウンのライトバンが停まり、その前に秀雄がいた。秀雄は秋幸の眼を見つめてまっすぐ歩いてくる。

 秋幸はダンプカーからとびおりた。「ちょっと待っといてくれ」と徹に言い、「待っといたら泳ぎにも――」と冗談を言おうとして、顔がこわばるのを知った。徹が、男を見ている。男は、秋幸を見つめている。秋幸は秀雄がダンプカーの腹に手をかけ、体を凭せかけるのを見た。タイヤについた泥を払うつもりか、タイヤを柔道の足払いの要領で払うのを見た。悪意でそれをやったわけではないのにふと、飛んで行って胸倉を摑まえ、その秀雄を投げつけてやりたくなる。(『枯木灘河出文庫 p.109)

 こうした悶着が、秋幸の最も憎悪する「複雑な血のつながり」の齎す惨劇であり、鬱陶しい椿事であることは言うまでもない。彼は懸命に己の質朴な生活を律し、労働に精励することで、こうした錯雑した社会的関係の罠から執念深く逃亡を企て続けるが、それでも彼は徐々に引き摺り寄せられていく。この内的な葛藤はしかし、秋幸の内なる両義性が呼び覚ました事態であるとも言える。本当に「複雑な血のつながり」を嫌悪するのならば、義理の姉たちのように郷里を捨て去り、それこそ紀子と駆け落ちでもすればいいのだ。そういう決定的な行為に踏み出さない限り、彼の巻き込まれている受動的な状況を改革することは不可能である。言い換えれば、秋幸は決して世界の「外部」を想定しようと試みないし、この閉鎖的な環境の具体的な消滅を信じてもいない。彼は結局のところ「複雑な血のつながり」を抹消することが可能であるという信仰には与しないのである。それは何故なのか? 何故、秋幸は自分自身を「複雑な血のつながり」から解放する技術的な手段を発明することに関して、禁欲的な方針を維持するのか?

「何が兄やんな」と秀雄が薄ら笑いをつくりまたチッと音させて唾を吐く。秋幸はその秀雄の顔を見つめ、いきなり自分の体に炎が立つ気がした。何故だか分からなかった。それを筋道立てて分かるには秋幸は、余りに入り組みすぎた関係だった。体の大きなその男蠅の王龍造がここに居る。その子の秀雄がそこに居る。秀雄の兄ではあるが、秋幸は兄ではない。いや腹違いの兄だという気持ちは秀雄と町で出あう秋幸の心のどこかにあったはずだった。

 秋幸は、郁男を想い出した。郁男は秋幸の種違いの兄だった。秋幸はそう思いつき、或る事に思い当り愕然とした。郁男は、今の秋幸と同じ気持ち、同じ状態だったのだ。秋幸は薄暮の中に立ったまま、空にまだある日をあびて、自分の眼が黄金に光る気がした。

 殺してやる。秋幸は思った。郁男はその時、そう思ったのだった。その時の郁男の眼は、今の秋幸だった。郁男は何度も何度も鉄斧や包丁を持って、路地の家から〝別荘〟の辺りにある義父の家へ、フサと秋幸を殺しにきた。秋幸は生き続けて二十六歳になり、郁男は二十四歳で首を吊った。(『枯木灘河出文庫 pp.111-112)

 この逃れ難い「再帰性」の認識は、秋幸にとって致命的な衝撃を孕んでいる。彼は「複雑な血のつながり」が単に鬱陶しいだけの関係性ではなく、人間を根源的な次元で呪縛していることに開眼したのである。歴史は繰り返され、血の惨劇は反復される。それは肉体の内部に刻み込まれ、注入された剣呑な呪詛のようにも感じられる。

 秋幸は徹の話を聞いてはいなかった。男、それが秋幸の実父なのだった。その男とその息子が後も見ず車を発進させた山の夕暮の中にいる。秋幸の半分が顔をあらわしはじめているのだった。いつかその半分ほどの暗闇は光にさらされ、二十六歳の秋幸という体の中に閉じこめられたものがあばかれる。美恵はまた気がふれる。紀子は泣く。それはあの男が、蠅の王たる浜村龍造がことごとく仕掛けたわなだった。さと子との秘密を、男にあらいざらい打ちあけると男はどういう反応をするだろうか? と秋幸は思った。(『枯木灘河出文庫 pp.112-113)

 秋幸は物語の発端から、自分の体内を流れる浜村龍造の血の意味を考え続けている。或いは、その危険な側面を最初から自覚し続けている。彼が「働くこと」に対して過剰なまでの意味付けを施してきたのは、それが「複雑な血のつながり」の齎す災厄への抑圧的な効果を有していたからだ。彼の労働の場面が一種の「儀式」のように描かれているのは、それが内なる「血」の暴力的な高ぶりを鎮める為の呪いである為だ。しかし、浜村龍造との具体的な接触を境として、秋幸は己の呪いの効用の限界に直面し始める。それは単に浜村龍造の「血」によってのみ惹起された事態ではなく、自殺した義兄に関する記憶の新たな「解釈」によっても支えられている。彼は悲劇の再来を予感する。恐らく郁男の縊死は、秋幸にとって「複雑な血のつながり」が招来する惨劇の象徴である。龍造との対面が郁男の自殺の記憶を喚起するのは、それが「血」に纏わる悲劇の再来を予告しているからなのである。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)