サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(感情の濃縮・外界の不在・匿名性)

*感情の濃縮は、逃れ難い人間関係において生じる。時に相手に対する殺意にまで高まるほどの劇しい情念は、容易く着脱し得る合理的な人間関係の内部では充分に醸成されない。成程、確かに世の中には、通り魔による無作為な殺人や暴行の類が頻発している。だが、それが殺害の対象との間に醸成された劇しい情念に基づく凶行でないことは事実だとしても、殺意にまで高まるほどの激越な情念が培われた背景には必ず、逃れ難い閉塞的な関係性の圧力が介在している筈である。

 例えば中上健次の「枯木灘」を読んでいると、その世界が徹頭徹尾「外界との切断」という条件に基づいて構築されていることが分かる。そういう外部の欠如した環境においては、あらゆる人間関係が恣意的な選択の対象ではなく、予め定められた宿命的な因縁として人々の存在を囲繞し、包摂してしまう。どれほど特定の他人を忌み嫌おうとも、或いは逆にどれほど劇しく恋焦がれようとも、既定の関係性に刻み込まれた「宿命」の抗い難い権力に叛いて、自らの実存を構築していくことは不可能に等しい。抽象的で透明な、つまり置換可能な人間関係を夢想することは極めて困難である。その意味では、中上健次の描き出す世界は、安部公房が「他人の顔」や「燃えつきた地図」といった作品で描き出した匿名的な世界観の対極に位置していると言えるだろう。

*昨秋から始めた、三島由紀夫の長篇小説を集中的に読破して感想文を纏めるという計画が無事に完了したら、今度は安部公房の文業に腰を据えて取り組んでみようと考えている。安部公房の作品には、中上的な「外部から隔絶した世界」とは全く異質な世界の手触りが稠密に再現されている。中上の世界では、人間は自由な選択から隔てられ、宿命的な因縁を重たい鉄鎖のように引き摺りながら暮らしている。土地と血統に縛られ、狭隘な閉域の内側で濃縮された感情の暴発を生き抜いている。一方、安部公房の世界においては、自己同一性を支える歴史的で具体的な根拠とも言える、そうした宿命的な因縁の鉄鎖が悉く砕け散って消え去っていく。登場人物たちは一様に自分の固有性を見失い、自分が何者であるのか分からなくなり、身分証明の不可能性という息苦しい地獄の深みへ徐々に嵌まり込んでいく。言い換えれば、そこには無限に広がる荒涼とした「外部」だけが存在していて、絶えざる自己証明を維持しない限り、人間は忽ち自己の特異な性質を語る為の材料を収奪されて、見知らぬ他人しか存在しない領域に墜落し、最終的には自分自身さえも「他人」として感受する離人症的な世界への滑落を強いられてしまうのである。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 
他人の顔 (新潮文庫)

他人の顔 (新潮文庫)

 
燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

 

Cahier(有限・不可能・祈り)

*永遠の愛とは、恋の堕落した形態であると、試しに言い切ってみる。つまり、いつか必ず訣別の刻限を迎えるものとされている筈の恋を、永遠に持続させようとする不穏当な欲望が、永遠の愛という崇高で空虚な理念を、一つの宗教的な象徴のように掲揚してみせるのである。

 永遠という観念が、事物の有限性に堪え得ない人間の脆弱な精神によって培われた仮象であることは、誰しも理屈の上では知悉している。この瞬間の感情が未来永劫、同じ強度と熱量を保ったまま、無限に持続していくであろうと考える為に必要な根拠は、原則として揃わないものである。だから、永遠という観念は一つの具体的な事実に対応するものではなく、いわば人間の切実な「祈り」の為に設けられた祭壇のようなものである。祈りの対象は必ずしも実在の事物である必要はない。地上の何処にも存在しない対象であるという事実は、その対象に向けて捧げられる祈りの意義を減殺しない。寧ろ、何処にも存在しない対象であるからこそ、それは切実な祈りの対象に相応しいのである。祈られるものは常に、不可能なものである。不可能であるからこそ、私たちは敬虔な祈りを捧げるのであり、それが可能な対象であるならば、寡黙な祈祷よりも具体的な実践に身を挺する方が遥かに合理的な選択肢であると言えるだろう。

 永遠の愛が存在すると信じて、人はその到来を希うのではない。それが存在し得ないという厳粛な真実を感じ取っているからこそ、人は一層劇しくそれを願い、祈りを捧げるのである。だが、それが存在しない、という厳粛な真実から眼を背ける為に、軽々しく永遠の愛という理念に縋ろうとする未熟で浮薄な人間も決して少なくない。彼らは素朴な意味で、永遠の愛が有り得るという幼稚な夢想を迂闊にも信じ込んでいる。だから、彼らは永遠の愛を殊更に祈りもせず、黙っていれば踏み外すことのない既定の線路のように考えて、つまり永遠の愛という理念に自堕落な態度で凭れ掛かって、結果的に総てを失ってしまうのである。永遠性を信じて疑わない者に、永遠性が幻想的な恩寵を賜る見込みは極めて小さい。永遠を信じることは、往々にして、その当人の心に度し難い堕落の症候を刻み込むものだ。永遠に凭れ掛かり、永遠という観念に安住して浮世を渡るのは、殆ど自殺的な行為である。

 それならば寧ろ、束の間の、有限の愛情を黙って慈しむ方が、永遠という観念に蝕まれて堕落するよりも遥かに人間的であり、現実的である。少なくともそこには、恣に操ることの叶わない不可解な現実への厳粛で哀切な理解が存在している。有限であるからこそ、美しいものである筈の人間的な愛情を、容易く「永遠」という観念に預けて、保険を掛けたような気分で落ち着くより、有限であるからこそ、この瞬間にそれを確りと慈しまなければならないと考えることの方が、成熟した人間の選ぶべき姿勢であると私は思う。

Cahier(視線・他者・内在的対話)

*「見る」という行為、必ずしも完全に主体的であるとは言えないが、往々にして人間の主体性の積極的な発露であると考えられている「見る」という行為には、複雑な政治的含意が備わっている。そこには「権力」というものの痕跡が露骨に刻み込まれている。

 今までの悠一の存在の意識は、隈なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていたのである。

 何という透明な、軽やかな存在の本体! 自分の顔を忘れたナルシスにとっては、その顔が存在しないと考えることさえできた。苦痛のあまり我を忘れた妻の顔が、もし一瞬でも目をみひらいて良人を見上げたら、そこに自分と同じ世界にいる人間の表情を容易に見出したにちがいない。(三島由紀夫「禁色」新潮文庫 pp.482-483)

 三島由紀夫が「禁色」という世界の内部に創造した南悠一という青年は、その類稀なる美貌のゆえに、絶えず他者からの眼差しを感じ、それに自らの存在を占有されている。見られるという受動性には、他人の領域に自らの主権を譲渡するという政治的な過程が必ず織り込まれている。

 クローバアの草地は坐るのに佳かった。光りはその柔らかな葉に吸われ、こまかい影も湛えられて、そこら一帯が、地面から軽く漂っているように見えた。坐っている柏木は、歩いているときとちがって、人と変らぬ学生であった。のみならず、彼の蒼ざめた顔には、一種険しい美しさがあった。肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追いつめられて、存在そのもので見返している。見たほうが勝なのだ。弁当を喰べている柏木は伏目でいたが、私には彼の目が自分のまわりの世界を見尽していることが感じられた。(三島由紀夫金閣寺新潮文庫 pp.116-117)

 「見る」という立場に己を擬することは、他者への権力を掌握することと不可分である。視線は権力の飛び交う構図の物理的な反映であり、眼差しには他者の存在を領有する野蛮な暴力性が含まれている。見ることの有無を言わさぬ暴力性、一方的に襲い掛かり、侵犯し、越境する暴力性、こうした性質は如何なる原因に由来するのか?

 「見る」ということ、即ち「認識」という機能そのものに付き纏う不可解な暴力的性格は、それが精神的な次元で、相手の存在を自らの領域に繰り込む手続きを含んでいることに由来するのではないか。人に見られたとき、私の一部は抽象的な次元で切除され、認識する主体の内面へ移管されている。私の一部は、観念的なイメージとして相手の脳裡に保存される。言い換えれば、他者に見られるということは、自分の存在の一部を奪われることに等しい。私の存在は、私自身による一義的な理解の秩序から逸脱し、外部へ流出し、複数の価値観に基づく審判を蒙るように強いられる。私の存在は、私による占有から逃れて、他者との共有財産のように取り扱われる。私の存在の意味を、私自身が独占的に定められない状態へ追い込まれること、私の存在が私の主権から離れること、それが見られるということの孕んでいる暴力的な、つまり強制的な側面の内実である。

 見られた瞬間から、私たちの実存の内実は、自分自身による独占的な判定、つまり認識論的な専制の状態から解き放たれて、複数の他者による審判の法廷へ連れ出される。見られることによって、私たちの素朴な自己同一性の観念は打ち砕かれ、具体的で客観的な輪郭を身に纏い始める。言い換えれば、そのときから私たちの「自己」は分割されて、少なくとも部分的には「他者」として変貌するのである。

 自己の局所的な他者化のプロセス、それが見られることの重要な意味である。眼差しは客体の自足した、安定的な同一性を否認し、客体の存在を多様な解釈の行き交う不透明な領域、つまり社会的な領域へ腕尽くで投げ入れるのである。誰にも見られていないとき、私たちは如何なる他者の解釈にも妨げられずに、一義的で閉鎖的な「自己」の内側へ逼塞していられる。私たちは自己との親密な対話によって満たされていることが出来る。それを単に自閉的な実存の形式として咎めてはならない。常に他者の視線に晒されていることで、私たちの内面は顕著な疲弊を抱え込むものであるからだ。

 結局、中庸が一番であるなどと、毒にも薬にもならない結論を殊更に書き立てようとは思わない。中庸や均斉といった結論ほど、退屈で白々しい議論は他に考えられない。私が言いたいのは、視線というものには凄まじく暴力的な政治性が必ず濃密に織り込まれているということである。眼差しは、相手の自己同一性を破壊し、その単純な組成を錯雑した観念の網目へ変容させる力を持っている。そして自己との対話、つまり思索は、様々な性質を持つ他者の眼差しを仮想的に自らの精神的領野へ取り込むことで、初めて成立する営為である。つまり思考は常に他者の眼差し、他者の精神、他者の実存による介入を想定して行なわれているのだ。思索とは、自己の内側に取り込まれた無数の他者との果てしない対話の累積である。

Cahier(幸福・未来と現在・自律)

*「幸福」というものには誰しも漠然たる憧れを懐き、少なくとも不幸のどん底を這い回るよりは幸福で安楽な生活を送りたいと通俗的な願いを懐くのは庶民の慣習である。無論、私だって好んで不幸な、悲惨な境涯へ自ら歩みを進めたいとは思わないし、苛酷な修羅場を態々愛して執着しようとは考えていない。だが、何でもかんでも「将来の幸福」という至極漠然たる理念の下に統御して、ストイックな自己規制を何重にも自らに覆い被せて、まるで「審判の日」を待ち設けるかのように只管、過去も現在も総て未来の糧だと思い込んで犠牲に供するのは、偏頗な振舞いではないかと思う。未来を信じ、希望を信じることは確かに、人間的な倫理に適っている。だが、未来の幸福を只管に祈願するという保守的な発想、つまり常に老後の人生設計ばかりを気に病んで、まるで安穏な老後を迎える為に今を生きているかのような、保険屋的発想は、人間的な倫理に適うとも思えない。一体誰が、老人になる為に生を享けたのか? 私たちの幸福は総て、私たちの人生の意義は総て、晩節の社会的査定に懸かっていると言うのだろうか? そんな筈はない。幼くして死んだ生命にも、生命に固有の価値が備わっている。十年しか生きられなかったからと言って、生まれた甲斐がないなどと看做すことは出来ない。人生の価値は、その年月の長短によって定まるものではない。そんな保険屋的な算数では、人生の価値を推し量ることは不可能である。

 長生きすれば幸福だ、という観念は、それだけ多くの経験を為し得るからという積極的な理由に基づくものであれば結構だが、特に明確な理由や志向性もないのに、徒に長寿を祈願するのは馬鹿げているし、本末転倒である。物事には適切な時間的枠組みというものが備わっており、何でも永保ちすれば尊いという訳ではない。何年生きれば幸せで、何歳で他界したら不幸だとか、そういう単純な算法が通用する筈もないことは誰でも弁えている筈なのに、私たちは無闇に長生きすることを欲して、各種の健康法に莫大な時間と財産を投入したりするのである。

 人は尤もらしい口調で、未来を見据えて生きろと言う。十年先、二十年先、五十年先を見据えて、今を律するべきだと真顔で諭す。だが、人間に見通せる未来図など高が知れているし、そもそも生きることの醍醐味は未来の不透明さの中にある。一寸先は闇だという俚諺が教える通り、私たちは明日にも街角で車に撥ねられて死んでいるかも知れない身である。儚い現世の泡沫である。別に未来を信じ、未来に憧れることを腐すのではない。未来という理念に甘えることを私は危惧しているのだ。刹那的なエピキュリアンであれと、無節操に自他へ説いて回りたいのではない。刹那的な享楽のことしか考えられない愚昧な人間は、単に退屈である。何の魅力もない。同様に、未来の安寧だけを願って眼前の現実を軽んじる保守的な人間も退屈であり、その考え方は無味乾燥である。未来の安寧を何よりも優先する人間の心理には、未来は確実に存在するという盲目的な信憑が含まれている。だが、未来は何時途絶えるか知れたものではなく、今夜眠って、明日の朝、確実に目覚めるという保証は何処にも存在しないのである。

*一体、大多数の人間が懸命になって希求する「幸福」とは何なのか? その正体は、煎じ詰めれば「欲望の死滅」ということではないだろうか。少欲知足、つまり多くを望まず、慎ましい生活の中に埋没することが、幸福への最も効率的な捷径であることは、様々な経験的事実が力強く立証している。欲望は飽くことを知らず、満たされれば満たされるほどに餓える。その絶えざる物足りなさが人間を次なる衝動へ導き、駆り立てる訳だが、欲望は原則として満たされたり満たされなかったりするものであるから、欲望に基づいて生きる限り、人間は必ず何らかの不満足を抱え込まずにはいられず、そこから諸々の苦しみの種が生ずる訳である。だから、幸福を本当に望むのであれば、種々の欲望をさっさと去勢してしまうのが望ましく、その為には己の心の耳を塞ぐのが合理的である。魂に麻酔を打ってしまえば、多くを望まずに、押し寄せる現実を追認するだけで済む。それが幸福の本質であるならば、それは万人が等しく希求し、恋焦がれるべきものであろうか? そこには先ず「挑戦」とか「勇気」とか「決意」といった理念が欠落している。幸福を得る為には、挑戦も勇気も決意も含めて、あらゆる種類の闘争的な理念が不要になる。幸福とは、眼前の現実をそのまま肯定して、何の不満も懐かないという精神的な倹約の果実である。幸福にとって、欲望と享楽は宿命的な怨敵だ。忌まわしい障害物だ。もっと言えば、幸福とは自閉的な境涯である。極端に言えば、幸福は他者という野蛮な異物を必要としない。他人との交わりは、現実の端的な肯定を許さず、気儘な自足を乱暴に踏み躙るだろう。隠遁と幸福の間には密接な関係がある。だから、幸福を求めることには、倫理的な問題が介入しない。幸福は個人の心理的な問題であって、外在的な要件とは無関係に生起する不安定な精神的現象に過ぎないのである。

*「幸福」は他者によって傷つけられないことであり、他者によって踏み躙られないことである。だが、生きることの目的が、他者によって毀損されないことであると言い切ってしまえば、他者との関わりは不要な障碍以上の意味を持たなくなり、生きることは常に保身の欲望と不可分の状態へ陥る。生きることの目的が「保身」でしかないのならば、どんなに道徳的に振舞ってみせたところで、その退屈なエゴイズムは消え去ることがない。愛情は、相手の幸福を願うことであると、人は気安く言う。しかし厳密に考えれば、真の愛情は相手の幸福のみならず、相手の不幸さえも認めることでなければならない。相手の幸福を願うのが愛情だという言い方には、傲慢な支配性が混入している。人間は幸福にも不幸にもなる権利を持っており、臆病な保身を自ら蹴倒す資格も有しているのだ。欲望に駆り立てられる自由も持っているのだ。自らの愛情で他人を幸福に出来るという考え方は不健全であり、端的に言って驕慢である。禍福は自らの心が決めるのであり、余人に容喙される筋合いはない。私たちはただ、愛する人を見守ることしか出来ない。向こうが困窮したときには手を貸して慰めてやることも必要だろう。だが、それは相手を自分の力で幸福にするという思い上がりとは無関係なものであるべきだ。ただ見守ることだけが、愛情の誠実な証左である。愛することは何時でも、ただ黙って見凝め合うことに似ている。

Cahier(自己支配・組織・不純な悪人)

*他人を支配しようとする心、言い換えれば「権力」に対する欲望は、様々な仮面と擬装を伴って、人間の社会の到る所に厭らしく浸潤している。権力の機能は、多くの場合、何らかの尤もらしい大義名分を隠れ蓑に纏い、如何にも道徳的な口実を悪用して、あらゆる場面で他人の自由と主体性を制限し、毀損することに己の欲望を燃え立たせているものだ。愛情でさえ、正義でさえ、それを単なる権力の欲望と混同せずに純化して捉えることは極めて困難である。愛情と称して、正義の名を自らに冠して、人は他人を支配することに夢中になる。己の意向に従属させ、己の主権が及び得る範囲を拡張し、己の欲望を他人の犠牲と屈従の上に樹立し、最大限の満足を確保しようと努める。その為には如何なる手段も口実も狡猾に活用され、尤もらしい正論が持ち出され、相手に対する愛情を梃子に遠回しの恫喝が試みられる。

 この世界を様々な権力の絡み合い、鬩ぎ合う泥沼の戦場として捉えることは容易い。誰もが誰かを支配することに欲望を見出す。だが、本来ならば、私たちが権力によって支配すべきは己自身である。他人の尺度に基づいて己を縛り、虐使するのではなく、己自身の掲げた大義や信念や計画に則って、己自身を支配すること、自己の基準によって自己を支配すること、これこそが私たちの最も尊重すべき第一の倫理的公準である。

 自己支配という、或る意味では胡散臭い観念は、科学的な観点から見れば主観的な戯言に過ぎないかも知れないが、実践的な次元において、こうした観念を嗤笑するのは無益である。私たちは他者の意向に唯々諾々と従い、他者の樹立した壮麗な体系に拝跪し、他者の想い描いた理想の世界に信仰を捧げるだけでは、本質的な「生の歓喜」に辿り着くことは出来ない。無論、如何に生きるかという実存的な問い掛けに対する回答は、個人によって千差万別である。誰も、特定の生き方を他者に押し付ける資格など持たない。だが、世の中には「他者に特定の価値観を押し付けること」を純然たる正義や愛情の効果として強固に信じて疑わない人々も少なくない。

 「自己支配」を行なえない人々は、他人の支配に従うことで実存的な安定を確保しようと試みる。自己支配が不可能であることの理由は様々だが、その過半は、自己の主権を他者の何らかの累積した干渉によって蹂躙され、扼殺されていることが原因である。或いは、そのように信じ込まされていることが根本的な要因である。他者に抑圧されている人々が先ず考えるべきは、自己支配、つまり自己は自己に対する主権を掌握しているという自尊心の形態を恢復することである。私たちは極めて多様な方法で、自己に対する主権を手放すように洗脳され、教育されている。公益、道徳、正義、愛情、未来的な理想など、様々な煌びやかな観念に騙されて、私たちは実に容易く自己決定の権利を安値で叩き売ってしまう。

 道徳的な公益の観念を学ぶことが悪い訳ではない。他者に奉仕し、自己を犠牲に供することが罪なのではない。問題なのは、自己支配の結果としてそれらの営為を選択するのではなく、他者の間接的命令の下に、無意識的な不本意さの上で、それらの営為を選択することの不健全な性格である。自らの決意に基づいて正義や愛情に己の魂を捧げるのは健全なことだ。その結果として破滅や衰亡に至ろうとも、それは祝福されるべき敗残である。しかし、他人の思惑に釣り込まれて、己の良心や信念を麻痺させた上で、他者の価値観に身を挺するのは欺瞞的な頽廃を培養するだろう。

 私たちは私たち自身の決断を尊重し、自らの思索と判断を表明することに果敢で挑戦的な姿勢で臨むという方針を維持しなければならない。他者の基準を言い訳にして、己の行動の責任を他者の胸底に委任してはならない。それが如何に殊勝な善良さの象徴のように見えたとしても、他者への依存は単なる欺瞞的な自滅の行為に過ぎない。そうした善良さは無力であり、場合によっては悪質である。

 組織の論理を理由に、頽廃的な決断を下すことは、地上では日常茶飯事であり、そのような意味での権力に抗することの難しさは、誰しも日常的に膚身に感じているだろう。連日報道される政治家や官僚の不祥事の数々に決して同情する訳ではないが、あれほど強力な組織の中で立身出世を遂げるべく苦心惨憺している人々が、他者の権力から自由に振舞うことの難しさは、私のような凡人の想像力の及ぶところではない。問題は、彼らが諸々の悪事や虚言を「組織への忠誠」という自己支配の結果として行なっているのかどうかという点に存する。つまり、組織への忠誠を果たす為に自らの決断で進んで悪事を働いているならば、法的には裁かれようとも、倫理的には一つの正義だと称することも止むを得ない。しかし、単に強大な組織の抑圧的な論理に抗えず、他者の基準を己の基準と掏り替えることに余りにも熟達した結果として、傍目には見苦しく愚かしい言行の数々へ押し流されているのであれば、それはファシズム的な罪人の典型ではないだろうか。悪事を選んだのであれば、その悪事に殉ずるのが筋であり、発覚を懼れて俄かに不明瞭な答弁を弄するのは、自らを他人の奴隷に貶める無様な醜態ではないのか。

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 4

 引き続き、中上健次に就いて書く。

④「系譜」に対する霊媒的な受動性と、その悲劇的性格

 中上健次の作り出した竹原秋幸という主人公は、自分の存在を取り囲む血の「系譜」に対して根源的な拒絶の姿勢を示している。それは根源的には実父との血の繋がりに対する内在的な拒絶に基づいているが、にも拘わらず、彼は物語のあらゆる場面において、己の「系譜」に関する多様な記憶を想起することを止めようとしない。この矛盾した両義性は、彼が本質的な次元において、血の「系譜」に抗い得ない存在であることを暗示していると言える。彼の内部には、夥しい系譜的な記憶に対抗し続けるために必要な、主体的な原理のようなものが欠如しているように見える。

 もしも彼に主体的な原理が内包されており、それが「複雑な血のつながり」に対する明確な抵抗と峻拒の意志として鍛造されているならば、少なくとも故郷の土地に留まり続ける理由はない。故郷を捨て、地縁と血縁を放擲して、見知らぬ土地に移って新たな人生を開拓することも充分に可能なほど、彼には漲るような若さが備わっている。門地の違いに基づいた厄介な束縛と制約を断ち切り、恋人である紀子と異郷へ駆け落ちすることも物理的には不可能ではないのだ。にも拘わらず、秋幸はそういう具体的な実行と主体的な決断を選択する素振りも見せない。これは彼の「系譜」に対する根深い嫌悪とは矛盾する振る舞いではなかろうか?

 だが私たち読者が、彼の主体性の欠如を非難したところで益はない。重要なのは、物語に対する視角を転換してみることだ。秋幸は単に主体的な行動力を欠いた人物なのではない。寧ろ作者である中上健次にとっては、これらの複雑な物語の主人公が明確な主体的原理を欠いていることにこそ、大切な意義が存在しているのである。

 竹原秋幸は、いわば「霊媒」のように、他人の物語を吸い込む虚無的な領域として実存している。彼には自分自身の固有の物語が欠けている。言い換えれば、彼は様々な「複雑な血のつながり」の結節点として存在している。彼が主体的な行動や決断に踏み切れないのは、彼がそもそも物語の側から、そのような実存の虚無的な様態を備えることを命じられているためである。彼は絶えず他人の物語に脅かされ、埋め尽くされ、その重苦しい圧力に喘ぎながら生きている。だからこそ、あらゆる「系譜」から束の間の解放を得られる「労働」の時間が特権的な意義を帯びて、光り輝くような強調を享けるのである。

 その意味では、秋幸の実父に対する様々な抵抗が絶えず所期の目的を達せずに、標的からの不本意な逸脱を示すのも当然の帰結である。彼には、他人の物語を拒絶するために必要な原理的足場が欠落している。寧ろ彼の衝動的な行為の数々は、益々「複雑な血のつながり」を肥大させる結果しか生み出さない。秋幸の実存は、物語を破壊するどころか、物語の複雑な膨張に著しく寄与しているのである。この不本意な捩れは「地の果て 至上の時」において、彼が敵視している筈の父親の信じる架空の来歴に対する奇怪な共鳴にまで発展してしまう。

 果たして秋幸が抱懐している実父への敵愾心は本当に「殺意」のような明確な情念と結びついているのだろうか?   この点に関しては大いに疑問が残る。彼が実父を憎んでいることは明瞭な事実であると言い得るだろうが、それは純然たる「殺意」と呼べるほど、堅固な輪郭を有していない。もしも、その敵愾心が堅固な輪郭を備えていたとするならば、それは妹との性交や弟の撲殺といった形で、不明瞭な逸脱を遂げることはなかっただろう。彼の復讐心は、実父の殺戮という明瞭な主体的行為には必ずしも帰結しない。

 秋幸は血縁に象徴される歴史的な「系譜」から逃れる意志を持たない。逃れたいという願望が繰り返し強調されるにも拘わらず、彼が具体的な行動を起こさず、寧ろ引き寄せられるように実父との面会に赴くのも、彼の主体的な意志の欠如、或いは機能不全を傍証している。寧ろ秋幸は、浜村龍造の捏造した架空の「系譜」に魅せられているようにさえ感じられる。この奇怪な受動性、霊媒的な受動性は、実父の殺害という明瞭な計画を組み立て、決行に移すような力を欠いている。彼はあらゆる他人の物語の吹き溜まりであり、様々な「系譜」の累積する特異な領域として存在している。彼は常に何らかの衝動によって、何らかの外在的な力に強いられるようにして、自らの行動を決定することしか出来ないのだ。

 彼の根源的な主体性の欠如、彼が様々に絡み合った感情の内部で身動きが取れないこと、その感情が明確な志向性を欠いていること、彼が常に「他人の物語」に蝕まれて窒息しかかっていること、これらの特徴は何を意味するのか。彼の根源的な「迎合性」は如何なる理由で構築されたのか。

 言い換えれば、竹原秋幸という存在は、物語の主人公であるというよりも、様々な物語を通過させる為の触媒=霊媒に過ぎず、従って彼は物語を牽引するような主体的な位置に決して立脚することがないのである。この傾向は「地の果て 至上の時」において益々強調され、露わになる。秋幸は「枯木灘」の頃のように熱心な「労働」の反復を行なわず、他人の都合に引き摺られて直ぐに仕事を「若い衆」に任せて現場を立ち去ってしまう。そして様々な「他人の物語」に関与し、その記憶と経験を受け容れ、己の内面に蓄積していく。

 そうであるならば、中上健次の書き遺した紀州神話の数々を、竹原秋幸の物語として解釈するのは本質的な謬見であるということになる。少なくとも秋幸の実存や精神を基軸に据えて物語を眺めても、そこに綜合的な視野を樹立することは困難である。彼は様々な物語が行き交う交差点のような存在であり、私たちはそこから決して折り合うことのない様々な「物語」の衝突と分裂を眺めるしかない。

 「枯木灘」において、秋幸は母親のフサや姉の美恵が称讃するような、範例的な生き方を演じている。その内面には複雑な屈折が畳み込まれているとしても、彼の勤勉で浮薄なところのない堅実な生き方は、母や姉たちの希求する生き方に合致しているように見える。秋幸が異性と肉体的な関係を持つことを、姉の美恵から禁じられていたという記述には、秋幸の根源的な迎合性が看取される。彼は背徳的な異性関係を持たず、黙って地道な労働に明け暮れている。その禁欲的な生活態度は、母や姉たちを安心させる。

 だが、そのようなストイシズムが、秋幸自身の主体的な決断によって構築されたものであると言い切ることは難しい。そもそも、彼にとって「労働」は「自然との融合」の歓喜を味わい、厄介な「血のつながり」を忘却する為の個人的な儀式のようなものである。彼の勤勉な態度の根底には、己の内なる野生を扼殺する為の手続きが潜んでいる。それは果たして、彼の主体性の顕現であると言えるだろうか? 寧ろ主体性の欠如が、彼を勤勉な「労働」の反復という生活の範例へ逃げ込ませているのではないか。

 彼にとって「労働」は一種の逃避であり、複雑に絡み合った社会的な関係性、もっと有体に言えば「他人」との関係からの遁走である。つまり、それは自閉的な営為なのだ。そして、その自閉性は結果的に、勤勉な労働者という禁欲的な善良さの範例を形作る根拠となっている。その禁欲的な善良さを、彼の母や姉たちは素晴らしいものとして肯定的に評価している。自閉的な労働に深く没入することで、秋幸の内なる野生は制限され、血腥い悲劇は回避される。だが、結局のところ、それは他者を排除することで得られる擬似的な幸福と安逸に過ぎず、母や姉たちの抱え込んでいる平穏な家庭的ストイシズムへの欺瞞的な盲従ではないのか?

 労働の自閉性と規律、それが秋幸を一つの安全な生き物に、いわば善良な息子のような存在として雁字搦めに定義している。その定義は確かに、彼の内側を流れ、渦巻いている剣呑な「血」の暴発を予防し、抑制する道徳的な矯正の効果を含んでいるだろう。労働の励行は、母と姉にとっても望ましく、堅実な未来を形作る基盤となるのである。

 だが、性的な観念、或いは欲望、感情が芽生えたとき、労働の自閉的な安逸に耽溺していた秋幸の人生は根本的な変更を加えられる。淫蕩という表現は過剰かも知れないが、少なくとも秋幸に関して言えば、彼の性的な遍歴は、腹違いの妹との情事という形で幕を開けるのである。そもそもの出発の時点で、秋幸の性的な欲望は陰惨な罪悪の翳りによって縁取られている。彼はそのとき、今まで堅実で勤勉な労働者としての自己定義を実践することによって守り抜いてきた清廉な自我を失い、抑え込んでいた「あの男の血」の滾りを実感する。彼が自閉的な労働に励むことで慎重に遠ざけてきた「複雑な血のつながり」が、そして浜村龍造という悪党の血の影響が、愈々抜き差しならない現実性を帯びて肉迫を開始するのである。

 「枯木灘」の悲劇性は、秋幸が「血」の齎す呪縛に搦め捕られ、敗北し、暴発してしまうことによって喚起される。しかも、彼はまるで自分の意志ではなく、何らかの外在的な因縁の持つ圧力に引き摺られ、導かれるようにして、その悲劇的な災厄に荷担する。彼の受動性は、彼の物語の暴力的な悲劇性の感触を高めることに大きく貢献している。彼が若しも主体的な意志に基づいて明確な行動の軌跡を描き、呪わしい実父の殺害を成功させていたならば、きっと「枯木灘」は悲劇ではなく、爽快な英雄譚として完結していただろう。だが「枯木灘」に、そのような道徳的ヒロイズムの単純な反映を見出すことは出来ない。彼は何かに強いられるように、何かに引き摺られるようにして妹と交わり、弟を殴り殺す。悲劇の主役には、主体的な意志や明確な行動力が備わっていてはならない。少なくとも運命を覆す力量を天から授かってはならない。悲劇は常に、人間の主体的な意志や決断の「蹂躙」という形式に則って、その物語の構造を設定するものである。

 男の呻きが聴こえる。秋幸は徹に肩をつかまれたままズボンをさぐった。車の鍵を取り出した。息が荒く、男でなく自分が、痛みを耐える獣のように呻き声を出しているのに気づいた。「殺して、何が悪りんじゃ」もう一度、秋幸は自分に言いきかせるように、しゃがれ声で言った。血が、手にこびりついている。「あいつが悪りんじゃ、あいつがおれに構うさかじゃ」秋幸は手をズボンの尻に強くこすりつけ、また坂の闇にかざしてみた。汚れはとれなかった。秋幸は車の鍵をその手に持ったまま、どこへ逃げるのか迷った。海と山と川にはさまれたこの土地に生まれ、育ち、秋幸は他に行くところを知らなかった。日を受け、風を呼吸して二十六の時まで暮らしたのだった。フサも、その男もここにいた。その男は、いま何が起こったのか知っただろうか? 男にはっきりと教えてやりたかった。その男の子供を、その男の別の腹の息子が殺した。その男の遠つ祖、浜村孫一の血の者が、浜村孫一の血の者を殺した。すべてはその男の性器から出た凶いだった。いや、山を這うように跛を引きながら、光の方へ、海の方へと流れ落ちてきた架空の、熱病の浜村孫一の性器が、何百年も経った今、血を血が打ち殺す凶事をつくった。

 体はまだ震えていた。秋幸はドアをあけ、一人車に乗った。(『枯木灘河出文庫 p.261)

  或いは、このように規定してみるのはどうだろうか。「枯木灘」の世界においては、総ての出来事が過去の錯雑した「系譜」との関係性に基づいて解釈され、語られ、演じられるのだと。どんな悲劇的な出来事も、必ずそれは過去の悲劇の再燃として位置付けられる。秋幸の秀雄に対する殺意は、郁男の秋幸に対する殺意と重ね合わされ、美恵と郁男の性的な風評は、盆踊りに唄われる「きょうだい心中」の古伝と重ね合わされる。どんな出来事も過去の反復として現れ、過去の出来事の生み出したものとして、記憶と絡まりながら演じられる。総てが「系譜」の中の物語として回収され、現実は歴史に還元され、誰もその根源的な閉域から脱出する術を持たない。「枯木灘」の世界は徹頭徹尾、閉鎖されている。それは地理的な条件によって外界から隔絶した環境として、空間的に閉塞しているのみならず、あらゆる出来事が過去の事象の暗喩として位置付けられる循環的な歴史性によって、時間的にも閉塞している。浜村孫一の末裔という龍造の捏造した経歴の欺瞞は大した問題ではない。重要なのは、龍造が己の社会的地位の正当性を確立する為に選んだ手段が「系譜」の改竄であり編輯であるという点だ。総てが過去の因縁と縒り合わされて解釈され、理解され、伝達される。「枯木灘」の世界は、時間的にも空間的にも「外部」を持たない、濃縮された閉域である。そういう世界に生きる人間の喜怒哀楽の一切合財を言葉によって彫琢することが、中上健次という作家の背負った重要な文学的使命であったのかも知れない。

 閉鎖された環境に置かれた人間は、どのような実存の様態を抱え込むのか、という問題を、中上は呪術的な反復を含んだ文体で執拗に抉り出していく。但し、それは閉鎖された息苦しい世界への呪詛だけに占められた言語的旋律ではない。

 秋幸は男を見ていた。その男は、駅裏のバラックに火をつけ、その足で路地にあらわれたのだった。男は路地に火をつけようとした。火をつけて、路地を消し去ろうとした。その路地は何処から来たのか出所来歴の分からぬ男には、通りすがりに立ち寄った場所だが、秋幸には生まれ、育ったところだった。共同井戸、それは、まだあった。路地の家のことごとくは、軒下に木の鉢を置き花を植えていた。愛しかった。秋幸は川原に立ち、男を見ながら、その路地に対する愛しさが、胸いっぱいに広がるのを知った。長い事、その気持ちに気づかなかった、と秋幸は思った。竹原でも、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった。盆踊りが今、たけなわであるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.256)

 秋幸の霊媒的な受動性は、この物語の本質的な意味における「主役」が個々の登場人物の次元にあるのではなく、飽く迄も「路地」という閉域そのものであることの構造的な反映である。重要なのは「路地」という圧縮された閉域、外界との接続を絶たれた領域における実存の形式を活写することであり、その閉域を埋め尽くす様々な感情と思考の錯雑した様態を精細に描き出すことである。だが、その試みは、単に「路地」という閉域の内部における悲喜交々を描くという循環的な営為だけでは、作者に対して本質的な充足を供給しなかった。「路地」の消滅という奇怪な事態を描くことが、作者の次なる夢想に選ばれたのは、彼が「閉域」の内在的な論理を詳細に追跡する過程において、否が応でも、その「閉域」を作り出す外界の歴史的な論理に覚醒せざるを得なかった為ではないかと思われる。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

「迎合」に就いて

 直ぐに他人の意見に賛同したり、他人の思惑に阿ったりする人間は少なくない。だが、一方で人間には堅牢で頑迷な「自我」というものが備わっていて、それが他人の意見や思惑に対する反抗的な姿勢を育む根拠となる。

 誰でもこの二つの側面は交互に顕現するものであって、完全に何れか片方へ偏するということはないが、それでも大雑把な傾向性のようなものは存在する。特に私が問題視する手合は、他者への「迎合」が殆ど自動的に行われるほどに、当人の内面に血肉化されているタイプの連中である。無論、誰でも他人の思惑や意向に屈することはあるだろう。だが早晩、人生の途上で、他人の言いなりになって生きることに疑問を覚えるのが当然である。多くの人間は、その疑問を思春期の頃に最も明瞭に覚醒させる。

 しかし、然るべき時期に己の本質的な想いと正面から向き合わずに済ませた惰弱な人間は、他者への「迎合」を自らの生きる基準に据えることで、いわば「迎合」を「正義」の位置にまで引き上げる。そのタイプは様々であり、優等生が体制の要求する高度な基準に己の行動や能力を合致させることで成果を上げ、社会的な信用を得てきたという成功体験に染め上げられて、「迎合=正義」の等式を骨身に浸潤させる場合もあれば、特段の能力もない劣等な立場の人間が、生き延びる為に外在的な物差しに屈従することを選び続けた結果、迎合的な振舞いから逃れられなくなる場合もある。

 何れの事例に関しても共通して言えることは、彼らが「他人の意見」と「自分の意見」とを極めて容易く混同してしまう心理的傾向を備えているという点である。私自身も、心の弱さに引き摺られて他人の胸底を忖度してしまうことは多々あるが、迎合的な人間は、最早そのような自覚さえ持たずに、肺が酸素を取り入れるような自然さで、他人の決定した事柄や、他人の示した価値観を嚥下する。彼らは「自分自身の固有の意見」というものの必要性を不当に低く見積もっており、外部に存在する基準や価値観の正当性をナイーブに信仰している。この精神的な構造は、体制の安寧秩序に奉仕するには最高の美徳であるが、一歩間違えれば翼賛的なファシズムの病理を一挙に露呈させる悪質な土壌と化す。

 迎合的な人間にとって、自他の区別というものは極めて曖昧である。彼らは自分の不確かな感覚や認識より、オフィシャルな形でその妥当性が認められた立派な権威的基準を寵愛する。彼らは何よりも失敗や誤答を忌み嫌い、優良な果実だけを収穫する為の最短の経路ばかりを探し回る。或いは、そのような果実への欲望さえ持たずに、自分の主体性を軒並み抛棄して外在的な基準に身を挺することで、自分は悪くないということの根拠を、生涯を賭して作り出し続けようとする。

 迎合的な人間に「良心」を期待するのは無意味であるし、確固たる信念のようなもの、時には反社会的であることによって却って人類の共通の「財産」となるような種類の独創的な信念も、未来永劫備わることがない。彼らは独創性という言葉の滑らかな響きには嘆賞を示すが、自ら独創性という危険な爆薬に手を出そうとは決して考えない。彼らは既に確認され、その安全性と価値が確かめられたものにだけ、安心して欲望を懐くことが出来るのだ。迎合的な人間の頑迷な保守性は、不確かな独創性に固執する人々への冷笑と侮蔑と迫害を金科玉条としている。

 迎合的な人間は、集団としての「調和」を何よりも重んじるし、その為に「体裁」を取り繕うことに関しては驚嘆すべき執念を燃え立たせる。彼らは誰もが共通の基準に基づいて心を一つにしているというファシズム的な理想を愛する。誰もが同一の正義に従えば何も問題は起きないという奇怪な排外主義を信奉して恥じない。彼らには、固有の信念というものがなく、彼らの懐く信念や情熱は常に他人からの借り物であり、つまり彼らは他人の優秀で勤勉な奴隷であるに過ぎない。奴隷であることを恥じない人間が、主体的な信念に基づいて固有の人生を一歩ずつ建設していくことは不可能である。

 迎合的な人間に不足しているのは「自主独立」の精神である。根本的な問題として論難すべきは、彼らが「自他」の境界線に対して懐いている幼稚な恐怖心である。自他の区別を否認し、闇雲に一体感を求めようとする自堕落な集団主義は、自他の区別を理解し、その根源的な孤独を受け容れる覚悟を持たない人々の惨めな狎れ合いによって生じる。迎合的な人間は何よりも調和を重んじることで、調和という名の隠然たる暴力を組立てているのだ。迎合的な人間は、蝗のようなものである。単体で存在しているときは極めて温厚で善良な性格であり、虫一匹殺さないような顔をしているが、一たび群棲相に転じれば、忽ち荒れ狂って猛烈な社会的災禍を惹起する。それは彼らに固有の倫理的信念が欠けており、状況の変化に応じて幾らでも儚く変貌する脆弱な自我しか備わっていないことの反映である。