サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(有限・不可能・祈り)

*永遠の愛とは、恋の堕落した形態であると、試しに言い切ってみる。つまり、いつか必ず訣別の刻限を迎えるものとされている筈の恋を、永遠に持続させようとする不穏当な欲望が、永遠の愛という崇高で空虚な理念を、一つの宗教的な象徴のように掲揚してみせるのである。

 永遠という観念が、事物の有限性に堪え得ない人間の脆弱な精神によって培われた仮象であることは、誰しも理屈の上では知悉している。この瞬間の感情が未来永劫、同じ強度と熱量を保ったまま、無限に持続していくであろうと考える為に必要な根拠は、原則として揃わないものである。だから、永遠という観念は一つの具体的な事実に対応するものではなく、いわば人間の切実な「祈り」の為に設けられた祭壇のようなものである。祈りの対象は必ずしも実在の事物である必要はない。地上の何処にも存在しない対象であるという事実は、その対象に向けて捧げられる祈りの意義を減殺しない。寧ろ、何処にも存在しない対象であるからこそ、それは切実な祈りの対象に相応しいのである。祈られるものは常に、不可能なものである。不可能であるからこそ、私たちは敬虔な祈りを捧げるのであり、それが可能な対象であるならば、寡黙な祈祷よりも具体的な実践に身を挺する方が遥かに合理的な選択肢であると言えるだろう。

 永遠の愛が存在すると信じて、人はその到来を希うのではない。それが存在し得ないという厳粛な真実を感じ取っているからこそ、人は一層劇しくそれを願い、祈りを捧げるのである。だが、それが存在しない、という厳粛な真実から眼を背ける為に、軽々しく永遠の愛という理念に縋ろうとする未熟で浮薄な人間も決して少なくない。彼らは素朴な意味で、永遠の愛が有り得るという幼稚な夢想を迂闊にも信じ込んでいる。だから、彼らは永遠の愛を殊更に祈りもせず、黙っていれば踏み外すことのない既定の線路のように考えて、つまり永遠の愛という理念に自堕落な態度で凭れ掛かって、結果的に総てを失ってしまうのである。永遠性を信じて疑わない者に、永遠性が幻想的な恩寵を賜る見込みは極めて小さい。永遠を信じることは、往々にして、その当人の心に度し難い堕落の症候を刻み込むものだ。永遠に凭れ掛かり、永遠という観念に安住して浮世を渡るのは、殆ど自殺的な行為である。

 それならば寧ろ、束の間の、有限の愛情を黙って慈しむ方が、永遠という観念に蝕まれて堕落するよりも遥かに人間的であり、現実的である。少なくともそこには、恣に操ることの叶わない不可解な現実への厳粛で哀切な理解が存在している。有限であるからこそ、美しいものである筈の人間的な愛情を、容易く「永遠」という観念に預けて、保険を掛けたような気分で落ち着くより、有限であるからこそ、この瞬間にそれを確りと慈しまなければならないと考えることの方が、成熟した人間の選ぶべき姿勢であると私は思う。