サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 5

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 「純粋」であることへの透明に磨き上げられた欲望、それは猥雑な事物の複雑な混淆として織り成されている我々の日常的な生活を蒸留することへの欲望だと言い換えて差し支えない。だが何故、勲はそれほどまでに「純粋」という曖昧な美徳へ固執しなければならないのだろうか? 「純粋」の美徳は、我々の日常的な生活の一切合財を転覆し、瓦解へ導くほどの価値を備えているのだろうか? 日常的な生活の孕んでいる諸々の不合理や矛盾、軋轢や罪悪、面従腹背、こういった不純な要素の数々に対する潔癖な心性は、如何なる結論へ流れ着くのか?

 混濁した現実から純粋な価値を蒸留しようと試みるプラトニックな心情は、三島の創造した文学を構成する最も主要な旋律の一つである。尤も、三島は「純粋」という美徳が否が応でも不合理な現実に厳しく打ち負かされ、無惨な敗北へ帰結することを十全に知悉していただろうと思われる。彼にとって肝要なのは「純粋」という美徳の、腐敗した現実に対するロマンティックな勝利ではなく、寧ろ甘美な敗北の方である。「純粋」の美徳が不可避的に選択せざるを得ない残酷な敗北の帯びている無類の悲劇性こそ、三島が最も強く憧れ、希求した観念であった。何故なら、その甘美な敗残の悲劇性こそが、人間の「死」という運命的な営為を最も劇的な形で飾り立てるからである。

 言い換えれば、勲にとって「純粋」の美徳は、それ自体が希求の対象なのではない。彼の欲望の根本的な目標は「美しい死」であり、飽く迄も「純粋」という美徳は、末期の瞬間を壮麗に彩る為の狷介な伏線に過ぎない。彼が美しく死ぬ為には、どうしても「純粋」という金箔が必要なのである。美しい死は、彼の実存に或る永遠的な形態を恩寵の如く賦与する。それは「生きる」という人間的な営為の孕んでいる本質的な「堕落」からの脱却を意味している。

 思えば蔵原をよく知らぬということこそ、勲の行為を正義に近づけるものだった。蔵原はなるたけ遠い抽象的な悪であるべきだった。恩顧や私怨はおろか、その生の人間に対する愛憎すら稀薄なところに、はじめて殺人が正義になる根拠があった。彼はただ遠くから、その悪を感じるだけで十分だったのである。

 いやな人間を殺すのなら簡単である。卑劣な人間を倒すのなら楽である。彼はそんな風に、敵の人間的欠陥に乗じて、それで自分を納得させて殺すのではいやだった。彼の脳裡にあった蔵原の大きな悪は、身の安全のために靖献塾を買うような小さなせせこましい悪とつながっていてはならなかった。神風連の若者たちも、決して熊本鎮台司令長官を、その小さな人格的欠点のために殺したのではなかった。

 勲は苦しみのために呻いた。美しい行為というものは何と壊れやすいのだろう。自分は美しい行為の可能性を、理不尽にも根こそぎ奪われてしまった。たったあの一言のために!

 あとただ一つのこされている行為の可能性は、自分自身が「悪」になることだけだ。しかし彼は正義だったのだ。(『奔馬新潮文庫 pp.272-273)

 個人的な愛憎の感情に基づいて罪を犯すならば、それは正義の称号に値せず、その行為は単なる矮小な悪事に過ぎなくなる。それは例えば坂口安吾が喝破したような人間の本源的な「堕落」の様態に自ら埋没することと同義である。安吾はそうした「堕落」を積極的に、半ば逆説的に肯定したが、三島の美学は決して「堕落論」の提示するような種類の倫理を肯定しない。彼の美学は人間の「堕落」を許容しないという壮烈な正義に依拠しているのである。「美しい行為」の連鎖だけが、当人の「死」を壮麗な悲劇に作り変える論拠となる。そうであるならば、個人的で卑小な「私怨」を足懸りに用いてテロリズムへ踏み切ることは最悪の選択肢ということになるだろう。或る明瞭な個人、善悪若しくは清濁の両面を兼ね備えた具体的な実在としての個人を殺害するのではなく、飽く迄も抽象的な「悪」の概念の肉体的な表現を殺害すること、如何なる私情とも無関係に純然たる「正義」と「悪徳」の問題として殺戮を決行すること、これこそが勲の「自刃」を美しい悲劇へ昇華させる重要な礎石なのである。

 現実が一つ崩れたあとも、すぐ別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか馴れはじめている自分に気づいた。その新らしい結晶からは中尉はすでに弾き出されていた。そしてその威丈高な軍服姿は、出口も入口もない透明な結晶体のまわりをうろうろしていた。勲はもう一つ高度の純粋へ、もう一つ確実性の高い悲劇へ辿りついたのだ。(『奔馬新潮文庫 pp.331-332)

 堀中尉の満洲への転任によって、蹶起の計画が成功する見通しは確実に目減りした。しかし、それは勲の撤退と断念を促す根拠にはならない。寧ろ蹶起の成功は、不透明な政治的現実への陥入を意味している。それは新たな「堕落」の幕開けに過ぎない。敗残が必至であればあるほどに、勲の蹶起の「純粋性」は一層高められ、その抽象化の作用を通じて、彼の個人的な情念は益々鮮明に洗い清められる。勲の判断は現実的な世界とは関わりを持っていない。そもそも計画の当初から、彼は具体的で不合理な現実に対する蔑視と黙殺を堅持してきたのだ。猥雑な現実を或る抽象的な理念へ昇華すること、こうしたプラトニズムだけが「美しい死」という奇態な夢想を涵養し得るのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)