サラダ坊主日記

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転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 6

 三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)を読了したので、総括的な文章を書き留めておこうと思う。

 退屈で凡庸だが、小さな発見や些細な僥倖に満ちた静謐な日常の暮らし、というものへの素朴な憧れや慈しみと、完璧なまでに対極的な地点に立脚しているのが、三島由紀夫という作家である。彼の根源的な欲望、宿命的なオブセッション(obsession)は常に平坦で劇的な変化や事件に乏しい慎ましい暮らしの持続に対する破壊を、彼自身に向かって執拗に要求していた。「退屈な日常」と「刺激的な事件」とを秤にかけて比べたとき、否が応でも「事件」の勃発の側へ賭け金を投じずにはいられない聊か破滅的で危険な性情が、三島という作家の存在の「核」を形成していたのである。

 「豊饒の海」という長篇小説の第一巻に当たる「春の雪」においては、そうした「事件への欲望」は禁断の恋愛という使い古された物語の類型を借用した上で、詳細且つ克明に、その構造と推移を描き出された。第二巻に当たる「奔馬」において、その情熱は「忠義」や「熱誠」といった形態に置き換えられている。だが、両者の心理的な構造は互いにそれほど隔たっている訳ではない。

 宮は清顕の事件については、たしかに深い自尊心の傷を負われたであろうが、宮が何かの情熱によってお傷つきになったかどうかは定かでなかった。しかしもし、宮が、まことにそのとき、貴賤貧富を問わず人を死へ地獄へと引きずってゆくあの光りかがやく幻の反映によっておん身を染められ、その光りの前に人を盲目にするもっとも蒙昧もっとも高貴な情熱によってお傷つきになったのなら、……そして聡子の場合も、正に聡子その人によってそういう宮の情熱が灰に帰せしめられたのであったら、……それをここではっきり知ることができたら、……それにまさる清顕への供養はなく、それほど清顕の霊の慰めになることはないと思われたのである。恋も忠も源は同じであった。(『奔馬新潮文庫 pp.390-391 註・太字は筆者の処理)

 恋愛の情熱が、相互に隔てられた非連続的な存在としての個体の輪郭を抹殺して、自他の融合を実現しようと試みる不可能な欲望であることは論を俟たない。しかも恋愛の情熱は、そうした根源的な不可能性に却って触発され、煽動されるような仕方で一層の高揚を示す心理的現象である。それと同様の性質を「忠義」や「熱誠」という感情が孕んでいることに、我々は着目すべきであろう。熱烈な忠義に心身を燃やす国士にとって、例えば至高の存在である天皇陛下の「御心」の内訳に就いて彼是と揣摩臆測を試みることは僭越であり、不敬であると看做される。国士は飽く迄も一方的な忠義の情熱を、それが報いられるかどうかに関わらず、只管に捧げ続けることを自己の本分とする。こうした情熱の形式が、恋愛における情熱の形式と見事に照応していることは明らかである。

 人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか? どこかに確乎たる人間性の不文律があって、人間同士の盟約は禁じられているのだろうか? 彼は敢てその禁を犯したのであろうか?(『奔馬新潮文庫 p.401)

 この重苦しい悲愴な自問は、恋愛においても忠義においても共通して横たわっている「個体の非連続性」という根源的な宿命に関わっている。「人間性の不文律」は、相互に隔たった個体同士の完全な融合を禁じている。恐らく勲は「忠義」においても「血盟」においても、相互の完全な融合と完璧な純粋性の実現を強烈に望み続けていた。それが「確乎たる人間性の不文律」によって妨礙され、破綻を命じられたことは確かな事実である。

 生者たちの世界において個体の相互的な融合が「確乎たる人間性の不文律」によって禁じられているとき、その儚い希求の実現を「彼岸」に求めるという思考の様態は、恋愛から宗教に至るまで、人間の世界に広範に流布している。それが恐らく「死に対する欲望」を力強く喚起するのであり、個体的な生存の抱え込んでいる宿命的な「孤絶」を解消する唯一の手段として憧憬を集めるのだろう。

 この考えを、しかし、もう一歩押し進めれば、人は世にも暗い思想に衝き当るのだ。それは悪の本質は裏切りよりも血盟自体にあり、裏切りは同じ悪の派生的な部分であって、悪の根は血盟にこそあるという考えだった。すなわち、人間の到達しうるもっとも純粋な悪は、志を同じくする者が全く同じ世界を見、生の多様性に反逆し、個体の肉体の自然な壁を精神を以て打ち破り、折角相互の浸蝕を防いでいるその壁を空しくして、肉体がなしあたわぬことを精神を以て成就することにあったかもしれない。協力や協同は、人類的なものやわらかな語彙に属していた。しかし血盟は、……それはやすやすと自分の精神に他人の精神を加算することだった。そのこと自体、個体発生オントジエニーの中に永久にくりかえされる系統発生フイロジエニーの、もう少しで真理に手を届かせようとしては死によって挫折して、又あらためて羊水の中の眠りからはじめなければならぬ、あの賽の河原のような人類的営為に対する、晴れやかな侮蔑だったのだ。こうした人間性に対する裏切りによって、純粋をあがなおうとする血盟が、ふたたびそれ自体の裏切りを呼ぶのは、世にも自然な成行だったかもしれない。かれらはそもそも人間性を尊敬したことがなかった。(『奔馬新潮文庫 pp.401-402)

 頗る乱暴に要約してしまえば、勲は自らが至高の価値として信奉し続けてきた「純粋」という美徳そのものに内在している「悪徳」の深刻な病質に想到したのである。個体的な輪郭を棄却しようと試みる営為の総てが、人間的な価値に対する悪質な暴力として顕現することの絡繰に目覚めたのである。禁じられた恋愛に苦しむ人々が「情死」によって不可能な融合を遂げようと企てるように、勲もまた「純粋」という不可能な理念に殉ずるべく自刃を遂げる。最も美しい生の形態は、最も美しい死の形態によって支えられ、保証されるという如何にも三島的な論理に従って、彼は「純粋」という不可能な理念の庇護に一身を投じたのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)