サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 1

 目下、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)の繙読に着手している。繰った頁数は未だ序盤であるが、断片的な感想を撒き散らしておきたい。

 「美しさ」とは何か、という問題に就いて答えを返すことは決して容易な所業ではない。「美しい」という内在的な感覚が生じるとき、人は如何なる認識の内部に佇立しているのか、その複雑で曖昧な構造の絡まりを綺麗に整序するのは骨の折れる難事である。「美しい」という感覚の内実は、それを享受する人間の数に応じて無限の変奏の形態を有しており、如何なる対象に「美」を見出すかという問題に就いて普遍的で絶対的な基準を樹立することは不可能に等しい。

 従って私は或る個別の「審美的感覚」の内実や、それが形成される条件に就いて事細かな議論や省察に時日を費やそうとは思わない。私が関心を寄せるのは、その内容を問わず「審美的感覚」という現象が一般に有している配置や役割や効果である。

 三島由紀夫の小説を読んでいると、彼にとって「美」という理念が或る超越的な性格を持ち、彼の実際の人生の中で極めて大きな比重を占めていることが明瞭に看取される。彼にとって「審美的経験」という観念は、退屈な日常や平凡な出来事の反復を圧倒するほどに重大な価値を備えているのである。例えば「暁の寺」において、本多のタイ滞在を補助する任務を課せられた菱川という男は、次のような長広舌を揮う。

「芸術というのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭です。さしも永いあいだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久につづくと思われた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾にしてしまうのです。あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがいじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などというたわごとも忽ち色褪せてしまいます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちています。何がはじまったのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。

 そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属しているのです。

 夕焼の本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯振舞をすることはめったにないのです。夕焼雲はあらゆる左右相称シンメトリーに対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などがついていてよいものでしょうか?

 芸術はそれぞれの時代の最大の終末観を、何者よりも早く予見し、準備し、身を以て実現します。そこには、美食と美酒、美形と美衣、およそその時代の人間が考えつくかぎりの奢侈が煮詰っています。そういうものすべては、形式を待望していたのです。僅かな時間に人間の生活を悉く寇掠し席巻する形式を。それが夕焼ではありませんか。そして何のために? 実に何のためでもありません。(『暁の寺新潮文庫 pp.16-17)

 三島にとって「芸術」は時間を欠いた存在の形式である。「現前するものがすべて」であると看做されるとき、我々の存在は記憶された過去とも想像される未来とも切り離されて、或る瞬間的な白熱の境涯に置かれている。従ってそれは時間性を欠くと共に、如何なる目的とも、如何なる論理的な構造とも絶縁している。

 人間という生命体の固有な特徴は様々な観点から計え上げることが可能であろうが、恐らく「時間」という発明は、人間を他の生命体から弁別する最も重要で決定的な指標の一つである。記憶と想像という二つの機能の爆発的な発達が銘々「過去」と「未来」という時間的尺度を生成し、人間を「現前するものがすべて」であるような存在の様態から脱却させ、瞬間的な現実との密着の中に暮らしている夥しい数の生命体からの質的な乖離を齎したのである。人間的営為は常に「時間」という伴走者を連れて実行される。

 審美的経験は無時間的な現前の経験であり、それは過去や未来といった非存在的な理念の棄却を伴っている。今この瞬間に感受されている存在が世界の総てであるような経験、現前するものだけで世界が構成されるような経験、それが三島にとっての審美的経験の特質である。従ってそれはあらゆる人間的営為に対する残虐で決定的な破壊の性質を含有している。「美」は時間という人間的規矩を潰滅させる有毒な性質を潤沢に備えているのだ。三島的な論理において絶えず「美」と「死」との間に奇態な親和性が見出されるのは、両者が何れも「時間の廃絶」という特質を有していることの必然的な反映である。「美しい死」に対する濃密で深刻な憧憬は、現前するものへの無時間的な埋没に対する欲望と等価なのである。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 6

 三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)を読了したので、総括的な文章を書き留めておこうと思う。

 退屈で凡庸だが、小さな発見や些細な僥倖に満ちた静謐な日常の暮らし、というものへの素朴な憧れや慈しみと、完璧なまでに対極的な地点に立脚しているのが、三島由紀夫という作家である。彼の根源的な欲望、宿命的なオブセッション(obsession)は常に平坦で劇的な変化や事件に乏しい慎ましい暮らしの持続に対する破壊を、彼自身に向かって執拗に要求していた。「退屈な日常」と「刺激的な事件」とを秤にかけて比べたとき、否が応でも「事件」の勃発の側へ賭け金を投じずにはいられない聊か破滅的で危険な性情が、三島という作家の存在の「核」を形成していたのである。

 「豊饒の海」という長篇小説の第一巻に当たる「春の雪」においては、そうした「事件への欲望」は禁断の恋愛という使い古された物語の類型を借用した上で、詳細且つ克明に、その構造と推移を描き出された。第二巻に当たる「奔馬」において、その情熱は「忠義」や「熱誠」といった形態に置き換えられている。だが、両者の心理的な構造は互いにそれほど隔たっている訳ではない。

 宮は清顕の事件については、たしかに深い自尊心の傷を負われたであろうが、宮が何かの情熱によってお傷つきになったかどうかは定かでなかった。しかしもし、宮が、まことにそのとき、貴賤貧富を問わず人を死へ地獄へと引きずってゆくあの光りかがやく幻の反映によっておん身を染められ、その光りの前に人を盲目にするもっとも蒙昧もっとも高貴な情熱によってお傷つきになったのなら、……そして聡子の場合も、正に聡子その人によってそういう宮の情熱が灰に帰せしめられたのであったら、……それをここではっきり知ることができたら、……それにまさる清顕への供養はなく、それほど清顕の霊の慰めになることはないと思われたのである。恋も忠も源は同じであった。(『奔馬新潮文庫 pp.390-391 註・太字は筆者の処理)

 恋愛の情熱が、相互に隔てられた非連続的な存在としての個体の輪郭を抹殺して、自他の融合を実現しようと試みる不可能な欲望であることは論を俟たない。しかも恋愛の情熱は、そうした根源的な不可能性に却って触発され、煽動されるような仕方で一層の高揚を示す心理的現象である。それと同様の性質を「忠義」や「熱誠」という感情が孕んでいることに、我々は着目すべきであろう。熱烈な忠義に心身を燃やす国士にとって、例えば至高の存在である天皇陛下の「御心」の内訳に就いて彼是と揣摩臆測を試みることは僭越であり、不敬であると看做される。国士は飽く迄も一方的な忠義の情熱を、それが報いられるかどうかに関わらず、只管に捧げ続けることを自己の本分とする。こうした情熱の形式が、恋愛における情熱の形式と見事に照応していることは明らかである。

 人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか? どこかに確乎たる人間性の不文律があって、人間同士の盟約は禁じられているのだろうか? 彼は敢てその禁を犯したのであろうか?(『奔馬新潮文庫 p.401)

 この重苦しい悲愴な自問は、恋愛においても忠義においても共通して横たわっている「個体の非連続性」という根源的な宿命に関わっている。「人間性の不文律」は、相互に隔たった個体同士の完全な融合を禁じている。恐らく勲は「忠義」においても「血盟」においても、相互の完全な融合と完璧な純粋性の実現を強烈に望み続けていた。それが「確乎たる人間性の不文律」によって妨礙され、破綻を命じられたことは確かな事実である。

 生者たちの世界において個体の相互的な融合が「確乎たる人間性の不文律」によって禁じられているとき、その儚い希求の実現を「彼岸」に求めるという思考の様態は、恋愛から宗教に至るまで、人間の世界に広範に流布している。それが恐らく「死に対する欲望」を力強く喚起するのであり、個体的な生存の抱え込んでいる宿命的な「孤絶」を解消する唯一の手段として憧憬を集めるのだろう。

 この考えを、しかし、もう一歩押し進めれば、人は世にも暗い思想に衝き当るのだ。それは悪の本質は裏切りよりも血盟自体にあり、裏切りは同じ悪の派生的な部分であって、悪の根は血盟にこそあるという考えだった。すなわち、人間の到達しうるもっとも純粋な悪は、志を同じくする者が全く同じ世界を見、生の多様性に反逆し、個体の肉体の自然な壁を精神を以て打ち破り、折角相互の浸蝕を防いでいるその壁を空しくして、肉体がなしあたわぬことを精神を以て成就することにあったかもしれない。協力や協同は、人類的なものやわらかな語彙に属していた。しかし血盟は、……それはやすやすと自分の精神に他人の精神を加算することだった。そのこと自体、個体発生オントジエニーの中に永久にくりかえされる系統発生フイロジエニーの、もう少しで真理に手を届かせようとしては死によって挫折して、又あらためて羊水の中の眠りからはじめなければならぬ、あの賽の河原のような人類的営為に対する、晴れやかな侮蔑だったのだ。こうした人間性に対する裏切りによって、純粋をあがなおうとする血盟が、ふたたびそれ自体の裏切りを呼ぶのは、世にも自然な成行だったかもしれない。かれらはそもそも人間性を尊敬したことがなかった。(『奔馬新潮文庫 pp.401-402)

 頗る乱暴に要約してしまえば、勲は自らが至高の価値として信奉し続けてきた「純粋」という美徳そのものに内在している「悪徳」の深刻な病質に想到したのである。個体的な輪郭を棄却しようと試みる営為の総てが、人間的な価値に対する悪質な暴力として顕現することの絡繰に目覚めたのである。禁じられた恋愛に苦しむ人々が「情死」によって不可能な融合を遂げようと企てるように、勲もまた「純粋」という不可能な理念に殉ずるべく自刃を遂げる。最も美しい生の形態は、最も美しい死の形態によって支えられ、保証されるという如何にも三島的な論理に従って、彼は「純粋」という不可能な理念の庇護に一身を投じたのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 5

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 「純粋」であることへの透明に磨き上げられた欲望、それは猥雑な事物の複雑な混淆として織り成されている我々の日常的な生活を蒸留することへの欲望だと言い換えて差し支えない。だが何故、勲はそれほどまでに「純粋」という曖昧な美徳へ固執しなければならないのだろうか? 「純粋」の美徳は、我々の日常的な生活の一切合財を転覆し、瓦解へ導くほどの価値を備えているのだろうか? 日常的な生活の孕んでいる諸々の不合理や矛盾、軋轢や罪悪、面従腹背、こういった不純な要素の数々に対する潔癖な心性は、如何なる結論へ流れ着くのか?

 混濁した現実から純粋な価値を蒸留しようと試みるプラトニックな心情は、三島の創造した文学を構成する最も主要な旋律の一つである。尤も、三島は「純粋」という美徳が否が応でも不合理な現実に厳しく打ち負かされ、無惨な敗北へ帰結することを十全に知悉していただろうと思われる。彼にとって肝要なのは「純粋」という美徳の、腐敗した現実に対するロマンティックな勝利ではなく、寧ろ甘美な敗北の方である。「純粋」の美徳が不可避的に選択せざるを得ない残酷な敗北の帯びている無類の悲劇性こそ、三島が最も強く憧れ、希求した観念であった。何故なら、その甘美な敗残の悲劇性こそが、人間の「死」という運命的な営為を最も劇的な形で飾り立てるからである。

 言い換えれば、勲にとって「純粋」の美徳は、それ自体が希求の対象なのではない。彼の欲望の根本的な目標は「美しい死」であり、飽く迄も「純粋」という美徳は、末期の瞬間を壮麗に彩る為の狷介な伏線に過ぎない。彼が美しく死ぬ為には、どうしても「純粋」という金箔が必要なのである。美しい死は、彼の実存に或る永遠的な形態を恩寵の如く賦与する。それは「生きる」という人間的な営為の孕んでいる本質的な「堕落」からの脱却を意味している。

 思えば蔵原をよく知らぬということこそ、勲の行為を正義に近づけるものだった。蔵原はなるたけ遠い抽象的な悪であるべきだった。恩顧や私怨はおろか、その生の人間に対する愛憎すら稀薄なところに、はじめて殺人が正義になる根拠があった。彼はただ遠くから、その悪を感じるだけで十分だったのである。

 いやな人間を殺すのなら簡単である。卑劣な人間を倒すのなら楽である。彼はそんな風に、敵の人間的欠陥に乗じて、それで自分を納得させて殺すのではいやだった。彼の脳裡にあった蔵原の大きな悪は、身の安全のために靖献塾を買うような小さなせせこましい悪とつながっていてはならなかった。神風連の若者たちも、決して熊本鎮台司令長官を、その小さな人格的欠点のために殺したのではなかった。

 勲は苦しみのために呻いた。美しい行為というものは何と壊れやすいのだろう。自分は美しい行為の可能性を、理不尽にも根こそぎ奪われてしまった。たったあの一言のために!

 あとただ一つのこされている行為の可能性は、自分自身が「悪」になることだけだ。しかし彼は正義だったのだ。(『奔馬新潮文庫 pp.272-273)

 個人的な愛憎の感情に基づいて罪を犯すならば、それは正義の称号に値せず、その行為は単なる矮小な悪事に過ぎなくなる。それは例えば坂口安吾が喝破したような人間の本源的な「堕落」の様態に自ら埋没することと同義である。安吾はそうした「堕落」を積極的に、半ば逆説的に肯定したが、三島の美学は決して「堕落論」の提示するような種類の倫理を肯定しない。彼の美学は人間の「堕落」を許容しないという壮烈な正義に依拠しているのである。「美しい行為」の連鎖だけが、当人の「死」を壮麗な悲劇に作り変える論拠となる。そうであるならば、個人的で卑小な「私怨」を足懸りに用いてテロリズムへ踏み切ることは最悪の選択肢ということになるだろう。或る明瞭な個人、善悪若しくは清濁の両面を兼ね備えた具体的な実在としての個人を殺害するのではなく、飽く迄も抽象的な「悪」の概念の肉体的な表現を殺害すること、如何なる私情とも無関係に純然たる「正義」と「悪徳」の問題として殺戮を決行すること、これこそが勲の「自刃」を美しい悲劇へ昇華させる重要な礎石なのである。

 現実が一つ崩れたあとも、すぐ別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか馴れはじめている自分に気づいた。その新らしい結晶からは中尉はすでに弾き出されていた。そしてその威丈高な軍服姿は、出口も入口もない透明な結晶体のまわりをうろうろしていた。勲はもう一つ高度の純粋へ、もう一つ確実性の高い悲劇へ辿りついたのだ。(『奔馬新潮文庫 pp.331-332)

 堀中尉の満洲への転任によって、蹶起の計画が成功する見通しは確実に目減りした。しかし、それは勲の撤退と断念を促す根拠にはならない。寧ろ蹶起の成功は、不透明な政治的現実への陥入を意味している。それは新たな「堕落」の幕開けに過ぎない。敗残が必至であればあるほどに、勲の蹶起の「純粋性」は一層高められ、その抽象化の作用を通じて、彼の個人的な情念は益々鮮明に洗い清められる。勲の判断は現実的な世界とは関わりを持っていない。そもそも計画の当初から、彼は具体的で不合理な現実に対する蔑視と黙殺を堅持してきたのだ。猥雑な現実を或る抽象的な理念へ昇華すること、こうしたプラトニズムだけが「美しい死」という奇態な夢想を涵養し得るのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 4

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫という作家は、我々の存在を否が応でも取り囲み、腕尽くで捕縛して決して解放することのない「時間」という奇妙な形式、権力、原理の有する「腐蝕」の作用に就いて、根深い敵愾心を胸底に懐き続けた。彼が殊更に「死」という不穏な運命への憧憬を強調し、そうした性向を様々な作品の細部に明瞭な形で刻み続けた理由も、恐らく「死」という現象に「時間」の魔力からの救済の可能性を見出していた為ではないかと推察される。

 時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか。(『奔馬新潮文庫 p.253)

 聊か生硬な物言いになるが、本多の歎ずるように「時の流れ」が「崇高なもの」の悲劇的で美しい外貌を刻々と腐蝕させていくのは、時間が本質的に「相対化」という比較級の効力を備えていることの所産ではないかと私は思う。或る事物が如何なる記憶とも想像とも認識とも結合せず、従って少しも比較されずに、或る個体の精神的な領野の全体を覆って、完全に占有してしまうとき、その事物は如何なる外在的な存在によっても侵犯されることのない「絶対性」を身に纏うだろう。時間の経過、或いは「時間」という一つの存在の領域そのものの裡に、崇高な存在の帯びている絶対的な性質を転覆させる力学的な構造が装填されているのである。そうした「時間」の支配を免かれることに情熱を燃やすということは、或る存在の固有な様態を特権的な仕方で「絶対化」することを望むのと同義である。一方、滑稽なものは、常に絶対化された存在の裡に多様な「亀裂」を発見することに愉悦を味わうようなタイプの主体の視野を通じて析出される心理的現象である。絶対的な存在、如何なる比較とも批判とも無縁の存在、それが自らの崇高な性質を保ち続ける為には、時間の有する腐蝕の効能は最悪の宿敵なのである。

 清顕は美しかった。無用で、何ら目的を帯びずに、この人の世を迅速に過ぎ去った。そして美の厳格な一回性を持っていた。さきほどの一セイの謡が、

「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」

 と謡われたあの一瞬のように。

 鋭く、たけだけしいもう一人の若者の顔が、その消えかかる美の泡沫みなわの中から泛び上ってきた。清顕において、本当に一回的アインマーリヒなものは、美だけだったのだ。その余のものは、たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求したのだ。清顕において叶えられなかったもの、彼にすべて負数の形でしか賦与されていなかったもの……(『奔馬新潮文庫 pp.254-255)

 「一回性」という観念が、無限の広がりを有する時間的な領域の秩序に対立する断絶的な性質を孕んでいることは明瞭である。或る存在が一回的である為には、時間の流れは断ち切られる必要がある。何故なら、時間という枠組み自体が不可避的に、或る存在の「反復」の可能性を含んでいるからである。反復される可能性を備えた総ての存在は「美の厳格な一回性」という秘蹟に化身することを予め禁圧されている。言い換えれば「時間の廃絶」という三島の宿願を叶える為には、如何なる「反復」も許さない特権的な行為へ踏み切ることが肝要なのだ。

 我々の存在や精神や行為が、如何なる場合においても反復し難い固有性を備えていると断ずることは容易い。だが、我々が自身の固有性であると特権的に捉えている様々な事柄や要素が、果てしない時間の流れの中で、二度と反復されることのない「一回性」を孕んでいると、厳密に立証することは、実際には不可能に等しい。この瞬間そのものの「一回性」を認める為の根拠は、決して客観的な形では存在しないのである。

 恐らく三島にとって「美」という現象の本質は「一回性」という観念によって構成されている。或る事象が審美的な価値を認められる為には、その事象が「反復されない存在」であることが絶対に必要なのである。反復の不可能性とは即ち「時間の廃絶」に他ならない。時間の流れを断ち切ってしまえば、その存在は自らの固有の形態を「永遠」の領域に定着させ、一切の腐蝕と相対化から保護することが可能になる。少なくとも「死」は、或る個体の固有な形態を一つの額縁の裡に固定し、様々な変容の可能性を一斉に棄却し、総てを二度と書き換えられることのない不動の状態へ遷移させる力を備えているのだ。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 3

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のような観念、やさしい母の胸にすがりつくような観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるいは切腹の観念に結びつけるものだった。「花と散る」というときに、血みどろの屍体はたちまち匂いやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だった。だから、純粋は詩なのである。

 勲には、「純粋に死ぬ」ということはむしろ容易く思われたが、たとえば純粋で一貫しようとすると、「純粋に笑う」ということはどういうことだろうと思い悩んだ。感情をどう規制してみても、彼は時にはつまらないものを見て笑ってしまった。道ばたの仔犬が、下駄をくわえて来て戯れているのならまだしも、いやに大きなハイヒールをくわえて来て、ふりまわして戯れているのを見たときにも笑ってしまった。彼はそういう笑いを人に見られたくなかった。(『奔馬新潮文庫 pp.141-142)

 「純粋」という言葉の意味は曖昧で広範な性質を備えている。ただ文脈から察するに、三島にとっての「純粋」という観念は、我々の属する通俗的で社会的な現実の本質を成す「日常性」という規矩に背馳するものであると考えられる。「日常性」とは即ち「時間の無限性」の異称であり、従ってそれは三島の信奉する「時間の廃絶としての永遠」という崇高な理念と矛盾する代物である。「純粋に死ぬ」ことは容易であるのに「純粋に笑う」ことは理解し難い行為に思われるという勲の述懐は、そもそも「純粋」という観念が無時間的な性質を備えていることの傍証である。「笑う」という行為は眼前の現実を構成している様々な不合理や矛盾に対する寛容な視線の上に初めて成立するが、それは「純粋」という観念が含んでいる性質とは相容れない。何故なら「純粋」という性質は「正義」という観念に固有の美徳であり、従って「純粋」という価値を称揚することは諸々の不合理や矛盾に対する厳格な峻拒を選択することに他ならないからである。

 純粋という美徳は、正義という観念が内包している美徳と相互に分かち難く結び付いている。それは一切の矛盾や異物を孕まない完璧な同一性を指し示す観念である。純粋であることは、異物に対する厳格な排斥の意識を絶えず堅持することに他ならない。従って純粋な人間は原理的に「笑う」ことが出来ない。何故なら「笑い」は完璧な同一性の破綻に向かって捧げられる肯定の感情であるからだ。

 勲にとっての政治的情熱は、単一の正義に対する完全な服従と奉仕を意味している。重要なのは極限まで「純度」を高めることであり、一切の夾雑物を放逐することであって、混沌たる多様な現実の総てを包摂する寛容な社会的展望を構築することではない。勲の信奉する政治的理想は極めて全体主義的な性質を濃厚に含んでいる。それは如何なる例外も逸脱も許さない「純粋性」を至高の規範に定めている。しかも、その純粋性の観念は現実との具体的な聯関を欠いているのである。

 勲は綱領を作らなかった。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するように働らいている世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであろう。……従って又、勲は同志を選ぶための会見では、何一つ自分の企図を語らず、何一つ約束をしなかった。この若者は入れてやろうと思ったとき、勲はそれまで故ら作っていた厳しい顔を和らげて、相手の目を親しげにのぞき込んで、ただ一言、こう言いかけるだけであった。

「どうだ。一緒にやるか」(『奔馬新潮文庫 p.233)

 行為の内容を吟味せず、行為の決意だけを尊重するという奇態な暗黙裡の綱領は、勲の政治的情熱が如何なる具体的な「行為」とも実質的に関連していないことを示している。一般論として、行為の決意云々よりも、行為の内実の方が重要な意義を帯びていることは疑いを容れない。つまり、ここには奇妙な倒錯が生じているのである。この倒錯は、勲が政治的理想の為に殉死を選ぶのではなく、殉死という壮麗な行為へ辿り着く為に政治的理想を活用しているという心理的な顛倒と、構造的に同期している。行為の目的や効果よりも、行為するという決断だけが殊更に尊ばれるという奇怪な原理は、換言すれば行為の時間的な性質を悉く捨象しようと試みる欲望の形態と深く関わり合っていると言えるだろう。行為そのものよりも、行為の決意が重要な意義を帯び、その行為の帰着する結果の内実よりも、行為という一つの枠組みが手厚く扱われるという論理は、或る行為の有する時間的な経過の意味を不当に軽視していると言えるだろう。言い換えれば、その行為は一瞬の奇蹟的な静止画のように眺められ、時間的な幅員を極限まで縮減され、目的や因果といった論理的且つ時間的な構成の制約から切り離された状態で、いわば審美的な鑑賞の対象として留置されているのである。別の角度から事態の構造を観察すれば、勲の蹶起という「行為」の終極的な目標が、当面の目標の成否に関わらず「自刃」の一事に尽きているということも、彼の行為が「時間性」の観念からの脱却を志向していることの証明であると言える。勲の「純粋」という美徳に対する過剰な固執もまた、時間という形式の内包する「腐蝕」の効果に対する反発と抵抗を含んでいるのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 2

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 「豊饒の海」の第一巻に当たる「春の雪」においては、主役である松枝清顕は未来を削除された情熱的な恋愛の裡に、無時間的な「永遠性」の観念を見出して計り知れない陶酔に溺れた。それは「結婚」に代表される現実的な社会関係の構築を免除された、つまり「時間」の堆積の可能性を予め封じられた、奇妙な「感情の球体」(三島由紀夫「絹と明察」に登場する修辞である)に自ら逼塞することを意味していた。換言すれば清顕は、無時間的な「恋愛」の渦中にしか、自らの情熱を炎上させる為の燃油を発見することが出来なかったのである。そうした心理的構造は「豊饒の海」の第二巻に当たる「奔馬」においても、表層的な外貌を取り換えた上で引き継がれていると言える。

 「奔馬」の主役である飯沼勲は、かつて松枝侯爵家の書生として清顕の教育係を務めていた飯沼茂之の息子であり、その熱烈な愛読書は、明治初頭に熊本で発生した士族の叛乱の経緯を綴った「神風連史話」と称する小冊子である。勲の心酔する「神風連史話」の中には、敗残の叛徒たちが陸続と日本刀で自裁していく姿が執拗に書き込まれている。彼らの政治的な情熱の核心を成すものが「美しい死」への苛烈な欲望であることは明瞭である。腐敗した日本の現実を浄める為という大義名分は、彼らの内なる情熱を正当化する為に編み出された御題目であり、実際の神風連の人々が如何なる性質の思想を懐いていたかという史実とは無関係な次元において、少なくとも「神風連史話」と称する架空の冊子は、叛徒たちの情熱が只管に「壮麗な自刃」へ向かって迸っていたことを淡々と告示している。彼らの抱懐する政治的な情熱は、眼前の現実に対する具体的な処方箋を粘り強く実行に移していく労役と狡智の価値を、積極的に軽んじている。

 三島が「奔馬」という作品において描き出そうと試みているテロリズムへの情熱の構造は、「春の雪」において清顕が示した禁断の恋愛に対する情熱の構造と、同一の性質を備えているように見える。何れの場合にも、その情熱の極北には必ず「死」という名の絶対的な断絶の宿命が待ち構えており、遅かれ早かれ「夭折」という恩寵を賜ることが暗黙裡に予定されているのである。

「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握って、ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作って、御前に捧げることだと思います。その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになったり、あるいは、『こんな不味いものを喰えるか』と仰言って、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるようなことがあった場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であって、よろこんでその握り飯を召し上っても、直ちに退って、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握った飯を、大御食として奉った罪は万死に値いするからです。では、握り飯を作って献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましょうか。飯はやがて腐るに決っています。これも忠義ではありましょうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作った握り飯を献上することであります」(『奔馬新潮文庫 p.221)

 洞院宮殿下に対する勲の個人的信念の熱烈な表白は、彼の政治的な情熱が或る審美的で宗教的な性質の下に拘束されている事実を明瞭に示している。表白の内容は、勲の情熱の行き着く標的が常に「死」であること、彼の情熱が他の何物よりも先ず「壮麗な死」を優先して厚遇していることを端的に表している。それは政治的な外貌を纏っているが、実際には政治的な技巧や思想とは具体的な関連を有していない。

 清顕が恋愛そのものよりも、恋愛を通じて獲得される「永遠」の境涯に重きを置いていたように、勲もまた政治そのものより、政治的な運動を通じて得られる「永遠」の壮麗な顕現に最大の価値を見出している。彼にとって政治的な思想の内訳は二義的な意味しか持ち合わせておらず、肝心なのは政治的思想が彼の「死」に赫奕たる栄光を賦与するか否かという問題に限られている。若しも彼が本気で穢れた世情を理想的な形態へ改革することを望んでいるのならば、割腹自殺は最も忌避すべき悪手に他ならない。あらゆる艱難を生き延びて、如何なる恥辱も汚名も堪え忍んで雌伏する覚悟を持たなければ、政治的理想の実現という壮大な野望は達成されないだろう。しかし、勲の情熱はそのような忍辱を肯定するものではなく、理想と現実との甚だしい径庭と乖離を一歩ずつ地道に埋めていく陰鬱な労役に対して捧げられたものでもない。彼の忠義は政治的な理想を達成する為に持ち出された美徳ではなく、飽く迄も彼自身の壮烈な「死」を正当化する為の素晴らしい材料として案出された審美的な観念なのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

「堕落」に関する対蹠的な見解 三島由紀夫と坂口安吾をめぐって

 三島由紀夫という作家は、生きることを一種の「堕落」として捉えていた。彼にとって「若さ」は常に美徳であり、一方の「老い」は醜悪な悪徳に他ならない。実存的な時間の流れに導かれて、生から死へと躙るように進んでいく我々の生物学的な宿命は、或る純粋無垢の情熱が無限に腐蝕していく過程として、批判的に眺められる。

 彼ほど「老醜」という身も蓋もない現実を明瞭に嫌悪し、生きることの持続を聊かも幸福で明瞭なプロセスとして称揚しなかった作家も珍しい。少なくとも彼自身は、世間の基準と比較して酷く恵まれない境涯にあった訳でもない。貧困の陋巷を這い回り、明日の衣食にも事欠く窮乏を強いられていた訳でもない。富裕な生家に恵まれ、優秀な頭脳に恵まれ、作家としても屈指の社会的栄誉を堂々たる態度で纏っていた。そういう人物の胸底を蝕む「生きることへの嫌悪」の絶望的な根深さに、私は戦慄を覚えずにいられない。寧ろ富貴な境遇に囲繞されていたからこそ、却って彼は「永遠」を欲したのだろうか? それが失われてしまう危険を持たざる者よりも遥かに強く痛感せずにいられないからこそ、時間の流れに対する劇しい憎悪を蓄積してしまったのだろうか?

 坂口安吾もまた「生きること」と「堕落すること」との間に重要な等号の介在を認めていた。けれども、そのベクトルは三島とは明確に対蹠的である。このブログでも何度も引用しているが、かの有名な「堕落論」において、坂口安吾が示している述懐の含意は、三島的な論理に正面から対立する性質を備えている。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫ほうまつのような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音あしおと、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。(坂口安吾堕落論」 註・青空文庫より転載)

 三島由紀夫が、昭和天皇の所謂「人間宣言」に反発していたことは知られた事実である。その一点に限ってみても、三島と坂口との間に横たわる方向性、価値観の相違は明瞭である。三島は恐らく「運命」という壮麗な大義名分を好んでいたが、坂口にとっては、そんなものは「虚しい幻像」に過ぎない。三島にとって最も大事なのは「特攻隊の勇士」に象徴される美しい純潔な幻影であろうが、坂口が重んじるのは「闇屋」によって切り拓かれる卑賤な「人間の歴史」の方である。無論、私は両者の優劣を論じているのではない。三島的な美学に対する解毒剤としての、坂口安吾の「健全な堕落」の重要性を再認しているだけである。