サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 3

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 「忙殺」という無惨な悪徳が、自己の「生」の他者による簒奪或いは侵襲によって生じるのだとすれば、我々がそうした悪徳の齎す虚無の症候を免かれる為には、当然のことながら、この貴重な一回限りの「生」の時間を他者の支配から奪還するという格闘が要請される。

 他者の支配から解き放たれた実存的な時間のことを、セネカは「閑暇の生」という言葉で表現する。そして「閑暇の生」の対義語として侮蔑的な含意を伴って用いられるのが「不精な多忙」という言葉である。

 あらゆる「忙殺」の原因は他律的な性質を孕んでいると考えるべきである。自分から好んで選んだ行為であったとしても、往々にしてそれらの行為は何らかの抗い難い外在的な衝動や要求に基づいて我々の身辺を包囲し、強制的な命令を発している。我々の日常的な忙しさの過半は、他律的な要因にその根拠を有し、表層的な「忙殺」の現象は我々自身の内在的な要求から離反している。そうした奇態で不毛な乖離は、我々自身が主体的な価値形成の過程を見限っていることの反映であり効果である。

 すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。われわれがこの上ない忘恩の徒でないかぎり、神聖な思想のさまざまな学派の令名赫々とした創始者たちは、われわれのために生まれ、われわれのために生を用意してくれたと考えねばならない。われわれは、他者の彫心鏤骨によって闇から光へと掘り起こされた、美しいこときわまりない知の世界へと導かれる。われわれに閉ざされ、禁じられた世紀はなく、われわれはどの世紀にも入って行くことが許されており、精神の偉大さを支えに、人間的な脆弱さから来る狭隘な限界を脱却したいと思えば、(その知の世界を)逍遥する時間はたっぷりとある。(『生の短さについて』岩波文庫 p.48)

 この場合の「英知」という言葉が、セネカ自身によって批判されている、些末な知識の蒐集を意味するものでないことは明瞭である。何の役にも立たない雑駁な知識を溜め込むことは、無闇に厖大な資産を誇ったり、己の社会的な地位や栄誉を自慢したりすることと同質の悪徳であり、従ってそれは「不精な多忙」の範疇に属する事柄なのである。テレビの画面に氾濫する夥しいクイズ番組の奇妙な隆盛を徴すれば明らかなように、知識の多寡を競い合うことは、セネカの論じる「英知」の問題とは全く無縁である。知識の多さを誇示することは、財産の豊かさを誇示することと同じ下劣な風格を備えた行為なのだ。財産よりも知識の方が相対的に優等であるという偏見は、合理的な論拠を毫も有していない。

 「英知」という言葉が最も緊密な結合を示している美徳の名は「静謐」である。だが、これだけでは何故「静謐」という曖昧な形容詞が「美徳」の称号に相応しいのかを説明したことにはならないだろう。「静謐」の含意は、主体的な「自制」である。自己を律し、他者による支配を免かれ、只管に世界の「真実」を見究めようとすること、換言すれば「生きること」の実相を洞察すべく時間を費やすこと、それが「閑暇の生」を構成する中核的な働きなのである。

 人間は快楽に耽溺し、豊饒な資産を求め、権力に憧れ、欠如を埋める為に情熱を燃やす。そうした「煩悩」の塊である己の立場を無理に否認しても仕方ない。そうした欺瞞は美辞麗句で飾り立てられた空虚な「大義」を生み出しかねないからである。例えば禅宗の教義は、僧侶が悟達の境地に留まり続けることを批難する。中国臨済宗の僧侶が考案した、悟達の段階を示す「十牛図」の最終段階は「入鄽垂手にってんすいしゅ」と称し、俗世に戻って衆生の救済に当たることが至高の美徳であることを語っている。つまり、俗世を離れて隠遁し、清廉な生活に逼塞するだけでは、人間的な美徳の絶巓に達することは出来ないのである。

 そうであるならば、俗塵に塗れ、社会的な体制の中に歯車の如く組み込まれても猶、主体的な自律の精神を維持することが最も望ましい人間的境地であるということになる。如何なる環境に置かれても「閑暇」を保つこと、それが「静謐」という徳目の要諦である。「静謐」の徳目が遵奉されているとき、たとえ社会的な雑務の渦中に呑まれていても、人間は「自己」の本来的な時間を忘却しない。言い換えれば「自分という人間の姿形や在処」を見失うことがない。他者に一切を併呑され、自己の本来的な信条や欲望を喪失する危機を常に免かれることが出来る。単純に俗世から物理的な距離を確保し、他人との交わりを断ち切って「静謐」を得るというのは、修養の劈頭においては容認されるが、その境涯に留まっている限り、更なる飛躍や成長は望めない。

 「心の平静について」と題された一篇の著作は、正にこうした「静謐」の美徳に就いて論じたものである。そこでは、如何なる要因が個人の内的な「静謐」を妨害するのか、詳細で具体的な考究が綿々と展開されている。そしてセネカの示す精密な「カルテ」(karte)は、我々の「心の平静」を擾乱する最も根本的な要因を「自己に対する不満」(p.77)に求めている。言い換えれば、それは精神的な「飢渇」である。自分自身が置かれている現状への不満、叶えられぬ憧れや祈り、他者との相対的な較差、こうした要素が複雑に混淆して、抑え難い執着と種々の劇しい欲望を分泌するのである。

 私自身、未だ生涯の途上にあり、三十三歳の誕生日を迎えても猶、未熟な青二才の悪徳が一向に払拭されない体たらくを病んでいる。そういう人間の考え付いた事柄に普遍的な説得力など望みようもないのだろうが、自分自身の日々の経験や過去の記憶を踏まえて考え合わせてみると、人間の「幸福」というものは、多くの宗教や哲学が語るように、やはり「欲望の停止」を基礎として培われるのではないか、という風に感じている。

 幸福とは凪のように穏やかな状態を指し、現状に満ち足りて、外部に何かを求める必要に迫られず、分不相応な欲望や野心の虜とならない精神的状況を表現する観念である。欲望は「不足」や「欠如」の感覚から出発し、それが充足された瞬間に強烈な歓喜を惹起する。この「歓喜」には麻薬的な中毒性が備わっていて、しかも「歓喜」は一過性の現象であり、常に足早に我々の許を立ち去っていく不安定で流動的な性質を宿している。我々は強烈な「歓喜」の記憶に魅了され、幾度もそれを反復しようと試みる。こうした反復は、原理的に「終止符」というものを欠いている。寧ろ我々は「歓喜」を感じる為に敢えて「欠落」を求めるという奇態な逆説の裡に閉じ込められているのである。平穏な生活に「倦怠」を覚える心理的背景には、いわば「欲望への憧憬」或いは「情熱への憧憬」という貪婪な現象が関与しているのである。

 記憶の中に揺れる「歓喜」の幻影に煽られて、人は自らの意志で平穏な生活に亀裂を走らせる。騒擾と混乱の渦中に身を投げ、劇しい飢渇と奇蹟的な充足の目紛しい交替に耽溺しようと企てる。それが所謂「享楽」の原理である。「享楽」の原理と「幸福」の原理との間には著しい対照性が広がっている。「享楽」は「欠如」によって駆動され、それゆえに自らも「欠如」を要求するという循環的な性質を持っている。「欠如」と「充足」の無際限な輪廻が「享楽」の絶対的な歓喜を実現する為の基礎的な条件なのである。一方の「幸福」は、そのような「欠如」が幻影に過ぎないことを知悉しない限り、成立しない。劇しい「歓喜」が必ず深刻な「絶望」と闇の中で手を結んでいることを精確に学び、そのような秘密の結託に対して「峻拒」を以て臨むこと、それだけが揺るぎない「幸福」へ到達する為の要諦なのだ。言い換えれば「幸福」とは「欲望」という流動的な機構への果敢な抵抗の異称なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

Cahier(三島由紀夫と「享楽」)

セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を繙読していたら、次のような記述に逢着した。

 しかるに、快楽は喜悦の絶頂に達した瞬間に消滅するものであり、それほど広い場所をとらず、それゆえ、すぐに満たし、すぐに倦怠を覚えさせ、はじめの勢いが過ぎれば、すぐに萎えしぼんでしまうものなのである。およそその本性が生々流転しょうじょうるてんの動きにあるものは、確固としたものであることは決してない。したがって、また、みずからの作用を発現しているまさにその瞬間に滅ぶべく、たちまち来りては、たちまち過ぎ行くものには何らの実体もありえない、ということになる。そのようなものは、みずからが終焉を迎える目的地に向かってひたすら突き進み、生成の始まりと同時に存在の終わりに臨むものだからである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.147)

 エピクロスの思想を批判する文脈で語られたこれらの言葉から、私は咄嗟に三島由紀夫の小説を連想した。彼の思想の根本に「夭折」への憧憬と欲望が横たわっていることは広く知られた事実である。実際、彼の作品には度々、若さと美しさの絶頂において死を遂げる存在への崇敬が織り込まれている。翻って彼の「老醜」に対する敵意と絶望の劇しさは、彼の思想が根本的に「享楽」の要素を豊富に含んでいる為ではないかと思われる。

 彼の作品を支配する主要な観念である「美」の具体的な内実に就いて、これまで私は行き届かぬ理解を持て余してきた。仮に「美」を端的に「快楽」と読み替えたとき、彼の作品を覆う奇態で性急な衝動の意味が、幾らか鮮明になるのではないかという予感に今、囚われている。尤も、これは論拠の薄弱な主観的暴論の萌芽に過ぎない。

 「享楽」という感覚的現象の構造が、セネカの侮蔑的な言及にある通り、絶頂と衰退の目紛しい変転という性質を有していることは経験的な事実である。三島の生得的な願望は、そうした享楽の絶頂において、その絶対的な高みにおいて永遠と化すことを希求している。無論、現実の世界で享楽が永久的な持続を実現することは難しい。そこには根源的な逆説がある。如何なる享楽も、それが永久的に持続するならば、その強度は不可避的に失われるという論理である。持続する絶頂は、絶頂たる資格を自ずと喪失する。享楽における絶頂は常に瞬間的な現象であることを原理的に強いられている。

 それでも無理を承知で、享楽の絶巓を永遠に持続したいと願うならば、次善の策として考えられるのが「絶頂における死」を遂げることである。絶頂の渦中で命を絶てば、死者は実質的に永遠に持続する享楽の裡に葬送されることとなるからだ。例えば「憂国」のように、性的な欲望と死への欲望とが相互に緊密な結合を示す背景には、こうした「享楽」の論理が重要な役割を担っているのではないか。享楽の恍惚を極限まで追求すれば、その永久的な持続を望むのは必然的な帰結である。エロス(eros)とタナトス(thanatos)の奇怪な融合は、享楽の極北における不可避の現象なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 
花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 2

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 多くの人間が、生物学的な宿命たる「死」の到来の厳然たる絶対性に眼を塞いで生きている。日々、忙しさに追い立てられて暮らしていると、自分の「死」という約束された暗鬱な未来に想いを馳せることは難しい。幼い頃、私は蒲団の中で死後の世界を想像し、自分が死んで如何なるアクセスも出来なくなった宇宙が、それでも涼しい顔で未来永劫続いていくのだという認識に怯えて涙を流した経験がある。その瞬間、私は小さな哲学者であったのかも知れない。しかし長じるに連れて、そうした真摯な空想は私の遽しく俗塵に塗れた生活を見限ったように遠ざかり、その姿は虹のように薄れてしまった。

 セネカは、死の恐怖に襲われ、生命の短さを嘆く人々に対して、痛烈な批判者としての立場を崩さない。彼らの悲嘆が聊かも現実的なものでも正当なものでもないことを入念に縷説する。人間に授けられた生物学的な時間が短い訳ではなく、人間の「浪費」という悪習が、本来ならば充分に豊饒な時間を虚しく減殺しているのが実情なのだと、彼は断定する。つまり、人生の短さに対する慨嘆は不当な要求に基づいていると、彼は看做しているのである。

 そうした不合理な慨嘆の背景に、実存的時間の有限性に対する無理解が介在していることは明白な事実である。或いは、このように言えるかも知れない。生の短さを大袈裟に、悲劇的な表情で嘆きながらも、同時に多くの人々は、夥しい時間を持て余して、その理想的な使途に就いて定見を持っていないのだと。こうした考え方は、我々の度し難い性向、或いは深刻な宿痾である「倦怠」の感情の日常的な瀰漫によって、明確に立証されていると言うべきである。我々は生の短さを本当の意味では嘆いていない。仮に嘆くとしても、その時期は我々が老年に差し掛かり、漸く具体的な現実味を帯び始めた「死」の運命に総身を掴まれた後の話である。「死」が遠方に、蜃気楼のように儚く微かに揺めいている段階においては、我々は寧ろ「生」の途方もない厖大な質量に倦怠を覚えている。我々の実存的時間に関する浪費と蕩尽の劇しさは、そうした倦怠の齎す認識的錯誤の所産なのである。

 我々は永遠に持続するように思われる「生」の厖大な質量に堪え難い苦しみを見出し、それを無惨に使い果たしてしまおうと、焦躁に駆られて様々な暗愚な行為に走る。そうやって人生の「余白」を無理にでも埋め尽くし、空虚な倦怠を押し殺そうと乏しい智慧を働かせる。それが大いなる誤解と軽率な謬見に根差した考えであることに、我々が自力で明晰な自覚を得ることは一般に困難である。差し迫った滅亡の危殆だけが、我々に「死」の実感を与えると共に、有限の「生」に対する覚醒を齎す。

 所謂「ニヒリズム」(nihilism)は、実存的時間の厖大な質量に対する倦怠から生じる感覚ではないかと私は思う。それは「どうせ死んでしまうのだから、如何なる努力も労苦も無益である」という虚無的な命題とは異質なものではないか。「無意味な生」が果てしなく持続するように感じられること、それがニヒリズムの根源的な濫觴である。「終焉を欠いた生存」という誤った幻想がニヒリズムを齎すのだとすれば、必然的にニヒリズムとは一つの病理ということになる。

 生存は必ず終焉を迎える。しかも、その終焉は絶えず私たちの生活の一隅に、萌芽として隣接し続けている。だが、我々の鈍感な意識は、微かな「死」の萌芽を真剣に捉える労力を払おうとせず、寧ろ果てしなく持続する生存に困憊し、場合によっては一刻も早い終焉を希求するような始末である。死の運命に対する悲嘆も憧憬も共に「永久的な生存」という奇態な謬見に基づいて生まれている。

 実存的時間を持て余すこと、それを焦躁に駆られた浪費の悪徳によって貪婪に食い潰すこと、そうした人間の病弊を指して、セネカは「忙殺」という言葉を用いている。それは有り余る退屈な時間を、様々な事柄に振り分けて、内在的な虚無の荒廃を埋め合わせようと試みる人間の生き方である。その根底には、人生に「意味」や「価値」を見出すことに困難を感じるニヒリズムの病理が隅々まで蔓延している。先程の記述を訂正しておこう。「終焉を欠いた生存」という謬見がニヒリズムを齎すのではない。人生に「意味」や「価値」を見出すことに困難を感じるというニヒリズムの中核的な症状が、有限な「生」を無限の「倦怠」へ書き換えてしまうのである。

 生存の目的に遭遇し得ず、自覚し得ないというニヒリズムの病弊は、如何なる原因に基づくのだろうか? 如何なる行為にも関心を持てず、積極的な主体性を確立し得ないこと、世界に対して根源的な受動性を以て報いること、そうしたニヒリストの頗る受け身で冷笑的な振舞いは、如何なる経緯に基づいて構築されるのか。「地上の出来事には如何なる意味もない」と嘯いて、どんな社会的な価値にも倫理的な基準にも拘束されることを拒む生粋のニヒリストは、如何なる破滅にも、価値の崩落にも怯えないことを自らの矜持とするのみならず、積極的に世界の破滅に荷担しようとする。時には自殺が、時には血腥い大規模な蛮行が、彼らニヒリストを識別する為の華やかな宝冠の役目を負う。彼らは「無価値な生」という一つの索漠たる理念の信奉者であり、彼らの眼には、この束の間の人生は余りに厖大で無益な「余剰」の如く映じている。従って彼らの持ち得る根源的な欲望は、その無益な「余剰」の総体を破壊へ導くことに自ずと限られる。

 ニヒリズムは濃淡の差異を伴いながら、万人の肉体に密かに寄生している精神的な疾病の一種であるから、完全に純化された極端なニヒリストという存在へ遭遇する機会は滅多に出現しない。大掛かりで潰滅的な犯罪や陰湿な暴動を繰り広げずとも、例えば先述した「浪費」の概念に該当するのならば、如何なる些末な「不善」も「愚行」も、ニヒリズムの症候の類型として解釈することが出来る。酒精の魅惑に溺れるのも、官能的な悦楽を次々と貪るのも、同じようにニヒリズムに由来する退嬰的な症例なのである。無論、酒精や漁色に対する情熱が、単なるニヒリズムの症例に留まるのではなく、寧ろ当人の「ライフワーク」(lifework)に等しい重要な価値を帯びている事例も想定出来ない訳ではない(恐らくセネカは、浴びるような飲酒や果てることを知らない性交を決して肯定的に承認しようとは考えないだろうが)。

 少なくともセネカにとって、ニヒリズムからの脱却を求めて半ば本能的に「忙殺」を望んでしまう人々の精神が、痛烈な批判的言及の対象であったことは疑いを容れない。しかもセネカの手で「忙殺」の範疇に組み入れられる営為の種類は多岐に亘っている。飲酒や性交のみならず、社会的な「公務」に忙殺されることも、彼の眼には無益な「悪徳」として映じているのである。

 要するに、君が知りたいのは、何かに忙殺される人間の生きる生がどれほど短いか、ということであろう。人々がどれほど長寿を切望するか、見てみるとよい。老いさらばえた老人がわずか数年の延命さえ願かけをして乞い求める。自分は歳よりも若いと偽り、虚妄の年齢で自己満足し、同時に運命をも欺いているかのような喜びようで自己欺瞞を続けるのである。しかし、やがて何かの病患や衰弱で自分が死すべき人間であることを思い知らされたとき、まるで、この世から出て行くのではなく、生からむりやり引き離されでもするかのように、どれほど怯えながら末期を迎えることであろう。彼らは何度も何度もこう叫ぶ、「自分は本当に生きることをしなかった愚かな人間だった。この病状から逃れられたら、閑居してのんびり暮らそう」と。そのとき初めて彼らは、実際には享受できなかったもののために自分がどれほど無益な準備をしてきたか、すべての労苦がいかに無駄なものであったかを悟るのである。これに反し、あらゆる世間的な営みから遠く離れて生きる人の生が豊満でないなどということがありえようか。その生は一片たりとも他人に譲渡されることはなく、一片たりともあちこちにばらまかれることもなく、一片たりとも運命に委ねられることもなく、一片たりとも怠慢によって失われることもなく、一片たりとも椀飯ぶるまいで減ることもなく、一片たりとも余分なものもないのである。その生の全体が、いわば見返りを生む。したがって、どれほど短かかろうとも、十分すぎるほど十分なのであり、それゆえにこそ、最期の日を迎えると、賢者らしく、しっかりした足取りで、ためらうことなく死出の旅路につくのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.37-38)

 セネカの倫理的思想を構成する明瞭な基準に一つとして挙げられるべきは「自律」であろう。彼の遵奉する所謂「ストイシズム」(stoicism)は、その徳目として「自己制御」という項目を必ず含んでいる。言い換えれば「ニヒリズム」(nihilism)は、このような「自己制御」の破綻或いは不備によって分泌される精神的症候なのである。「忙殺」とは即ち「他者による自己の侵略」の要約された表現であり、そうした侵襲的な関係性が主体の裡に虚無的な倦怠を醸成するのだ。セネカが「忙殺」を峻拒することの効用を説くのは、それがニヒリズムからの恢復への着実な捷径を齎すからである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 1

 最近は専らセネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読んでいる。丁寧で稠密な訳文を少しずつ咬み締めるように堪能している。勿論、私にはラテン語の原文を読解する能力など微塵もなく、従って訳文の適切性を原文に徴して確かめることなど不可能である。しかし、日本語の訳文そのものの行き届いた丁寧な律動は感じ取ることが出来る。

 余りに洗練された達意の訳文が、或いはそのような幸福な誤解を喚起するのかも知れないが、岩波文庫の小さな印字の羅列から匂い立つ古代ローマの哲人の息吹は、二十一世紀の極東の島国が抱える様々な問題や混乱に就いても、驚嘆すべき現代的な示唆や教訓を読者に授けてくれる。それはセネカの粘り強い思索が、軽率な偏見を離れて徹底的に練り上げられていることの結果であるとも言えるし、同時に数千年の星霜を閲した後も、我々人類の患っている種々の病が一向に進歩も退潮もしていないことの反映であると言い得るかも知れない。

 数千年の歳月、その間に人類の生活は、少なくとも物理的な次元、社会的な次元においては凄まじい変貌を遂げた。これは端的で素朴な事実であり、それ自体を否定することは誰にも出来ない。だが、そうした変化は専ら人間の外部で起きた技術的な変容であり、環境の変化、人間の実存を拘束する条件の変化である。つまり、人間という生物そのものの構造は必ずしも変化していない。古代エジプトの遺産であるパピルスに当時の労働者の愚痴が書かれていた、などという出典の定かならぬ風説は、こうした消息を象徴する挿話であると言えよう。時代が移ろい、社会を構成する制度や自然の物理的な環境が変化したとしても、人間の実存の根本的な条件は変わらない。数千年の歳月が、不老不死の生命を下賜してくれる訳でもなく、大空を飛翔するイカロス(Icarus)の翼を我々の肩胛骨の辺りに植え付けてくれる訳でもない。

 言い換えれば、我々人間の実存を制約する根本的な条件にとっては、数千年の星霜は一瞬の霹靂に過ぎず、従って現代人の苦悩も古代人の苦悩も、内容や実質は異なっても、その形式においては概ね共通しているのである。現代の最新の発見と思われることも、数千年前に散逸した古代の賢者の巻物の片隅に、既に書き込まれていた省察と同義かも知れない。我々は何千年もの間、ずっと同じ場所に留まって同じ悪夢に苦しみ、同じ希望に恋焦がれてきたのである。

 われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほどつましい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然とととのえる者には大きく広がるものなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.12)

 「生の短さについて」と題された一篇の著作には、セネカの抱懐する実践的で倫理的な時間論が明快な文体を以て象嵌されている。そこには「生存」と「存在」との間に倫理的な弁別の垣根を設置しようとする意識が含まれている。換言すれば、セネカの時間論は決して「時間」という観念的な形式そのものに関する抽象的な思弁ではなく、絶えず実存的な課題との間に緊密な結びつきを備えた、具体的な思索の結晶した姿なのである。

 人間には限られた時間を「浪費」したり「蕩尽」したりする能力が備わっている。それによって人生という有限の時間は一層縮約され、人間は唐突に襲い掛かる「老年」の孤独と絶望に打ちのめされる。「生きた」のではなく「存在した」に過ぎないという痛切な後悔の念が、末期を迎えた人間の魂を取り囲み、致命的な打撃を食らわせる。こうした発想は、生存という一つの素朴で基礎的な事実に何らかの「意味」を担わせようとする思考の形式に基づいている。言い換えれば、そこには人間の行為や態度に関する倫理的な弁別の意識が関与しているのである。

 人生の時間を、無意味に流れ去る単純な「時間」ではなく、充実した実存的な「時間」に切り替える為の、倫理的な分水嶺とは何か。その問いに対するセネカの回答は、少なくとも「生の短さについて」と題されたテクストに限って言えば、限られた時間を「他者に奪われないように努める」というものである。別の表現を用いれば「忙殺」を免かれるように工夫し、配慮するということだ。セネカは繰り返し、金銭や財産に就いては非常に吝嗇な人間が、最も限られた貴重な「資産」である筈の「時間」に就いては底抜けの浪費家として振舞うことが多いという経験的な観察への唖然たる驚愕を語っている。

 では、その(生の浪費の)原因はどこにあるのであろう。誰もが永遠に生き続けると思って生き、己のはかなさが脳裏をよぎることもなく、すでにどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にもとめないからである。誰かのために、あるいは何かのために費やされるまさにその日が、あるいは最後の日となるかもしれない状況の中で、あたかも満ち満ちてあり余るほどあるかのごとく生を浪費するからである。人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.17-18)

 生の蕩尽や浪費の背景には、生が有限であることへの実感的な理解の欠如が横たわっている。従って賢者は自分の時間に就いて吝嗇に振舞うべきであり、他人の事情に容喙して徒に貴重な時間を空費することを自戒すべきである。こうした尤もらしい道徳的な訓誡は必ずしも人々の心を掌握しないかも知れない。社会的な義務や奉仕によって貴重な「自分の時間」を略取されることへの警戒と嫌悪も、余人の眼には聊か冷淡な厭世家の相貌として映じるかも知れない。だが、そのような性急な断定に傾くのは迂闊な判断であろう。セネカの思想は通俗的な「付和雷同」の精神、或いは「共依存」の精神に対する解毒剤の効能を有しているのではないかと思われる。換言すれば、彼の思想にはヨーロッパ的な個人主義の基礎的な原質が含まれているのだ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

Cahier(理性・激情・セネカ)

*この一年余り、ずっと三島由紀夫の小説を読んで、感想文を書き綴るという個人的な計画に邁進してきた。主に長篇の峻険な山脈を踏破することに照準を定め、初期の「盗賊」や「仮面の告白」から、長大な遺作である「豊饒の海」までを無事に読了し、今度は新潮文庫に収録されている短篇集を渉猟しようと思い立って、現に「花ざかりの森・憂国」を読み終えた(未だ総ての作品に就いて感想文は書いていないが)。

 そして『真夏の死』(新潮文庫)と題された次なる短篇集に着手し、別けても「春子」や「サーカス」などの作品に特別な関心を寄せて愉しんでいたのだが、私生活で色々と凡庸だが重要な揉め事が起こり、不意に憑き物が落ちるように、或いは桜の繊細な花弁が雨に打たれて誰も知らぬ間に剥落するように、果たして絵空事の小説に就いて彼是と思索を巡らせるという迂遠な方法、古き良き時代の「文芸評論」の手法に、こうして脳天まで埋没しているのが正しいことなのかと、疑念が湧出した。

 これは一応自覚症状のある「疾病」だが、只管に三島の小説ばかり耽読して、その拙劣な感想を評論家気取りの文章で纏める作業に熱中してきた上で、改めて来し方を顧みると、自分の読み方が非常に理窟に偏ったものであること、芸術の感性的な細部や形式に着目するより、作品に秘められた思想や哲学にばかり眼を奪われる傾向が強いことなど、そういう自分の特性或いは偏向が如実に感じ取れる。それが芸術的な鑑賞の様式としては必ずしも健全でなく、芸術家の価値観に寄り添ったものでもないことは、漠然と理解している。或る作品を「意味」や「大意」や「要約」に還元しようとする性向、これは真の意味で芸術を愛好する人間の感覚とは異なる。

 過日、インフルエンザで出勤停止になった数日間の唐突な休暇の終わりに、妻と子育ての方針を巡ってそれなりに深刻な諍いがあり、それでも意見の相違を感情的な擦れ違いの状態に留めておくのは適切な振舞いではないと聊か我が身を反省して、妻と真剣な議論の場を持った。それで成る可く私的な感情に流されぬ意見の交換を企図し、飽く迄も理性的な議論を実践すべく努めたのだが、最後の最後で妻に「言い方に温かみが欠けている」と言われ、頭を抱えてしまった。肝心の中身に就いては前向きな合意に至ったと言えるのだが、議論の仕方という部分に就いて自分の課題を指摘され、やはり自分は冷酷な、理窟に偏った、体温を欠いた人間なのだろうかと悩んで、職場の同僚に喫煙所で相談も持ち掛けた。

 本質的な部分では、私は激情に襲われ易い人間で、過ぎ去った日々を顧みても、突発的な感情や衝動に駆り立てられ、世人が指弾するような類の行為に及んだことは幾度もある。だからこそ、理窟を重んじて冷静な議論を試みることで、激情に振り回されることのない自分を築き上げようと意識している部分もあり、その両極を揺れ動いているのが実情だ。これは私という人間に埋め込まれた宿命的な課題であると言えるかも知れない。

 さて、自分が理窟に偏り易い人間であることを認識した上で、それを今後の実存的方針に活かすに当たっては、大別して二通りの道筋が考えられる。理窟に偏る傾向を是正する為に敢えて感情や感覚の領域へ自分自身を投げ込む遣り方と、自己の本然に即して、理窟っぽい性格を一層洗練させ、成熟させることで、幼稚な理性の孕みがちな害毒を減殺する遣り方である。何れを望むのも個人の自由な裁量の範囲に属することは間違いのない基礎的な事実であろう。

 小説に限らず、あらゆる芸術は感性的な形式の支配する世界であり、それは本来、如何なる意味も超越して、その先駆け、或いは原型的な経験の裡に人を招き入れる構造を有している。しかし私は、そのような感性的形式の支配に耽溺することを必ずしも希望していない。寧ろ私の主要な関心は、感性的形式に支配された主観的な経験を包括する巨大な「意味」の体系を解明し、定義することに存している。それならば、態々「小説」という感性的且つ形式的な虚構の空間に踏み込んで、散らばった意味の断片を拾い集め、首尾一貫した俯瞰的な「パースペクティブ」(perspective)を築き上げようと試みるのは、余りに迂遠ではないか? 虚構の世界に「意味」を求めて旅せずとも、四囲を見渡せば、そこには幾らでも「意味」の多様な断片が混在する世界が、無限の曠野と化して眼路の果てまで広がっているのである。態々「虚構」を経由せずとも、眼前の世界に就いて、自身の生身の経験も踏まえながら、もっと直截に「思索」の労役を積み重ねた方がいいのではないか? そもそも私には、この眼前の現実、社会、世界に関する基礎的な勉強が圧倒的に不足している。小説を読んで思索を巡らせることが、現実を裁断する重要な契機となる二十世紀的な方法論(「近代」に固有の特殊な、歴史的な手法)を、安穏たる意識でだらしなく模倣しても始まらない。

*そこで『真夏の死』の繙読は一旦休止し、所謂「虚構の物語」から束の間、離れてみるのも一興だと思い立ち、二階の納戸に眠っている夥しい「積読」の中から、俄かに埃を払って救出されたのが、ローマの賢人として名高いセネカの『生の短さについて』(岩波文庫)である。人間の懊悩の中身は数千年前から大して進歩していない、というのは、世間で頻々と言挙げされる聊かシニックな真理である。数千年単位で移ろうことのない、未だ解決を見ない人類の基礎的な課題に就いて、改めて根本から勉強するのも悪くないと考えたのだ。芸術という或る仕組まれた感性的=形式的な装置(それは一種の「attraction」であろう)に乗り込んで、彼是と考え込むより、眼前の具体的な現実に就いて苦悩すること。結論の出ない問題に就いて千言万語を費やすこと。飽き性の私の言うことだから、明日には朝令暮改の醜態を晒しているかも知れないが、思い立ったが吉日である。先ずは行動に着手することが大切だ。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

Cahier(愛情と触知)

*人間は時々、自分が「動物」であることを忘れる。

 或いは常に忘れて、稀薄な自覚の裡に眠りこけているのかも知れない。一般に誰も切り花を見たところで生命の残虐な形態に心を痛めたりはしないが、人間の生首を鼻先に突きつけられたら、余りの惨さに恐懼して卒倒してしまうだろう。愛犬家や愛猫家は、長く可愛がってきた飼犬や飼猫の命の重さを人命と同等に感じるだろうが、飼い主がいなくて保健所に送致された動物が殺処分になることの惨たらしさに、動物を飼育する習慣を持たない人々は余り関心を寄せない。そこには所謂「ヒューマニズム」(humanism)が、つまり「人間中心主義」が浸透しているのだと言える。人間が動物とは異質な存在であるという認識は、特段に不合理な考え方であるとは看做されていない。

 けれども、人間は動物である。聊か変態的で異常な特徴を備えているが、動物の一種であることは間違いのない事実だ。しかし、言語や知性や精細な記憶や奔放な想像力といった様々な要素を符牒として、我々は人間をあらゆる存在から引き離し、特権的な範疇に組み入れて、滅多に峻厳な識別を怠ることがない。それらの様々な人間的特徴が重なり合って形成される「精神」の重要性を声高に擁護する余り、我々は自身の動物的な要素に就いて、不当に低い評価と杜撰な認識を持つことを選びがちである。

 「動物じゃあるまいし」という言い方、或いは「けだもののような」という言い方は、明快に厳しい非難と糾弾の意味を含んで用いられる。人間を「動物」呼ばわりすることは一般的に「罵倒」や「誹謗」の手段として定義されている。つまり、人間にとって己の動物的な部分を直視したり承認したりすることは屈辱的な含意を帯びた営為なのである。だが、人間が動物的であることは本当に恥ずべき罪悪なのだろうか?

*「愛する」という言葉は一般に崇高で、抽象的な美しさを備えていると看做されている。無私の心、献身と犠牲、報酬を求めない清廉さ、そういったものが「愛」の本質であると、気高い人々は清らかな顔で説法する。そして「肉慾」は「愛」の贋物であり、真実の「愛」は「肉慾」と無関係に存在し、機能するかのように物語る。けれども、そうした崇高な教理は、人間の原始的(primitive)な側面に対する意識的な黙殺の上に樹立されているのではないか? 「愛する」という営為の定義に関して、世上には夥しい騒然たる議論が無限に氾濫している。誰もが抽象的で曖昧な言葉を交わし合う。恋愛の深淵に苦しむ人々は、例えば「執着」と「愛情」との倫理的な区別に就いて学ぶ。その区別が無意味な指標だと言いたい訳ではない。ただ、その根底に横たわっている最も原始的な所作への視線の貧しさが、愛情の倒壊する根源的な「危機」を惹起するのではないかと思うのだ。幾ら言葉で「愛情」を定義し、その正しく健全な様態を焙り出してみても、清廉な御題目を羅列してみせても、我々が内なる「動物性」を軽んじ続ける限り、そんなものは幻想的な寓話の範疇を出ない。

*「愛する」ことの本質には「触れる」という行為が存在し、鎮座しているのではないか? 互いに分離された別々の個体が、様々な手続きと交渉を踏み越え、秘められた領域へ歩み寄り、厳重な隔壁を特例的に解除して、互いの存在そのものに「触れる」こと、触れて互いの実在を確かめ合うこと、その肉体的な実感以外に「愛情」という崇高な理念を基礎付ける材料は考えられないのではないか。触れることは、愛情の最も本質的な要約であり、最も雄弁な告白ではないのか?

Cahier(目的の正しさは、手段の正しさを論証しない)

*目的の正しさは、手段の正しさを論証しない。目的が正しければ、如何なる手段も自動的に無謬の正当性を賦与される訳ではない。この場合、我々は「正しさ」という言葉を倫理的な観点から捉えなければならないだろう。英語で言えば「right」と「correct」の差異に該当する。倫理的正義(right)と認識的正義(correct)との弁別は、一見すると些末な議論のように映じるが、我々が地上で生を営んでいく上では、この微妙な色彩の差異を黙殺することは深刻な災厄の淵源となる。

 目的が達成されたとき、達成に向けて駆使された諸々の手段は、その合理的な有効性を認められる。この場合、その有効性に対して「正しい」(correct)という表現を充てることは聊かも不自然ではない。だが、この場合の「正しさ」には倫理的な「善悪」の含意が欠けている。「良くも悪くも、現実はそういうものだ」と我々が半ば苦笑を交えて唇を歪めるとき、我々は現実の絶対的な構造に就いて語っている。実際に、或る現実が或る特定の構造を備えているときに、その構造に就いて精確な知見を持つこと、それが認識的正義(correct)の志向する理想的形態である。

 だが、こうした論述の形式と用語法は、両者の区分に関して曖昧な錯覚を喚起しかねないから、異なる表現に革めるべきかも知れない。つまり、認識の領域において「正義」という理念は存在しないと宣言すべきかも知れない。認識においては、事実を精確に反映することが至高の価値を有している。認識の欲望は「認識の拡大」以外に有り得ない。従って、様々な理由から開示されるべきではないと社会によって定義されている秘められた事柄に就いても、それを認識することが社会的な道徳に反する場合であっても、認識そのものにとっては、そうした探究と開示は称讃されるべき営為なのである。

 従って「目的の正しさは、手段の正しさを論証しない」という命題は、必ずしもあらゆる種類の「正義」に関して普遍的に適合するものではないという結論に至る。そもそも「目的」と「手段」という議論の枠組み自体が、例えば認識の領域においては成立しない。認識において重要な論点は「原因」と「結果」という因果論の精確な事実性に限定されている。「目的」と「手段」という枠組みには、純然たる認識の領域を超過した「行為」の原理が暗黙裡に内在しているのである。

 崇高な目的の為であれば、如何なる非道な手段も容認される。これは世界中で極めて日常的に観察される凡庸なスローガンである。目的の達成の為には、手段の倫理的性質を考慮しないという機制は、認識的正義を「行為」の世界に適用するという越権に基づいて構成されている。目的の倫理的な性格が、手段の反倫理的な性格を免罪するという論理は、そのように堂々と明示されていない場合でも、人知れず巧妙に穿たれた無数の暗渠を潜り抜けて、我々の社会を雁字搦めに拘束している。

 例えば教育の現場における「体罰」の問題、或いは様々な組織における「パワー・ハラスメント」の問題に関する社会的議論の高まりは、こうした「目的による手段の倫理的浄化」という理路の備えている有害な性質に対する輿論の着目から始まっている。崇高な目的を達成する為ならば、犯罪的な手段を駆使することも止むを得ない。こうした認識の倫理的な限界に就いて、我々の社会は安易な寛容を節倹しつつある。

 「正しい道徳」を修得させる為には、暴力的な手段を駆使することも容認されるべきであるという理路は、少なくとも社会の公共的領域においては峻厳な批判の対象となりつつあるが、根絶への道程は未だ遼遠である。その背景には「合意形成」の重要性に対する根強い蔑視が横たわっている。主体的な理解の醸成という過程への苛立たしい断念と絶望が関与している。幾ら対話を重ねても問題の打開が見込めないとき、国家は武力行使を選択して軍事力を発動させる。だが、幾ら対話を重ねても問題の打開(最善の形での解決でなくとも、何らかの妥協的な決着でも構わないのだが)が見込めないという判定は、如何なる根拠に基づいて下されるのか? 往々にしてそれは「時間切れ」である。対話に費やす時間が限界に達したと判断されたとき、人間は強硬な手段による事態の終幕を企図する。体罰が始まるのは、この瞬間である。

 従って原理的に「暴力」は「対話の失敗」と同義である。最善の選択肢でないとしても、何らかの合意に達することが出来れば、暴力が介入する必然性は生じない。けれども、如何なる合意に達することも出来ない「膠着」の状態が長引いた場合、暴力によって事態の強制的な更新を図ることは、人類が有史以来繰り返してきた常套的な作法である。我々は「対話の失敗」を「暴力」によって清算するという野蛮な手法に骨の髄まで蝕まれた生き物なのである。

 だが、対話は継続される限り、合意形成の途上にあり、従って何らかの合意に到達する可能性は原理的に消滅し得ない。それを志半ばで「消滅」と判定するのは、時間的な限界の到来に基づいている。しかし、その時間的限界を判定する基準が常に客観的な根拠を有しているとは限らない。たとえ望み得る限り最悪の「合意」であったとしても、それが「合意」であるならば、我々は時間的限界を理由とせず、極めて正当な権利に基づいて「対話」のプロセスを完了することが出来る。けれども、如何なる「合意」にも達していない状況において、性急に「対話」の時間を打ち切ろうとする判断は、それ自体が既に一つの明確な「暴力」なのである。

 対話の遮断、交通の断絶、これが一切の「暴力」を生み出す根源的な事態である。対話する価値もない相手であるという冷酷な判断が、猛烈な無慈悲と害意を爆発的に増殖させる温床として機能するのだ。従って「暴力」に対する抵抗は、常に「対話」への粘り強い持続的な意志と努力によって支えられることとなる。或いは「対話が不可能である」という判定への禁欲的で忍耐強い拒絶によって維持される。そうした意志は不可避的に、他者の固有性や主体性に対する最大限の敬意を要求するだろう。「対話」は「敬意」を除外した状態では決して成立しない。言い換えれば「暴力」は決して「敬意」との間に親密な関係を築こうとしない。性急で強硬な「決定」に絶えず傾斜しようとする「暴力」の野蛮な性質に抗うことは、善良で強靭な人間性の涵養に向けた、最も有効で誠実な修錬の過程であると私は信じる。