サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 8 エピクロス先生の静謐な御意見(七)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を進める。生前から「享楽主義」(hedonism)の汚名を着せられ、著しい歴史的曲解に曝され続けてきた先生の倫理学的な知見が、実際にはヘドニズムの特徴である「絶えざる飢渇」への正統な処方箋を含んでいることに就いては、既にこれまでの記事を通じて論述を済ませた。その最も明瞭な論拠を引用しておきたいと思う。

 それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考ネーポーン・ロギスモスが、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.72)

 この一節は、エピクロス先生が自らに学説に対する不当な偏見や瑣末な誤解を明瞭に認識し、理路整然たる反駁を用意していたことを歴然と示唆している。肉体的な享楽の類に耽溺する堕落した暗愚な人々という曲解が、如何に事実を反映しない、歪曲された発想であるかということは、この文章を読めば直ちに諒解されるだろう。確かに先生は、例えばプラトンにおいて鮮明に表現された「霊肉二元論」の思想的構図に対して、反抗的な考え方の持ち主である(ルクレーティウスの「物の本質について」には、霊魂の不滅や霊肉二元論の構図を否認する思索の結晶が明確に象嵌されている)。けれども、それは先生が肉体的な享楽を何よりも重んじる人物であることを微塵も含意しない。寧ろ先生の思想は明白に、古代ギリシアの伝統的な特質である主知主義の系譜に連なっていると看做すべきである。肉体の要求する数多の享楽に耽溺することを戒め、専ら「素面の思考」によって謬見を排斥すべく努めることが、先生の提唱する幸福論の要諦である。欲望の放縦な解放は、ヘドニズムの特徴であってエピクロス学派の特徴ではない。

 ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善であるのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求(哲学)よりもなお尊いのである。思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには〈思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない、〉と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。なぜなら、だれがつぎのような人よりすぐれていると、君は考えるか、すなわち、神々については敬虔な考えをもち、死についてはつねに恐怖をいだかず、自然的な目的(快)をすでに省察しており、善いことどもの限度(苦しみのないこと)は容易に達せられ容易に獲得されるものであるし、悪いことどもの限度は、時間的にも、痛みの点でも、わずかであるということを理解しており、また、一部の人が万物の女王として導き入れたところの〈運命(必然性)〉を嘲笑している人、このような人より以上にだれがすぐれていると、君は考えるか。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.72-73)

 この一節には、主知主義的な幸福論の性質が明瞭に示されていると言える。「思慮」と「幸福」との間に密接な因果関係を見出す思想は、エピクロス先生のみならず、例えばプラトンの対話篇の裡にも看取することが出来る。先生にとって「哲学の研究」という営為は、聊かも無味乾燥な抽象的学問を意味しておらず、寧ろそれは我々の人生の質的向上に直接的な影響を及ぼすものと考えられているのである。言い換えれば、多くの人々が喘ぎながら陥っている多様な不幸の源泉は、思慮の欠如の裡に存すると看做すことが出来る。彼らは欲望や快楽の構造に就いて適切な省察を欠いている為に、無限の飢渇に苛まれ、精神の平静という最も重要な幸福の原理から見放されてしまっているのである。「哲学の研究」に従事し、事物の原理や性質に就いて正しい認識を獲得することは、享楽への耽溺という不幸な状況から人間の霊魂を救済する。享楽は、人間の精神を一所に安住させず、完結的な充足を嘆賞することも許さず、常に尻を鞭打って、絶えず次なる獲物へ飛び掛かろうとするように仕向ける。何故なら享楽は、欠乏が充足される過程の内部にしか存在せず、従って原理的に無限の持続を保つことが出来ないからである。享楽は必ず消滅し、心理的な涅槃へ達する。この涅槃が至高の価値を備えていることを知る者は、殊更に欲望の叱咤を尊重しようとは考えず、自己の外部に魅惑的な獲物を狩りに行こうとも企てない。しかし、涅槃を果てしない退屈の源泉として遇する動物的な人々は、自らの手で完結的な充足の状態を破壊し、好んで新たな欠乏を創出し、その飢渇を埋める為に齷齪と奔走する。享楽は終息を知らぬ地獄の循環へ人々の魂を監禁する。それをエピクロス先生は「不幸」と呼んでおられるのである。

サラダ坊主の幸福論 7 エピクロス先生の静謐な御意見(六)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を進める。既に前回までの記事で、私はエピクロス先生の幸福論と「快楽」に関する考え方が、過激で貪婪な「享楽主義」(hedonism)とは一線を画すものであることを確認し、強調した。先生が幸福の内実として定義しておられるのは身も蕩けるような苛烈な享楽ではなく、絶えざる飢渇に追い立てられて執念深く外在的な悦楽を探し求める粗野な動物性でもない。先生は飽く迄も「苦痛の排除」という無風の状態を尊重しておられるのであり、自ら欠乏を作り出して、その充足の過程における強烈な享楽を繰り返し再燃させようとするヘドニストの流儀は、先生の価値観とは全く相容れないものであることに読者諸賢の注意を喚起したい。

 つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである、つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。質素な風味も、欠乏にもとづく苦しみがことごとく取り除かれれば、ぜいたくな食事と等しい大きさの快をわれわれにもたらし、パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快をその人に与えるのである。それゆえ、ぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんでもあり、また、生活上果たさねばならない用務にたいして人間をためらわずに立ち向わせ、われわれがたまにぜいたくな食事に近づく場合に、これを楽しむのにより適した状態にわれわれを置き、また、運にたいして恐怖しないようにするゆえんである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.71-72)

 自己充足とは何か。それは要するに幸福な充足の根拠を殊更に自己の外部へ求めないで済ませるという心理的な態度を指している。従ってそれは必然的に、欲望と享楽に関する我々の貪婪な基準を下方へ向かって修正する作業を伴う。こうした考え方は洋の東西を問わずに数多の賢者が支持してきた普遍的な考想であり、例えば仏門の経典にも「少欲知足」という四字熟語で要約される倫理学的な省察が頻々と登場する。欲望を減らして充足の基準を切り下げるという心理的な工夫は、人間が旺盛で貪婪な享楽主義を免かれて精神的な安寧を確保する上で、歴史的にその価値が認められた重要な営為なのである。加之、先生は清廉な禁慾そのものを美徳として過剰に称揚することなく、時には贅沢な享楽の機会を持つことも排除していない。欲望の規模さえ適切に抑制されているならば、我々は貪婪な執着によって更なる飢渇を煽り立てられることなく、また享楽の大小や強弱を問わず、与えられたものの裡に安住し、深く落ち着いた幸福を享受することが出来る。先生の幸福論において最も肝腎な点は「飢渇」や「欠乏」といった負性の状況を惹起しないことであり、入手し難いものに憧れて深刻な欠乏に悩むような不満足の境涯を撤廃することである。

 もっと厳密に言えば、自己充足とは自己の外部に充足の根拠を求めない態度を意味している。無論、人間は様々な側面において外界との連携によって支えられており、例えば酸素がなければ呼吸は出来ず、食物がなければ肉体を維持することは出来ない。けれども、夥しい金銭や数多の異性や過分な社会的栄誉など、容易には手に入れ難い外在的な対象への執着を絶ち切っても、自己の存在を維持することが不可能になるとは言えない。先生は総ての欲望を撤廃せよと過激な廉潔さを以て議論を進めておられるのではない。無用で不自然な欲望は満たされ難く、従って欠乏や苦痛を培養し易いから、成る可く排除した方が精神の平静に役立つと、至極簡明な摂理を陳述しておられるだけである。欲望の増大は飢渇の増大であり、欲望の入手が困難であればあるほど、飢渇は慢性化し、心身の安寧は自ずと妨げられる。過大な理想主義が、現実との断層に打ちのめされて鬱病などの心理的な煩悶を生み出すことは夙に知られている。

 そもそも欲望の大小は、欠乏の相対的な大小によって左右されるものであり、そこに不動の絶対値が設定されていると考えるのは謬見に他ならない。極度に空腹の人間ならば、どんなに質素な食事であっても大きな快楽を経験することが出来る。それは彼の欲望の基準が縮約されている為である。満ち足りた人間が殊更に贅沢な食事を求めるのは、贅沢な食事そのものが絶対的な快楽を約束するからではなく、そうでなければ欠乏の解消としての享楽的過程を経験することが出来ないからである。

 自己充足という考え方は、欠乏の定義を縮小し、理想と現実との断層を成る可く塞いでおこうという方針を意味している。同時にエピクロス先生は、享楽的過程よりも無風の快楽へ心理的重点を移行すべきであることを繰り返し強調しておられる。充足の過程に固執して新たな享楽を欲するのではなく、飽く迄も充足の境地そのものを重んじて大切に取り扱うようにと勧告しておられるのである。充足が最も肝腎であるならば、欲望の大小や欠乏の性質は副次的な問題に過ぎない。また、充足の基準を下げることは、必然的に欠乏の基準を下げることに帰着し、従って心身の苦しみの生じる蓋然性を抑制することに繋がる。こうした経緯を煎じ詰めれば「少欲知足」の一語に要約されるだろう。欲望の衰微は、必然的に幸福の増大を意味する。従って、貪婪な欲望を膨張させる資本主義的な社会制度が、人間の魂を慢性的な飢渇へ追い込むのは当然の帰結である。

サラダ坊主の幸福論 6 エピクロス先生の静謐な御意見(五)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を行なう。

 快は第一の生まれながらの善であるがゆえに、まさにこのゆえに、われわれは、どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしば、その快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの種類の快は、見送って顧みないのである、また、長時間にわたって苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快がわれわれに結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている、と考えるのである。そこで、どんな快も、われわれに親近な本性をもっているがゆえに、善であるが、しかも、どんな快でもかまわずに選ぶべきではない、それはちょうど、どんな苦しみも悪ではあるが、いつも本性上避けるべきものであるとはかぎらないのと同様である。とにかく、われわれは、それぞれを測り比べ、利益と損失を顧慮することによって、これらすべての快と苦しみを判別しなければならない。というのは、われわれは、或る場合には、善を悪として扱うし、反対にまた、悪を善として扱うこともあるからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.70-71)

 こうした記述を仔細に読めば、エピクロス先生の倫理学的な知見を野放図で法外なヘドニズムと混同することが、如何に浅薄な誤解であるかということが鮮明に了解されるのではないかと思う。あらゆる種類の快楽を、それが伴う苦痛に満ちた副作用への懸念を愚かしく排除して、極めて貪婪で動物的な仕方で執念深く追い求める態度は、先生の幸福論が示している規範に微塵も合致しない。深刻な短慮と盲目的な意志の弱さに操られて、眼前に示された総ての享楽を軒並み味わい、平らげようとする獰猛な欲望の奴隷と化すことは、決して「霊魂の健康」即ち「アタラクシア」の幸福を我々に齎さない。寧ろ、常軌を逸した享楽への盲目的な隷従は、絶えず我々の精神に波乱を喚起し、片時も劇しい飢渇を忘れさせず、足許の欠乏を常に意識させて、幸福な自足と安住の境地から我々の生活を放逐するのである。

 快楽は常に欠乏の解消として経験される。厳密に言えば、快楽は欠乏が解消される過程において享受される心理的な経験であり、従って欠乏が完全に解消されてしまえば、必然的に快楽の時間も消滅する。「苦痛の欠如」を幸福の最大の条件と看做すエピクロス先生は、快楽そのものを重んじて熱烈に欲しているのではなく、苦痛と快楽の双方が消滅した境涯を、人間の望み得る至高の倫理学的理想として掲げているのである。他方、生粋のヘドニストは、快楽の再来を切実に希求する余り、自ら好んで「欠乏」という苦痛の状態を作り出そうと画策する。苦楽の終息した後の平穏な心理的状態を「幸福」と看做す先生の考え方とは対蹠的に、ヘドニストたちは旺盛な野心に駆られ、辿り着いた幸福を「倦怠」と結び付けて軽蔑し、自らの手で幸福な境涯を叩き壊して、激越な享楽が魂の裡に侵入する余地を意図的に捏造するのである。このような振舞いが、如何なる種類の安住にも閑暇にも帰結しないことは歴然としている。ヘドニズムが呼び覚ますのは決して癒やされることのない無限の飢渇であり、絶えざる自己否定であり、自分の置かれている現状との不機嫌で闘争的な訣別である。幸福が「他に何も要らない」と思えるほどの自足した状況を指しているのだと仮定するならば、ヘドニズムの境涯は正に幸福の対極に位置する実存の様態であると言えるだろう。

 極端なヘドニズムは、肉体と精神の双方に関して、常に享楽への絶対的な忠誠と盲従を確約している。従ってそこには動物的な衝迫だけが存在し、自制心や克己心といった伝統的な美徳は入念に根絶されている。彼らは理智的な統御によって快楽への異常な執着を抑え込もうとする通俗的な道徳に向かって叛旗を翻す。彼らにとっては強烈で限りない享楽こそが幸福の同義語であり、生存の理由であり動機なのだから、理智的な統制は不本意な障碍以上の積極的な価値を持たない。寧ろ無用の統制は排除されねばならないし、穏健で長期的な展望に基づいて眼前の享楽を節制するのは、一種の退嬰すら暗示しているのである。

 これに引き換え、エピクロス先生の構想する幸福論においては、殊更に欠乏を生み出してまで強烈な享楽の経験を幾度も再帰させようと試みることは、最大の悪徳に類する行為であると看做される。言い換えれば、先生にとって快楽そのものは、人生における積極的な目的であるとは考えられていないのである。重要なことは、欠乏や苦痛が解除されることであり、それによって平静な快楽、つまり如何なる欠乏も苦痛も感受されない無風の状態へ移行することが、先生の幸福論における至高の理想である。つまり、先生は苦痛と快楽の複合的な循環を排することによって、謂わば「涅槃」(nirvana)の如き境地へ到達することを志しておられるのである。厳密に用語の定義を試みるならば、苦痛からの解放の過程は「享楽」であり、他方、先生の論じる「快楽」とは苦痛からの解放の結果なのである。強烈で官能的な「享楽」が終焉するとき、人間の魂の海面には「快楽」という凪の状態が到来する。ヘドニストならば、こうした「快楽」の境涯を退屈と倦怠の名の下に憎悪し、切実に忌避するだろう。彼らにとって重要なのは「享楽」の生々しい実感であり、平穏無事の閑寂な「快楽」は余りに薄味で物足りないのである。極端な表現を用いるならば、ヘドニストが求めているのは充足ではなく飢渇であり、安住ではなく彷徨である。彼らは無限の幸福に堪えられず、現状の条件や制約に納得することが出来ない。飢渇が介在しなければ、彼らは享楽の昂奮を愉しむことが出来ない。それゆえに彼らの生活は、絶えざる飢渇への回帰と、劇しい享楽の到来の目紛しい交替、循環として形成される。それはまるで「輪廻」のように終局を知らぬ無限の過程である。享楽が「輪廻」であるならば、快楽は差し詰め「涅槃」であろう。

サラダ坊主の幸福論 5 エピクロス先生の静謐な御意見(四)

 引き続き、エピクロス先生の此岸主義的な幸福論に就いて私的で地道な検討を進めたい。先生は「メノイケウス宛の手紙」の中で、人類の歴史とは切っても切れない不可分の関係にある「欲望」の種類に関して腑分けを試みておられる。

 つぎに熟考せねばならないのは、欲望のうち、或るものは自然的であり、他のものは無駄であり、自然的な欲望のうち、或るものは必須なものであるが、他のものはたんに自然的であるにすぎず、さらに必須な欲望のうち、或るものは幸福を得るために必須であり、或るものは肉体の煩いのないことのために必須であり、他のものは生きることそれ自身のために必須である、ということである。これらの欲望について迷うことのない省察が得られれば、それによって、われわれは、あらゆる選択と忌避とを、身体の健康と心境の平静とへ帰着させることができる、けだし、身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり、苦しんだり恐怖をいだいたりすることのないために、われわれは全力を尽すのだからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.69-70)

 この一節は、エピクロス先生の代名詞とも言える著名な概念「アタラクシア」(Ataraxia)に基づいた幸福論の要旨として享受することが出来る。先生は欲望の放縦で無際限な充足を歓ばないと共に、欲望の完全な廃滅の必要も認めていない。先生は極論を好まず、非現実的な理想主義にも賛意を示さない。飽く迄も沈着で穏健な口調で、人間の欲望は「自然性」と「必要性」の基準に照らして幾つかの範疇に分類される、この分類に就いて精確な理解を得ることが「アタラクシア」の幸福へ帰着する便よすがとなると述べておられるだけである。言い換えれば、ここで問題とされているのは「欲望」の多様な種類と銘々の性質を粗雑な仕方で混同する愚かしさなのだ。「哲学の研究」が「霊魂の健康」へ結び付くという先生の幸福論の基礎的な方針は、この一節においても明瞭に示されている。正しい認識の獲得だけが、真に幸福な境涯を構築する唯一の手段であると、先生は定義しておられるのである。

 先生の論じる「必須の欲望」を規矩として、物事に関する適切な「選択と忌避」を実践すること、これは要するに無益な享楽を排することを含意しているが、だからと言って厳格な戒律の類に縛られた清浄な生活を想像して気鬱になる必要はない。先生は欲望全般に向かって執念深い敵愾心を燃え立たせている訳ではなく、飽く迄も穏健に、欲望の整理整頓を心掛けるようにと助言して下さっているのである。不要な欲望に追い立てられて心身の健康を毀損するような振舞いは、先生の幸福論の見地から眺めるならば明らかに悪徳であり、不幸以外の何物でもない。それによって得られる麻薬的な享楽は、劇しい苦痛と一体化しているからである。

 ひとたびこの目的が達せられると、霊魂の嵐は全くしずまる、そのときにはもはや、生きているものは、何かかれに欠乏しているものを探そうとして歩きまわる必要もなく、霊魂の善と身体の善とを完全に満たしてくれるようなものを何か別に探し求める必要もないのである。なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、〈苦しんでいないときには〉われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快とは祝福ある生の始め(動機)であり終り(目的)である、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生まれながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、すべての選択と忌避を始め、また、この感情(快)を規準としてすべての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.70)

 エピクロス先生の学説は歴史的に、幾度も悪しき「享楽主義」(hedonism)との批難を蒙ってきた。確かに精読を怠るならば、上記の議論は何よりも「快楽」の獲得を優先的に奨励しているように見える。しかし、注意深く読めば、先生が快楽の無際限で貪婪な追求を称揚していないことは直ぐに分かる。先生は欲望の整理整頓を勧告し、無意味な欲望に駆り立てられて虚しい彷徨を選ぶことのないようにと訓戒しておられる。先生の重視する快楽は、絶えざる飢渇を通じて希求される強烈な歓喜のようなものではなく、専ら「苦痛の排除」という消極的な仕方で示される性質の感情である。言い換えれば、快楽とはそれ自体で積極的に存在する固有の事物ではなく、飽く迄も「苦痛の存在しないこと」が快楽であると看做されているのである。それこそが「アタラクシア」という言葉の指し示す倫理的な境涯の内実である。従って「選択と忌避」は快楽の無際限な増大を規矩として行われるべきものではなく、ただ「苦痛の排除」という見地に限って進められるべきものである。つまり、一時的な享楽の為に甚大な苦痛や取り返しのつかない破滅が予期される場合には、我々は自己の貪婪な心性を抑制し、説得しなければならない。あらゆる種類の不幸な犠牲と代償を支払ってでも、享楽の経験を獲得しようと試みる態度が真のヘドニズムであるならば、エピクロス先生の教義は断じてヘドニズムとは合致しない。享楽主義者を意味する「エピキュリアン」(epicurean)という慣用句は明白に、不当な歴史的謬見に基づいて形成され、濫用されていると看做すべきだろう。欲望の「自然性」及び「必然性」に関する理性的な吟味は、欲望の充足が何らかの苦痛や破滅に帰結することのないように努める上で、不可欠の要諦であると理解することが肝腎である。

Cahier(病床・幸福論・四歳児)

*先月末から十日余り、具合が悪くて仕事を休んでいた。インフルエンザの薬を貰って吸入しても高熱が下がらず、流行のコロナウイルスの件も頭の片隅を過り、地元の総合病院で念入りな検査を受けた。レントゲンとCTスキャンを撮っても肺炎像は見当たらず、重篤な咳も出ない。無闇に熱が高いだけである。恐らくは娘から貰った風邪が重篤化したのだろうと、解熱剤を処方されて自宅療養した。今はめっきり全快して元気である。

 四十度の高熱を出して蒲団へ臥せっている間は、まともに物を考える力もなく、立ち上がって食事を取る意欲さえ湧かない。終日、死骸のように切れ切れの眠りを貪るだけの数日であった。日頃はそんな殊勝な考えを懐くこともないが、健康というのが如何に重要かということを改めて痛感した。どんなに壮大な野心も、廉潔な正義も、貪婪な欲望も、一たび心身の健康が損なわれてしまえば直ちに机上の空論、手の届かぬ画餅と化す。仕事にも行かず、外出もせず、そういう無為の日々を過ごしている裡に、果敢な理想主義というものが馬鹿らしく感じられるようになった。近頃、私が俄かに「幸福論」の研究へ着手したのも、煎じ詰めれば病中の諦観が直接の契機である。

 「幸福」とは何だろうか。此れに就いては巷間に様々な考え方がある。世の中には悲劇的な不幸や破滅的な享楽を愛する人もいて、例えば三島由紀夫という偉大な作家は恐らく「幸福論」というものを侮蔑していたのではないかと推測される。だが、不幸や破滅を愛していられるのは、曲がりなりにも健康であったり、若くて旺盛な生命力を保持している間に限られるのではないか。だからこそ三島は、老醜を恐懼し夭折を望んだのだろう。

 少なくとも殊更に夭逝する覚悟がないのであれば、沈着な理智を駆使して「幸福」に就いて考えるべきではないかと思う。そうやって手に入れた知見は、恐らく他人の幸福にも寄与するだろうから。

*昨日で娘が四歳の誕生日を迎えた。身長はもう直ぐ一メートルに達する。兎に角饒舌で、幼いながらも立派な理窟を弄し、親を困らせる。けれども変わらず愛おしい。誕生祝に絵本と縄跳びを欲しがった。文武両道の健全な趣味である。十年後、二十年後はどのような人物に育っているのだろうか。気の強い、口数の多い娘のままだろうか。彼女も何れは人生の岐路に悩み、自分の「幸福論」を模索するようになるのだろうか。そうであるならば、父親である私が先行して数多の「幸福論」を研究しておくことは、娘の将来に対しても有益な試みであると言えるのではないか。光陰矢の如しである。愚昧な父は祈りを捧げる。虚栄と金銭と愛慾に惑わされず、ただ健やかに賢く幸福であれ。

サラダ坊主の幸福論 4 エピクロス先生の静謐な御意見(三)

 引き続き、古代ギリシアの偉大なる賢者エピクロス先生の学説の検討に取り組む。

 だが、多くの人々は、死を、あるときは、もろもろの悪いもののうちの最大なものとして忌避し、あるときはまた、この生における〈もろもろの悪いもの〉からの休息として〈むなしく願っている。しかし、知者は、生を逃れようとすることもなく、〉生のなくなることを恐れもしない、なぜなら、かれ(知者)にとっては、生は何らの煩らいともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口にいれて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.68)

 遼遠たる紀元前のギリシアに生きたエピクロス先生の文章は、数多の学究による綿密な考証の成果でもあろうが、決して難解でも晦渋でもなく、その文意を汲み取ることは市井の庶民である私にとっても必ずしも不可能な作業ではない。先生の論理は煩雑で入り組んだ厄介な迷宮のような構造とは無縁である。しかし、その文章の読解が相対的に容易であるという事実は、その文章を通じて示された学説を日々の生活の裡で実践することの容易さを聊かも含意しない。理窟を述べることよりも、それを実践に移して具体的な行動の裡に体現してみせることの方が遥かに困難で崇高な営為であることは論を俟たない。上記の引用に示された先生の「生死」に関する率直で簡明な見解は、余りにも単純で明瞭であるがゆえに、却って我々読者に難しい要求を匕首のように突き付けているように思われる。先生は「生死」の境界線を重視せず、生命に恋着したり、滅亡を極度に恐懼したりする世俗の一般的な慣習を事もなげに否定して、そのような迷蒙が無益であることに凡百の衆生の意識を向けさせようと努めておられる。

 エピクロス先生は、生命に恋着して極度に死と滅亡を懼れる通俗的な感情を、生物学的な迷信として斥けているが、同時に「死」を苦しい「生」からの解放或いは救済として特別に珍重する彼岸主義的な考え方にも難詰の言論を寄せている。「彼岸主義」とは要するに有限なる生者たちの暮らす「此岸」において幸福を求めるのではなく、死後の世界としての「彼岸」(その名称は「天国」でも「極楽浄土」でも何でも構わない)に往生することで絶対的な幸福を勝ち得ようとする考え方のことで、こうした救済の論理は洋の東西を問わず、様々な宗教的体系の裡に見出される普遍的な学説である。古代ギリシアにおいても、例えばオルペウス教やピュタゴラスの教団、プラトンの対話篇(「パイドン」)にも、こうした救済の方式に対する信仰が根付いている。けれども、そのような感覚的実証に堪え得ない学説に関して絶えざる反証の可能性を除外しないエピクロス先生は、死後における特別な救済に縋ろうとは考えず、寧ろそのような「最後の審判」(Last Judgement)への期待や希望の価値を否認しておられる。先生は「神」という超越的な観念を否定していないが、両者の間に現実的な相関性を読み取ることに就いては頗る消極的で禁欲的である。

 幸福論に関する考え方には、このように「彼岸主義」と「此岸主義」の二つの系譜或いは範疇に大別することが可能である。エピクロス先生の立場は専ら「死」の特権的な意義を否定しておられるので、明らかに「此岸主義」の側に属するものと看做すことが出来る。此岸主義の派閥に属する賢者は「生」に関しても「死」に関しても大仰な迷信の類を嫌悪し、不明な事柄に就いては慎重に「無記」のラベリングを施すのが通例である。

 若いものには、美しく生きるように、また、年老いたものには、美しく生を終えるように、と説き勧める人は、ばかげている。なぜなら、生きるということがそれ自体好ましいものだからであるばかりでなく、美しく生きる習練と美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じものだからである。だが、はるかに悪いのは、こう言う人である、すなわち、生まれないのが善いのだ、「だが、生まれたからにはできるだけ速やかにハデスの門をくぐること」と言う人である。というのは、もし確信してこう主張しているのなら、かれはなぜさっさと、この生から去ってゆかないのか。かたく心をきめさえすれば、こんなことはかれにはすぐにもできることなのだから、だが、たわむれに言っているのなら、そんな言葉を受け付けない人々のあいだでは、かれは愚にもつかないものである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp68-69)

 この一節は所謂「反出生主義」(Antinatalism)を含む過激な彼岸主義的学説への批難及び揶揄として受け取ることが出来る。「生」を苦痛や堕落と等号で結び、肉体に囚われた「生」の実相を「悪」と同一視する厭世的な思想は、日本の浄土宗における「厭離穢土、欣求浄土」の標語に集約的な形で示されていると言えるだろう。エピクロス先生は極めて鮮明な口吻で、そのような彼岸主義の信仰を批判している。「生きるということがそれ自体好ましいもの」という記述は、先生の穏健な此岸主義的立場を如実に表している。

 また、未来のことはわれわれのものではないが、さればとて、全くわれわれのものでないのでもない、ということも記憶しておかねばならない、というのは、未来のことについては、われわれは、それがきっと来るであろうと、全き期待をかけることもしないし、また、全く来ないであろうと、望みを棄てることもしないからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.69)

 幾ら考えても確定的な結論を下すことが出来ない事柄に就いて、何らかの明瞭な答案を得たいと望む性急な心情が、我々の内なる多様な迷信を培養し、増殖させる。実証し得ない事柄に就いては一義的な結論を保留し、所謂「無記」の範疇に登録しておくこと、これは単に倫理学のみならず、自然学の分野にも通じるエピクロス先生の基礎的な信条の一つである。「今生において幸福であること」が重要な問題である限り、様々な迷信を棄却することは実に合理的な判断であると言える。先生は神秘的な宗教家ではなく、倫理的な医家なのである。

サラダ坊主の幸福論 3 エピクロス先生の静謐な御意見(二)

 今回は古代ギリシアの哲学者、エピクロス先生の幸福論の内実に就いて、より具体的な検討を進めていきたい。

 さて、わたしが君にたえず説き勧めてきたことを、それこそが美しく生きるための基本原理であると理解して、習いおこなうべきである。まず第一に、神についての共通な観念として人々の心に銘されているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.66)

 いきなり「神」という宗教的な単語が登場するので鼻白む方もおられるかも知れないが、この一節を通じてエピクロス先生が何か熱狂的な信仰の情熱や、俗人には模倣し難い清廉な戒律への忠誠を力強く唱導していると考える必要は存在しない。先生は要するに「神」という超越的な存在を擬人化するような古来の神話的思考を斥けようと試みているのである。それは直ちに先生の思想の裡に無神論的な性質を看取することを意味しない。先生は「神」の実在を素朴な仕方で承認すると共に、超越的な存在である神々は原則として、人間の世界や社会的生活の領域に容喙したり介入したりすることはないと強調している。

 そこで、多くの人々の信じている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって、多くの人々のいだいている臆見を神々におしつける人が不敬虔なのである。というのは、多くの人々が神々について主張するところは、先取観念ではなくて、偽りの想定であって、それによると、悪人には、最大の禍いが、いや(犠牲を捧げたりなどすれば)最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかれら固有の徳に親しんでいるので、かれら自身と類似した人々を受けいれ、そうでないものはみな、縁遠いものと考える(そして遠ざける)のである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.66-67)

 エピクロス先生は神々に関する誤った認識を排除しようと努めている。宗教的で神話的な物語に呪縛され、制約されることは、正しい認識ではないと先生は看做しておられるのである。先生にとって「哲学の研究」が「霊魂の健康」の獲得と密接に結び付いていることを鑑みれば、こうした神々に関する議論は要するに、誤った考えに振り回されて動揺したり混乱したりする愚挙を免かれる為の説諭であると捉えることが出来る。超越的な神々は、地上を這い回る可死的な人間たちの問題には介入せず、専ら「至福」と「不死」という二つの崇高な「徳」の裡に安住している。言い換えれば、先生は「神」の存在を認めつつも、それを擬人化して殊更に恐懼したり崇拝したりする営為は無益であることに、我々凡夫の注意を促しているのである。

 また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.67)

 「死」に関する考え方もまた、先述した「神」に関する考え方と類似した論理に基づいて披歴されている。「神」に対する盲目的な恐怖を払拭することと「死」に対する恐怖を否定することとの間には、思惟における方針の明確な照応が存在している。「死」は我々の感覚的経験の圏外に生起する事件であるから、それは決して意識における快苦の原因とはなり得ない。従って「死」を明瞭な「苦痛」であるかのように恐懼し、大袈裟に忌避するのは、不毛な謬見に盲従することに他ならない。同時に、そうした謬見は「不死へのむなしい願い」に囚われて齷齪と奔走する愚挙にも帰着し得る。人生が有限であることは、何ら実体的な損失を我々に齎さないにも拘らず、一般に人は「死」への恐怖に縛られ、決して報われることのない「不死へのむなしい願い」に衝き動かされて貴重な時間を浪費しているのである。言い換えれば、エピクロス先生は人類の歴史と同じくらい古く堅牢な形而上学的「迷信」を除去することが「霊魂の健康」の確保に資すると考えておられるのだ。

 それゆえに、死は恐ろしいと言い、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいのである、と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである、なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.67)

 そのように思い切ることが心情的な事実として容易であるかどうかは扨措き、エピクロス先生の極めて沈着で静謐な御意見は疑いなく傾聴に値するものである。先生は非常に単純明快な論理を用いて、人類の九割九分九厘が逃れられずに何千年も何万年も思い悩み続けている「死の恐怖」という古典的な不安に就いて、実に端的な性質の処方箋を提示しておられる。「死」が現前するときには、既に我々の感覚は滅び去って如何なる苦痛も感受し得ないのだから、殊更に「死」を最大の害悪として恐懼したり嫌悪したりする必要はないと言い切るエピクロス先生の見解は、理窟の上では頗る明瞭な正しさを示している。そうであるにも拘らず、我々の心情が先生の簡潔な訓誡に対して満腔の賛同を示すことに抵抗を感じるのは、そのような「迷信」が恐らくは我々人類の生物学的な本能に根差しているからだろう。生物が「死」に対する恐怖を懐いたり、本能的な忌避へ向かって衝き動かされたりするのは、それが生命の本質的な「保身」への欲望と不可分に結び付けられているからであり、人間の賢しらな理窟よりも遥かにプリミティブな機能であり衝迫である「死への恐怖」を、理智の命ずる方針に従って超克することは誰にでも為し得る簡便な業ではない。言い換えれば、この断じて容易であるとは評し難い稀有の道程を辿って、厳密な「真理」の命じる方角へ向かって進もうと不断に努力することこそ、エピクロス先生の信奉する「哲学の研究」の過程なのであり、その困難で崇高な奮闘の涯に漸く貴重な「霊魂の健康」は築かれるのである。このように考えるならば、少なくとも先生の信じる哲学的探究の究極的な効用が、単なる空疎な思弁とは根底において異質であることも直ちに頷けるだろう。「哲学」は単なる知的好奇心の極度に純化された様式に留まるものではなく、それは実に直截な仕方で我々の担う倫理的な課題の解決に寄与するものなのである。生物学的な「迷信」を是正する為に「理智」の適切な用法を学ぶこと、これこそエピクロス先生の掲げる「幸福論」の枢要を成す有益な教訓である。