サラダ坊主日記

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アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 3

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 さて、以上述べてきた事柄にかんして、ひとつ異論があるだろう。というのも、[イデア論者の]諸説はありとあらゆる善について述べられたものではなく、それ自体で追求され好まれているものごとは、たしかにひとつの善のイデアに基づいて善いと述べられているのであるが、そうしたものごとを作り出したり、なんらかの仕方で保全したりする事柄や、あるいはそれら善いものごとと反対のものを防ぐ事柄のほうは、それらのものごとゆえに、つまり[それらとは]別の仕方で善いと述べられているからである。そうすると明らかに、もろもろの「善」は二通りの仕方で善いと述べられることになる。[すなわち]一部分はそれ自体で善いのであり、またそれとは別の一部分は、それら[それ自体で善いもの]のゆえに、善い。したがって、[後者の]有益なものと、[前者の]それ自体で善いものを分けた上で、これらそれ自体で善いものがひとつのイデアに基づいて語られるのか否かをわれわれは吟味しよう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.46-47)

 アリストテレスは師父プラトンの提示した「イデア」(idea)の学説に就いて批判的な検討を試みている。感性を通じて捉えられる生成的な個物は、永遠的で超越的なイデアの不完全な模倣に過ぎず、イデアの一部を分有するものに過ぎないというプラトンの考え方は、理性的認識の絶対的な優越の論拠としての役割を担っている。理性的認識の揺るぎない真理性を保証する為に、プラトンイデアを個物に先行する実在と定義し、現実に存在する多様な個物の流動性を単なる「虚妄」の範疇へ幽閉した。それによって純然たる理性的認識の正当性を確保したのである。しかしアリストテレスは、そうした考え方に複数の論理的瑕疵を発見している。感覚を全面的に排除して、理性や言語の力だけで世界の実相及び真実を把握し得るというプラトンの見解は、宇宙の総体を一つの記号的な体系に還元するものである。プラトンにとって超越的な実在は、時間の経過に伴う一切の変貌や生滅を拒絶している。善のイデアは、未来永劫に亘って同一の性質を保持し続けるのである。それゆえ「善」の定義は時間的にも空間的にも揺るぎない恒常性を維持する。だが、それは本当に「善」に関する我々の考え方に適合しているだろうか。「善」という概念が指し示す内容は、如何なる歴史的変遷も辿らず、如何なる地理的な差異も含まないと断言出来るだろうか。

 では、人はどのような種類のものを「それ自体で善いもの」とするのだろうか。「ほかに何もなくとも追求されるもの」がそうなのだろうか。たとえば、思慮をはたらかせることやものを見ること、あるいは或る種の快楽や名誉がそうなのか? というのも、別の何かのゆえにもわれわれがこれらを追求するとしても、それにもかかわらず人は[それらを]それ自体で善いもののひとつであると考えることができるだろうから(あるいは、[それ自体で善いものは善の]イデア以外には何もないのだろうか? その場合イデアは[ほかのことの役に立たないので]無駄であろう)。もしそれら[自体としてもほかのもののゆえにも追求されるもの]がそれ自体で善いものに属するのであれば、それらすべてにおいて、善の定義が同一のものとしてあらわれなければならないだろう。それはちょうど、雪と白チョークにおいて、白さの説明が同じになるように。しかし、名誉や思慮深さや快楽についていえば、それらの説明は、[それらが]善いとされるまさにその点において別々であり、異なっているのである。したがって、「善」とは、ひとつのイデアに基づいた共通のものではないのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.47-48)

 「善」という概念に一義的な意味を認めることが出来ないのならば、必然的に「善のイデア」を措定することは不可能であると判断せざるを得ない。言い換えれば、一つの「イデア」は常に単一の本質と結び付いていなければならない。仮にイデアが複数の本質と結び付き得るのならば、そもそも事物を「本質」と「偶有性」に区分する論理的な措置自体が破綻することとなるだろう。イデアの措定は、事物の「本質」の定義によって明確化される。しかし、プラトンの考えでは、事物の「本質」は具体的な個物に先行し、それらの個物を生成する源泉の役目を担っているのである。そうであるならば、つまりイデアが実体的に存在するものである限り、イデアの措定の可否は、人間による審判の領域を超越していると看做されるべきである。

 プラトンイデアに関する議論は、原子論の一種であると言えるかも知れない。但し、イデアは相互に同質なアトムとは異なり、それぞれが単一の本質を宿し、原則として混在しない。現実的な個物が複数のイデアを分有しているように見えるのは、プラトンの考えでは肉体的な感官に由来する錯覚であり、謬見である。そうであるならば、例えば「白い雪」という感覚的表象は錯覚であり、理性によって把握される場合には、例えば「白のイデア」と「雪のイデア」がそれぞれに独立して、自己の領分を厳守しながら並列していることになるだろう。

 それならば、我々は如何にして「イデア」を見出すのだろうか。感覚を通じて享受される個物や事象の総てに関して、等し並みにイデアが存在する訳ではないのならば、我々はどうやってイデアの綜合的な目録を把握し得るのか。「善のイデア」と「善」は合致しないのか。それならば「善のイデア」が司っている対象としての「善」は如何なるものであり、同時に我々が日常的な仕方で「善」と判断している事物は、実際には「善」に値しない、異なる何かであるという結論に至るのだろうか。個物としての「雪」は「雪のイデア」を分有しているのか。それとも「水のイデア」に偶有性が附加されたものなのか。そもそも眼に映じる事物が総て虚妄であり、イデアに基づいた正しい境界線に則って把握されていないのならば、例えば我々は「雪」にイデアが有り得るか否かを判定し得ないだろう。「雪」が一つの「本質」を成すのか、複数の「本質」の連合によって形成された偶有性の合金に過ぎないのか、それらを判定する根拠を、我々は持ち得ないのである。更に言えば、そのような判定を為し得ない状態では、イデアが個物に先行して実在すると断定することも、根拠を欠いている為に不可能であるという結論に達するだろう。

 人間そのものを定義するにしても、[現実の]人間を定義するにしても、人間の定義はいずれにおいても同一になる以上、[イデア論者たちが一般に]「~そのもの」[という特殊な言い方]でいったい何を言おうとしているのかと、難問に悩む人もいるだろう。というのも、人間であるという点で、この[人間そのものと、現実に生きているもろもろの人間の]両者に異なるところは何もないだろうからである。またそうだとすると、「善である」という点で、善のイデアと善とのあいだに異なるところは何もない。また、長期にわたって白いものが、一日だけ白いものよりもいっそう白いというわけではない以上、永続的であるという点で善のイデアがより善いということはないだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.45-46)

 仮に「人間のイデア」が超越的な仕方で実在するとしたら、必然的に現実の個体的な人間は「不完全な人間」であるということになる。そうであるならば、果たして「完全な人間」とは如何なる状態を意味していると考えるべきだろうか。「完全に正しい人間」や「完全に美しい人間」だろうか。しかし、これらの状態は「人間のイデア」に「正しさ」や「美しさ」のイデアが偶有的に附加されているものなので、純然たる「人間のイデア」を体現しているとは言えない。或いは人間性の根拠を「理性」に求める古代ギリシアの伝統に倣って、純然たる「理性」を「人間のイデア」と看做すべきだろうか。しかし、この場合「人間のイデア」と「理性のイデア」とは同一のものなのだろうか、それとも異なるものなのだろうか。また「理性」以外の「感情」や「欲望」や「肉体」を欠いた「人間」が「人間のイデア」と完璧に合致していると考えるのは適切な解釈ではないだろう。イデアの措定が厳密な「本質」に基づくと看做される限り、こうした類の問題は決して消滅しないだろうと思われる。そもそも、何らかのイデアが「人間」という生物学的な種族を司っていると考える根拠も、考えない根拠も、我々の掌中には収められていないのである。例えば「人間」の「本質」を特定の遺伝子配列に求めるとしても、そのような遺伝子配列そのものと、超越的に実在する「人間のイデア」とが同一の存在であると看做すのは不自然である。イデアを超越的な実在として定義し続ける限り、我々は「分類」の根源的な相対性によって、イデアの措定に関する諸々の困難と矛盾に苛まれざるを得ないのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)
 

アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 2

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「ニコマコス倫理学」の序盤には、アリストテレスによる師父プラトンへの批判的な言及が記されている。

 ここでわれわれは、普遍としての善を考察し、それがどのような意味で語られるのかという問題に立ち入るのがよいだろう。ただ、イデアを導入したのがわれわれの親しい人々なので、こうした探究は気乗りしにくいものではある。しかし、おそらく、真理を救い守るためには、われわれに非常になじみのものであっても破棄したほうがよいのであり、またそうすべきだと思われる。とりわけ知恵を愛する哲学者であるならばそうである。真理と友のどちらも愛すべきであるが、真理のほうをより尊重するのが敬虔なことなのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.42)

 「普遍としての善」とは要するに、古代ギリシア最大の哲学者であるプラトンが最も重視した「善のイデア」を指す表現であり、それは人々が「善い」という言葉を用いて意味している総ての事物に共通する抽象的な本質のことである。尤も、プラトンは「イデア」(idea)という概念を単なる人為的で観念的な仮構として捉えるのではなく、寧ろ感覚的で生成的な「現象」(appearance)に先立って普遍的に存在する「実有」(ousia)として定義し、個物よりも先験的な仕方で、実体として存在すると考えていた。我々が感官を通じて受け取る諸々の経験的な事物は、普遍的な仕方で存在する「実有」の不完全な模倣に過ぎないというのが、プラトンの考想の核心を成す命題である。そして、プラトンの精密な認識論においては、純然たる「本質」としての「実有」は、偶有的な要素を帯びた個物としての「仮有」と対比され、峻別され、尚且つその根源的で絶対的な優越性を認められている。プラトンは理性的認識を「実有」と、感性的認識を「仮有」と結び付け、感覚の裡に生じる諸々の認識は幻想的な仮象に過ぎず、事物の実相を反映するものではないと断定した。個別的な「善」を集めて、そこから思考を通じて事後的に抽出されるものが「善」の本質であると看做すのは通俗的な考え方だが、プラトンの特異な独創性は、寧ろ「善」の本質こそが森羅万象に先行するのであり、個別的な「善」は、そうした普遍的な「善」を分有することによって、普遍性の裡から析出されるのだと看做したのである。個物の集合から事後的に「普遍」が見出されるのではなく、寧ろ「普遍」こそが万物の「始原」(arkhe)なのだと考えるところに、プラトニズムの最も重要な特徴が宿っているのである。

 しかし、倫理学に関する諸々の探究を実践的な学問として位置付けるアリストテレスの立場から眺めれば、こうしたプラトンの論理は非現実的な性質を帯びていると判定せざるを得ない。普遍的な「真理」を闡明する為には、普遍的な「叡智」に基づいて揺るぎない認識を駆使することが不可欠だが、個別的な「真理」に就いては、普遍的な「叡智」を重んじて感性的認識を排斥するような方法では、何一つ具体的な事実を捉えることが出来ないからである。

 この考え方を導入した人たちは、前後関係が語られるものについてはイデアを立てず、それゆえ、かれらは数のイデアも設定しなかった。さて、「よい」は「何であるか[実体]」においても、「性質」においても、「関係」においても語られるが、「それ自体としてあるもの」すなわち「実体」は、その自然本性からして、「関係」よりも先立つものである(実際、関係[として語られるもの]は、幹から枝分かれしたようなものであり、「ある」ものにたまたま付帯するようなものである)。したがって、こうしたものに共通するイデアはありえないということになるだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.42-43)

 アリストテレスは、プラトンが提示した普遍的な「イデア」の概念に疑問符を賦与する。「善い」という言葉で示される諸々の多様な事柄に共通する本質が、個物に先立って揺るぎない「実体」として存在するという考え方に論理的な瑕疵を見出している。純然たる「善」が万古不易の絶対的な普遍性を保持し、その部分的な反映として諸々の「善い事物」が存在するという論理は、対象となる事物の相互的な同質性や並列性を前提としている。例えば「善い人間」は「善のイデア」と「人間のイデア」との同時的な「分有」の結果として生成される。このとき「善のイデア」にとって「人間」の要素は偶有的な要素であり、他方「人間のイデア」にとって「善」という性質は偶有的な要素であると考えられる。「偶有的」を別の言葉に置き換えるならば「付帯的」ということになるだろう。「人間」が「人間」として存在する上で「善」という性質は必ずしも不可欠の要件ではないからだ。この場合、付帯的であると看做される「善」の性質は、同時に別のイデアを、つまり「善」のイデアを伴っている。「善い人間」が「善のイデア」と「人間のイデア」の複合した状態であるならば、これらのイデアは相互に同格の地位を備えるものと定義しなければならない。

 それでは、純然たる「イデア」とは如何なる状態に置かれていると考えるべきなのだろうか。「善のイデア」及び「人間のイデア」は、我々の具体的な想像力の及ばない領域に安置されているのだろうか? 少なくとも、我々の感性的認識は決して純然たる普遍性としての「イデア」を捉えることは出来ないだろう。生成的な領域においては、あらゆる個物は相互的で流動的な「陥入」の状態を絶えず保持している。個物の輪郭は極めて不安定な境界に過ぎず、それぞれが揺るぎない「本質」だけを保って現前することは有り得ない。それが我々の有する感覚的な現実の姿である。プラトンは、そうした感性的な世界像を虚妄と看做して貶下し、純然たる普遍的な「本質」だけが並列するイデア的な領域の不当な「混淆」に過ぎないと結論する。相互的な分有によって個物が形成されるのであれば、個物とは要するに多様な「イデア」の流動的な複合に他ならないからである。しかし、如何なる事物に対して「イデア」の設定を認めるのかという問題の明瞭な解決は容易ではない。例えば「犬」のイデアを認めながら、同時に「プードル」や「ダックスフンド」のイデアを認めることは可能だろうか。「犬」のイデアに着目するとき、我々は「プードル」も「ダックスフンド」も「犬」のイデアを分有する存在として取り扱い、それぞれの犬種に固有の特徴は「犬」の「本質」とは無関係な偶有的要素に過ぎないと判断して軽視するだろう。けれども、仮に「プードル」のイデアが有り得るとすれば、それは「ダックスフンド」のイデアとは完全に切断されていなければならない。尚且つ、それらのイデアは「犬」のイデアとの間に如何なる論理的な関係を持ち得るのだろうか? 「プードル」の「本質」は「犬」の「本質」と等価なのだろうか? もしも両者が並立し得るならば「プードル」の「本質」と「犬」の「本質」とは完全に別個のものである必要がある。そのとき「犬」のイデアは「プードル」のイデアを包摂する権利を喪失することになる。その場合、個物としてのプードルは「プードル」であって「犬」ではないということになる。だが、こうした区別は恣意的な分類の帰結であって、人間の認識に先立って存在する恒常的な分類であるとは言い難いのではないか?

 このように考える限り、或る特定の「イデア」が他の「イデア」を包摂することは原理的に有り得ないと結論せざるを得ない。若しも「イデア」による「イデア」の包摂が可能であるならば、必然的に包摂される側の「イデア」は「偶有性」として定義され、従って「イデア」としての資格を失ってしまうことになるだろう。また「イデア」は純然たる「本質」であることを定められているのだから、自らの「本質」の裡に如何なる夾雑物も混入させず、自己に本質的な仕方で属することのない要素を断じて受け容れない筈である。従って「イデア」同士が部分的に重なり合うことは定義上、不可能である。「犬」のイデアは「プードル」のイデアと、如何なる要素も共有しない。しかし「犬」のイデアと「プードル」のイデアが如何なる共通項も持たないと考えることは容易ではない。

 仮に個物の側から出発した場合、例えば我々は「プードル」と「ダックスフンド」とを比べて、両者に共通する要素を発見し、それに対して「犬」というイデアを賦与することになるだろう。そして「犬」という普遍的本質に諸々の付帯的な要素が加わることによって、それぞれの犬種が形成されるのだと考えるようになる。この場合、我々は「犬」というイデアを事後的に発見している。けれども、プラトンは個物に先立って「犬」というイデアが恒常的に存在すると主張している。プラトンの議論は、何らかの設計図に基づいて繰り返し製造される人工的な事物に就いては、滑らかに適用することが可能である。世界中の道路を疾走する個物としての自転車は実際に、範型としての「自転車」に偶有的な要素を附加することで生み出されている。自転車の製造に関して、プラトンの「イデア」を巡る学説を適用することは自然な手続きのように見える。しかしながら、このような「自転車」のイデアが、純然たる「本質」に充たされていると言い切れるだろうか? 少なくとも「自転車」というイデアが形成される為には、それを構成する複数のイデアの関与が不可欠だったのではないか。車輪やサドルやハンドルやチェーンと謂った諸々の部分は、所謂「自転車」と呼ばれる理念が形成される以前は、各自の「イデア」を堂々と占有していたのではないか。仮にそうであるならば、我々が「自転車」と呼んでいるものに普遍的な「イデア」を見出すことは謬見に他ならない。それは様々な種類の「イデア」が相互的に陥入したことの帰結であり、紛れもない「分有」の所産であり、従って「イデア」の資格を充たすとは認められないからである。

 これらが分類の問題に過ぎないのならば、畢竟「イデア」とは言語の問題に過ぎないということになる。事実、プラトンは感覚によって「イデア」を把握することは不可能な目論見であると執拗に強調している。但し、諸々の単語と感覚的事物との対応の関係が、その単語の属する言語的体系によって異なることを鑑みれば、理性的認識によって普遍的な「イデア」を把握することの正当性にも異議を唱える必要が生じる。あらゆる言語的体系に共通して存在する厳密な定義の「名辞」が存在するならば、少なくとも、その名辞の対象に指定される事物に関しては、普遍的な「イデア」の擁立を許可することが出来るだろう。しかし、若しも仮に言語が存在せず、従って如何なる名辞も存在しないとしたら、そのとき果たして「イデア」は実在するのだろうか? 有史以来、誰一人として未だ如何なる名辞も授けたことのない事物に就いて「イデア」を想定することは可能だろうか?

 さらにまた、「よい」は「ある」と同じくらい数多くの意味で語られるので(というのも、「よい」は、たとえば神や知性が「よい」と語られるように「何であるか[実体]」においても語られるし、もろもろの徳が「よい」と語られるように「性質」においても語られる。また適度であることが「よい」と語られるように「量」においても語られ、有益さが「よい」と語られるように「関係」においても語られ、好機が「よい」と語られるように「時」においても語られ、住居やほかのそうしたものが「よい」と語られるように「場所」においても語られるからである)、それゆえ明らかに、善がすべてのカテゴリーに共通する普遍的な何かひとつのものであるということはありえないのである。というのも、[もしそうだとしたら]すべてのカテゴリーにおいてではなく、ただひとつのカテゴリーにおいてのみ語られただろうからである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.43-44)

 我々の用いる言語は、文脈に応じて多義的な変容を遂げることが慣習となっている。我々が「善い」という言葉を用いるとき、その含意は文脈に応じて随時、変動する。従って「名辞」の言語的な共通性に基づいて、総ての「善きもの」が同一の普遍的な「イデア」を分有していると判断することは謬見である。そもそも、それらの「善きもの」が相互に同一の普遍性を宿していると看做される根拠が「名辞」の共通性に過ぎないのであれば、結局「イデア」の定義は分類の問題であるという見解に抗することは難しいだろう。「イデア」を恒常的な「実体」と看做す限り、こうした困難を排除することは不可能である。「イデア」が便宜的な仮象であるならば、その定義が実体的な厳密性を保持し得なくとも、技術的な障碍は抑制される。分類の基準が変更されれば、それぞれの「イデア」の受け持つ範囲も変動するのは必然的な帰結であるからだ。しかし「イデア」を恒常的な実体と断定する以上、それぞれの「本質」と目される要素が分類に応じて変動するのは奇妙な現象である。そもそも、それが「実体」であるならば「分類」が変動する理由自体が、根本的に生じ得ない筈である。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)
 

アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 1

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 プラトンの開創したアカデメイアで、概ね二十年に及ぶ学究としての研鑽の生活を送ったアリストテレスは、古来「万学の祖」と崇められ、西洋の思想や文化に決定的な影響を与えた。彼の思索と研究の対象は極めて広範な領域に亘り、形而上学から生物学、芸術に至るまで、あらゆる分野に関して厖大な業績を遺した。

 「ニコマコス倫理学」と題された大部の集成は、現代でも倫理学における最も重要で基礎的な典籍として、旺盛な研究の対象に据えられている。アリストテレス古代ギリシアの様々な思想を受け継ぎながら、人間の在るべき姿、理想的な生き方に就いて綿密な考究を重ねた。その読解は決して容易ではないが、私の力の及ぶ限りで拙劣な評釈を試み、自らの人生に活かしていきたいと思う。

 どのような技術も研究も、そして同様にしてどのような行為も選択も、なんらかの善を目指しているように思われる。それゆえ、善はあらゆるものが目指すものであるとする人々の主張はすぐれていたのである。

 しかし、これらの目的のあいだに或る種の相違があることは明らかである。実際、活動[そのもの]を目的とするものもあれば、活動とは別になんらかの成果を目的とするものもある。そして行為とは別の何かが目的であるような場合には、活動よりもその成果のほうが善いのが自然である。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.22)

 アリストテレスは、諸々の「目的」を連鎖的な系列として捉え、その系列が最終的に行き着く究極の「目的」としての「善」に就いて考察することの重要性に向かって、読者の注意を促している(但し「ニコマコス倫理学」は、アリストテレスが自ら開創した学園「リュケイオン」における講義の為に準備された草稿の集成であって、書籍の形で一般に頒布されることを前提とした記述の体裁にはなっていない)。殆どの行為や活動は、それ自体が「目的」とされるのではなく、他の何らかの成果を喚起する為の手段として位置付けられている。局面を限定して事態を眺める限りでは「目的」と看做される行為や活動であっても、大局的に眺めれば、より上位の「目的」へ到達する為の暫定的な指標に過ぎない場合が殆どである。そのように「目的」の連鎖的な系列を辿り続けた結果として最終的に到達する地点は、それ自体が「目的」であるような行為や活動であり、そうした「目的」は他の如何なる行為や活動にも奉仕しない。このように、それ自体が「目的」であるような行為や活動こそ、アリストテレスによって「善」或いは「最高善」と呼ばれる人間の理想的な境涯であると考えられる。「善」は、地上に存在する多様な「目的」の総てを包括する究極的な指標であり、あらゆる「目的」の上位に君臨する絶対的価値である。

 しかし「善」という抽象的な観念の内実に関して、人々の意見は必ずしも合致していない。何らかの究極的な目標を「善」と呼び習わすこと自体は、余り劇しい論争の的とはならないが、その「善」の内実に関する具体的な規定に就いては、様々な議論が交わされている。一般に「善」という理念は「幸福」という観念と密接に結び付いており、その「幸福」の内実に就いては多様な見解が世上に流通している。

 しかし、幸福について、それは実のところ何であるのかという問題になると、人々は言い争い、一般大衆の説明は賢い人々と同じにはならない。一部の人々は、たとえば快楽や富や名誉のように、だれの目にも明白な、はっきりとした事柄を幸福として挙げる。しかし、人によって挙げる事柄は異なっており、しかも同じ人が別の事柄を挙げることもよくある。実際、人は病気になったときには「健康」を挙げ、貧しいときには「富」を挙げるのである。そして、人々は自分たちの無知を自覚したとき、自分たちの理解を越えた、何かとても大きなことを語る人たちに、驚嘆するのである。また一部の人々は、そうした多くのよいものとは別に、それ自体で存在する何かよいものがあり、そしてそれは、[それ自体だけでなく]それら多くのものすべてがよいことの原因となっていると考えている。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.34-35)

 「幸福」という観念を主観的で内在的なものとして遇する限り、人々の意見が多様な分裂を示すのは必然的な帰結である。「私は何を幸福と看做すか」という問題の答えに普遍性を求めず、専ら内在的な観点から答えることが正しいと考えられる限り、人類に共通する理念としての「幸福」は、実体的な規定を喪失するだろう。単に各自が探し求める対象の総称が「幸福」であると定義するならば、その具体的な内実を一義的に指定することは出来ず、極端に言えば「幸福」という名辞そのものには如何なる固有の意義も認められなくなる。つまり「幸福とは何か」という設問自体の価値が失効してしまうのである。「幸福」という観念は一つの純然たる虚無的な記号のように、固有の含意を剥奪され、単に「人々が探し求める対象」という事物の外郭に関する定義だけを辛うじて保持することとなる。これは「幸福」の定義に関する極めて相対主義的な思惟の様態である。このような思惟の様態を採用した場合、我々は「人類」という包括的な範疇に基づいて「幸福」の一般的性質を論じることを禁じられてしまう。「幸福とは究極の目的である」という命題を超える具体的な見解を開陳することは不可能になる。

 このような状態を看過する限り、我々は「幸福」の実質に関する普遍的な考究を断念せざるを得ない。人生における「究極の目的」とは何かという重大な問題に就いても、各自の主観的な信仰が結論の総てを占めることとなる。言い換えれば、我々が「幸福」という理念の普遍的な実質に就いて、一定の強度を備えた見解に到達したいと望むならば、先ず「幸福」を純然たる主観的=内在的信仰の問題に還元する態度を棄却せねばならない。「幸福」の客観的な法則性を見出す為には、一般に幸福な状態と看做される諸々の事象を外面的に観察し、その構造や秩序を分析してみなければならない。

 話が横道にそれたところにもどって、改めて論じることにしよう。一般大衆、すなわちもっとも粗野な人々は、善や幸福とは快楽のことだと理解しているように思われるが、かれらの生活からすれば、それは理由のないことではない。そうであるからこそ、かれらは「享楽的な生活」を好んでいるのである。つまり、もっとも主要な生活の形態は三つあり、今述べられている享楽的な生活と、「政治的な生活」と、第三として「観想的な生活」である。一般大衆は家畜が送るような生活を選んでいて、まさに奴隷のようだが、権力のある地位にいる人々の多くが[享楽に耽った王の]サルダナパロスと同じような心持ちになってしまうことからすれば、一般大衆にも理由はあるのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.38)

 古代ギリシアにおける倫理学的考察の伝統は、一般に「主知主義」の思潮に基づいている。往古の先賢たちは一様に、人間的な幸福の要件を論じるに際し、人間に固有の要素を幸福の基礎に挙げる慣例を遵奉している。人間に固有の特徴として認められるのは一般に「理智」の働きであり、感情や欲望に就いては動物と共通する原始的な性質であると判定され、往々にして貶下されることが多い。快楽を最高善と同一視する「享楽的な生活」は正に、こうした原始的性向への隷属の典型であると看做されている。それゆえ「享楽的な生活」は人間的な幸福、つまり人間という種族に固有の幸福としては認められず、寧ろ人間的幸福の実現に対する障碍として排斥されるのである。「享楽的な生活」の抱える弊害に就いては、プラトンエピクロスからショーペンハウアーに至るまで、多くの先賢が詳細な論及を行なっているので、是非とも参照して頂きたい。

 他方で、立派で行動力のある人々は、名誉が善や幸福だと理解しているように思われる。というのも、政治的な生活の目的は、おおよそこの名誉だからである。しかし名誉は、[われわれが]探し求めているものと比べると、まだあまりに表面的なものにみえる。というのも、名誉は、それが与えられる側の人々よりも、それを与える側の人々に、いっそう依っているように思えるが、われわれの予感によれば、善というものは、それをもつ人に固有な何かであり、その人から奪い取りがたいものだからである。さらにまた、[立派で行動力のある人々が]名誉を追求するのは、自分が善い人間であると確信したいためであるようにも思える。いずれにせよ、かれらは、自分のことをよく知る人々のあいだで、思慮深い人々から、自分の徳を理由にして名誉が与えられることを欲しているのである。それゆえ、少なくともかれらとしては、徳のほうが名誉よりもよいもののはずである。そこで、おそらく人は、[名誉よりも]徳のほうこそが、政治的な生活の目的だと思うことだろう。しかし、明らかに、これも[目的として]完璧とはいえない。というのも、人は徳をもちながら、眠ったり何もせずに人生を過ごしたりすることがありうるのだし、それに加えて、最悪の苦境に陥ったり最大の不運に見舞われたりすることもまたありうると思われるからである。或る種の立場を擁護するのでなければ、このように生きている人をだれも幸福とは呼ばないだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.39-40)

 アリストテレスは「幸福」の秘鑰としての「徳」の意義を充分に知悉している。但し、それだけでは人間の幸福を確約するには足りないと、彼は考えているように思われる。師父であるプラトンの議論においては専ら、理性的認識を通じて事物の「実有」(idea)を把握することに「最高善」の根拠が求められたが、その高踏的な学説に比べると、アリストテレスの議論は遥かに実践的でリアリスティックな性質を有している(尤も、アリストテレスも「観想的な生活」に特別な価値を認めている点では、師父の衣鉢を直截に継いでいると言える)。恐らくアリストテレスにとって、潜在的な「徳」は「幸福」の同義語としては不充分であり、「徳」が実際の具体的な行動を通じて、四囲の現実の裡に展開され、表出されなければ、真の「幸福」へ達することは出来ないのである。彼は「徳」を個人の内部に根差した揺るぎない性質として定義することに同意し、例えば「名誉」の如き他律的な事象に「幸福」の源泉を求めることの危険性を明瞭に意識しているが、純然たる内在性としての「徳」に満足する態度に就いては批判的である。「徳」は潜在的なものに留まらず、明確な行動を通じて現実化しなければならないというのが、アリストテレスの基本的な主張なのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)
 

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 10

 十九世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 申し分なく思慮深い生活を送り、自己の経験からそこにふくまれる教訓のすべてを引き出すためには、しばしば回想し、自己の体験・行動・経験ならびにその際に感じたことを総括的に再検討し、自己の以前の判断を現在の判断と比較し、企図や努力と、成果ならびにそこから得た満足とを比較してみなければならない。これは、いわば経験が講師をつとめる個人指導特別講義の復習である。また自己の経験を本文とみなし、思索と知識をこの本文に対する注とみなすこともできる。経験が乏しく、思索と知識が豊富だと、各ページに本文が二行、注釈が四十行ある版のようだし、経験が豊富でも、思索と知識が乏しいと、注のないビボンティウム版のようなもので、多くの箇所が理解されないまま放置されることになる。

 ピュタゴラスが言う「毎晩、寝る前に一日にしたことを吟味する」習慣も、ここで述べた勧告をねらいとしている。過去をじっくり嚙みしめることなく、仕事や遊興に忙殺され、もっと正確に言うと、常にせかせかと機械的に生きていると、透徹した思慮深さが失われてゆく。心持ちが混沌としてきて、思考は一種の支離滅裂状態になり、会話はじきに脈絡がなく断片的で、いわばこま切れ状態になる。外的な騒々しさ、すなわち、外部から与えられる印象の量が増すほど、ますます精神の内なる活動が少なくなり、こうしたカオス状態はいっそうひどくなる。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.219-220)

 ショーペンハウアーに限らず、古代以来の数多の先賢は概ね一様に「精神の内なる活動」の強度が、個人の幸福の多寡を規定する重要な指標であると看做している。人生における様々な具体的経験は、それ自体として眺める限りでは「偶然」と「必然」の織り成す複雑な紋様、無意味な記号の羅列に過ぎない。それらの無意味な羅列の裡に諸々の規則性を読み取り、一見すると相互に無関係な事物同士の間に潜在的な脈絡を発見すること、こうした作業の蓄積が、現実的な経験を一つの大切な「教訓」に組み替える。同一の事象に逢着しても、当人の個性や精神的成熟の度合に応じて、彼らの意識の裡に描き出される表象の内実は多彩な変化を示す。それゆえにショーペンハウアーは、幸福の源泉となる根拠を外在的な事物に求めることの弊害を詳さに指摘し、それよりも自己に内在する精神的機能の充実に重きを置くことを奨励しているのである。自己の外部で生起する諸々の事象に呑み込まれ、支配され、制約されることは、自己の内在的な資産の涸渇や腐蝕を意味する。外在的な事象は、自己の内面的な同一性や体系的な論理とは無関係に生滅するので、それらに依存する生活は早晩、自己の内面の寸断や解体に帰結することとなるだろう。他人の意見に絶えず盲従する人間が、自己同一性の危機に瀕し、自分自身の感情や欲望の実態を把握する能力さえも磨耗させていく事例は、巷間に有り触れている。彼らは広義の「他者」によって精神の固有性を収奪され、自力では何一つ満足に熟せない脆弱な状態への頽落を強いられる。そのような人間が幸福に恵まれる為には、外在的な「僥倖」に与る以外に途はない。自立していない人間の掴み得る幸福は、偶発的な「僥倖」と同義語である。「幸福=幸運」の等式に依存して生きる人間は、自己の内面を耕すことによって質実な幸福へ到達するという個人的な努力を貫徹することが出来ない。そもそも、自己の主権を外在的な事物に譲渡してしまった人間が、長期的な計画に基づいて自分自身の言行を統括し、制御することは原理的に不可能である。言い換えれば、外在的な事物に依存して生活する人々は、その結果として自己を支配する能力や資格を喪失してしまう定めに縛られているのである。

 外在的な事物に惑わされない自己を構築するということは、必ずしも外界に対する無関心や断絶を増殖させることと等しい訳ではない。外界に対する好奇心と、外界に対する依存心とを混同するのは賢明な判断ではない。重要なのは、外在的な事物に幸福の根拠を委ねないことである。外界から如何なる果実を収穫するかという問題は専ら、各自の精神的な強度に基づいて規定される。貧相な内面は、消化能力の劣悪な胃腸のようなもので、外界の事物から効率的な仕方で豊饒な滋味を摂取し、吸収する能力を欠いている。豊饒な内面は外界の事物に依存しないが、それは外界の事物を摂取しないことを意味するものではない。外界が罪深いのではなく、外界に依存して、それを適切な仕方で調理することの出来ない主観の貧しさが諸悪の根源なのである。

 そもそも人間は、自分自身を相手にしたときだけ、「完璧な調和」に達することができる。友人とも恋人とも「完璧な調和」に達することはできない。個性や気分の相違は、たとえわずかではあっても、必ずや不調和を招くからだ。だから、心の真の深い平和と完全な心の安らぎ、健康に次いで最も貴重な地上の財宝は、孤独のなかにしかなく、持続的気分としては、徹底した隠棲のうちにしか見出すことができない。偉大で豊かな自我の持ち主は、そうした場合、このみじめな地上で見出しうる、もっとも幸福な状態を享受するだろう。率直に言えば、友情や恋愛や結婚がどんなに緊密に人間同士を結びつけていても、誰もが「腹蔵なく」相手にしているのは結局、自分自身だけであり、そのほかはせいぜい自分の子供ぐらいであろう。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.225-226

 こうした記述を陰鬱なペシミズム、重篤な人間不信と捉えて殊更に排斥する必要はない。寧ろ清冽なほどに、ショーペンハウアーは巷間の実相を淡々と指摘して、我々の抱える通俗的な妄念を払拭しようと試みているだけである。それに、彼は単なる孤独の称揚に努めているのではない。隠棲や閑暇が幸福の源泉に値する為には、当人の内面が充分に耕され、肥沃な土壌と化している必要がある。内面の貧困な人間にとって、孤独は退屈と寂寥を齎す悪疫のようなものに過ぎない。彼の内面は虚無的な空白に占められており、調和すべき自分自身の姿を見失っている。だから、他人との交流に救済の便を求めずにはいられないのである。

 また他方において、人間が社交的になるのは、孤独に耐えられないからであり、孤独のなかの自分自身に耐えられないからだ。内面の空疎さと倦怠が社交や異郷、旅へと駆り立てる。そういう人の精神には、みずから運動を付与する弾力性が欠けている。だからワインを飲んでその力を高めようとし、こうして大酒飲みになる者は多い。まさにそれゆえに、たえず外部からの刺激が必要になる。それももっとも強烈な刺激、すなわち自分と同類による刺激が必要になる。こうした刺激がなければ、精神は自分の重みに耐えかねてつぶれてしまい、重苦しい無気力に沈んでいく。同様に、こうした人は各自が人間なるもののちっぽけな断片にすぎず、それゆえ完全な人間らしい意識がいくらか芽生えるために、おおいに他人に補ってもらわねばならないと言えよう。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.227-228)

 自分自身の内部に生きる歓びの源泉を掘り当てられない人間は、それを自己の外部から何らかの方法で調達するしかない。そして、外界に自己の幸福の根拠を委ねることで、彼らは辛うじて内在的な虚無の生み出す心理的瘴癘に抗っているのである。自分自身が退屈で無能な人間であるならば、孤独とは即ち退屈で無能な人間との密室での交情を意味する。自分自身が魅力に充ちて有能な人間であるならば、孤独は揺るぎない幸福な時間を維持する為の重要な条件となる。精神的な能力を錬磨しない限り、我々は退屈な人間であることから脱け出せない。孤独に堪え得ない人間は、仮に遽しい社交の日々に繰り出したとしても、他人から密かに退屈な人間だと嘲られるに違いない。そもそも、自己の内面的な虚無を埋める為に他人の存在を活用しようと試みるのは厚かましいエゴイストの振舞いである。彼らは手作りの個性的な贈り物を頒布する為に他者を招待するのではなく、専ら他人の持ち物を収奪し、濫用する為に社交の世界へ出掛けていくのである。言い換えれば、彼らは日々他人と頻繁に交流しながらも、他人を自己の利益の為に使役し、その主体性や尊厳を隠然と毀損し続けているのだ。

詩作 「舞踏会」

少しのあいだ

分かたれていた絆が

航空燈の下で束の間 揺れた

わたしたちの他愛ない祈りが

最後の音楽のように

会場を揺らした

漣が伝わり

わたしたちは合図を耳にした

夜が終わろうとしている

拉がれた靴底の擦れるような呻き

 

わたしたちは何を考えていたのだろう

緩やかに計えられた札束の暴力

つないだ指先が汗ばんでいる

流した視線が閃くような鋭角を刻んだ

足音が高まり

薄暗い橙色の明りが庭先まで伸びた

夜明けの程近い街路へ出よう

華美な衣裳を脱ぎ捨てて

冷たい石畳の上を犬のように走る

わたしたちは時間に追われている

さようならと言いたくなくて

 

正午の飛行機で

あなたは大陸を跨ぎ

わたしは閾のこちらで一つの退屈な日を過ごす

時間が蜂蜜のように粘り とどこおる

手紙を書くよとあなたは言い

返事を書くわと 

わたしは答える

舞踏会の酩酊が脹脛に残っている

束の間の逢瀬の

電熱線のような痼り

ひんやりと流れる暁の鋪道で

わたしたちは何か突拍子もない事件が起こるのを待っている

生活の曲がり角で

偶然が宿命を撲殺するという期待へ

一縷の望みを賭けている

 

空港まで向かうバスが

道を間違えてくれたら

そして飛行機が往ってしまったら

訣別は朝露のように立ち消える

わたしたちは夜会服を脱ぎ捨てて

髪を解き 窮屈な挙措を擲ち

真新しい鞄のようにくっきりとした輪郭を失う

さようならと言わずにおこう

あの飛行機が

あらゆる空を知っているとは限らないから

Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 2

 引き続き、三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の作品において繰り返し言及され、強調される「行為」という概念は、単なる諸々の行動を包摂するものではなく、恐らくは「生命」と引き換えに敢行される特権的で一回的な行動を指す言葉であると推測される。直接的に「生命」を破滅させる行動ではなくとも、それに匹敵する何らかの抑圧的な理由が、三島的な「行為」の実現には不可欠である。例えば「憂国」における武山中尉夫妻の苛烈な心中は、蹶起した戦友を討伐しなければならないという倫理的矛盾に強いられて行なわれる。無論、中尉は軍令に従って粛々と賊軍の鎮圧に励むことも可能な立場であったが、それは彼の内なる道徳的規範に抵触する選択肢であり、従って彼にとって「自刃」は、俄かに巻き起こった倫理的矛盾を打開する唯一の方途として、殆ど「宿命」のように到来した道程である。言い換えれば、彼の「自刃」には正当で廉潔な「大義」が賦与されている。彼は決して恣意的な決断の結果として「自刃」を選んだのではなく、飽く迄も避け難い「宿命」を引き受けるという体裁で割腹したのである。

 これはつかのまのふしぎな幻想に中尉を運んだ。戦場の孤独な死と目の前の美しい妻と、この二つの次元に足をかけて、ありえようのない二つの共在を具現して、今自分が死のうとしているというこの感覚には、言いしれぬ甘美なものがあった。これこそは至福というものではあるまいかと思われる。妻の美しい目に自分の死の刻々を看取られるのは、香りの高い微風に吹かれながら死に就くようなものである。そこでは何かが宥されている。何かわからないが、余人の知らぬ境地で、ほかの誰にも許されない境地がゆるされている。中尉は目の前の花嫁のような白無垢の美しい妻の姿に、自分が愛しそれに身を捧げてきた皇室や国家や軍旗や、それらすべての花やいだ幻を見るような気がした。それらは目の前の妻と等しく、どこからでも、どんな遠くからでも、たえず清らかな目を放って、自分を見詰めていてくれる存在だった。(「憂国」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.248)

 このパセティックな叙述を通じて浮き彫りにされている特異な主観的構造は、「皇室」「国家」「軍旗」「白無垢の美しい妻」といった諸々の観念を「絶対的価値」という共通の基軸で包括している。彼は神秘主義的な「忘我」(ecstasy)の渦中にあり、自らの肉体を滅ぼすことによって超越的な絶対者との融合を遂げようとしている。三島的な「行為」が、その実現の代償として「生命」の供犠を要求するのは、絶対者との神秘的な合一を果たす上で「自己の消滅」という過程が不可欠であるからだと考えられる。単なる厭世的な自殺は、絶対者に対する拝跪を欠いている為に、三島的な「行為」の要件を充たすことが出来ない。「行為」は、広義の「殉教」と同義でなければならない。実存的な苦痛の解消を目的とした自殺は、寧ろ絶対的価値に対する虚無的な不信に基づいているのである。更に重要なことは、こうした「殉教」における「忘我」の状態が「至福」という観念と緊密に結合している点に存する。「殉教」における心身の破滅は、一般的には明確な「不幸」として扱われているが、例えば武山中尉は明らかに「宿命」によって強いられた夭折を「恩寵」と捉えている。個体的な「生命」と引き換えに購われる「忘我」は、三島が終生希求し続けた崇高な「至福」の様式である。自己の解体を通じて、何らかの絶対的価値との合一を遂げること、こうした神秘主義的な幸福への欲望は、三島の生涯を貫く重要な精神的系譜の一つなのだ。

 「ラディゲの死」もまた、神秘主義的な系譜に属する作品であると考えられる。ラディゲは溢れんばかりの芸術的才能と引き換えに、若年にして病死の運命に見舞われた。ニヒリストならば、個人の天稟と病患との間に如何なる必然的な相関も認めないだろう。けれども「ラディゲの死」という短篇を構成する中心的視座は、レイモン・ラディゲの夭折という客観的な事実に対して特権的な意義を読み取ろうとする方針を鮮明にしている。

「ラディゲが生きているあいだというもの……」とコクトオは呟いた。「……僕たちは奇蹟と一緒に住んでいた。僕は奇蹟の現前のふしぎな作用で、世界と仲良しになった。世界の秩序がうまく運んでいるように思われた。奇蹟自体にはひとつも気づかずに、薔薇が突然歌い出しても、朝の食卓に天使が堕ちて来ても、鏡の中から、水のきらきらする破片を棘のように体中に刺されて、潜水夫がよろめき出て来ても、馬が大理石の庭にその蹄の先で四行詩を書き出しても、当然のことのように、すこしもおどろかずに見ていられたのだった。そんなことは、当り前のことのように、僕たちには思われていた。僕は『奇蹟』と一緒によく旅行に出た。『奇蹟』は何と日常的な面構えをしていたろう! ……しかし今になってみると、朝の新聞が、自動車事故で五人家族が一どきに死んだり、建築中の建物が倒壊したり、飛行機が落ちたりしたことを、告げているのを見るたびに、僕はもしラディゲが生きていたら、こんなことは決して起るまい、と思わずにはいられないんだ。天の歯車が飛び立ってしまったから、世界という機械はぶざまな動き方をするようになった。貨車は脱線し、雞は車道へ飛び出し、パン屋はいくらパン粉をこねまわしても、ふくらまないパンしか作れないんだ」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.313-314)

 この哀切な告白の根底に、コクトーのラディゲに対する熱烈な愛情が息衝いていることは言うまでもない。彼にとってラディゲの存在は、世界の「中心」或いは「天蓋」を成すものであったに違いない。ラディゲの氾濫する才能、それを支える独創的な人格は、彼を凡百の俗人から隔て、天上的な位階に列している。ラディゲが人間の肉体を備えて「日常的な面構え」を帯びていることは、それ自体が有り得ない「奇蹟」に他ならないのである。彼には、地上へ降臨した美しい天使のイマージュが相応しい。

 地上的な人間が「忘我」即ち自己の解体を通じて絶対的価値と合一するという秘教的な神話が、三島のオブセッションであるならば、この「ラディゲの死」という作品における彼の代弁者は明らかにジャン・コクトーである。そして崇高で超越的な「絶対的価値」を具現するのは、奇蹟の如き天稟に恵まれたレイモン・ラディゲである。従って、この作品がコクトーの視点から語られ、構成されるのは必然的な帰結である。小説家は諸々のエピファニックな「美」を描き出すが、当人が「美」そのものを己の裡に体現する訳ではない。彼らは手の届かない「美」に憧れ、両者の懸隔に苦しみながら、それを作品という檻の裡に捕縛しようと躍起になる。尤も晩年の三島は、そのような芸術的実存に慊らない想いを懐き、自らの存在を一個の「美」或いは「絶対的価値」へ昇華させることを目論んだのではないかと思われる。

「君のいうことはよくわかる」とジャコブは持前の甲高い声で言った。「君はラディゲを生粋の無秩序と認めていた。歌うべからざる薔薇が歌い出すような無秩序だ。君がラディゲの死を、地上的な原因に帰したがらない気持はわかる。しかし君と『奇蹟』との生活には、しらない間に地上の雑な秩序がまぎれ込んでくるような気がした筈だ。君は、といおうか、君たちは、といおうか、これに必死に対抗するために無秩序そのもののような生活を固執していたね。なるほどおかげで、地上の秩序はラディゲを殺さなかった。しかし天がラディゲを殺そうとしているのに君たち自身も手を貸したのを君も認めないわけにはゆくまい」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.314-315)

 地上の秩序、卑俗な人間的秩序の対義語として、天上的な「無秩序」の概念が存在する。何より退屈な「日常性」の鋼鉄の如き堅牢な性質から、ラディゲの独創的な天稟を保護すること、それがコクトーの主たる野心であったに違いない。ラディゲは受肉した神の御子であり、その芸術的天稟は、彼が一切の地上的秩序から逸脱しているという事実によって保証されている。コクトーのラディゲに対する苛烈な愛情は、恐らく神秘主義的な熱意を豊富に含んでいるのである。

ラディゲの死 (新潮文庫)
 

Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 1

 三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 フランスの夭逝した小説家レイモン・ラディゲに対する熱狂的な偏愛に、三島は随所で言及している。

 そのうち、ちらほら翻訳物なども読むようになったが、中学三、四年のころ、ラディゲを読んでショックを受けた。しかしそのとき「ドルジェル伯の舞踏会」が完全にわかったかというと、どうもあやしい。何だかわからないが、美しい馬をみて美しいと感じるように、作品のいおうようない透明な美しさははっきり見ていた。ラディゲの夭折、あの小説を書いた年齢も、私にファイトを燃やさせた。私は嫉妬に狂い、ラディゲの向うを張らねばと思って熱狂した。小説の反古作りに一段と熱が入ったのは、ラディゲのおかげである。私はしばらくラディゲの熱からさめなかった。ただ、だんだんに、ラディゲの小説の源を探りたい気がしはじめた。「クレエヴの奥方」を読み、「アドルフ」を読み、ラシイヌを読み、ギリシァ悲劇を読んだ。フランス文学の真にフランス的なものにラディゲはつながっていたのだな、ということがわかってきた。しかしフランス文学史や研究書をやたらに読みあさったのは、戦後のことである。(「ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴」『三島由紀夫のフランス文学講座』鹿島茂・編 ちくま文庫 pp.17-18)

 人間が如何なる事物に向かって本質的で特権的な共鳴を示すかという問題は、当人の主観的な個性に深く規定されているので、作品そのものの芸術的な良し悪しとは別に、つまり普遍的価値に対する正当な評価や崇敬とは別に、奇態な偏愛や熱烈な崇拝が生じることとなる。私の個人的な偏愛に就いて言えば、例えば坂口安吾であり、柄谷行人であり、車谷長吉であり、三島由紀夫である。それは作品そのものの歴史的な価値や一般的に定まった評価とは直截な関わりを持たない、極めて恣意的な感嘆の凝結に過ぎないのだが、こうした偏愛が人間の生涯を支える重要な礎石であり、精神の蝶番であることは論を俟たない。また、こうした消息は別に文学に限らず、文化のあらゆる領域に関して、同様の偏向的な事象は日常的に頻出し、世界的に続発しているのである。

 ラディゲに対する三島の深甚で濃密な共鳴は、ラディゲの遺した僅かな文業の裡に見出された特定の要素が、三島の世界観や価値観と見事に重なり合う部分を有していたことの帰結であると考えられる。もっと野卑な表現を用いれば、ラディゲの有する個性の一部が、三島の精神的欲望を励起したのである。無論、テクストに対する官能的欲望は、露骨なポルノグラフィが男根を熱り立たせるように、即物的な肉体性を宿している訳ではない。けれども、それは個人の精神的な中核に確実な興奮を齎し、沈滞を打破し、何らかの運動を喚起した筈である。肉体が興奮するように、精神もまた興奮することが有り得る。その意味では、文学的な感興も一つの官能的な経験に他ならない。

 ラディゲを語る上で重要なキーワードと目されるのは、三島自身も触れている「夭折」という明快な史実である。フランスの高名な芸術家ジャン・コクトーに才能を認められ、僅か二篇の小説だけでフランス心理文学の高峰に列なる栄誉を勝ち得ながら、腸チフスで夭折した彼の悲劇的な生涯は、三島が終生憧れ続けた一つの実存的範型を美しく象徴している。三島が悲劇的な栄光に対する強烈な執着を宿痾としていたことは、彼の遺した夥しい作品が悉く物語っている。尤も私見では、三島は単なる夢想家ではなく、悲劇的な栄光を無効化しようとするニヒリズムの性向も併せ持っていた。悲劇は無惨な現実に超越的な価値、絶対的な栄光を賦与するエピファニックな原理を擁しているが、ニヒリズムは事物に備わった意味を悉く否認し、裸形の物質的現実を明るみに出して、あらゆる人間的な価値を粉砕する。三島由紀夫という作家の巨大な振幅は、双極的な分裂の恒常化に由来するものと考えられる。

 しかしながら、こうした双極的分裂は見た目ほど異質な要素を包含している訳ではないかも知れない。絶対的な価値に憧れ、一体化を熱望する超越的な神秘主義も、あらゆる社会的価値を毀損して荒涼たる現実を剔抉する虚無主義も共に「人間的なものに対する嫌悪」という特性において共通しているように見えるからである。悲劇は人間を神に近似させ、ニヒリズムは人間を純然たる物体に還元する。何れの観念的操作も、人間の平均的で通俗的な様態を否認する営為に他ならない。人間に固有の価値を認めないという点で、神秘主義虚無主義は相互に通底しているのである。

 「ラディゲの死」は、三島の偏愛したレイモン・ラディゲの臨終を、盟友であり恋人でもあったジャン・コクトーの側に主要な視点を据えて描いた短篇である。この作品は明らかに、重大な悲劇に特別な啓示を読み取ろうとするエピファニックな世界観の系譜に列なっている。

 前の年の十二月十二日、巴里ピッシニ街の病院で、レイモン・ラディゲが死んでから、コクトオの心は不断の危機に在った。もともとこの詩人の精神は、軽業師のような危険な平衡を天性としていたのであるが、はじめて平衡を失しそうな危機に立ち至ったので、軽業師にとっては、このことは直ちに死を意味する。(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 p.309)

 ラディゲに憧れ、その夭折と才能に対する栄光に劇しく嫉妬したことを述懐しながらも、三島はこの作品において、ラディゲの内面に潜り込もうとはしていない。それはラディゲという人間が、特別な運命に庇護された超越的な存在であると定義されていた為であろうか。内面を明け透けに語り得るのは生身の卑俗な人間だけであり、超越的な絶対者には、そのような明快な内面など備わっている筈がない。無理にその内面へ忍び入って言葉を紡ごうとすれば、その超越的な栄誉は却って見失われるのではないか。「美しい死」の渦中にある人間は、如何なる客観的な言葉も、つまり小説的な叙述に相応しい言葉を語る能力も資格も有していない。彼はただ目撃され、証言され、崇拝され、追悼される為に存在している。言い換えれば、言葉を語ることは人間に割り当てられた固有の労役であり、神に等しい超越的な種族は、何事かを語る代わりに只管、特権的な「行為」に、つまり世界の総体を一変させ、腕尽くで更新してしまう破壊的な「行為」に殉ずるのみなのである。

 決定的で特権的な「行為」に対する憧憬は、その「行為」が一つの特異な象徴と化して、或る人物の生涯を要約する作用を有していることに基づいて形成されていると考えられる。言い換えれば、三島の強調する「行為」という概念は、単なる種々の行動を指し示すものではなく、恐らくは広義の「生命」を代償として行われ、尚且つ世界に対して決定的な変貌を迫るような類の行動だけを含意しているのである。例えば「憂国」における軍人の心中や「奔馬」における飯沼勲の割腹は、世界に向かって捧げられた「生命」の悲劇的な栄光を象徴的に表象している。こうした性向を要約すれば「殉教」という言葉に尽きるかも知れない。彼らは「生命」を差し出す代償として特権的な栄光に与る。逆に「生命」を節倹する態度は、三島の嫌悪する「老醜」を伴った「長寿」に帰結する。「生命」に関する吝嗇は、人間の堕落した形態であると、彼は頑迷に信じ込んでいたように思われる。ラディゲは自らの「生命」を極限まで磨耗させながら、歴史に名を刻む二篇の小説を遺した。彼は「生命」の積極的な蕩尽によって不朽の名誉を獲得したのである。こうした実存の様態に対する三島の精神的欲望は、その生涯の終幕に至るまで絶えず劇しく脈搏ち続けていたように見える。

ラディゲの死 (新潮文庫)