サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

内面的自由の保護 ジョン・ロック「寛容についての手紙」

 十七世紀の暮れに西欧で出版されたジョン・ロックの『寛容についての手紙』(岩波文庫)を読了したので、感想文を認める。

 私がこの書物を繙いたのは、その直前にルキウス・アンナエウス・セネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読んだことが影響している。カリギュラやネロといった、歴史に名を残す暴君の在世を有力な廷臣として生き延びた(セネカはネロの命令で自裁を遂げているので、厳密に言えば生き延びることに失敗している)経験に基づいて、彼は「怒り」という情念の齎す甚大な破滅的弊害を営々と縷説している。その切実な論述は一貫して「怒り」の価値の全面的な否定に捧げられている。彼は自分自身を「正義」の人間と看做す独善的驕慢が、他者への憎悪と敵意を増殖させ、途方もない「怒り」を炸裂させ、暴走させるのだと説き、己の罪過を想い出して不寛容を抑止するように勧告している。
 セネカの論説に感銘を受けた私は、書棚で埃を被っていた「寛容についての手紙」に手を伸ばした。成る可く多様な古典に触れようという考えが、目下の私の読書における方針であるから、書物の系譜的飛躍は大いに結構である。「寛容」という言葉に惹かれて開いたジョン・ロックの短い著書は、一般的な意味における「寛容」を扱ったものではなかった。それは宗教的信仰における「寛容」を巡って綴られた「政教分離」の論説だったのである。
 ロックは「国家=政治的共同体」と「教会=宗教的共同体」との峻別を推奨し、両者の境界線を明確に定めて棲み分けを維持することの重要性を説いている。こうした「政教分離」の主張が殊更に強調されるということは、裏を返せば、両者の癒着が当時の西洋においては常態化していたことを示唆している。世俗的権力と宗教的権力との剣呑な婚姻が、宗教的信仰の相違に対する妥協を知らぬ不寛容を醸成する土壌として機能していたのである。実質的な「神権政治」(theocracy)の横行は、信仰の内実次第で政治的利害が左右されるという状況を慢性化させる。如何なる様式の信仰を堅持するかによって、自己の現世的な損益が規定されるのである。宗教的信仰と現世的利害が緊密な連動を強いられることによって、信仰における内面的自由は毀損され、宗教的権威は不健全な膨張と増大に陥り、思想に対する暴力と迫害が地上を蹂躙する。異端審問や宗教戦争における驚嘆すべき不寛容の氾濫は結果として、宗教的信仰に内在する本来的価値の頽廃を招いたのである。
 こうした血腥く混乱した情勢を打開する為の処方箋としてロックが提示したのが「政教分離」の原則である。彼は世俗的権力と宗教的権力との無節操な野合を批難し、為政者による宗教的信仰への介入を拒絶する。それは「内面的自由の保護」という理念に要約され得るだろう。そして、為政者の権力が及ぶ範囲を物質的領域に限定することによって、信仰に対する迫害や弾圧が正当化される根拠そのものを廃絶しようと試みるのが、ロックの訴えの主要な論旨である。こうした考え方は、個人の内面的自由を保障するという意味で、近代的な個人主義自由主義を醸成する培地の役割を担うものと看做すことが出来る。また、ロックの論述する「政教分離」の原則は、狭義の宗教的信仰に留まらず、人間の思想的自由全般の保護という観点にまで敷衍して適用し得るものである。地上に暮らす誰一人として、たとえ国家の最高権力者であっても、他者の内面的自由を、つまり「魂の自由」を侵犯する権利は持たず、特定の思想信条に他者を腕尽くで服属させる類の営為は禁圧されている。このように、ロックの論じる「寛容」の理念は、極めて広範な領域に妥当する普遍的射程を備えているものと解されるべきである。
 この「政教分離」という理念を別の言葉に置き換えるならば「公私混同の忌避」ということになるだろう。公共的領域と私的領域、パブリックな分野とプライヴェイトな分野とを厳格に区分けすることが、他者に対する寛容の素地を育む。こうした問題意識は、現代の日本社会において人々の高い注目と関心を集める「ハラスメント」(harassment)という概念にも接続している。代表的な「パワー・ハラスメント」(power harassment)及び「セクシャル・ハラスメント」(sexual harassment)は、主として職場における位階秩序に附随して生じる個人への不当な抑圧を意味しているが、こうした事象の齎す弊害は「公私」の境界に対する鈍感な認識によって増幅される。業務上の権力が、個人の私的領域にまで影響を及ぼし、その内面的自由を毀損する場合に「ハラスメント」と呼ばれる暴力的侵害の発生が認定される。家庭における「配偶者間暴力」や「児童虐待」も同様に「ハラスメント」の類型の一種に挙げられる。つまり、何らかの社会的権力を行使して個人の内面的自由(「内面的」という用語は必ずしも「精神的」という意味ではない。例えば個人の「肉体」における主権は、個人の「内面的自由」に帰属すると考えるべきだろう)を侵害する行為全般が「ハラスメント」という概念に帰着する数多の事例を成すのである。誰も思想信条を主たる理由として裁かれる義務は負わず、その社会的行動に関してのみ処罰を受ける。尚且つ、社会的行動への処罰は、その行動が他者の社会的権利を毀損する限りにおいて執行される。国家的為政者の権力は専ら、個人の社会的利益の保護に限定して行使されるべきものであるからだ。

寛容についての手紙 (岩波文庫)

寛容についての手紙 (岩波文庫)

 

Cahier(理性の失調)

古代ギリシアの代表的な哲学者であるプラトンは、その長大な対話篇「国家」において「魂の三区分」と呼ばれる考え方を提示している。普遍的な真理を観照する理性の働きを、人間の霊魂の本質的且つ優越的機能に定めたプラトンは、理智によって「意志=気概」と「情念=欲望」が支配され、統御されることによって、精神的調和と幸福が齎されると考えた。言い換えれば、彼は人間の精神における「知情意」の三つの要素を明確に弁別したのである。
 他方、ストア学派は理性と情念との弁別に関して新しい定義を導入した。彼らは「理性」の存在しないところには「情念」も存在せず、動物の感情は理性を欠いているがゆえに「情念」ではなく刹那的で本能的な衝迫に過ぎないと看做した。理性が何らかの病変を患う場合に、悪しき情念が出現する。理性が適切に機能している場合には、情念も穏やかな均衡を保ち、暴虐には走らない。こうした変更は何を意味するだろうか。
 プラトンの考え方は極めて極端な「理智」の偏重に基づいている。彼は感性的認識、つまり肉体的な感官を通じて獲得される類の認識の真理性を認めない。感覚は相対的で流動的であり、時には自分自身を欺くこともある。従って感覚は事物の本質を把握する能力を持たないと判定された。事物の本質とは、プラトンの用語に従えば「イデア」(idea)である。「イデア」は事物を構成する本質的=普遍的=恒常的な要素である。プラトンにとって「真理」とは「イデア」を意味し、哲学的探究の目的は「イデア」の把握以外に有り得ない。そして、この「イデア」の正しい認識へ到達する為には、感性的認識への依存を脱却し、専ら「理智」(logos)の権能に基づいて思索を深めねばならない。
 このような図式において「肉体」は忌まわしく排斥されるべき存在である。何故なら、それは普遍的=恒常的な「イデア」にとっては対蹠的な存在であり、偶有的で相対的な事物に他ならないからだ。感性的認識は、理智の適切な機能を阻害する要因であり、感覚への従属は欺瞞への没入と同義である。そして人間の情念は、こうした肉体的=感性的領域に生起する衝動であり、移ろい易く、恒常的な認識を持ち得ない。
 他方、ストア学派は、霊魂の構造に就いて、理智と情念との一体的な性質を強調している。無論、彼らもギリシア的な伝統に基づいて、理性の称揚と情念の排撃という二元論的な構図を明確に継承している。しかし、彼らはプラトンが夢想した「イデア/現実」の重層的な世界観を必ずしも受け容れていない。ストア学派の自然学は一般に唯物論的であると言われる。それは彼らが、プラトンのように超越的な「実有」を想定し、感性的認識の対象を「仮有」として賤視する考え方を採用しなかったという意味である。超越的な「実有」を想定しないのであれば、プラトンのように「理智」を絶対化する論理的必然性は生じない。普遍的で恒常的な「実在」を措定せず、万物を自然の流動的変容の過程と捉え、その法則性を「ロゴス」(logos)と看做す自然学的認識は、プラトンの奇怪な思弁的実在論とは明らかに異質である。
 ストア学派が「理性」と「情念」との一体的な構造を強調するのは、それらが何れも感性的に把握される「物質」の範疇に属すると看做された為である。プラトンの学説における「理性」は感性的現実を超越し、普遍的な「実有」としての「イデア」と同じ次元に属するものと定義されるが、ストア学派は、そうした重層性を認めていない。少なくとも「イデア=実有」を実体的存在として捉える考え方には同意していない。但し、理性の権能によって悪しき情念を抑制し、統御すべきであるという倫理学的な方向性自体は、ソクラテスプラトンの衣鉢を継いでいると言えるだろう。
 ピュタゴラスプラトン的な「主知主義」(intellectualism)は専ら、普遍的真理の把握だけに関心を集中し、地上的=感性的現象からは隔絶した立場を堅持する。地上的な森羅万象が悉く虚偽に過ぎないのであれば、それらに対処する方策を考案するのは無益な企てである。しかし「真理」の反映と帰結を物質的=感性的現実の裡に見出そうとする唯物論的=一元的な見地に立脚すれば、そのような主知主義的超越は意味を成さない。「真理」(logos)の手懸りは、現実的=感性的個物の動向の裡に求められるからである。それゆえ「理智」もまた現実的=感性的聯関の一部として把握され、「情念」との間に本質的径庭は存在しないこととなる。それゆえ「理智」の変調は直ちに「情念」の変調へ直結し、健全な「理智」は即座に健全な「情念」へ波及する。「理智」の異常な暴走が悪しき「情念」を析出するのであり、その意味では「理智」は、プラトン的な無謬性の特権を賦与されていないのである。「理智」は無辜であり得ず、それ自体が常軌を逸する危険性を常に孕んでいる。「理智」そのものが堕落の危険を孕んでいるという考え方は、プラトンの学説の裡には恐らく見出されない考想ではないかと思われる。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:プラトン
  • 発売日: 1979/04/16
  • メディア: 文庫
 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

  • 作者:プラトン
  • 発売日: 1979/06/18
  • メディア: 文庫
 

艱難と克己 セネカ「怒りについて」 3

 古代ローマ文人政治家であったルキウス・アンナエウス・セネカの『怒りについて』(岩波文庫)の感想を書き留める。

 本書の主菜に当たる「怒りについて」と題された書簡体の長文は、人間の懐く「情念」(affectus)の中で最も狂暴で醜悪な「怒り」の弊害に就いて縷説したものである。セネカを含めたストア派の伝統的な学説は、情念の異常な奔騰を諸悪の根源と看做し、理性と意志の適切な運用によって情念の暴走を制御することに倫理的な規範を見出す。但し、ここで注意すべき点は、理性と情念との画然たる峻別の適否に就いてである。セネカは劇しい憤怒の醜悪な弊害を論じるに際して、幾度も動物の比喩を用いる一方で、同時に「物言わぬ動物たちは、人間の情念を欠いている」(p.94)と附言している。つまり、人間の情念は理性との間に対蹠的な異質性を備えているのではなく、寧ろ理性と不可分の構造を有しているのである。劇しい怒りと、それが四囲に及ぼす有害な影響は、理性から解き放たれた原始的で粗野な獣性の表現ではなく、理性そのものに内在する機能的不全の帰結なのである。怒りという悪しき情念は、理性の欠如によって齎されるのではなく、理性の異常な暴走の所産である。理性を持たない存在は必然的に、何らかの情念を保持することも出来ない。
 言い換えれば、ストア学派及びセネカ倫理学的知見においては、総てが理性の機能に関する問題に還元されるということである。理性の適切な運用に失敗すれば、誰しも内なる野蛮な衝迫の果てしない亢進を、自ら積極的に推し進める結果に帰着してしまう。人間の怒りは、理性の補助を蒙ることによって無際限な残虐性を帯びる危険を孕んでいる。動物の攻撃的興奮は、理性による増幅の効果を享けない為に、瞬間的な衝迫の範疇に留まる。しかし人間の情念は、発達した知性の推進力を借用して、無限遠点まで到達することが可能である。つまり、一般的通念の論じるように、必ずしも愚かな人間だけが怒りに駆られる訳ではない。人間の社会には、明晰な怒りというものが有り得るのだ。単なる理智の発達だけでは、憤怒の情動を統制する十全な条件には満たない。人間が怒りを燃え上がらせるとき、そこには必ず「怒り」の積極的効用に対する承認の判断が関与している。それゆえにセネカは、憤怒を弁護する様々な見解を羅列して、それらを順番に論破していく構成を採用したのだと思われる。
 情念は、理性的機能を通じて析出されるものでありながら、一定の強度を超過すると、理性による支配を断ち切るのみならず、主権を簒奪し、理性を屈服させ、虐使する。怒りを肯定する思考が、情念の誘惑によって樹立され、異なる思考の可能性を抑圧してしまうのである。それは理性の脆弱な性質に起因する現象であるとは限らない。発達した明晰な理性さえ、時には怒りという情念の暴発を容認してしまうからである。場合によっては、明晰な理性を専ら他者への憎悪や悪意に奉仕させ、悪用することすら起こり得る。つまり、知性の高度な発達は必ずしも、直ちに情念の適正な支配に帰結するとは限らないのである。
 情念による理性の支配と抑圧、それは癌細胞のように、健全な肉体から生まれながら、健全な肉体を裏切って蚕食し、健康な機能を毀損し、侵略し、最終的には滅亡へ帰着する。言い換えれば、情念とは理性の変質した形態、制御の困難な病態なのである。それは外部から侵入する異質な悪疫ではなく、自己自身の突発的な病変である。理性を健全な状態に保ち、病変を免かれ、絶えず円滑に機能するように管理を怠らないこと、これがセネカの論じる倫理学的な方針であり心得である。無論、それは容易なことではない。
 ストア学派は伝統的に「アパテイア」(apatheia)という概念を重視する。「アパテイア」は「情念の欠如」を意味する合成語であり、情念の働きによって阻害されることのない理性の健全な機能を指し示す。理性に固有の宿痾に譬えられる「情念」を排することは、如何なる感情も持たないという意味ではない(ストア学派において、情念は理性と不可分であり、一体化している)。理性の病変が悪しき情念を齎すのであれば、健全な理性は望ましい情念の形態として顕れる筈である。言い換えれば、彼らストア派の学徒たちは、情念を理性的なものと反理性的なものとに分類し、至高の境地と目される「アパテイア」の状態においては、理性的な情念だけが享受されると考えたのである。理性に服属する情念は「エウパテイア」(eupatheia)と呼ばれ、「怒り」に代表される種々の悪しき情念とは区別された。
 理性と情念が相互に一体的なものであるならば、理性が正しく運用されている場合には自ずとエウパテイアが生じ、理性が悪しき考えに囚われて歪んだ判断を持つ場合には、自ずと情念も混濁し、反理性的=反自然的な病変の状態へ陥り、度し難い不幸を惹起することとなる。そして理性の正しい運用とは、神々の定めた自然の「摂理」に即した思考と判断、及び行動を堅持することを意味する。
 このような見地に立って論じられる「怒り」の感情が、専ら解消されるべき忌まわしい病弊として遇されるのは当然である。セネカは徹頭徹尾「怒り」という悪しき情念の非道と害悪に就いて弛まぬ縷述を繰り返し、「怒り」という感情の必要性を擁護する総ての議論に対して厳格な反駁を積み重ねる。悪しき情念に依存した行為が如何なる正当性を主張したとしても、それは欺瞞に過ぎないというのがセネカの一貫した信念である。何故なら、悪しき情念に支配された人間の判断が、世界の「摂理」に適ったものである可能性は、原理的に皆無であるからだ。悪しき情念は、理性の倒錯的状態を直截に示唆する。それゆえ、怒りに駆られた人間の下す判断は、不可避的に「摂理」からの逸脱に陥っていると看做されるのである。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

Cahier(瞋恚・誹謗・希望)

*最近は蝸牛の速度で、セネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読んでいる。読了したら改めて私的な感想を纏める積りなので、内容の詳細には立ち入らないが、セネカは「怒りについて」の全篇を通じて、只管に「怒り」という破壊的な情念の悪しき影響を、多様な視角から論じ続けている。「怒り」という情念の価値や効用を擁護する諸々の見解を想定し、それを片端から反駁するセネカの論理的執念は、所謂「バッシング」や「誹謗中傷」の横行する現代社会を生き抜く上で、有用な知見として参照し得る。
 古代ローマの有力な政治家であったルキウス・アンナエウス・セネカが活躍したのは紀元前後の時代で、概ね現在から二千年の昔に遡る。暴虐の皇帝として知られたカリギュラやネロの在世を生き抜いたセネカにとって、理不尽な瞋恚が齎す数々の弊害は非常に切実な問題であったのだろうと思われる。彼は「怒り」という悪魔的な情念に「勇敢」や「闘志」との共通性を見出す論説を斥け、正義の名を借りた「怒り」が享楽さえ伴うことの欺瞞を指弾し、不正や侮辱によって己の精神的均衡を破綻させることの度し難い愚かしさを繰り返し説いた。こうした考え方は、現代においても猶、重要な倫理学的意義を有している。そもそも、二千年の歳月を経ても一向に人類は「怒り」という悪魔的情念との望ましくない癒着の関係を清算出来ずにいる訳で、そういった意味では、古代の典籍に織り込まれた賢者の叡智は未だ古びるほどの日月を閲していないと言える。
 古代インドに発祥して東アジア全域に広まった「仏教」(buddhism)においても、「怒り」の情念は「三毒」(貪瞋痴)の一つに数えられ、根源的な悪徳の一種に定められている。「怒り」の齎す害毒については、千年単位の往古から既に批判的な言及が重ねられている訳である。にも拘らず、憤怒に起因する不毛な揉め事の類は根絶されず、戦争から児童虐待に至るまで、抑制されない破壊的情念の暴走は未だ枚挙に遑がない。インターネットの世界では誹謗中傷が日夜生起し、公道では所謂「あおり運転」で死傷者や逮捕者が出て、人種差別や各種のハラスメントも日常的に我々の耳目を占めている。新型コロナウイルスの流行が始まった当初は、マスクの購入者の列で順番を巡って掴み合いの喧嘩が起きたり、電車の中で咳込む客とそれを批難する客との間で諍いが起きたり、類似の事例は無限に存在する。
 それでも、社会全体としては「怒り」という情念を抑圧する方向へ、仕組みや通念が革められつつあることは事実である。ハラスメントの定義は拡張され、暴力に対する規制は強まり、人前で怒りを露わにすることの愚かしさと惨めさは徐々に、我々の社会的常識の目録に登録されつつある。この漸進的改善の鈍重な速度に憤怒を燃やしても益はない。真理が明らかにされたとしても、それを恒常的に実践することの難易度は、各自の努力に委ねられている。明瞭な真理が、斉一的に万人へ受け容れられるとは限らないのだ。そして今も猶、例えば「義憤」という仮面を被って、他者の悪事を論難し指弾する人々の邪悪な清々しさは世上に充ちている。他人の過ちを批難する正義の行為には、紛れもない甘美な悦楽が備わっている。それは悪魔的な嗜癖の一種と看做して差し支えない。他人の言行の瑕疵を発見して、それに仮借無い指摘を加えることに無上の喜悦を見出す習慣が、現代の社会には広く行き渡っているのである。この国の法律は私的制裁や復讐を禁じているが、実質的には、こうした誹謗中傷は脱法的な享楽として横行している。それらの行為は尤もらしい正論に基づくことによって「無辜」の資格を確保しているように偽っているが、その根本に「怒り」という破壊的衝迫が渦巻いていることは、セネカの指摘する通りである。彼は「自分は何も罪を犯していない」という「無辜」の自覚が、際限のない「義憤」の源泉であることに読者の注意を喚起しつつ、隅々まで「無辜」であるような人間が実在するかどうか、根源的な疑問を呈している。法律に抵触していないだけでは十全に「無辜」であるとは言えないとセネカは論じる。何故なら、我々の暮らす社会は、法律として明文化されていない数々の「美徳」によって支えられているからだ。他者への寛容は、法律の条文に依拠するものではなく、寧ろ「法律」という概念を生み出す基礎的な土壌に値する。法律の遵守によって他者を断罪する権利を獲得したと思い込むのは独善的な判断であり、狭量な人間になることを自ら選択し署名したに等しい。無論、悪事は処罰されねばならない。しかし、セネカは断罪に「怒り」を混えることの過ちを幾度も強調している。断罪の目的は怒りの発露でも他者の毀損でもなく、罪人の矯正である(但しセネカは、如何なる方法を以てしても改善されない悪人に就いては、極刑も止むを得ないという考えを明言している)。従って怒りと憎しみに基づいた厳正な処罰は「正義」という名の快楽に淫することと同義なのである。尤も、所謂「被害者感情」というものを鑑みれば「正義」の快楽に溺れないことは至難の業である。私自身、そうした忍辱に堪え得るかどうか、率直に言って心許ない。しかし、だからと言って耽溺が正当化される訳ではないし、憤怒と憎悪が根本的な解決を齎す見通しも立たない。生きることは時々、酷く困難である。だからこそ日々、学び続けなければならないのだろうと思う。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

艱難と克己 セネカ「怒りについて」 2

 古代ローマの政治家であり哲人であったセネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読む。

 劈頭の「摂理について」に続けて収められた「賢者の恒心について」もまた、専ら「徳」に殉じて歩む賢者の清廉な生き方に対して、自然や社会が加える不正への懸念を取り扱っている。言い換えれば、この書簡の受取人であるセレーヌスは、あらゆる人間の目指すべき高徳な境涯に達した偉大な人間が、何故諸々の無惨な命運に襲われ、非業の末期を遂げねばならないのか、高徳は幸福への唯一の普遍的な捷径ではないのか、という疑念に苛まれているのである。その意味では、この文章の論理的構造は「摂理について」と同質であると言えるだろう。
 セネカは、賢者であれば如何なる種類の災厄も艱難も免かれ得るという神秘的な御託宣を披歴している訳ではない。惨たらしい禍事が賢者の身の上に殺到することが有り得るのは、疑いようのない厳密な事実であり、多くの歴史的事象が、そのことを証明している。そこでセネカが駆使するのは、外在的な現実と内面的な心理とを峻別する論法である。つまり、セネカは不正な行為によって齎される災禍を専ら心理的な問題に還元し、物理的には不幸であっても心理的には幸福で有り得るという二元論的な理窟を用いて、セレーヌスの懸念の払拭に努めているのである。
 こうした議論の中核を成すのは「恒心」(constantia)と呼ばれる倫理的概念である。この徳は、如何なる外在的=客観的な事象によっても損なわれず揺さ振られることのない、極めて堅固な精神的安定性を意味している。この「恒心」という徳の力によって、賢者の身辺に押し寄せる総ての不正と悪徳は無害化され、自然の齎した抗い難い災厄さえ、その暴威に対しては失効が宣告されることとなる。外在的な現実そのものは、個人の随意に統制したり改革したりすることの出来ない事柄である。しかし、そうした事実によって喚起される自己の内面的現実は、統御し得るし改善し得る。理性の権能を用いて内なる情念の身勝手な蠕動を阻止し、外在的現実の齎す影響に併呑されぬよう努めること、これが「恒心」という徳目の概要である。専ら理性の働きに価値と権威を認め、情念や欲望を統制されるべき下位の現象として定義するセネカ及びストア学派の考え方は、アテナイの哲学者プラトンの教説にも通底するものであり、古代ギリシアの思想における包括的伝統であると考えられる。
 こうした考え方が、精神と肉体との二元論的弁別を思惟の前提に採用していることは明白である。感性的現実を侮蔑し、貶下することで、セネカは理性的判断の意義を絶対的な高みへ上昇させ、登極させる。感性的現実が如何なる状況と構造を備えようとも、それは精神の独立的な性質を毀損するものではなく、理性的な意志の働きを破壊するものでもない。四囲の現実が悉く深刻な苦境に占められていたとしても、精神が苦境に屈服する必然性は存在しない。感性的現実の蔑視という点では、セネカの思索はプラトニックな伝統を忠実に継承しているのである。他方、エピクロスの学統は、肉体に対する霊魂の独立や、霊魂自体の普遍的な永続性というアイディアを承認せず、肉体と霊魂との有機的な一体性を強調する(ルクレーティウス『物の本質について』岩波文庫)。ストア学派エピクロス学派との対立は、単なる感情的な反目に留まらず、普遍的且つ原理的な矛盾を内包しているのである。後世、セネカの学説に対する鮮明な敵意を告白したラ・ロシュフコーが、エピクロスの肩を持つのも当然の反応であると言えるだろう。
 心身の峻別に基づいたストア学派の勇猛で禁欲的な考え方は、少なくとも実践の原理としては有益な示唆に富んでいると思われる。プラトンのように普遍的で絶対的な「真理」の把握に至高の価値を求めるのではなく、専らセネカは現実的な処世の心構えとして、諸々の雄々しい徳目の意義を語り、論じている。その道徳的理念の要諦が「理性による自己支配」に置かれていることは明瞭である。理性の指示と命令に則り、絶えざる揺動を続ける情念と欲望を統制し、外界の事象に惑わされず、主体的な意志を堅持すること、あらゆる艱難を超越して穏当な「恒心」を保つこと、これがストア学派の提唱する「幸福」の形態である。言い換えれば、彼らは外界の現実に対する具体的で密接な関心を捨象する。心理的現実と外在的現実との不可避的な相関性を否認する。現実的な不幸は、賢者の内在的不幸を全く意味しない。その点では、彼らの提唱する幸福論は個人主義的であり、内面主義的である。社会的現実の改良によって人類の幸福の増進を図るという政治的野心は、ストイシズムの論理とは結び付かない。社会的現実が悲惨な不幸に覆われていたとしても猶、賢者自身は揺るぎない幸福の裡に自足することが可能であるからだ。仏教に擬えるならば、ストイシズムの教説は小乗的であり、他者の救済よりも個人の解脱を重んじる。ストイシズムの教説に浸潤した根深いエリーティズム(「賢者」を頂点とする人間の倫理的ハイアラーキーが前提されている)に就いても注意が必要である。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

艱難と克己 セネカ「怒りについて」 1

 古代ローマの政治家であり哲人であるセネカの『怒りについて』(岩波文庫)を目下繙読中なので、覚書を認めておく。

 本書の劈頭に収録された「摂理について」は、何故、正義を遵守する善人に対して種々の災厄が降り掛かるのか、という伝統的な疑念への応答を目的とした書簡体の文章である。古代ギリシア以来、正義は人間の信奉すべき重要な徳目として尊重されてきた。多くの哲学者は、正義を遵守することが善と幸福への確実な通路であることを繰り返し強調した。同時に彼らは、世界を超越的な絶対者による被造物として捉える考え方に基づいて、諸々の徳目の遵守と善行の蓄積は、この世界を設計した絶対者の意図に適合する営為であることを重ねて説いた。
 しかし現実には、明瞭な美徳に鎧われた賢者や善人でさえ、無数の不幸と悲惨に襲われることは稀ではない。神の御心に適う正しい言行を貫徹しても猶、悲劇的な宿命に見舞われるのだとしたら、果たして正義に殉じることは真に有益であり妥当であると言えるのだろうか。こうした疑念の提示が行われるのは至極当然の成り行きである。超越的な「摂理」が存在するにも拘らず、何故、正しい人間が酷薄な宿命によって蹂躙されねばならないのか、という疑念は、あらゆる宗教的=道徳的信仰の枠組みを瓦解させる危険な要素を濃厚に含んでいる。例えば遠藤周作の「沈黙」は、信仰に殉じる者を苛む悲劇的な宿命に対して何故「神」は「沈黙」を堅持するのか、という切迫した問いを作品の主題に据えている。そもそも「神の子」であるイエス・キリスト磔刑という歴史的事件が、同様の疑念を生み出す重要な源泉であることを看過すべきではない。
 こうした問いは、アテナイの哲学者プラトンが著した対話篇(例えば「ゴルギアス」)においても執拗に論じられている。正義を遵守する善人が往々にして、私利私欲の貪婪な追求に明け暮れる不正な人々の生贄となりがちである現実を踏まえて、正しい人間が幸福であり、不正な人間が不幸であるというソクラテス倫理学に対する疑念と反駁が提示される。言い換えれば、正義などの倫理的徳目と人間的幸福とを結合する考え方に対して、所謂「義人の不幸」という現実は極めて有力な反駁の根拠として機能するのである。
 この主題に就いてセネカが与えた回答は、義人の身の上に襲来する種々の不幸に関する解釈の変更に基づいている。先ず前提として、セネカは「摂理」を主宰する「神」が、正義を遵守する義人に害悪を及ぼすことは有り得ないと宣告する。つまり、傍目には不幸であり悲惨であると見える事象が、実際に義人の生涯を毀損する災厄である筈はないと推論するのである。それならば何故、数多の艱難辛苦が義人の身を襲うのか。それは神の寵愛によって齎された「試練」であるというのが、セネカの回答である。寧ろ堕落した悪人こそ、不幸や災厄から見限られるのだという論理的アクロバットが、彼の考え方を支えている。
 災厄や艱難は不幸ではなく、寧ろ恩寵であり救済なのだという解釈の変更は、必然的に、偶発的な不幸、無意味な悲劇というものの存在を排斥している。無意味に生起する災厄、神々の摂理とは無関係に勃発する艱難の存在を認めることは、義人こそ試練としての不幸に見舞われるという考え方の基層を破壊してしまうからだ。だからこそ、セネカは「摂理について」の冒頭で「摂理があらゆる事象を統括し、神がわれわれに関わりをもつということ」(p.11)を強調しているのである。森羅万象に単一の「摂理」の介在を見出す態度は、伝統的にストア学派の好敵手と目されてきたエピクロスの「クリナメン」(clinamen)というアイディアと対立する。ストア学派は「必然」の貫徹を信奉し、エピクロスは「偶然」の介入を容認するのである。

 贅沢を逃れよ。力を抜き取る幸福を逃れよ。それにひたっている精神は、何か人の定めが忠告すべく割り込んでこなければ、永遠の酩酊に眠るように腐って溶けてしまう。いつでも玻璃窓が風の吹き込みから守った者、次々交換される罨法で足を温められた者、その晩餐の間を、床に仕組まれ壁沿いにまわる暖気が心地よく保った者、こういう人間は、微風すら危険に感じ、わが身を凝らせるだろう。何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。(『怒りについて』岩波文庫 p.28)

 艱難を幸福と看做す以上、享楽的な生活は人間を堕落させ、麻痺させる根源的な不幸として定義されることになる。この勇ましく苛烈な実存的方針は、外在的条件に対する自己の超越という企図を暗黙裡に含有している。外在的な条件に左右されない堅固な自己の確立ということが、ストア学派的な幸福論の要諦である。その為には、艱難さえも幸福と読み替える理智的な努力が欠かせない。一般的な不幸を「幸福」として再定義すること、この異様なオプティミズムは、例えばキリスト教にも重大で決定的な影響を及ぼしていると思われる。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

「意志」という名の欺瞞 ラ・ロシュフコー「箴言集」

 十七世紀フランスの所謂「モラリスト」の一人として名高いラ・ロシュフコーの『箴言集』(講談社学術文庫)を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 人間の生活や行動、歴史的な故事を調べて独自の知見を引き出すという著述の骨法は、特段モラリストに限られた手法ではない。彼らが断章や箴言といった形式を好み、例えばアリストテレスのような体系的記述を好まなかったということは確かに一個の事実であるが、そもそも人間が自らの思索を書き留める際の文学的様式は様々であり、殊更に「モラリスト」という枠組みや範疇を自明の秩序として珍重する必要は稀薄であると言えるだろう。執筆の様式には各自の個性が自在に反映されていればそれで良い。「モラリスト」というラベリングで何事かを説明し得たような錯覚に陥るのは、私の望む事態ではない。
 ラ・ロシュフコーの書き遺したテクスト、夥しい数の「箴言」(maxim)と簡素な哲学的随筆は、原則として人間の本性を「堕落」という条件の下に定義しているように思われる。「道徳的考察」の劈頭に掲げられたエピグラフ「われわれの美徳とは、たいていの場合、偽装された悪徳にほかならない」(『箴言集』講談社学術文庫 p.17)が鮮明に告示しているように、彼は人間の根源的な清浄を是認していない。如何に崇高な美徳に鎧われた行為や発言を目の当たりにしても、その根底に「自己愛」という牢固として抜き難い衝迫の働きを見出すのがラ・ロシュフコーの認識の特徴である。一見すると紛れもない善行と感じられる犠牲的な営為さえ、煎じ詰めれば旺盛な「虚栄心」の齎した果実に過ぎないと彼は診断する。このペシミスティックな人間観は、訳者の前書きによれば、所謂「自力作善」による意志的な救済の可能性を徹底的に否認するジャンセニスムの濃厚な影響下に生じたものであるらしい。無論、他者からの影響のみならず、彼自身の味わった苛酷な政治的=軍事的経験の記憶が、そうした人間観の醸成と構築に決定的な寄与を成したことは確実であろうと考えられる。
 全体を通して言えることは、恐らくラ・ロシュフコーという人物は、人間に備わった謹直な「意志」の力や価値、その決定的な意義に、頗る深刻な疑念を有していたのだろうということである(「人間は、何かに動かされているときにも、自分から行動していると思い込むものである。知性によってある目的に向かっているつもりでいても、いつの間にか、心が別の目的に向かわせている」p.25)。理性的な意志の力による自己の統御を金科玉条としたストア学派の重鎮セネカに対する批判的言及も、そうしたラ・ロシュフコーの思想的特性を裏付けているように思われる。彼は理性的な判断に対する信頼さえも棄却している訳ではないが、少なくとも人間の主体的な意志が人生に及ぼす影響の多寡に就いては、禁欲的な鑑定結果を堅持したのである(「われわれは、自分の理性が命ずるままに生きようとしても、それだけの力がない」p.25)。
 ラ・ロシュフコーは、人間の主観的な思い込みに重点を置く態度を斥け、人間の行動を支配する情念や欲望の構造を客観的な仕方で見究めることに思索の焦点を合わせた。人間が自分自身の主体的な意志の権限を駆使して、自分自身の行動や生活を随意に統御し得るというストイックな考え方を、彼は明確に拒絶したのである(「自分の情念を抑えることができる場合もたしかにあるが、それは、われわれの意志が強いからというよりも、むしろ情念が弱いからである」p.38)。意志的な克己心の奨励は、主観的な信仰に過ぎず、それを事実として主張することは傲慢な虚栄心の帰結に他ならない。ストア学派は、理性による自己統御に加えて、外部的な条件による自己の制約を否認し、主体的な超越に価値を見出したが、そのような人間観は虚妄でしかないというのが、ラ・ロシュフコージャンセニスムによる思想的診断の結果なのである。
 同時に彼は、あらゆる人間の行動を無意識の裡に支配し汚染する「自己愛」の作用に着目した。如何なる美徳も、その裏側に潜在的な悪徳を抱えているという観察は、彼の人間観及び世界観の基調を成す重要な命題である。言い換えれば、彼は「自己評価」というものの極めて曖昧で不適切な性質を強調することに意を尽くしたのである。自分の思い通りに自分は行動することが出来るという発想は、ストア学派の意志的な克己主義・禁欲主義を成立させる根源的な土壌である。しかし、ラ・ロシュフコーは「意識」と「現実」との間の齟齬や断層に読者の注意を喚起する。他者は固より、自分自身でさえ、主観的な意識の専制的命令に一から十まで服属することは有り得ない。人間の主観的な自己評価ほど、身も蓋もない現実の状況から乖離しているものはない。それゆえ、彼にとっての「思索」の意義は、両者の断絶を少しでも補填し、精確な自己理解を樹立することに捧げられていたのではないか。空疎な過信によって現実から遊離するのではなく、自己愛と虚栄心に汚染された歪んだ視野を浄化すること、それは無論、自己愛及び虚栄心という凡夫の度し難い性向そのものの廃絶を意味する訳ではない。寧ろ、廃絶し難い醜悪な現実を凝視し、明晰に解剖することが、セネカを論難するラ・ロシュフコーの本懐であり野心であったと思われる。

箴言集 (講談社学術文庫)

箴言集 (講談社学術文庫)