サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

My Reading Record of "Who Moved My Cheese?"

 英語学習の一環として取り組んだ Spencer Johnson,Who Moved My Cheese?,London,1999 を読了したので、感想の断片を認める。

 本書は二〇〇〇年に扶桑社から邦訳が出版され、日本国内でも累計四〇〇万部に達する売上を誇る、極めて華々しい数字に彩られた国際的に著名な自己啓発の為の書物である。内容は単純明快で、その主題は「変化への対応」である。新型コロナウイルスの蔓延に伴って価値観や生活の過半を強制的に改革されるという得難い経験を踏まえた我々にとっては、本書が扱っている主題は否が応でも馴染み深いものであると言えるだろう。
 変化に対応することの重要性に就いて、現代に生きる多くの社会人はうんざりするほど夥しい回数の有難い説法を聞かされているだろう。社会の様々な局面において、事物の変化する速度が増し、その範囲や密度が拡大していることは経験的な事実である。通信技術が発達し、交通網が整備され、国際的な交流が活性化すればするほど、局所的な知見が幅広い領域で迅速に共有され、新たな技術や発想の醸成に発展するのは自明の理である。技術や知識が目紛しい勢いでupdateされていく為に、かつて有益であった知見や有効であった技術が瞬く間に古びていく社会に我々は所属して、日々の活動に従事している。そうした現状を鑑みれば、変化への適応を奨励し、場合によっては強要する世界的傾向は、不可避の現象であると言える。
 著者は、変化の重要性と価値を説くと共に、人間が如何に変化を怖れるか、過去の成功に執着し、過去から未来を演繹することを望むか、快適な環境の永続を望むか、という人類の普遍的特性に就いて、簡潔な言葉で論じている。しかしながら、非常に残念なことに、快適な環境の永続が不可能であり、何らかの変化を蒙ることが不可避であるという事実は否認し得ない。それゆえ、変化に対する不安や怠惰を払拭し、寧ろ変化を前提とした生活の設計を推進すべきであると、著者は穏やかな口調で訴える。こうした論理は、それこそ古代ギリシャヘラクレイトスや古代インドの釈迦牟尼の時代から営々と倦まず弛まず語り続けられてきた、歴史的な真理の重要な典型である。「常住」ということは有り得ず、森羅万象は「無常」であり、変化を拒絶し得るという考え方は妄想的な謬見に過ぎない。けれども、生活の恒常的な安定を求めるのは人間の本能である。だから、理窟として真理を把握しただけでは、我々は本能の要請に容易く屈してしまう。意識的な訓練の蓄積がなければ、真理は有益な影響力を発揮する機会を得られないのである。真理は、その正しさを証明するだけでは決して実現されないのである。
 東洋の叡智の本質的源泉の一つである仏陀の教説は「四苦八苦」というideaを展開した。「生老病死」の四種に加えて「愛別離苦」(愛する者と別れる苦しみ)「怨憎会苦」(憎むべき相手から離れられない苦しみ)「求不得苦」(欲しいものが手に入らない苦しみ)「五蘊盛苦」(自己の心身を随意に制御し得ない苦しみ)が存在するという仏陀のpessimisticな認識は、人間の生存の条件を冷徹に照らし出している。そして、これらの苦しみの根源は悉く「諸行無常」という世界の存在の条件から齎されているのだと言い得る。「諸行無常」即ち「変化は不可避である」という事実を適切に認識しない限り、認識と現実との不整合によって、これらの苦しみが生じるのである。変化の不可避的な性質を理解し、変化を忌避するのではなく寧ろ積極的に変化と合一することが、望ましい生涯の為の心得であるという訳だ。
 過去の慣習、前例、伝統、これらへの固着が滅亡を齎すという考え方、そして伝統を保存し継承する為には持続的な革新を試みねばならないという考え方は、現代の常識であり定説である。無論、絶えざる革新は誰にとっても容易ではない。だが、そのstressfulな生き方は、少なくとも衰弱の極北で滅び去るよりもマシな境遇であるというのが、著者の根本的な認識である。

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2021年)

 謹賀新年。皆様如何御過ごしでしょうか。サラダ坊主で御座います。本年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 旧年中の記憶は絶えざる新型コロナウイルスの猛威と共にあり、誰もが生活の変質と苦闘を強いられ、総理大臣が緊急事態宣言の発令に就いて否定的な見解を表明した翌日の大晦日に、首都圏を中心に過去最高の感染者数を記録するという劇的な幕切れを迎えた一年でありました。海外ではワクチンの実用化が始まり、本邦においても二月頃から医療関係者を皮切りにワクチンの接種が開始されるという報道もあり、微かな希望の燈火が瞬き始めたようにも思われる一方で、イギリスやナイジェリアで変異した株が発見され、既に世界的な蔓延を実現しつつあり、ワクチンの効能の不透明性は高まっています。その意味では、世界は疑いもなくcorona virus diseaseに深刻な敗北を喫した一年でした。
 現在の私が所属する職場は東京駅構内の店舗であり、COVID-19の感染が始まる以前は、厖大な数の乗客を抱える立地ゆえに全国の頂点に立つ売上高を誇る、社内では最も繁忙な場所でした。しかし、リモートワークの拡大や外出自粛に伴う観光客の激減で、東京駅の風景は一変しました。その意味で、私にとってもコロナウイルスは憎たらしい宿敵であり、本来であれば得られた筈の栄光と成長を蹂躙した忌まわしい害悪でした。しかし、ウイルスに不満を述べても仕方ないでしょう。私よりも悲惨な境遇に追い詰められている人々は大勢いる筈です。ですから、私の立場でこれ以上の泣き言を申し上げるのは恥ずべきことでしょう。

 年頭に際して、何かしら抱負を述べるのは世上の古典的習慣であり、私もその伝統に倣って来る新年の目標を記録しておきたいと思います。それは世間に対する宣言ではなく、固より移ろい易い人間の記憶と感情の生理を踏まえて、自分自身の為に明確な里程標を設置しておく為です。
 私は最近英語の勉強を始めました。別に業務上の必要に駆られた訳ではありません(少なくとも私の勤め先は極めてdomesticな企業です)。私は直近の二年間、海外の古典の翻訳に触れる機会を意図的に増やしてきました。当然、総て邦訳を通じて取り組む訳ですが、異国の言語に微塵も通暁しない立場でありながら、一部の邦訳に対して、これは本当に適正な訳文なのだろうかと疑念を懐くことが時折ありました。そもそも、どんなに達意の訳文を望んだとしても、英語と日本語、ラテン語と日本語、古代ギリシア語と日本語との間には、理想的な対応関係というものは存在していません。総ての語彙や文法が相互に完璧なcorrespondenceを示し得るという期待は、幻想的な希望の所産です。その意味では、邦訳を通じて例えばプラトンの対話篇を読むということは、プラトンの思想を多かれ少なかれjapanizeするということに他ならず、また翻訳者の主観を経由するということに他ならないと言えます。
 無論、プラトンを英訳で読んだとしても、同様の問題は共通して発生します。但し、英語によるプラトンの読解の歴史は恐らく、日本語によるプラトンの読解の歴史よりも遥かに長く、分厚く、深いものでしょう。英語至上主義を標榜する積りはさらさらありませんが、少なくともLingua francaとしての英語に習熟すれば、英語で綴られたあらゆる書物に直接アクセスすることが出来るようになります。翻訳の品質や、そもそも翻訳が存在しないという問題に悩まされることも少なくなるでしょう(翻訳の品質の問題は、私の英語力が翻訳者のそれを上回らない限りは解決しませんが)。
 日本語の世界だけで完結することは、少なくとも外国の著述を読解する上では不可能です。Googleが総てを翻訳してくれるようになれば、個人の語学力など不要になるでしょうか? 同じことです。そうなれば我々はGoogleの助力と支配なしには、世界の外部に出られないのです。つまり、それは本質的な解決にはならないのです。
 能書きばかり垂れていても詮ないことですから、先ずは地道に自分の掲げた目標に向かって小さな努力を日々蓄積していく所存です。偶々ネットで、英語一辺倒の勉強は真のglobalizationではなく、多様性の圧殺に過ぎない、従って英語の勉強は無益だという乱暴な意見に接したこともありますが、そういう人間が、英語以外にも複数の外国語を学んで真の国際化に対応しようと努力しているとは思えません。多様性の尊重を理由に、異国の言葉に対する知的関心を放棄するのは単なる鎖国であり、端的に言って堕落に過ぎないでしょう。或いはxenophobiaの典型的な症例かも知れません。
 以上で年頭の御挨拶とさせていただきます。本年も何卒「サラダ坊主日記」を宜しく御願い申し上げます。

Cahier(年の瀬・悪疫・逆境)

*光陰矢の如し、知らぬ間に年の瀬を迎え、新年が直ぐ傍に迫っている。恐らく新型コロナウイルスの世界的蔓延によって歴史にその名を色濃く刻まれるであろう2020年、人々の生活が事前に予測されない重大な変化と転換を強いられた一年、それが瞬く間に終わろうとしている。
 今年の三月下旬に、四年間働いた千葉市の店舗を離れて東京駅構内への異動を内示されたとき、既にコロナウイルスは猛威を揮いつつあり、厖大な旅行客の需要を抱えて売上高日本一の盛名を誇っていた東京駅の日商は既に地を這っていた。前年比で見れば全店で最低の水準を推移する店舗に赴任を命じられ、私の社会的責務は苛酷な陰翳に彩られた。売れ筋も仕事の進め方も外的与件も今までと全く異なる環境に飛び込んで、乏しい智慧を絶えず雑巾の水気のように絞り出しながら働いた一年だった。国家的な観光促進キャンペーンの対象地域に東京が加えられた十月以降は、店舗の実績も著しい復調を示したが、十一月後半以降の深刻な感染第三波襲来によって、漸く見えた一条の希望の光明は無惨に蹂躙され、年末年始の新幹線指定席予約状況は過去最低の数値を記録している。やれやれ、という草臥れた感慨が、本来ならば年間で最も繁忙であるべき私の社会的生活を蚕食している。歴史的な逆境に投げ込まれた私の運命は呪わしいものだろうか。しかし、店舗が日々営業を続ける以上は、誰かがこの損な役回りを引き受けねばならない訳で、外れ籤を引いた自分を殊更に憐れもうとは思わない。人から不憫だねと慰められたい訳でもない。程度の差異はあれ、逆境は絶えず人間の生活を包囲する。それに私は、自分で自分を惨めな人間だと思って、恵まれない境遇を儚んで過ごすような生き方が嫌いである。
*日常性が如何に脆弱なものであるか、本年の実績と前年の実績とが同じ軌跡を描く安定的な事態が如何に奇蹟的なものであるか、そういうことを改めて学んだ。思えば、過去にも同様の社会的苦難は幾つも勃発した筈だ。私が初めて店長の職位に任じられた十数年前の冬には所謂「リーマン・ショック」が起きて、殆ど総ての店舗が急激にその実績を悪化させた。私が千葉県市川市の店舗に赴任した翌月には東日本大震災が発生して、多くの店舗が営業すら儘ならない状態に陥り、会社は巨額の単月赤字を計上した。日常性の破壊、素朴に信じられていた習慣が機能不全に追い込まれる「有事」の勃発、そういう不測の事態は定期的に我々の生活を見舞っている。その意味では、個人の力では解決し得ない艱難辛苦に逢着するのは、巨視的なスパンの裡に置いて眺めるならば、概ね「日常的出来事」と看做して差し支えない。どうせ乗り超えるならば、巨大な困難の方が遣り甲斐を感じさせてくれるだろう。矮小な蹉跌より、歴史的試練の方が、私という人間をdrasticに改革し、成長させてくれるだろう。容易には得難い貴重な知見を蒐集する好機となるだろう。こんな言種は惨めなoptimismの所産に過ぎないと嗤われるだろうか? 大いに結構である。私も自分の置かれた苛酷な環境を笑い飛ばして、少しずつでも明るい方角へ歩みを進めたいと考えている。
*崩れない日常の内側では、過去の習慣がそのまま有益で堅牢な規範となり、我々は前例への素朴な信仰に依拠して日々の言行を決定することが出来る。変わらない日常は、その意味では幸福の重要な主成分である。従って、従来の日常的規範が潰滅した世界では、あらゆる前例が無効化の懸念と踵を接する。既成の常識は、その妥当性や有効性を再審に附される。良くも悪くも、我々は変革の年の瀬に暮らしている。今までと同じ生活は戻らないし、穏やかな日常が再建されたとしても、それは新型コロナウイルスを知らなかった頃の我々の日常とは異質である。何かを知ることは、人間に不可逆的な変容を強いるのであり、だからこそ知識や発見に対する保守的な拒絶は、人間の退嬰を意味する。コロナウイルスの齎した様々な病変の後遺症は、身体のみならず、人間の精神に消えない痕跡を刻み入れるだろう。但しそれは、感染症に対する盲目的な恐怖に縛られることを意味するのではないし、社会的距離の保持という御題目に基づいてあらゆる人間的連帯を衰弱させることを志向するものでもない。寧ろ、この悪疫の蔓延が我々に学ばせたのは、社会的連帯の重要性であり、共通の目的に向かって各自が思考と行動の変容を図ることの重要性である。国民に会食の禁止を提案しながら、自らは連夜の会食を自粛せず、批判されれば必要な意見交換だと正当化の反駁を試みる幼稚な政府首脳の姿を見れば、社会的連帯への蔑視が示す醜悪さは充分に理解されるだろう。同時に、社会的理念に基づいて忌避すべき行為を自制を徹底することの難しさも鮮明になる。
*前例や習慣に抵抗することは、とても難しい。従来の手法を踏襲することには、心理的安定が伴う。変革は常にstressfulな経験である。だから、意見交換に会食という手段を用いる長年の慣習に、最も保守的な政治家たちが依存を続けるのは不可避の帰結である。彼らは自分の行動を革める意欲も能力も欠いているのかも知れず、自発的意欲や個人的能力の欠如を世人が指弾しても恐らく解決はしない。意欲は命じられて湧出するものではなく、能力は批判を糧に劇的向上を遂げるものではない。無能と無気力は、処罰によって改善されるものではない。無能でも無気力でも生き永らえることの出来る環境では、寧ろそのような保守性は一種の特別な恩賞のようなものである。普通、無能で無気力な人間は社会的環境からの退場を命じられるのが通例であり、所謂natural stateに置かれた野生の人間が無能で無気力ならば直ちに絶息を強いられるに違いない。無能で無気力な人間が安穏と暮らせるのは、社会の成熟度が高いことの証明である。しかし、変則的に襲来する社会的危機は、そのような成熟にも応分の危機を齎す。無能で無気力な人間であることが死の宿命に直結するならば、誰もが自己の性急な変革を図るだろう。私は有事を生き延び得る人間でありたいので、もっと賢明に考え振舞えるように、学び続けることを習慣にしたい。要するに私は惨めな犬死を避けたいので、もっと賢くなりたい。自粛すべきであると社会から勧告されている会食の場に無防備な姿で参加してウイルスに上気道や肺臓を食い荒らされて数日で絶命するような非業の運命は辿りたくない。無論、これは不運な感染者の方々を指弾する言葉ではない。どう考えても、病気に罹った人間に必要なのは批判ではなく治療であり、自己管理だけであらゆる疾病を免かれ得ると考えるのは愚昧な思想である。生き延びる為にどう振舞うべきか、その模索に簡便な結論は存在しない。マスクの着用に過剰な信頼を寄せるのは、連夜の会食を自制しないことの愚かしさと似たり寄ったりである。だが、とりあえずマスクを着用して会食を避ければ、恐らく感染の確率は下げられるだろう。重要なのは合理的な思慮を堅持することであり、特定の選択肢に固執しないことである。特定の選択肢への固執は、習慣や前例への依存と同義であり、それでは生き残れなくなるのが「有事」の時代のstressfulな特質である。海外の事例を徴すれば、アメリカやイギリスでは国家の元首が新型コロナウイルスに罹患して臥せった。菅総理や二階幹事長は、そうした事例を知らない訳ではないだろう。自身の健康や免疫機能に異様な自信を持っておられるのだろうか。今まで死ななかったから、明日も死なないのだろうか。国家元首が無防備な会食によってコロナウイルスによる肺炎を患い急死する社会は、明日にでも本邦で実現するかも知れないというのに、国民に誤解を与えたなどという不可解な釈明(「誤解」って何なの? 馬鹿にしてるの? 何が「誤解」なの?)に終始するだけで、行動を革めようとしない総理大臣の下で、感染者は爆発的拡大を堅持している。明日は我が身、何とか死なずに生き延びる為に、智慧を働かせるしかない。身体的にも社会的にも、私は自らの延命に精励しなければならない。当然だ。四歳の娘を遺して勝手に他界出来る訳ないじゃないか。

社会的盟約の擁護 ジークムント・フロイト「幻想の未来/文化への不満」 1

 オーストリアの輩出した偉大な精神科医ジークムント・フロイトの晩年の論文を収めた『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)に就いて、感想の断片を認める。

 フロイトによって創始された「精神分析」(psychoanalysis)の壮大な体系は今日、数多の批判に晒されている。フロイト自身は精神分析の体系を科学的な思考の産物と看做していたが、その臨床的な有効性には疑問符が附されている。彼の思弁が、実際の臨床的経験を材料として編み出されたものであることは事実だが、そこから導き出された様々な抽象的仮説が、厳密な科学的事実に即していると断定し得る根拠は薄弱であるようだ。とはいえ、彼が生み出した多くの心理学的概念は後世に甚大な影響を及ぼし、特に「無意識」という着想は日常的な用語として受容されるほどに、人々の精神の内部に普及している。

 「幻想の未来」と題された簡素な論考は、主として「文化の効用」と「宗教に対する批判」の二つの主題を扱っている。フロイトにとって「文化」とは「人間の生を動物的な条件から抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもの」(p.12)を意味する概念である。彼が「文化」に関して懐いている問題意識は、本来、人間の生存を保護する為の盟約として設計された文化的制度や規範に、被保護者である人間が攻撃的な不満を懐かずにいられないのは何故なのかというものであり、宗教はそうした文化的規範の強力な典型に数えられている。
 如何なる文化的規範も存在しない環境においては、つまり「自然状態」(natural state)においては、人間は自己の放埓な欲望を規制せず、四囲の他者の利害に配慮することもない。それは同時に自己自身も他者から庇護されず、如何なる連帯も構築し得ない苛酷な境遇に置かれることを意味する。社会的連帯の不在は、自然状態にある人間をそれぞれ孤立したエゴイズムの監獄に幽閉し、無慈悲な弱肉強食の摂理を瀰漫させ、遅かれ早かれ人類の破滅を齎す。それゆえ、人間は社会的連帯の盟約を締結し、共同体の規範に従属して自己の欲望を節制することを通じて、心身の安全の確保を図るのである。このように考えるならば、あらゆる社会的連帯は、各自の綜合的な幸福に寄与するものとして存在する。にも拘らず、社会的連帯に反撥し、文化的規範の否定と破壊に対する邪悪な欲望が、人類の間に普遍的な悪疫のように蔓延しているのは何故なのかという問いが、この論考の枢要な主題を成しているのである。
 人々の反社会的欲望が、自己の欲望に対する禁圧への憎悪に基づいていることは明白な事実である。つまり、社会的連帯や文化的規範に対する不満は恒常的に形成され得る心理的現象である。社会的=文化的抑圧に対する不満は、例えばあらゆる幼児の裡に鮮明な姿で見出される。この不満を抑制し、文化的規範を内面化することで、道徳的発達と社会的成熟を遂げるというのがフロイトの「超自我」に関する学説である。
 つまり、文化的規範に対する恒常的不満が社会の随所に発見される現状を認めながら、フロイトが志向しているのは文化の破壊ではなく、寧ろその積極的な保護と改善である。彼は現行の文化的規範が、人々の不満を緩和する充分な手段と制度を備えていないことを認めつつも、だからと言って文化的規範に先行する原始的な自由への憧憬を重視しようとは考えない。如何なる文化的不満も「自然状態」に拘束された人間が日夜経験し続ける慢性的な苦痛に比べれば凌ぎ易いものであるというのが、フロイトの見解なのである。

 だから文化の禁止命令の廃止を望むのは、思慮のないことであり、近視眼的なことなのだ。その後に残されるのは自然状態であり、これは文化の禁止命令よりもはるかに耐えがたいものなのだ。自然は人間に欲動の制限などは求めないし、人間を放任しておくのは事実だ。しかし特別に効果的な方法をもって、人間に制約を加える。つまり自然は人間を冷酷に、残酷に、容赦なく殺すのだ。ときには、わたしたちがみずからの欲望を満たすその瞬間に殺すのではないかと思うこともあるほどだ。自然が人間を脅かすこの危険性に対抗するために、わたしたちは力をあわせて文化を創造し、とくに人間がともに生活することができるようにしたのである。自然から人間を防衛するというのが、文化のおもな役割であり、文化はそもそもそのために存在するのだ。(「幻想の未来」『幻想の未来/文化への不満』光文社古典新訳文庫 pp.30-31)

 自然状態から人間を庇護する連帯の盟約が「文化」であり、その文化の更なる発展と改善を目指すことが大切であると主張するフロイトによって、紛れもない「文化」の重要な部分を成す「宗教」が批判的言及の対象に選ばれるのは、如何なる論理に由来する帰結なのだろうか。その理由には様々な要素が挙げられるが、恐らく最も重要な論点は「宗教」が「幻想」であり、必然的に人間の理智を停滞させ、鈍麻させる弊害を孕んでいるという問題に尽きるだろう。フロイトは「幻想」を「願望」の帰結と看做す。そして絶えず自然の脅威や文化的抑圧に苦悩する人々にとって、宗教的幻想が強力な慰安の源泉として機能してきた事実に着目する。しかし、それは文化的規範の発展と改善には貢献しなかったというのが、フロイトの判決である。宗教的幻想は人々の心理的不安を緩和し、不条理な現実に耐えさせる支援者の役割を担ってきたが、その営々たる努力は結局、文化的抑圧への根深い不満を解消していない。言い換えれば、宗教という麻酔に人類が依存し続ける限り、社会の進歩や改良は期待出来ない。無論、フロイトは宗教的信仰の自由を論難したり、その廃絶を声高に要求したりしている訳ではない。幻想は論理的に反駁し得ない対象であり、何らかの幻想を信じるか否かの選択は、他者によって強要されるべきものではないと、彼は明確に述べている。但し、幻想の信仰が個人の恣意に委ねられるべきものであるならば、宗教的幻想を社会的制度や文化的規範の礎石に用いて、万人に適用しようと試みるのは過ちである。特定の幻想を信仰するように強制し、真理ではなく幻想によって人民を教育し、幻想を根拠として構築した規範の遵守を命じるのは正しい営為ではなく、文化の理想的形態であるとも言えない。宗教的抑圧の代わりに現実的抑圧を駆使すること、それがフロイトの冷静沈着な勧告である。彼は単に宗教的抑圧からの解放と自由を謳歌せよと述べているのではない。それは原始的人間の享受する原始的自由に憧れるのと同じくらい幼稚な幻想である。何れ抑圧が宿命的に避け難いものならば、その抑圧を少しでも健全で機能的なものに改善していこうという穏当な提案を、彼は慎重な論理と誠実な口調によって表明しているのだ。

「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 3

 十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの著した対話篇『快楽について』(岩波文庫)を読了したので感想文を認める。

 この対話篇の前半は、エピクロスの思想を信奉する登場人物ヴェージョによるストア学派の教説に対する論駁に充てられている。しかし、著者ヴァッラの最終的な意図はエピクロスの称揚に存するのではなく、古代ギリシアに端を発する二つの有力な哲学的潮流、即ち「エピクロス主義」(epicureanism)及び「ストア主義」(stoicism)の双方を、キリスト教擁護の観点に立脚して批判し、その思想的限界を告示することの裡に据えられている。

 本書全三巻によって明らかにされるのは真の善と偽りの善という問題であるが、この問題を論じるにあたってとくに適切と思われるのは、善はただ二種類あるだけと考えてこの区分に従うことである。すなわち、現世の善と来世の善である。
 われわれはこの二つのどちらをもかならず論じなければならないけれど、第一の善から第二の善へ、階段を昇るように昇っていかなければならない。なぜなら、われわれの弁論はすべて第二の善をめざしているからである。それをわれわれは、古代の伝統にしたがって二つのもの、つまり宗教と徳によって達成する。(『快楽について』岩波文庫 p.15)

 要するにヴァッラは「善」の定義に就いて最も重要で本質的な区分は「現世/来世」の差異に基づいていると述べている。こうした見地から眺めるならば、古代ギリシアに発祥するepicureanism及びstoicismの思想は、共通する構造的限界を備えていると解釈されるだろう。これらの思想は原則として死後の世界や来世といった観念を認めていない。また、霊魂の肉体に対する独立性も認めていない。感覚的な快楽の善用を主張するepicureanismは固より、あらゆる情念や欲望の棄却を正当化した禁欲的なstoicismでさえ、その忍苦の習慣を「死後の幸福」という崇高な理念で装飾しようとは考えなかった。彼らの議論は専ら唯物論的な現実における生を扱っており、彼らの提唱する徳目は総て現世的な幸福の実現に捧げられている。それゆえに両者の思想、一纏めに「哲学」と呼称される思想的伝統は、キリストへの熱烈な信仰を護持するヴァッラによって異教的な学説として排撃されたのである。
 古代ギリシアの豊饒な哲学的伝統に対するヴァッラの不満は、「ヘレニズム」(Hellenism)における唯物論的発想に向けられている。感性的現実とは異なる超越的次元を想定せずに語られるepicureanism及びstoicismの「最高善」に関する議論は、ヴァッラの立脚するキリスト教、即ち「ヘブライズム」(Hebraism)の見地から眺めるならば余りに世俗的で享楽的、或いは相対主義的である。別の言葉を用いるならば「理性/信仰の対立」として整理されるであろう両者の根深い確執或いは相剋は、西洋の思想的伝統を形成する二つの重要な土壌として数千年間機能し続けてきた。「理性/信仰」の融合と背反の反復が、様々な論争を惹起し、革新的な学説を培養し、社会の発展に多大な貢献を蓄積したのである。
 学閥を問わず、理性や言語の力を最も重んじて世界の解釈に励んできたHellenismの伝統は、神と来世への信仰を重んじるHebraismの伝統に対立する。そもそも、古代ギリシアにおける哲学的探究が、神話的な世界観の罷り通る現実に逆らって萌芽したイオニアの自然哲学に淵源を有することを鑑みれば、その唯物論的な思想の発展は当然の帰結であると考えられる。そして初期のキリスト教会が、自らの信仰の正当性を証明し防衛する為に、異教の哲学者に倣って緻密な神学の論理を営々と構築したことも事実である。つまり、両者の関係性は単純な対立や相剋には還元し得ない、複雑で屈折した構造を孕んでいるのである。
 こうした構図を踏まえて本書の構成や原理を捉え直せば、著者ヴァッラの立場がHebraismの鮮明な擁護という方針を踏まえており、彼の称揚する「快楽」がepicureanismのように唯物論的性質を備えたものではないことは容易に看取される。ヴェージョによる熱烈なエピクロス讃美の文章を創造しておきながらも、ヴァッラの主張は一貫して、現世的で地上的な快楽に対する懐疑と懸念を議論の中核に据えているのである。彼は天上の永遠的快楽に関する燦然たる幻想を、壮麗な修辞の力を駆使して展開してみせる。それは明らかに「論証」ではなく「信仰告白」であり、それが厳密な事実であることを立証する現実的手段は存在しない。数千年に亘って地道に築き上げられた精密な神学的議論は、Hellenismの伝統に列する「論証」の技法を存分に駆使しているが、それらの煩瑣で緻密な論証が「信仰」というアプリオリな公理に基礎を置いていることは動かし難い事実である。
 尤も、所謂Hellenismの伝統が如何なる秘教的な信仰とも無関係であると断定することは短慮の謗りを免かれないだろう。例えばアテナイの哲学者プラトンの著した数多の対話篇は、極めて緻密な論証を積み重ねる一方で、霊魂の不滅と肉体からの独立という所謂「霊肉二元論」(substance dualism)に基づいた世界観を開陳している。ピュタゴラスの学説から深甚な影響を蒙ったと伝えられるプラトンは、霊魂の不滅と転生を論じ、感性的現実を相対的仮象と看做して排斥し、純然たる理性的認識を通じた「真理」の究明を、人生における最高善と定義している。こうした考え方が後代のキリスト教神学に及ぼした影響は極めて甚大で決定的なものではないかと思われる。言い換えれば、プラトンの学説は「理性/信仰」或いは「Hellenism/Hebraism」の調和的形態の先駆的で偉大な典型なのである。

快楽について (岩波文庫)

快楽について (岩波文庫)

 

「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 2

 十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの『快楽について』(岩波文庫)と題された対話篇を巡って感想の断片を電子的画面に刻み込む。

 ストア学派は如何なる外在的条件にも拘束されない不動の恒常的自己の確立を目指し、彼らの言葉でapatheiaと称される境涯を美徳の極致と看做した。情念や欲望を排除し、それらを理性の病変した形態と考えて貶下し、専ら世界を理性的な現象と捉えて、自らの有する理性を重ね合わせ、揺るぎない一体化を図った。彼らにとっては、如何なる感情にも揺さ振られないことが幸福の定義なのである。それゆえに彼らは禁欲主義者のラベリングを施され、外在的条件に拘束されない自己の内面的超越を目指す求道者の風格を認められた。
 エピクロスとその学統を継承する人々は、ストア学派の展開する教説と尖鋭な対立を示す。両者の教説は相互に、あらゆる点で背馳している訳ではないが、彼らが古代ギリシアに共通する伝統的世界観から銘々に異なる帰結を導き出したことは疑いを容れない事実である。
 エピクロスに由来するepicureanという英語は「享楽主義者」を意味する。ストア学派に由来するstoicismという英語が「禁慾」や「克己」を意味するのとは対蹠的である。実際、エピクロス学派に対して投じられてきた歴史的な誹謗中傷は、専らepicureanを不道徳なhedonistとして排撃するものであり、彼らが「最高善」に値する事象として「快楽」を選択したことに熾烈な批難を寄せるものである。ストア学派は最高善を「美徳」と定義し、自然の必然的=理性的法則と合致することを最も理想的な様式であると認めた。そのような見地から眺めれば、エピクロスの唱える「快とは祝福ある生の始めであり終りである」(『エピクロス―教説と手紙』岩波文庫 p.70)という考え方は唾棄すべき惰弱と思われただろう。無論、エピクロス自身、あらゆる享楽を貪欲に追い求めるべきだと訴えている訳ではないと注意を促している。彼の求める「快」とは「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこと」(『エピクロス―教説と手紙』岩波文庫 p.72)であり、無際限な享楽への耽溺を推奨しているという四囲の論難は曲解に基づいているのである。
 ストア学派の目指すapatheiaとエピクロス学派の求めるataraxiaは殆ど同一の境地を目指しているように聞こえる。けれども、ストア学派が理性による情念の克服と抑圧を志向し、謂わば人間という個体を純然たる「理性的存在」に還元しようとするのに対し、エピクロス学派は「感覚」を重視し、現に苦痛が存在しないという状態への帰着を図る。ストア学派は苦痛の感覚によって動揺することを拒絶し、従って理性による忍耐や克己が最も枢要な徳目として重んじられることとなる。しかし、そうした不合理な痩せ我慢をエピクロスは称揚しない。エピクロスにとって感覚的=経験的真実は否認されるべきものではない。hedonistと悪しざまに批難される彼の学統が過剰な享楽を戒めるのも、それが感覚や情念への従属を意味するからではなく、快楽と引き換えに生じると予測される苦痛が厖大である為である。stoicismは快楽そのものを理性に反する悪しき衝迫として断罪するが、epicureanは感性的な快楽を否定しないし、苦痛の感性的欠如を何よりも祝福する。ストア学派は感性的認識に対する軽蔑というplatonismの伝統を継承しているように見えるが、エピクロス学派は寧ろ感性的認識を経由しない真理の妥当性を信頼しないのである。
 ヴェージョによるカトーネへの徹底的な反駁は、ストア学派の重んじる理智的な「美徳」への懐疑に基づいている。感性的な快楽(肉体的なものであれ、精神的なものであれ)を否認し拒絶するstoicな「賢者」の美徳を、ヴェージョは空疎な欺瞞として斥ける。結局のところ、賢者たちは「美徳」を通じて「名誉」を得るという快楽に淫していたに過ぎないのではないかというのが、彼の主張である。極端に矮小化して言えば、stoicな賢者たちの求道的な生き方を支える動機は、旺盛な虚栄心でしかないと彼は論じているのである。
 ストア学派は、理性的=必然的法則に従って生起する「自然」を「神」と同一視した。それゆえ「自然」の摂理に即して生きることで「恒心」(constantia)が保たれ、揺るぎない幸福に達すると考えた。他方、エピクロス学派は「自然」の現象を神意と結び付け、相関させることに否定的な見解を持している。彼は神々の存在を否認する訳ではないが、神々と下界との密接な聯関に就いては明確に異議を唱える。例えば稲妻を「神の怒り」と同一視するような神話的=宗教的解釈を、エピクロスは謬見或いは妄想として斥ける。また、感覚的=経験的観察を経由しない解釈や見解は総て「仮説」に留まるべきであり、純然たる思弁によって不朽の真理を会得しようとするplatonismの方針に対しては明瞭な反発を示す。感性的認識に対する信頼の有無は、西洋の思想的伝統における重要な分水嶺の役割を担っている。

快楽について (岩波文庫)

快楽について (岩波文庫)

 

「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 1

 目下、十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの『快楽について』(岩波文庫)を繙読している。以下に、その感想の断片を認める。

 ロレンツォ・ヴァッラが本書を著した意図は、当人の序文において明確に示されている。キリスト教の擁護とストア学派の弾劾である。その為の方策として、彼は一般にストア学派の好敵手と目されるエピクロスの学統を称揚するという手段に訴えた。ヴェージョ(エピクロス学派)とカトーネ(ストア学派)との論戦は、その弁論の比重において、ヴェージョの陣営がカトーネを圧倒している。彼は縦横無尽に弁舌を弄し、数多の歴史的事例を持ち出し、あらゆる角度からストア学派の教義を批判し、その空疎な矛盾を剔抉している。こうした対話篇の構図を適切に理解する為には予め、エピクロス学派ストア学派との教説の差異に就いて基礎的な知識を準備しておく必要があるだろう。
 ストア学派は、四囲の自然を悉く「必然性」の連鎖として解釈する。それは一見不条理に見える自然及び宇宙の多彩な現象の裡に、終始一貫した「論理」(logos)の関与を見出す態度であると言い換えることが出来る。彼らの世界観の重要な枢軸の一つとして「決定論」(determinism)を挙げることは、ストア学派に関する一般的な理解に反するものではないだろう。森羅万象は事前に定められた必然的な因果律に従って生起する。それゆえ、この世界は「理性」或いは「意志」を内在していると看做され、人間の「徳」は四囲の世界に内在する必然的意志との合致を目指すものであると結論される。ストア学派の賢者たちは、世界を支配する普遍的な摂理、つまり「ロゴス」(logos)に合致することが人間的幸福の揺るぎない礎石であると考えたのである。自らの理性を正しく統御し、普遍的摂理を理解し、それに即した言行を堅持することによって、如何なる艱難にも誘惑にも屈することのない「アパテイア」(apatheia)の境地に達することが、彼らの倫理学的な目標であった。
 このような見地から眺めれば、人間の懐く種々の「情念」(pathos)は悪しき雑音のようなものとして貶下されざるを得ない。それは「普遍的摂理=ロゴス」の精確な把握を妨礙する危険な逸脱として定義され、排斥される。快楽、苦痛、欲望、恐怖といった「情念」に囚われ、自らの主権を奪われることは直ちに「理性の倒錯」を含意し、延いては普遍的摂理からの疎隔を意味する。彼らは何よりも「動揺」を忌み嫌う。外在的な条件に左右されて「恒心」(constantia)を擾すような態度は、彼らの信奉する倫理学的な規範に鋭く背馳する。何故なら、理性の適切な働きを媒介として普遍的摂理に合致しているならば、恒心の擾乱など起こり得ないからである。堅牢な恒心に何らかの動揺が持ち込まれるのは、人間的理性とロゴスとの間に不協和が生じていることの確たる証拠であると言える。
 情念をノイズとして断罪し、棄却することは、森羅万象を貫く普遍的摂理=必然性の実在を承認する考え方から導き出されるコロラリーである。総てが揺るぎない必然的因果律に従って生起するならば、四囲の現実を殊更に歓んだり嘆いたりすることには意味がない。寧ろ、そうした一喜一憂に眩惑されることは、普遍的摂理の精確な把握に対する障碍として作用し得る危険な態度である。情念という不確かで移ろい易い心理的現象に拘泥することは、現実に対する正しい認識の阻害を意味する。それゆえ、ストア学派は専ら「理性」の適切な運用に固執し、時には「美徳の不幸」さえ齎し得る普遍的摂理の絶えざる甘受を目指す。それは現実に対する怠惰な屈従を意味するのではなく、現実を貫く普遍的摂理との一体化、融合を意味する。彼らは如何なる艱難辛苦も涼しい顔で受け容れて動じないことを徳性と看做した。不愉快で悲惨な現実が悉く「摂理」の賜物であるならば、それを安んじて受け容れるのが賢者の択ぶべき振舞いである。ストイックな賢者たちの幸福は「摂理」との完全なる合致の裡に存する。その意味では、彼らは現実に対して隷属的であるように見えるが、厳密に言えば、彼らは現実に対して超越的であることを望んだのである。
 尤も、こうしたストア学派の考え方は、感性的現実を仮象として斥けて蔑んだプラトンほどに極端な超越性を志向するものではない。プラトンは感性的に把握される事物を、知性的に把握される「実有」の不完全な模像に過ぎないと定義した。感覚が捉える対象は悉く「虚像」に過ぎず、普遍的真理とは異質な幻想でしかない。彼は理性によってのみ捉えられる事物の実相を「イデア」(idea)と呼び、尚且つそれを本来の実体と看做した。専ら理性の働きを重んじるという意味では、ストア学派の教説と、プラトンが創始したアカデメイア学派の見解とは共通しているように見える。しかし、ストア学派は「イデア/個物」の特殊な二元論を容認せず、普遍的摂理は専ら感性的現実の内部において展開されると考えた。彼らが四囲の現実に対して超越的であろうと試みたのは、プラトンのように感性的対象を虚像と看做したからではなく、現実を支配する「摂理」(logos)に忠実であることを望んだ為である。プラトンは「摂理」を感性的世界の外部に措定したが、ストア学派は感性的世界の内部に表出される「摂理」だけを信じた。何れにせよ、彼らが理智の権能を極度に称揚して、普遍的摂理の把握こそ幸福の源泉であり、人間的徳性の完成に他ならないと考えたことは事実である。

快楽について (岩波文庫)

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