サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(The Desire to Purify Everything)

*人間には、何かを純化したいという欲望が時折兆す。何か不安定な要素、不当な要素を排除することによって劇的な改善を望みたいという、謂わば「リセット」することへの欲望が人間の精神の根底には巣食っている。仕事でも家庭でも、対象は何でも構わない。夾雑物を排除して、衛生的な状態を恢復して、そうすれば万事好ましい方向へ改善していくという信念、殺菌消毒の理念、厳密な同一性の基準に基づいて裁判し、審理し、摘発するべきだという正義の理念、それは人間の内なるロマンティシズムと結び付いている。
 例えば人間は時々、無垢だった幼少期の記憶に特別な郷愁を寄せる。人間の社会に存在する諸々の暗部を知らず、規則や倫理との相剋に懊悩することもなく、素朴な愛情と信頼の中で暮らしていた日々の記憶に、奇蹟的な恩寵を見出し、世智で穢れた後の我身と引き比べて、幼少の日々が如何に輝かしく美しいものであったかと慨嘆するのである。如何に自分は純粋な存在であったか、長じてからの種々の出口の見えない煩悶に日夜苛まれることもなく、単純で明快な幸福の中で生きていたかと、甘美な情緒と共に懐かしむのである。
 純化による解決、これを私は警戒する。世の中はそれほど単純な仕組みで出来上がっていない。記憶は往々にして美化されるものであり、幸福な幼少期の回想は、それ自体では無力な幻想に過ぎない。問題や弊害は複雑な構造によって形成されており、その相互的な依存の関係は錯綜しており、単一の明快な異物によって総ての症状が惹起されていると考え得る事例は極めて稀である。或る一つの事柄の善悪は、その事柄が他の事柄と如何様に関連しているかによって、相対的に、流動的に決定される。今日の正義は明日の犯罪であり、逆もまた然りである。
 例えば様々な種類の差別、これは明らかに純化への欲望、同一性への信仰の為せる業である。先般、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長であった森喜朗氏が、ジェンダー差別に該当する発言によって自らを辞任に追い込んだことは記憶に新しい。円滑な意思決定を阻害する要因を「女性」というファクターの裡に求め、恰かも「女性」の理事を排除すれば、自ずと組織運営は合理化され改善されるかのような論旨を披歴した彼の振舞いは、煎じ詰めれば「純化」に対する衝迫の具体的事例に他ならない。或いは歴史を繙けば、あらゆる社会的差別の事例が、こうした「純化」への情熱的衝動と要求によって駆り立てられていることは直ちに窺い知れる。例えば先般、国軍のクーデターによってアウンサン・スー・チー氏が身柄を拘束され、民主化の機運に蒙昧な冷水が浴びせられたばかりのミャンマーでは、ロヒンギャと呼ばれるイスラム系の少数民族(インド系の移民)に対する厳しい迫害が恒常化し、武力衝突や虐殺、難民化などの深刻な人権問題の慢性化が憂慮されている。思い起こせば米国においても、大統領就任当初のドナルド・トランプ氏が、南米からの不法移民の排斥を訴えてメキシコとの国境に隔壁を建設するという極めて排外的な国策に踏み切ったことがあった。日本の歴史においても、関東大震災に際して生じた流言蜚語によって、多くの朝鮮人が虐殺されたと伝えられている。ナチス・ドイツにおける「ホロコースト」や旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」などの事例も含め、社会的不満の原因を移民などのマイノリティに見出そうとする悪しき風潮は枚挙に遑がない。こうした思考の形態は悉く「異物を排除すれば我々の置かれている状況は改善する」という信仰に支えられている。これは「多様性の尊重が国力を賦活し、世界をより良いものに変えていく」というダイバーシティの発想の対極に位置する古びた信念の様式である。

*こうした「純化」への欲望は実に様々な形態を取り得る。保守的な思考を愛する人々は「伝統への回帰」を「純化」のヴァリエーションとして声高に主張する。日本古来の文化や風習を重視し、現代的な変化を唾棄する人々は、知らず知らずのうちに「多様性」の観念の最も尖鋭で陰湿な宿敵と化している。例えば「日本語」の純粋性を愛する人々は、片仮名で綴られた外来語の氾濫に険しい顔つきで警鐘を鳴らす。何でもかんでも横文字に置き換えるのは知的な怠惰であり、日本語で表現し得るものを気取った新奇な横文字で言い換えるのは伝統的な文化に対する破壊的行為であり、堕落であるというのが、その一般的な論旨である。「感染爆発」を「オーバーシュート」と言い、「都市封鎖」を「ロックダウン」と呼ぶのは怪しからん、不親切である、何故もっと明快な日本語で表現しないのか、というのは、彼らの抗議の一例である。だが、彼らも日常生活において、わざわざ「トイレ」を「厠」と呼んだり「スマートフォン」を「高機能携帯電話」などと呼んだり「ブラジャー」を「乳当て」と呼んだりしている訳ではないだろう。
 そもそも「純粋な母国語」という観念は、実在の疑わしい神秘的幻像である。日本語が現在の高度な発達を遂げたのは、例えば古代中国から「漢字」という純然たる舶来の体系を大々的に輸入し、移植した成果である。海外の文物を取り入れる際に、併せて海外の言葉も摂取するのは当然のことで、それを日本風にアレンジすることで、我々の母国語は持続的な成長を遂げてきた。純粋なる母国語の庇護に固執して、排外的な宣言を革めないのであれば、片仮名に置き換えられた英語に限らず、一切の漢文脈も摘出し除去してしまえばいい。そうすれば、日本語による思考の水準や品質は致命的に下落し、我々の文化は頗る貧弱な、栄養の足りない脆弱な生き物に変貌を遂げるだろう。そもそも、日本の伝統的文化と信じられている仮名文字が、漢字の変形を通じて構築されたものであることは常識であり、舶来の文化を徹底的に排除すべきなのだとしたら、我々日本人は馴染み深い仮名文字の廃棄すら真剣に検討せねばならないのである。それが聊かも合理的な方策ではないことは自明である。従って「日本語」における「純化」への欲望は極めて不合理な情熱であると結論することが出来る。寧ろ、あらゆる外国語を片仮名に置き換えて日本語の体系の一部として併呑する強力な伝統は、日本語という文化的制度の旺盛な食欲、その強靭な生命力を立証するものに他ならない。英語もまた、ラテン語やフランス語の語彙を貪婪に咀嚼し摂取することによって成長を遂げてきた。あらゆる言語の健康は、純化ではなく交雑によって保たれる。言語に限らず、純化によって健康の恢復を図ろうとする性急な衝迫は、システムの弱体化を示唆する簡明な症候である。多様性の理念は、強靭なシステムの存在を要求する。異物を排除するのではなく包摂することの重要性を、多様性という理念は自らの存立の基礎に据えている。つまり、純粋なものに憧れる心理は、自らの心身の衰弱の確たる証明なのである。弱った胃袋を守る為には食事制限が不可欠であるが、そもそも偏食を避ける日常の心掛を重んじるべきである。私のような観念的偏食家は、三十五になっても自らの夥しい食わず嫌いを糺さずに厚顔にも恬然としている。こういう人間は正に「純化」への欲望の権化である。好きなものしか食べたくないという心理的偏向が、多様性に堪え得る強靭な心身の醸成を毀損しているのである。何でも嫌がらずに食べなさいという家庭の凡庸な教訓は蓋し、不変の真理を衝いている。

Cahier(Portrait of the Artist As a Young Suicide)

*引き続き、仕事と育児と英語学習の三本の矢で私の日常は貫かれている。先日はリスニングの勉強の一助になればと思い、近所のブックオフハリー・ポッターの映画のブルーレイディスクを購入した。尤も、本気でリスニングの勉強をするならば、Amazonの展開するAudibleなどを活用して、英語の音声を徹底的に鼓膜へ浸潤させる必要があるだろう。今はリーディングを通じて基本的な語彙や文法、表現を覚え込む段階であると定義しているので、とりあえずAudibleの導入は考えていない。そもそも、一月下旬に予約したiPadが未だ入荷すらしない状況で、電子書籍による読書というファーストステップさえ停滞している状況なのだ。
 先日は、英作文のささやかな真似事を投稿した。未だ拙い技術と乏しい知識のアマルガムに過ぎない仕上がりだが、下手でも構わないから実践を繰り返すことは何事においても上達の秘訣であり、破綻した下手糞な英文だと指弾され嘲笑される懸念は百も承知ながら、勇気を振り絞って試しに電子の海へ放流してみたのだ。あわよくば誰か該博な知識を備えた寛容で慈悲深い方が懇切に添削してくれないだろうかと、淡い期待もないではなかった。何れにせよ、現在の学習の中心は英文の多読の裡に存する。土台を固め、強靭な基礎を構築しなければ、応用や発展的学習も期待される有益な成果を挙げることは恐らく難しいだろう。

*時折、思い出したように読者登録が増える。直近の方々は、私の書いた三島由紀夫に関する記事に関心を寄せて下さったようだ。最近はハリー・ポッターに明け暮れて三島由紀夫の書物に手を伸ばす機会は激減しているが、もっと多読の経験を積んだ暁には、英訳の『金閣寺』や『真夏の死』に挑戦してみたいと考えている。三島の書き遺した流麗な日本語の文章を、生得の日本語話者という恩寵に恵まれた立場でありながら、何故わざわざ英訳で読む必要があるのか、三島の本来的な魅力を味わい損ねるだけの無益な選択ではないかと、保守的な愛読者の方々は疑義を呈するかも知れない。しかし、英訳の三島を読むという経験は、三島由紀夫の構築した日本語の世界を、異質な視野、新奇な観点から捉え直すという点で、非常に有益な営為ではないかと勝手に推測している。三島由紀夫は、天皇を崇拝する右翼的な過激派の側面を持ち、和歌から剣道に至るまで、日本の古典的な文化にも造詣が深く、その文体には古式床しき和語の伝統が随所に織り込まれているが、それゆえに彼を純然たる排外的国粋主義者、或いはxenophobiaのように遇するのは短絡的な誤解である。彼は英語に堪能であると共に、その作品はフランスで発達した心理小説の遺産を色濃く受け継いでいた。レイモン・ラディゲ、ジャン・コクトージョルジュ・バタイユマルキ・ド・サドバルザックスタンダール、フランソワ・モーリヤック、そしてオスカー・ワイルドなど、海外の文学者が遺した作品に関する彼の精緻な分析と懇切な言及を徴する限り、彼は決して偏狭な国粋主義者であったとは言えないし、日本語の伝統に固執する保守的な閉鎖性とも無縁であった。寧ろ「近代能楽集」から「サド侯爵夫人」に至る、彼の遺した芸術的結晶の驚くべき多様性は、その才能が極めて国際的、普遍的な性質のものであったことを明確に立証している。
 けれども、こうした客観的粗描は未だ、三島由紀夫という特異な才能の本質を剔抉し得るものではない。彼の作品を一つずつ入念に読んでいくと、その複雑なキャラクターが、東西の文化の混淆や日本文化に対する愛国的関心といった分析には還元し得ないものであることが明瞭に看取される。彼が或る奇妙な「虚無」に苦しんでいたことは恐らく確実で、それは明らかに太平洋戦争の経験と結び付いているが、だからと言って、戦争の悲惨が、彼の内なるニヒリズムの全面的な始原であるとは言えないと思う。彼は、自らの人生の初期において既に「虚無」の感覚と親密であり、濃密な「現実」の感覚に対する飢渇を宿痾としていた。その「虚無」を、壮麗な言葉と幻想で補填することが彼の前半生における常套であったとするならば、後半生における戦略の要諦は、そうした幻想の畏怖すべき性急な現実化であったと思われる。三島の生涯を貫く重要な要素として「演技」或いは「擬態」が挙げられると私は個人的に考えているが、前半生においては精緻な虚構の形成が重視されていたのに対し、後半生においては、虚構の現実化が企図されたのである。言い換えれば、彼は「作品」と「現実」との華々しい一体化、信じ難い融合を目指したのだ。それは空虚な現実に粗暴な手段で超越的な意味を宿らせようとする痛ましい努力の帰結であったと言えるかも知れない。実際、三島の特異な自殺の顚末は今も猶、彼の人生の全体を一つの特異な物語のように浮かび上がらせている。そして三島由紀夫という人物は、あれほど社会的良識に反した蛮行によって自らの末期を彩りながらも、極めて深刻な水準で、他者の視線を徹底的に内面化した人物であったように感じられる。彼は誰かに見られていない限り、自己の存在の実感を決して確認し得なかったのではないだろうか。

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
金閣寺(英文版) - The Temple of the Golden Pavilion

金閣寺(英文版) - The Temple of the Golden Pavilion

 
真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(Falling into Foreign language)

*引き続き、英語学習に明け暮れる日々である。とはいえ、明け暮れるというほど熱心に努力しているとは思わない。地道に洋書を読み、分からない単語や文法を時折スマホで調べるという程度で、御世辞にも効率的とは言い難い。けれど、私は別に一刻も早く英語に堪能になりたいと焦っている訳ではないし、何より継続を重んじて取り組みたいので、自分の情熱や能力を過信してハードなカリキュラムを組み立てる積りは毛頭ない。そもそも、私の最終的な目標は、英語の書籍を自在に読めるようになることであり、仕事の必要に迫られて英語を学ぶ訳でもなければ、海外旅行や留学の予定がある訳でもない。そして、英語の書籍を自在に読めるようになる為の最も実践的な訓練は、実際に洋書を買って自分のペースで読んでみることだろうと結論して、背伸びは承知で来る日も来る日もハリー・ポッターの原書を繙読しているのである。直近では、J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban,London,2014 を100頁ほど読み進めたところである。
 英語を学ぶ目的をもう一つ、強いて挙げるとするならば、娘が将来、学校で英語の勉強を始めて躓いたときに、彼女の分からないところを教えてやれる父親になることである。2020年から、小学校における英語教育が必修化され、三年生以上の児童は皆、英語を学ぶことになっている。娘はもう直ぐ五歳になる保育園児で、彼女が小学校三年生に進級するのは2024年4月の予定である。概ね残り三年間、そして三年間地道に勉強を続ければ、それなりに私の知見も増え、英語の初等教育を支援するぐらいの能力は身に着いているだろう。そして難問に苦しむ娘に優しく然り気なく颯爽とアドヴァイスを授けて、娘の称讃と尊敬を一身に浴びたいという欲望に今から想像上の涎を垂らしているのである。賢く頼もしい父親であると思われたいという旺盛な自己顕示欲を満たす為に、貪欲な準備に着手しているのである。唯一の懸念材料は、齢年中児にして既に父親に対する横柄且つ粗暴な態度を隠そうともしない娘が、私に英語の宿題を総て押し付けて意気揚々と公園へ去ってしまうのではないかという暗鬱な未来予測である。或いは、自分の分からない問題を嬉々としてしたり顔で教えたがる父親の振舞いに堪え難い生理的嫌悪を懐くのではないかというリアリティに満ちた想像である。それならそれで、一つの人生である。私の血を半分受け継いで生まれ育った帰結が、そうした非道な横暴であるならば、父はそれを甘受するより他に途を持たない。つまり、宿業である。

*目的が何であれ、新しい知識を学ぶことには固有の高揚が存在する。小さな発見の蓄積が、更なる学習への意欲を煽動し、堅持するのである。私は今、只管にハリー・ポッターの原書と格闘する日々を過ごしているのだが、頻出する単語とは徐々に顔馴染になりつつある。同じ作者の書いたシリーズであるから、繰り返し愛用される単語というものが存在する。見知らぬ単語に遭遇する都度、辞書を引くよりも、前後の文脈から単語の意味を推し量ることが重要であるという洋書多読の秘訣に倣い、成る可く日本語を介さずに英単語の意味を考えるように心掛けている。
 英語であろうと日本語であろうと、単語には所謂「類義語」(synonym)というものがあり、概ね同じ事柄を指し示しているのだが、相互にニュアンスが異なる単語の一群というものが存在する。このニュアンスの多様性や重層性は、言語的表現の豊饒性と解像度を高める役目を担っている。ハリー・ポッターを読みながら感じたことの一つは「叫ぶ」という言葉に関する表現の多様性である。ざっと思いつくままに挙げれば、cry,shout,exclaim,screech,scream,howl,bark,yell,yelp,roar,erupt,growl,bellow,shriek,snarl,squeal,croakなどがある。これらは決して一様に「叫ぶ」という意味ではないが、配置された文脈に応じて、それぞれに固有のニュアンスを伴いながら「大声を出す」という状況の表出に役立っている単語たちである。この類義語同士の関係性や使い分けの目安に通暁することは、外国語の習得においては、かなり重要なファクターではないかと思われる。英単語と日本語との照応関係に関する理解は翻訳において重要な知識となるだろうが、それ以前に先ず英単語同士の関係性を理解しなければ、英語を運用することは不可能である。状況に応じてbarkとroarを使い分けることが出来なければ、英語における表現力は著しく低減してしまうだろう。
 また、直訳すると自然な日本語に置換し得ない表現というのも、その外国語の特性を理解する上では重要な手懸りとなるだろう。例えばget to one's feet(立ち上がる)やmake one's way(前進する)といった表現は、ハリー・ポッターの原書にも頻出するカジュアルな用語法であるが、日本語に染まった人間からすると、聊か迂遠な言い回しに聞こえる(私だけの感覚かも知れないが)。或いは、少なくとも私にとって難解であるのは、助動詞及び時制の使い分けの基準である。could,should,mightを「推測」の意味で使い分ける場合のニュアンスや、過去形と完了形の使い分けのニュアンスが直感的に把握出来ていない。仮定法が乱入してくると事態は一層混迷の度合いを増す。前置詞にも副詞にもなれる単語の、その文章における役割を見抜くのも努力が要る。no sooner thanやnothing butといったタイプの構文も滑らかには頭に入って来ない。There's nothingとかI have no ideaといった言い回しは、存在しないものが存在する、無が存在するという発想に基づいた表現で、日本語の思考回路とは明らかに異質な様式ではないかと思う。
 とはいえ、こうした瑣末な知識を一つずつ拾い集めていくのは愉しい。日本語であっても、難解な書物ならば、前後の文脈から表現の意図を推測するといった作業は日常的に行なわれる。英語も同様である。私は中学生の頃、父親の書棚を漁っていて偶然、批評家として名高い柄谷行人氏の「意味という病」という著作と邂逅し、その極めて難解な文章を辿りながら、何故かしら無性に魅了された経験がある。普通に考えれば、意味の理解出来ないものに魅了されるというのは不可解な話であるようにも聞こえるが、私は分からないながらも繰り返しその本を読み、少しずつ意味を理解出来るようになっていった。幼い子供が徐々に母国語を習得していく過程というのも、概ねそのような軌跡を描くものではないか。従って、母国語による読書の経験は、異国の言葉の学習に際しても有益な基礎の役割を果たすのである(そう信じたいというだけの話を、こうして私は理窟っぽく正当化しているのである)。

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 
意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)

 

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Chamber of Secrets”

 英語学習の一環として取り組んだ J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Chamber of Secrets,London,2014 を読み終えたので、感想文を認める。

 数奇な出自を持つ少年ハリー・ポッターが、ホグワーツ魔法学校(Hogwarts School of Witchcraft and Wizardly)の生徒として様々な困難を乗り越え、成長していく姿を描き出す本作の第二巻は、周到に張り巡らされた巧緻な伏線の効果を存分に活かし、緊迫感に充ちた神秘的な構成を備えて、少年の苦闘と葛藤を明瞭に浮かび上がらせている。
 これは私の個人的感想に過ぎないが、一般には児童文学の範疇に括られると思われるハリー・ポッターの物語には、人間の心の陰湿な暗部に迫るような描写が不断に鏤められている。ダーズリー家の人々がハリーに加える諸々の冷淡な仕打ちは、現代の基準に照らせば児童虐待の水準に達していると言えるし、マルフォイ家の人々が示す露骨な選良意識、Muggle-bornの魔法使いに対する鮮明な差別感情は、危険な優生思想や民族浄化(その破滅的帰結は、様々な歴史的事件が実証し続けている)の観念と親和的である。作者はハリーに対して次々と困難な試練を投げ与え、勇気、機智、そして他者の援助によって、彼がそれらの障害を克服していく過程を入念に描いている。それらの障害は必ずしも子供向けに調整された手頃な艱難ではなく、たとえ大人であっても容易には克服し得ない多くの重大な課題を含んでいる。それは単純に、現実自体がそのような性質を備えているからである。地上のあらゆる困苦は、襲い掛かるべき相手の素性や年齢を問わない。悲惨な運命の標的は皮肉にも、あらゆる種類の差別を超越している。大人でさえ解決に手を焼く問題に巻き込まれる子供は、この世界に無数に存在している。
 公教育が普及している社会において、子供の生活の過半は、学校という特殊な領域を舞台に営まれる。そこに渦巻く感情や欲望の複雑な様相は、大人の社会に匹敵する厄介な性質を孕んでいる。例えば「スクールカースト」という表現の存在は、子供たちが「皆仲好く平等に」という道徳的理念と隔絶した世界に、実際には抛り込まれているという酷薄な事実を鮮明に示唆している。彼らは明確に「階級」の障壁を意識し、それゆえの優越感や劣等感と日夜交わっている。様々な指標によって比較され、偏見に晒され、優劣の序列を定められる生活に、子供たちは人生の早い段階で投げ込まれる。それが社会的経験というものだと、したり顔で言い放つのは容易い。しかし、渦中にある当事者の心理が、それほど簡明な諦観に辿り着いている事例は稀であろう。苦労を重ねた大人でも、聖者の境涯に達することは稀である。大人が仕事や家庭の問題で苦しむのと同様に、彼らもまた学校や家庭の問題に日々精神の磨耗を強いられている。そしてハリー・ポッターの物語は、魔法という非現実的な設定を援用しているものの、その筋書き自体は明らかに、子供たちの置かれている苛酷な社会的現実と照応しているのである。他者との軋轢に苦しみ、自分の力では解決し難い困難に直面して思い悩み、社会的正義と個人的信念との矛盾に引き裂かれながら、ハリーは智慧を絞り、勇気を発揮し、具体的な行動を通じて問題の解決に挑む。その姿は、生きることの模範的形態の一例を、機智と皮肉に充ちた文体を通じて提示していると言える。
 ハリー・ポッターの物語には、少年少女が抱え込む様々な困難の事例が隠喩的な表現を伴って象嵌されている。例えば、トム・リドルとジニー・ウィーズリーの「日記」を通じた交流の裡に見出される危険性は、例えば現代社会における喫緊の課題として認知されつつあるSNSの問題と、不吉な暗合を示しているように思われる。幼いジニーの苦悩に誠実な仮面を被って熱心に耳を傾け、徐々に信頼を勝ち取り、その紐帯を悪用して相手の心身と行動を支配しようとする手口は、近年告発の相次ぐ教師と生徒との不適切な関係(多くは性暴力を伴う)や、2017年に神奈川県座間市で起きた遺体損壊事件(自殺願望を有する女性とSNSを通じて交流を持ち、誘い出して殺害するという行為を繰り返したもの)を想起させる。子供たちの置かれている生活の環境は、大人たちのそれに負けず劣らず、種々の困難に苛まれているのである。そうした環境を生き延びる上で、知識と勇気は重要な武器となる。そして優れた文学は常に、我々の困難な生に関して、何らかの指針を示す。とはいえ、それは文学の役割が道徳的訓誡に尽きているという意味では全くない。文学は身も蓋もない現実の剔抉を通じて、暗示的な指針を仄めかすだけである。虚構を通じて未知の現実を経験すること、他人に憑依して他人の人生を味わうこと、それが延いては自分自身の困難な人生を乗り超える為の有益な助言となる。こうした観点から眺めれば、ハリー・ポッターの物語は決して荒唐無稽な絵空事ではなく、子供たちの生活と成長に対する重要な支援なのである。

Harry Potter and the Chamber of Secrets (Harry Potter 2)

Harry Potter and the Chamber of Secrets (Harry Potter 2)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(The Transition of the Verbal Hegemony)

*引き続き、日々の生活に決定的な変貌はなく、コロナ感染者の減少に伴って徐々に仕事が忙しくなりつつある以外には特筆すべき問題もない。泡沫のような有り触れた出来事が幾つも列なって流れ去っていくばかりである。通勤時間や就寝前の時間を使って黙々とHARRY POTTER and the Chamber of Secretsを読んでいる。HarryがTom Riddleの日記の中に封じ込められた五十年前の記憶を体験したところである。緻密に練り上げられたplotである。因みに本書を読んで、初めて私はplotという英単語に「陰謀」という語義が含まれていることを学んだ。

*先日、世界経済フォーラム(World Economic Forum)の年次総会であるダボス会議の準備会合(The Davos Agenda)がオンラインで開催され、中国の習近平国家主席が栄えある基調講演の大役を担ったという報道があった。中国の持続的躍進と米国の国際的威信の凋落という相反する傾向は、新型コロナウイルスの蔓延という歴史的惨事によって一層加速されているように見える。英米の二世紀に亘る世界的な覇権が、英語話者の極端な増殖を齎したという見解は頻繁に聞かれる。政治的・経済的なhegemonyの確立が、文化的優越の最も有効な基盤であることは歴史的教訓である。つまり、中国の躍進と英米の孤立化という政治的・社会的現象は、或る言語の置かれている歴史的状況を直截に書き換える可能性を孕んでいるのである。現在、事実上のLingua francaとして君臨している英語の覇権は、大英帝国植民地主義、合衆国の経済と軍事における圧倒的威信を通じて涵養され、インターネットの普及によって爆発的に推進されてきた。聊か日附は古いが、文部科学省の公表しているデータによれば、母語話者数という基準で比べる限り、英語は中国に抜かれている(現在ではスペイン語にも抜かれているらしい)。

www.mext.go.jp

 しかし、遠からず爆発的な少子高齢化と人口減少の局面に陥ると推測されている(生産年齢人口は既に2013年を境として減少に転じている)中国の状況を鑑みると、言語的覇権の行方を占う根拠とすべきは、明らかに母語話者数ではなく、総話者数、つまり公用語第二言語・外国語として英語を話す人々の総計である。その観点から眺める限り、英語の世界的優位性は未だ揺らいでいない。インターネットにおける使用言語の比率でも、英語の圧倒的覇権は一目瞭然である。コミュニケーションに占めるオンラインの比重が増え続けている現代の情勢を踏まえれば、英語の優位は寧ろ高まっていると言えるだろう。

*言語に関する隠然たる政治的諸問題に、日本人は極めて疎いのではないかと思われる。縮小に次ぐ縮小を続けているとはいえ、この狭隘な版図に一億を超える人口を抱えている日本では、海外では殆ど使用されない言語であるにも拘らず、日本語だけで成立する社会的・文化的状況を長年に亘って堅持してきた。また、日本語は異国の言葉を摂取することに関して極めて柔軟であり、古代における漢字の渡来から明治以降の近代化に至るまで、異国の文字や言葉、概念を日本語の枠組みの内部に移植する作業を営々と繰り返してきた。こうした伝統が日本語の豊饒な成長に著しく貢献してきたことは明瞭であり、漢語も含めた種々の外来語の注入がなければ、日本語は世界の辺境に消え残った極めて貧相な言語体系として着実に滅亡の一途を辿ったに違いない。また、こうした豊饒で滋味深い蓄積ゆえに、日本語を丸ごと英語や中国語に置き換える国難的事態を忌避し続けることに成功したのである。とはいえ、こうした芸当が無限に持続可能であると考えるのは過度にoptimisticな態度であろうと思われる。日本の人口動態は、世界でも随一の速度で少子高齢化と生産年齢人口の急減という末期的現象を示しており、日本語の国際共通語的性格が極めて稀薄であることを考え合わせると、日本人の減少は日本語話者の減少と密接に相関するであろうと予測される。そもそも日本は、移民に対する排他的性格で知られており、従って母語話者以外の日本語話者の総数が急速に増加する見通しも今のところ成り立たない。もっと言えば、欧米や中国とは異なる語順の文型を持ち、複数の種類の文字を同じ次元で使い分け、同じ文字に異なる読み方を幾つも宛がい、英単語さえ片仮名表記に置き換えて発音も日本風にアレンジしてしまう我が国の言語的文化は、異国の人々にとって必ずしも習得の容易な代物ではない。こうした状況が適切な修正を加えられない限り、日本語の衰退と滅亡は避け難い宿命であるように思われる。

Cahier(Discriminatory Comments aren't just his own but ours)

*引き続き、仕事と育児と洋書の日々で、生活に劇的な変革は起きず、その予兆もない。従って特段のtopicもない。誰にも利益のない私的な備忘録として走り書きする。その瞬間には何の意味もないと思われた出来事や、瑣末な思考の断片が、数年を閲した後に再読すると妙に刺激的であったり感慨深かったりするものであるから、何でも書き留めておくのは悪いことではない。それに如何なる種類の習慣においても、継続は最大の美徳である(無論、悪しき習慣の継続は悪徳の無際限な膨張に帰結する)。

*緊急事態宣言の延長が公式に発表され、三月上旬まで指定された都道府県では不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業が継続される。一時は連日2000人を超えていた東京都の感染者数は露骨に減ってきた。検査数を抑制している為に陽性者の数が減っているだけだ、単なる数字の操作、偽装に過ぎないという意見も巷間には濫れている。報道や政府の発表を鵜呑みにすることが時に危険であるのと同じく、名もなき人々の形作る輿論を無条件で受け容れることも時に危険である。保健所や厚労省に勤めたり、医療現場で働いている訳でもない私の掌に、その種の「陰謀」の実在を断定する材料は握られていない。小売りの現場に身を置く私の日常的経験に照らせば、東京都心における元旦以降の人出の激減は鮮明である(直近二週間くらいは明らかに増加傾向で、世間の気の緩みを肌で感じている)。その効果が徐々に出て来たのだと考えれば、最近の陽性者数の減少は一概にtrickだとは言い切れないと思う。保健所の稼働が極限の水準に達し、検査数が減っていることは事実らしいが、それだけが感染者の数値的下落の唯一の要因であると考える明確な根拠は存在しない。つまり、厳密な真実は誰にも分からない。
 何れにせよ医療体制の逼迫(「自粛」や「不要不急」や「逼迫」といった単語は、コロナの御蔭で俄かに仕事が増えたのではないだろうか)という現状を鑑みれば、緊急事態宣言の延長は避けられない判断だったのではないかと思われる。固より三月は、卒業や就職で人の動きが活発化する時期である。宣言の発令によって人出を抑制する法的根拠を維持しなければ、各種の式典や会食、旅行などを制限することが出来ないという考えも影響したのではないかと推測される。

東京オリンピックパラリンピック組織委員会森喜朗会長が、女性差別と看做される失言によって、辞任の選択肢に言及するほどの窮地に陥っている。不用意な発言で自らの社会的信用を失墜させるという過失は、森氏に限らず、あらゆる社会的場面で頻繁に見られる現象である。あらゆる差別の廃絶は、極めて実現の困難な課題であるが、少なくとも廃絶に向けて具体的な対策を着実に履行していくという方向性自体は、国際的な共通認識であると思われる。そしてオリンピック・パラリンピックという極めて国際的な行事の運営に携わる組織の長が、このような国際的共通認識の意図さえ理解していないのではないかという揣摩臆測を他人の胸底に惹起せしめる性質の失言を、公共の場面で披露するというのは度し難い失錯である。森氏は先日も、新型コロナウイルスという艱難を黙殺して東京オリンピックパラリンピックの開催を強行すべきであるという趣旨の不可解な発言を行い、日本の内外を問わず多方面から、その見識を疑われたばかりである。これらの相次ぐ失言によって森氏の社会的信用が毀損されれば、こうした人間を首席に推戴する東京オリンピックパラリンピック組織委員会の信用も同時に失われるという自明の成り行きを、かつて内閣総理大臣も務めた有能な名士である森氏が理解していない筈はない(こうした信用の毀損が、彼の宿願である大会開催の実現に向けた趨勢を絶望的に失速させることも、御存知の筈である)。御年八十三歳の森氏の思考が、現代の社会的常識に適合しない保守的な硬変を示しているという懸念は小さくないが(しかし、性差別に対する批判は近年の流行に留まるものではなく、既に持続的な伝統を背負っている)、とはいえ、彼の知性が同年代の平均的日本人と比して特段に劣悪であるとも言い切れないだろう。恐らくは、彼は彼自身の権力の仕組みを見誤ったということではないだろうか。自分に許された社会的特権や恩典の範囲、水準、性質を正しく判定し得ず、自分の意見に対する聊か驕慢な信念ゆえに、あのような発言を気安く世間に向かって披歴してしまったのではないか。国民に不要不急の外出自粛や時短営業を要請しながら、自身は夜の会食に赴いてしまう抑制の利かない一部の国会議員の姿から透けて見えるように、自分は例外である、自分に限っては許される、という特権的意識の不当な昂揚(批判されて辞任に追い込まれるということは、少なくとも第三者は彼らの特権を認めていなかったということである)が、彼らの社会的蹉跌の致命的な引鉄の役目を担っている。彼らは自分自身の社会的権威を極めて堅固なものだと考えていたが、実際には案外脆かったのである。その意味では、彼らの危機管理能力は卓越したものではなかったということだ。

 他方、森氏の性差別的な発言を批難する人々の一部は、彼に「老害」というlabelを貼り付けて、その保守的な思考を糾弾しているが、冷静に考えれば「老害」という表現は随分と差別的な言辞であり、暗に年老いることは罪であると断定しているように聞こえる。女性であることを罪と断定するのと、何も違わない振舞いである。森氏の性差別的発言を攻撃する為に、年齢差別的発言を行使して恬然たる顔をぶら下げているのは滑稽であり、醜悪である(無論、私は森氏の時代錯誤的な見識を擁護したい訳ではない)。他者の失言を批難することに夢中になる余り、自己の失言にも気付かないようでは、先行きが思いやられる。少なくとも森氏に対して見識の面で優越しているとは言えない。社会的な顕職を歴任した人間が、自らの老いを感じて適切な時期に最前線から勇退するのは、つまり晩節を穢さぬように適切な判断を下すのは、誰にとっても容易なことではない。少なくとも私は森氏の蹉跌に学んで、同じ過ちを自分が犯すことのないように自重したいと思う。

Cahier(Keeping alive with Social Fragmentations)

*引き続き、英語学習を継続する日々を過ごしている。仕事と育児と洋書の繙読で私の生活の過半は占められている。今は HARRY POTTER and the Chamber of Secrets を読んでいる。通勤の途上や休憩時間、就寝前の時間を読書に充てている。差し当たっての目標は、原書でHARRY POTTER seriesを全巻読破し、一般に推奨される繙読単語数100万語の指標をクリアすることである。
 洋書の購入は、勤め先が東京駅であるメリットを活かして、丸の内オアゾに入っている丸善本店を主に利用している。舶来品である所為なのか、洋書は無性に高い。そこでiPadによる電子書籍の購読を思い立ち、先月の下旬に海浜幕張auショップへ行って予約の手続きをした。本来は当日持って帰る意気込みでいたのだが、COVID19の影響で在庫が払底し、数週間の入荷待ちを告げられたのである。今のところ、入荷の連絡は届いていない。テレワークの拡大でノートパソコンやタブレットの需要が急増し、一方でコロナによる生産活動への制約が悪影響を及ぼして現下の品薄を惹起しているのだろう。どの業界も大変である。

*東京駅構内に入居する店舗で責任者を務める私の労働者としての日々は、概ね閑散期が続いている。昨年十一月の感染第三波襲来によって急激な回復基調を示していた旅行客の需要が激減し、本来ならば年間でも屈指の繁忙期であるべき年末年始の帰省需要も、類例のない低迷へ陥った。当該期間における新幹線の利用客数は、観測史上最悪の水準であったと、JRの発表が報せている。或る意味では、貴重な経験をさせてもらっていると言えるかも知れない。それでも年の瀬までは辛うじて人の動きがあったものの、年明け以降、緊急事態宣言の発令も相俟って、客数は更なる凋落の軌跡を辿り、十一月と比較しても、日商換算で60万ほど目減りした。月間で2000万近い売上が、たった二箇月で吹き飛んだのである。何らかのビジネスに関わる方々であれば、この堪え難い苦衷を御察し頂けるものと思う。とはいえ、営業している以上は、人件費を削るにしても構造的な限度がある。従業員の雇用も、一定の水準までは保護せねばならない。こうなると、体感としては頗る暇である。使命を担って働いているというより、店番をしているような気分である。動もすると、自分がここにいる意味はあるのだろうか、という出口の見えない妄念に憑依される。感染状況の変化に附随する売上の乱高下は、昨年からずっと味わい続けているので今更絶望には襲われないが、些少の虚脱した感覚が生じることも避け難い。とはいえ、東京都の感染者数が微減の傾向を維持している足許の情勢では、明らかに客数は恢復傾向である。人々のコロナに対する警戒心が薄れるほどに、弊社の客数は露骨な恢復を示す。商売としては望ましい傾向だが、感染防護の観点から眺めると、こんなに人間の危機感というのは長持ちしないものかとも感じる。飲食店が軒並み20時で閉まるので、持ち帰りの中食需要が強まるのは当然の帰結である。従って平日の夕刻には、それなりの混雑が訪れ、その勢いは日に日に強まっている。経済的には大いに喜ばしいことだ。だが最早、何を歓べばいいのか、基準が曖昧になっている。同じ疫病に苛まれている筈なのに、社会的な分断や格差は拡大している。一致団結、挙国一致という精神は、私自身も含め、戦後七十年以上に亘って国民主権自由主義に馴染んできた日本人には縁遠いものとなっているのだろう。業種によって恩恵を享受するところと損害を蒙るところとが極端な格差を示しており、医療関係者は激務を強いられながら、収益の基礎である通常の外来診療の客数が顕著に減少している為に、給与面の待遇は改悪されているという。三密の回避を呼び掛ける国会議員たちの不正な会食が繰り返し報道されるのも、社会的上層と下層との階級的分断の深刻化を示唆している。JALANAやJRが未曾有の赤字を計上する傍らで、家電や家具、通信、e-commerceの分野は業績が絶好調だという。これらの地殻変動的な不公平は恐らく、社会的構造の決定的な変化を暗示するものである。過去の常識が通用しない世界へ、我々は飛び込みつつある。社会の変化に適合する企業としない企業との格差が鮮明になるということは、今まで前提として信じられていた社会の構造が急激に変容していることの明瞭なevidenceに他ならない。私の勤め先は持ち帰りの惣菜を取り扱っており、その意味では外食の敬遠は追い風になるが、内食の需要増加や競合との過当競争の影響もあり、業績自体は前年に比べて悪化している。郊外の地方都市に立地する店舗は、地元回帰の志向が強まっている分、比較的堅調な推移を示しているが、都心の百貨店や駅立地の店舗は、テレワークの拡大や旅行の自粛、各種イベントの中止で深刻な打撃を蒙っている。明らかに、今直ぐにでもe-commerceの販路を急激に強化していかねばならない局面なのだが、担当する部署の動きは鈍い。その根底には、店舗を構えた小売という既存のスタイルに対する意識の固着が濃密に滞留している。コロナが消え去れば、何れ社会は元通りになるだろうというoptimisticな観測が払拭されていないのである。だから、新規の業態を開発する人々への様々なresourcesとauthorityの供与が進まないのである。無論、決断したことが裏目に出るのではないかという不安や恐懼は私にとっても親しい感覚である。誰でも人間は存在する現実に引き摺られ、存在しない理想への脆弱な信頼しか持ち得ない。嘗て存在したものに執着し、未だ存在しないものを蔑ろにするのは人の世の習いである。何かしら新しい分野への挑戦に踏み切るには、確かに事前の準備が欠かせない。社運を賭けた挑戦ならば猶更、無謀な蛮勇は否定されねばならない。だから、常に現在の手法が好調であり適切に通用している段階において予め、新規の技術や知見を蓄え、試し、養っておく必要があるだろう。それは個人にも言えることで、今直ぐには有用ではない技術や知見を日々着実に鍛えておくことは、社会の情勢が急変した場合のsurvivalの貴重な足懸りとなる。未来への備えは、未来が到来する以前に充分に進めておかねばならない。今この瞬間に無用のものが、永遠に無用であると断定し得る根拠はない。未来が未知の度合を深めれば深めるほどに、何が将来に役立つかという問題は明確な正答を失っていく。そうであるならば、自分自身に固有の関心に基づいて、何かしら基礎的な勉強を日常的に蓄積しておくことは、重要な安全保障の方策となり得るのである。そういう意味でも、私は語学に自分の私的な時間を傾注したいと思う。無論、それが自分の未来を保護する決定打となるという明確な根拠は何処にも存在しない。だが、少なくとも語学の勉強が、致命的な損害を私に投げ与えるとは思われない。現在の瞬間における自分の雇用や社会的価値が永続するとか、或いは順調に進化発展し続けるとか、そういう風に思い込むのは危険だ。社会の大規模な変動は、個人に賦与されている些少の権益を一瞬で捻り潰し、瓦礫さえ残さないだろう。自分自身という幹に新たな枝葉を加えることが一朝一夕には出来ないのならば、直接的に現在の社会的職務とは関わりのない分野の知識や技術を密かに学び続けることは、雇用流動化と副業容認の時代における危機管理の要諦であると言えるのではないか。会社が守ってくれないとしても、我々は生き延びなければならない。整理解雇を断行する非情な会社に泣き言を向けても、肝心の会社が社会から庇護されずに倒壊してしまえば、死人を罵るようなもので、無益で浅ましい。死んだ母親に向かって夕食の仕度をせがむ愚か者が何処にいるだろう? 自分で自分の食事を作る以外に手立てがないことは自明である。そして、思い立ったら急に作れるというものではないのだから、日頃から研究と実践を積み重ねておくのが賢明だろう。良くも悪くも、自立は生活の根幹である。