サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ブログは作品ではなく、コミュニケーションである

 インターネットに象徴される通信技術の爆発的な進歩が、多くの無名の素人の自己表現を強力に後押しする起爆剤として作用していることは、明瞭な事実であると思う。インターネットの契約さえ結んでしまえば、それほど大きな経済的負担も背負わずに、自分の作り出した色々なもの、文章でもイラストでも音楽でも動画でも、或る程度は自由に発信することが出来る。チュニジアジャスミン革命を皮切りに巻き起こった「アラブの春」と称される民主化運動が、インターネットの力を借りずには達成され得なかった(その達成したものの功罪に就いては、それ自体で厳しく詮議されねばならないだろうが)大きな変革であったことも、今日では常識の部類に属するだろう。

 無論、あらゆる表現は、その表現を行なう方法や媒体の特性と不可分の関係を有している。インターネットは幾らでも容易く編輯・更新が出来る。世界中に発信することも出来る。そうした技術的な条件が、小説や絵画、音楽などの表現に何らかの影響を及ぼし、変質を強いることは避け難い。

 私は小学生の時から作家になることに憧れ、個人的な趣味として、拙い文章で退屈な物語を書き散らしてきた。公募の文学賞へ作品を投じたことも幾度かある。「小説家になろう」に自作のファンタジー小説を投稿していた時期もある。それまではずっと、殆ど誰にも読ませることなく、黙々と自宅のパソコンのメモリーに文章を刻み続けていたのだが、ネットへ投稿することで色々な感覚の変化が生じた。既に述べた通り、ネットでは作品の編輯・更新が極めて自由自在に出来る。無論、小説に関して言えば、ネットに限らず、幾らでも推敲を重ねることは可能である。しかし、紙ベースの「書籍」或いは「雑誌」という形態で作品を発表することが常識であった数百年間を顧みれば、そして「紙」と「電子」の特性を比較してみれば、両者の間に質的な差異が存在することは否定出来ないだろう。

 話を文学に限らせてもらうが、例えば「作品」という一つの観念的な「単位」の成立が、「書籍」という物理的な「単位」の成立と切り離し得ないものであることは、概ね確かであると思われる。一旦「書籍」の形態を取って世間へ流通し始めた「作品」は、容易に訂正することが出来ない。その身も蓋もない物理的な制約が「作品」の「完結性=自立性」という観念の形成に大きく寄与したことは事実だろう。しかし、ネットの爆発的な普及と、通信技術の革命的な変容によって、そうした観念は最早、過ぎ去った時代の「尺度」に降格させられつつあるように見える。

 ネットで発表されている多くの小説は、ネットで手軽に発信することが技術的に可能でなかったら、決して小説を書こうとは思い立たなかったのではないかと推測される人々によって書き綴られているのではないだろうか。そこには古典的な文学の集積とは無縁の、良くも悪くも現代的な感覚の結晶が散乱している。言い換えれば、そこに「作品」という明確な観念が存在して、一つの超越的な規矩として作用しているようには感じられない。「小説家になろう」で人気を集めている作品の多くは、見知らぬ他人に、時代も環境も超越した他人に読んでもらう意思のない、異様に口語的な文章を、しかも極めて限定された客層に訴え掛けるように導入し、結果的に一定の成功を収めている。しかし、それらの成功は殆ど「コミュニケーション」の成功であって、作品としての勝利ではないように感じられる。ゲームやアニメといった文化的教養を共有する人々の間で交わされる、筋書きの分かり切った「妄想」の貿易が、あの巨大な「小説家になろう」というプラットフォームの活性を維持しているように見える。それは狭義のコミュニケーションである為に、所謂「古典文学」のような普遍性や超越性を持たないし、最初から目指してもいない。それが悪いという訳ではない。重要なのは、インターネットを経由した発信という手続きの特性が、「小説」や「作品」といった近代的な観念を解体しているという単純な事実を理解することである。